第五章 三所綿問屋と繰綿延売買所 その二
大坂から始まったとされる心学を、詳しく説明します。
日本を代表する経営者や海外の人も含め、梅岩の教えは多くの人に影響を与えたそうです。
そのうえで、大坂の商人たちが、商いの心得を知りつつも、先物取引に走らざる得なかった当時の情勢を語っています。
お店を何代も続けていく事は、本当に大変だったのだろう。
白木屋、鴻池屋等今も大手企業として続く大店は、これを戒める独自の家訓を残している。
お客様第一にとか、正直明朗会計や商品の扱いへの気配り、会議で寝るな、後輩をいじめるな、丁寧に教えて教育しろ云々。
いつの時代の話ですか?と言いたくなる程濃い内容で、読み物としても興味深く面白い。
今では、これを経営理念や指針を示す社是や社訓というそうだが、今の大企業の社訓も試しに読んでみると面白い。
これ又、事細かく心得を定め、江戸時代の家訓とは、とてもよく似かよっている。
何代も大切に守ってきた家業から、学んだ生きた教えだからこそ、私たちは、今も目にすることができるのだろう。
これから派生したのが、石門心学通称心学という学問が江戸時代に始まっている。
石田梅岩が大店の番頭を勤めた経験から学んだ独自の哲学を、塾を開いて教え始めた。
今でいう経営人間学と言ったところか。
あっという間に全国に広がり、一時は百八十もの塾があったという。
優秀な弟子を多数輩出した。
その一人が、梅岩の問答を『都鄙問答』という本にまとめている。
ソニー会長の稲森和夫氏や、渋沢栄一氏など多くの経営者達の愛読書で、大きな影響を与えた。
『共に生き、我も立つ』=商いを通じて、自分も成長し社会に貢献する
『財の道・富の道はすなわち徳の道』=金儲けほど心の正しい有り様が問われる行いはない
『先義 後利』義を先んじて、利は後とする=義を重んじ正直に努めていけば、利はおのずと後から付いてくる
『不易と流行』=変えてはいけない伝統の部分と、時代に合わせて変えるべき革新のバランス……等々
今も息づき崇敬される梅岩の教えは、まだまだたくさんある。
企業の利益優先主義ではなく、個人のひいては社会全体の未来に繋がる成長を目指すべきだと主張した。
そして、それは社会に貢献する事だ、と言う意識変革の先駆けとなった。
嘉助が少し触れていたのを、思い出してほしい。大坂にはそれを学ぶ下地が、寺子屋程度からあったのだ。
少し詳しく触れてしまったが、大坂の商人にも確かに梅岩の言う理想を認め、追い求める側面があった。
一方で、こうした延べ売買所設立を願うような、二面性と矛盾を抱えてもいた。
が、走り出したら止まらない。
戦国が終わり、急激な人口増加と共に綿取引が活発になっていった江戸の高度成長期。
今の私たちの世界も、第二次大戦後の急激な人口増加と経済の混乱に悩まされている。同じく戦国後の江戸の社会も、これにどう対応するべきか大いに迷い、混乱し模索した。
急激な成長は、激しい競争を生み、油断するとすぐに足元がすくわれてしまう。
問屋は少しでも多くの綿を確保して、売り捌きたい。
買い手の木綿仲買の方も、先の需要を見越して出来るだけ買い占め、加工業者や小売に売りたい。
かつての戦後高度成長の日本のような、激しい商取引競争が始まった。
こうして、先物取引所の需要が高まっていく。
延売買所があれば、売り手も買い手も探さずとも、一か所に集まって効率が良い。互いの折り合う値も迅速に決めやすい。
よって皆の立会いのもと、セリによって上値が決められていった。
そこに生産者である農民はいない。
五節季(三月三日、五月五日、七月十六日、九月九日、十二月晦日)の前日が、決算日となった。
当然のこと売買所では、売り手も買い手も口銭(手数料)を支払わなければならない。
この中から冥加金(課税)が支払らわれるのだから、奉行所は貴重な財源と見なして積極的に容認するのは当然のことだ。
こうして商人たちは、互いの縄張りを牽制しつつ、独占売買という目的に向かって結束し邁進していった。
当たり前だが、これに怒り立ち上がらない農民はいない。バブルの時だって、労働組合は経営側とありとあらゆる手段で闘い、自分たちの権利を勝ち取っている。
農民たちの反撃ののろしが上がる。
次回は三郎の登場です。
三人三様の個性で、河内弁と商い言葉・おやけ言葉(上流のはんなりとした大阪弁)の軽快な掛け合いが始まります。
お楽しみください。