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第一章  プロローグ

江戸時代のはじめ、戦国が終わり平和な時代に入ります。

人々には余裕が生まれ、綿などの商品作物が生まれています。

収益の見込める商品の綿をめぐって、大坂の商人と生産側の農民の間で、きな臭い動きが見えてきます。

 第一章 プロローグ

 1772年(安永元年)七月 河内国古市(ふるいち)

 日も明けやらぬ早朝、お(こん)は大きな風呂敷包を抱え、織場への道を急いでいた。

 このあたりは、一面綿畑である。

 一息つきがてら立ち止まり、ふと周りを見渡す。

 お紺は一年で、綿の花が咲き誇る初夏のこの時期が一番好きだ。


 綿花は花弁が黄色く、中心部は濃いえんじ色である。

 華やかな色合いで、(あおい)の花によく似ている。

 遠くに目をやれば、円錐形の山が二つ仲良く重なるように並び、その様が夫婦のようだ。

 古代の逸話にも度々登場する二上山(ふたかみやま)

 その山の緑を背景に、一面に薄黄色に広がって輝く綿花の波は、壮観だった。


 しばらく見とれていると、後ろの方から自分を呼ぶ声が聞こえてくる。

 この古市村で木綿を商い、織場の世話もしている嘉助(かすけ)である。

 まだ二十歳前の若い商人で、中肉中背と言いたいが、それよりか少し丸みのある体つきから、あきんどらしい柔らかい印象がある。


「誰かと思えばお紺ちゃんだすか。こないに早ようから動いて、相変わらずの働きもんやなあ」

 にこやかに声をかけながら、小走りに駆け寄って来た。


 お紺は、そちらの方が働きもんやないの、と心の中で返し、微笑み挨拶をかえす。

「おはようさんだす。嘉助はんこそ大きい荷物を毎日背たろうて、遠いところからご苦労さんやわ。

まだ暗いうちから、出てきはりましたんやろ?お疲れさんやし」

「暑い盛りに二・三里の道のり歩いてるとな、大事なお品が汗で黄ばんでしまう。油紙で巻いても、荷は動きまっさかいな。涼しいうちに動いて、用心するに越したことない。

 早起きは三文の得。商いでは当たり前のことや。

 ワテのことよりもお紺ちゃんこそ、いっつも誰よりも()よう来て、織場を綺麗に清めてくれてる」

「うちも嘉助はんと一緒ですわ。機織りにつく手油や(ほこり)は、反物には一番悪いのですやろ。

 せっかくみんなが丹精込めて織ったのに…汚のうなっては、ずつないわ(辛い)」

「ワテら二人とも、木綿がいっちゃん大事や言うことでんな」

 顔を見合わせ、ひとしきり笑いながら、共に歩き始めた。


 織場までは、ここからは半里(約一キロ)もない。

 十七のお紺と十九の嘉助。若い二人には短すぎる距離かもしれない。


 ここ古市村は、現在の大阪府羽曳野(はびきの)市に位置する。

 奈良と大坂を隔て、金剛・葛城・生駒の山並みが連なる。

 それと沿うように、山並みの西、大阪側に広がる地域を、河内(かわち)あるいは河州(かしゅう)と言った。

 『ワレワレ、いてこますぞ』と、河内のおっさんが啖呵を切るので有名な、この河内地方は南北に長い。

 それゆえ、北河内・中河内・南河内と区別して呼ぶ。ここ古市村は南河内に属している。


 この南河内と、大和の国をむすぶ最古の街道が、()ノ(・)()()()である。

 葛城山と二上山南麓との境目の竹ノ内峠を越えて、南河内側の交通の要所として、この古市村はある。

 古市古墳群が世界遺産に登録され、今やこの地は世界的にも有名になった。


 大和川から分かれた支流の石川が流れ、古代より渡来人が多く定住している。

 そのおかげで、長らく文化も経済力も高い地として栄えてきた。

 特に織物集団の渡来人が多く定住したため、織物が盛んとなった。

