紫煙争い
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
お疲れ、つぶらや。飴ちゃん食う? 飴ちゃん。
さっきまでバクバク食ってたから、どうにも何か入れとかないと、口の中がさみしくてな。ついお菓子とか放り込みたくなるんだ。
思い切って禁煙を始めたとこだし、こいつが辛いのなんのって。こう、頭の中がむしゃくしゃしてきてな。ふとタバコに手え伸ばしたくなんだよ。
楽に禁煙した先輩の話だと、タバコに匹敵する趣味なり、楽しみを見つけりゃ楽勝ってことだが……。
――これを機に小説書いてみないか?
はは、文才のない俺にそれいうか? フツー。
ただでさえ、仕事の文書で四苦八苦してんだ。これ以上、活字と向き合ったら胸がムカムカしてきそうだぜ。そこら辺の表現は、つぶらやに任せるさ。
……ああ、そうそうタバコで思い出した。
タバコがらみで、俺も思い出があってな、こいつがまた、つぶらやの好きそうなちょっと不可解な話なわけよ。
話した通り、俺は文章が苦手だからな。お前がうまくネタにしてくれることを願うぜ。
親父は生前、ヘビースモーカーだった。文と絵の違いはあるが、お前と同じアーティストな人でな。締め切りの間近になると、ばかすかタバコを吸うんだわ。
数えた限り、一日で100は余裕で越えてたな。おかげで俺、小さいころから副流煙に囲まれて生活してたんだ。
そのせいか、副流煙のこもった空気に心地よさを覚えだしちまってさ。本来、肺が歓迎するべき、広々とした外の空気が違和感だらけになっちまった。
換気のためって、開けられた窓から入る風に当てられて、気分が悪くなることはしょっちゅう。タバコの気配が一切ない、草いきれ、人いきれなんかは、めまいがしてまともに立っていられなかった。
さすがのまずさに、おふくろはすぐ親父に禁煙を迫った。このまま、タバコの煙がない場所で、あの子を動けなくさせるつもりなのか、てな。
親父がすんなり禁煙に動いてくれたあたり、気にかけてもらえていたんだろうな。家ですっかり吸わなくなるのに前後して、俺は家の中でも体調不良が続いた。
ほぼ一か月くらい、家ではだるさが勝って、ほとんどが寝ているかぐったりしているかのいずれか。
以降は症状もじょじょにおさまり、他のみんなとそん色ないほど、外で活動できるようになった。それでもタバコの臭いがするところの方が、若干気が楽だったのは、確かだな。
やがて俺は学校へ通う年齢になった。
いまでこそ、喫煙している姿を見られると、すぐに注意や罰則が飛ぶことが珍しくない学内環境。だが俺たちのころはまだ、さほど喫煙に関して厳しくなくてな。職員室の中で、先生方がタバコを吸いつつ、新聞を読んでいる姿をたびたび見たっけ。
たいていの生徒が嫌がったり、固くなったりしがちな職員室入りを、俺はひそかに楽しみにしていた。いくら消臭したとしても、ほのかに漂い続けるタバコ臭さ。こいつを吸うと、鼻の奥から少しすっきりできたんでな。
おそらくは親父がバカスカ吸っていたのと、同じ銘柄と思しき香りだったし。
だが、俺が4年生にあがったとき。
離退任式で、教師随一のスモーカー先生が学校を去ることになったんだ。
他の先生が、職員室でタバコを吸っている姿は、片手で数えるほどしかない。あのタバコな空気ともお別れか……と、少ししんみりしていたんだ。
ところが、翌日から妙なことが起こる。
俺はそのとき、たまたま日直だった。嫌なことはとっとと片づけたく思う俺は、朝イチで職員室へ向かったんだ。
前の戸が開けっ放しになっている。そそそっと寄った俺は、戸をノックしながらも「失礼しま〜す」と声をかけ、中をのぞいたんだ。
子供が、いたずらするのを隠そうとした瞬間を見る、親の気持ちがわかったよ。
ばっと音を立てて、職員室内の先生方が、一斉に机の中へ何かをしまい込むしぐさを見せたんだ。ほんの一瞬のことで、その後は平然と、いつも通りの仕事の姿勢に戻り、一番近い机にいる教頭先生が、俺に声をかけてきた。
だが、動作がわずかに遅かった先生を、俺は見ている。
指にはさまれていた白っぽく短い棒。それが机の下へ運ばれる前は、口にくわえこまれていたのを。
――タバコ? いや、それにしては火がついてなかった。それになんだ、嗅ぎなれない香りがする……?
