讃留霊王の怪魚退治
讃岐国には讃留霊王の怪魚退治伝説がある。景行天皇の時代に巨大な怪魚が四国周辺の海を暴れまわっていた。怪魚は瀬戸内海、豊後水道、太平洋、紀伊水道と四国を周遊していた。船を沈め、船の乗組員を食べていた。このため、海運が滞るようになってしまった。
天皇は怪魚討伐隊を派遣したが、逆に全滅してしまった。そこで天皇は日本武尊に命令した。
「怪魚を退治せよ」
日本武尊は答えた。
「私は凡人であって、英雄ではない。神櫛王に命令してください」
無能公務員的なたらい回しによって、神櫛王が怪魚退治を押し付けられた。一方で日本武尊は自分の子の武殻王を推薦したとする見解もある。これらならば無能公務員的なたらい回しではなくなる。
王は側近の兵達に命じた。
「船を造り、吾と一緒に讃岐国へ行ってくれないか」
兵達は王の命令に従った。
王は讃岐国林田湊に向けて出発した。瀬戸内海を進んでいると、一艘の小舟が現れた。
「私は佐伯浦江姫といいます。私の乗っている船をあなたの船に乗せてください」
小舟に乗っている者が言った。
王は喜んで自分の船に乗せてやった。すると、たちまちのうちに船は沖へと漕ぎ出されて行った。しばらくすると、海の中から巨大な白蛇が出てきた。白蛇は「あなたたちは私を助けてくれたから、お礼にこの船の帆柱にしましょう」と言って、白い帆柱に変わった。それからというもの、王の船は風に逆らって進むようになり、やがて嵐にあっても沈まなくなった。
暴風が吹き荒れる中も船は瀬戸内海を進んだ。海の真ん中に大きな岩があった。岩の上には一人の男が立っていた。男は王に向かって叫んだ。
「今、この辺りの海を荒らしている怪物の正体を教えます。あれは私の兄なのです」
「そうか、お前の兄なのか……」
王は驚いて目を覚ました。その後、船は無事に林田湊に到着した。
王は林田湊から四国各地の浦々に兵士を派遣し、怪魚の動向を調べさせた。ある時は土佐国の湊で報告され、ある時は阿波国の鳴門で報告された。しかし、これらの時は風が激しく、波が高く、船を出すことができなかった。
遂に船を出せる天候の時に怪魚を発見した。王は八十人の兵士達と共に船に乗り、怪魚に向かった。ところが、船もろとも怪魚に呑み込まれてしまった。兵士は皆、怪魚の腹の中で乗り物酔いをしてしまった。王だけが健康であった。王は火を用いて怪魚を弱らせ、腹を切り裂いて脱出し、怪魚を死なせた。
王や兵士らが脱出した口からは血が流れ出し、その血が集まって島になった。大魚の死骸が流れ着いた場所には魚御堂が建てられて供養された。讃岐の漁師達は自由に魚を獲れるようになった。
王は元気であったが、怪魚の毒気にあてられた兵士達は弱っていた。怪魚の腹から脱出できるくらいの元気はあったが、毒気の後遺症に苦しめられていた。そこへ白峰から雲に乗った童子が現れた。童子は壺を持っており、その中の水を兵士達に飲ませた。水を飲んだ兵士達は元気になった。
王は怪魚退治の褒賞として讃岐の地を与えられ、讃岐に留まった霊王として讃留霊王と呼ばれた。讃留霊王の子孫は綾氏となり、讃岐国造や阿野郡司になった。
退治された怪魚は仏教が入ると金毘羅と同一視された。金毘羅はインドの悪神であったクンピーラ(鰐神)が改心して、仏教を擁護する神になった。これは讃岐国で金毘羅信仰が盛んになった一因である。