 この事は、今に残る地名からも伺える。


 大阪の外環状道路を通り南に向かうと、富田林(とんだばやし)市がある。

 この地域には錦織公園があり、読み方はテニスプレイヤーの錦織圭と同じである。にしきおりが縮まってにしこり…読んで字のごとく、織工に関係する。


 同じ様に、東大阪市若江町の錦部(にしきべ)も、織部の民が居住した地域を指す。

 このように、万葉集の時代より河内には、多くの渡来人によって、染め織の技術が伝来していた。

 それゆえ日本で、いち早く綿の栽培が拡がった地域でもある。


 綿はこの時代の最先端の繊維である。

 吸水性・通気性に優れ、繊維が長い分、織物に適していた。肌触りもよく、染色しやすい。

 今で言うハイテクノロジー商品のようなものだ。


 嘉助はこの古市に属する在方(ざいかた)商人)の一人であった。

 富田林とこの古市村に店を構え、綿の仲買や反物も扱っており、毎日二・三里を商いに駆けずり回る忙しい日々を送っている。


 この当時の大坂の中心は、大阪城下に北組・南組・天満組に分かれ、大坂三郷(おおさかさんごう)と呼ぶ。大坂町奉行が治めた所を指した。

 今の中央区・北区・南区から拡がって、浪速・大正・港・此花・福島・都島・天王寺区の一部にまで及ぶが、現在の主要駅である難波駅や天王寺駅は含まれていない。

 町人中心の居住地で、各町で選ばれた町年寄が、奉行所の下部組織としてこの地を治めた。

 謂わば()()()()()が認められる、封建社会としてはかなり特殊な地域といえる。

 このことは後々、この物語において非常に重要な要素となる。

 一方在方商人というのは、大坂城下を中心に繁栄した大坂表三郷町とは違い、周辺の郡部の中心地を在方(ざいかた)或いは在郷(ざいごう)町と呼び、そこで商いを生業としている商人のことを指す。


 中央の大坂とは、周辺地域の農村部との中継ぎのような役割も担っていた。

 但し、大坂表三郷町の下請けという位置づけではない。

 あくまでも、商業地域のテリトリーの違いに過ぎない。差別化を図るためか、三郷を大坂表(おおさかおもて)とも呼んだ。


 当然のように、木綿の取引は大坂三郷だけではすまない。地方の商人とも取引を行う。

 今では、この河内から近江地方や北陸の新潟や北海道まで、幅広い取引があったこともわかってきた。

 とはいえ、これでは大坂三郷とは商いの縄張りや、勢力争いが起こるわけで…この物語の騒動の一因にもなるわけである。


 河内中部から南部には、古市以外にも平野・枚方(ひらかた)・八尾・久宝寺(きゅうほうじ)・富田林などの在郷町が栄えている。

 今もこれらの地には鉄道が敷かれ、急行が止まり、乗り継ぎの主要駅になっている。


 地方農村部の在郷商人たちは、中央の大坂三郷と同じように、これらの町に属しながら商売内で仲間を作り、自分たちの商いの縄張りを守っていた。


 これを()()()という。


 確かに、株仲間は商売の自由競争が無く、互いの規制も多くなる。

 その一方で、商品の質や価格が荒らされたり、利権を争っての騒動、詐欺まがいの流れ者の犯罪からは守られる。 

 各在郷町の株仲間に所属することで、互いの商いの住み分けを図りかつ管理していた、という背景がこの時代にはあった。


 織場に着いた嘉助は、玄関に入って三和土(たたき)に面した、上がり框(あがりかまち)に座り、荷を下ろす。

 一方のお紺は裏口に回り、

「嘉助はん、直に足洗いの桶用意しますよって、待っとって」

「だんない、だんない。(大事ない)もうどうしようもないほど、汗で身体中びっちょりや。ちょくに井戸端行って、身体拭く方が手間が省けるわ。それよかお手数やが、この西瓜冷やしたってくれるか」

