讃岐国阿野郡林田郷
讃岐国阿野郡には林田郷がある。北を瀬戸内海、南西を綾川に面している。温暖で雨が少なく日照時間が長いという瀬戸内海式気候であり、古くから塩田が発達していた。林田郷には田令という職が置かれた。田令は屯倉を管理し貢税を行う職であった。
讃岐国は四国の北東に位置する。讃岐国の枕詞は「玉藻よし」である。柿本人麻呂は「玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども 飽かぬ」と詠んでいる。讃岐国は、優れた国柄のためか、見て飽きることはないと絶賛した。
讃岐国は縦に十一の郡に分けられている。西から刈田、三野、多度、那珂、宇陀、阿野、香川、山田、三木、寒川、大内郡である。阿野郡は綾絹の産地であり、渡来人の漢部が織物に携わっていたことが名前の由来である。山本郷、松山郷、林田郷、鴨部郷、氏部郷、甲知郷、新居郷、羽床郷、山田郷から構成される。
阿野郡には讃岐国府があり、讃岐国の中心地であった。阿野郡は鎌倉時代になると綾南条郡(阿野南条郡)と綾北条郡(阿野北条郡)に分割される。江戸時代には阿野郡になっている。
林田郷には瀬戸内海に面した林田湊があり、讃岐国府の玄関口になっていた。現在は埋め立てが進んでいるが、当時の海岸線はもっと内陸寄りであった。林田湊は綾川を通じて舟運で国府と繋がり、大量の人や物資の流通を担う国府の港として機能していた。林田湊から瀬戸内海を通って山陽道や西海道、さらには朝鮮半島まで船が行き交っていた。瀬戸内海は古代から都と九州、さらには大陸をつなぐ大動脈であった。
林田は元々、波夜之陀や波以多と呼ばれていた。美作国苫田郡にも林田郷があるが、これは「はいた」と読む。
「林田の由来って何なんでしょう? お母さんに聞いてみますか?」
「うーん……。どうだろうなあ……」
「私は知りたいんですけど……」
「まあ、そのうち分かるよ」
「そうでしょうか……?」
「うん。きっといつか教えてくれるさ」
「分かりました! じゃあそれまで待っています」
「ああ、そうしてくれ」
「はい」
「うーん……。やっぱり気になりますよ。だって私の名前にも使われている地名なんですよ! 由来を知りたいと思うのは当然ですよ!」
「分かったよ。じゃあ調べておくから」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
「ああ、任せておけ」
「はい!」
林田郷には波夜乃加奈那という女性が住んでいたという伝承がある。その女性が阿波国に嫁ぐ際に、「この土地を離れたくない」と言って泣き叫んだ。しかし、女性の夫によって無理やり引き離されてしまい、この地を去ることになった。その後、女は子どもを連れて再びこの地を訪れたが、すでにそこは荒地となっていた。そこで女は子どもを慰めるために、自分の名前から林田と名付けたという。