「やあ、重いのに!いっつもすんまへん」


 嘉助は、さっさと裏口の方にある井戸端に向かう。

 上着をはだけ、水を汲んで首からざぶっと一気にかぶる。固く絞った手拭いで丹念に上半身を拭っていった。

 重い荷を担ぎ、毎日三・四里(約十キロ)を往復するだけあって、中々の男らしく、しまった体つきである。


 しばらくすると、お紺が(たらい)にスイカを入れてやって来た。

 上半身裸の嘉助に目を見張り、赤くなって恥じらっている。

 そのスキに、嘉助は盥に水を汲んでやった。

 もちろん、嘉助が井戸端を選んだのはこれをねらってのことである。

 計算高く立ち回れるのは、中々有望なあきんどの証のようだ。


 村役も務める高持百姓の娘で、育ちも良いお紺など、まだまだおぼこで初々しい。

 少し前から、嘉助はお紺の家に人を介して、嫁入りを打診していた。


 引き際をわきまえた嘉助は、さっと身なりを整えた。

「お紺ちゃん、お冷いっぱいもらえるか」

 一言頼むと、さっさと屋内へ戻っていく。


 お紺はというと、自分の気の至らなさに気付き、慌てている。

「へえ、気い利かんとすんまへん。じき、お持ちしますよって」

 あわててかけている。


 嘉助は、上がり框に腰掛け、足の裏を拭いている。

 すると、いくらも待たすことなく、お紺が戻って来た。


 盆の上には、お冷をいれた湯呑と、その脇には瓜を何切れかのせた皿が添えてある。

 嘉助が荷を下ろしている間に、持参した瓜を冷やしておいたのだろう。


 嘉助は、こういう気働きができるお紺を、たいそう気に入っていた。

「これはおいしそうな瓜やな。丁度、小腹すいとったんや。よう気がきいて、さすがお紺ちゃんや」

「いややわあ。嘉助さんの上手なこと。もうこれっきり何も出まへんで」

「いやいやお世辞やあらへん。今だけやないで、いつもよう気働きがでけてる。

 そんなあんたのことは、前々から気になってましたんや。もう、ワテからの話聞いてくれてんのやろ、お紺さん」

 嘉助は改まった口調で、膝の上にそろえたお紺の手に自分の手をそっと重ねる。

 へえ、と恥ずかしそうに、お紺は小さくうなずいた。

「ワテは本気やで。是非ともあんたを嫁にもらいたいと思てるのや」

 嘉助はお紺をじっと見つめた。


 年頃の娘なら恥じらって、顔を隠すふりをするところだが…

 さすが、村役を務める家の娘ではある。

 お紺の反応は、その辺の小娘とは違っていた。

 じっと、真剣な目で嘉助を見据え、


「なんでうちやのん?うちはこんなへちゃの()()()やし、何より百姓の娘や。

 百姓のことしかわからへん。行儀も言葉遣いもでけてへん。うちにあきんどの嫁が務まるとは思われしまへん」

「何を言うてますのや。へちゃやのうて、愛嬌あって愛らし、て言うのや。

 あんたは、行儀作法も言葉遣いも、そこいらの娘とは違うて良う出来てる。

 さすが高持(たかもち)のお家や。親御さんが、しっかりと大事に育ててはる。

 今でこそ、うちの店も二所(ふたところ)に構えて、そこそこ繁盛してますけどな。元々は泉州の小百姓の出エなんや。

 爺さんの代に廻船問屋(かいせんどんや)の下働き、請けてましてな。ほしたらご主人にえらい気に入られてもうて、のれん分けしてもろたんですわ。

 初っ端(しょっぱな)小糶屋(こぜりや)からはじめたんでっせ。ワテこそ、伏してお願いして、お紺ちゃんに嫁に来てもらわなあかん方や」


 高持とは、検地帳に記載され、年貢負担の田畑を所有する、中堅以上の百姓のことで、本百姓(ほんびゃくしょう)とも言う。

 名主(庄屋)・組頭(年寄)・百姓代といった村役人も務めた。

 一方の小百姓は、わずかばかりの土地を持ち、小作を兼ねる者もいる小さい百姓の意味である。

 小糶屋とは、店を持たずに一軒一軒家々を回る、行商人を指した。


「そやけど、刀自(とじ)さんは京の織物屋の出や、とお聞きしましたで」

 刀自とは年配の主婦の敬称で、嘉助の母親のお咲の事である。

 それを聞いた途端、嘉助は膝を打って大笑いした。

「商いの取引には都合ええさかいな……そう言うことにしてまんのや。

 ほんまは西陣の織師の娘や。大店どころか、ウナギの寝床みたいな小さい長屋に住んではったそうや。

 あんたとこの方が、よっぽど大きいお屋敷やで。

 貧乏人の子沢山で、小さい頃は家の手伝いばっかり。今のほうがよっぽど幸せやと言うてはるわ。

 畑の違う家へ嫁ぐんに、腰が引けるんはようわかってる。ワテも手助けは惜しまへん。

 大事にするさかい。考えてみてくれへんか」

 と、嘉助はあっさり、身内の暴露をしつつ、熱心に口説いてくる。

 お紺は少し涙ぐみながら、

「うちのようなもんを、こないに買うて頂いてありがたいことやと思うてます。

 おとうはん・おかあはんとも、あんじょう話し合うて、お返事申し上げたい思てます」

 と、三つ指ついて頭を下げた。


 嘉助は、お紺から良い感触を得られたと満足し、これ以上ひつこく口説くまねはせずに、一旦引いた。


 いつの間にかすっかり日は上り、日差しも差し込んでいる。外から、娘たちの賑やかな声がしてきた。





この小説の内容の詳しい解説、疑問等があれば、ブログで投稿する予定です。

ブログが立ち上がったら、小説と共に制作過程や参考文献を紹介出来たらなあと思っています。

コロナの四年間で、終活かねて気にかかった事を三つ上げて、取り組んでみました。


面白いと思われた方はぜひ高評価お願いします。

江戸時代大好きな歴史好きの人!絶対!飽きささへんで!



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