加熱式タバコを、当時の俺はまだ知らない。これまで嗅いできたタバコのものとは似つかない、ミルクのような甘い香りも手伝って、お菓子を食べていたのかと思ったんだ。
だが、授業が始まってみると、俺にだけやたら当たりが強い。
そりゃ、授業出たところで成績を上げるどころか、だいたいを睡眠不足解消にあてる俺は、良い生徒などとはいえねえ。だが、居眠りしている生徒はその日、5人はいるはずなんだ。
なのに、机に突っ伏した連中は何も言われないのに、俺はうとうと舟漕いだだけで、チョークが飛んでくる始末。チョーク入れの中には、鼻くそみたいに丸まった寿命寸前のものがたくさんあるから、弾に困らねえというわけだ。
来る時間、来る時間も、同じような仕打ちを受けて、表向きは従いながらも、不満はむんむんだ。
――朝、俺に見られたことの報復ってか? いい大人がすることかよ……。
うんざりしながら、ようやく帰宅した俺を迎えてくれたのは、懐かしいタバコの香り。
親父だ。
ベランダへ通じる窓を開け放し、その手すりに腕を預けながら、タバコを口にくわえず、指に挟んでいる。通りかかった俺の姿を見かけると、ちょいちょいと手招きしてくる。
「お前、今日は妙な臭いをまとってるな」
第一声がそれだ。これが昨日までだったら、おふざけだと思っていただろう。普段、こんなこといわないしな。
だが、このタイミングでわざわざ告げてくるってことは、マジもんかもしれん。俺は父親の横へ並ぶと、学校であったことを話したんだ。
親父はふーっと、変わらず口にくわえないまま、立ち上るタバコの煙を俺に吹きかけてくる。そのまま携帯灰皿を手に、半分以上残っている一本をグシグシとつぶすと、ポケットからタバコの箱を取り出す。
中から数本つまむと、更にジッポライターと一緒にして、俺に渡してきたんだ。
とまどったよ。持ち物検査とかされたら、確実に罰くらうレベルの不要物じゃんか。もちろん、吸おうなんて気はないし。
「いいから持っとけ。できればカバンの中じゃなく、ズボンとかの内ポケットにな。
いつから手のひらに乗せられるか分からないからな。いよいよまずいと感じたら、迷うなよ。タバコにとっとと火をつけろ」
いぶかしく思いながら、最終的に受け取った俺。
制服のブレザーの内ポケットの、奥へ奥へとタバコとライターをしまったんだ。
次の日、校門で先生たちがあいさつ運動をしていた。
これもまた、昨日までしていなかったことで、その姿に俺は少し固くなってしまう。
なのに、前を行く連中は先生にあいさつどころか、会釈もせずに前を通っていく始末。その大半が、のどぼとけさえ見えそうな、大きなあくびをかましながら、通りすぎていった。
先生たちはとがめない。ずんずん生徒を招いていき、いよいよ俺の番が来てしまう。
――あいさつか? それとも、みんなと同じあくびか?
昨日の職員室の光景を思い出してしまう。
あのとき吸っていたのがタバコで、香りを出していたのだとしたら……。
そう思ったところで、俺は先生に腕をつかまれていた。
「ちょっと、来てもらえるかな?」
土足のまま校舎内へと連れられ、俺は職員室横の校長室へ。
だが、部屋のネームプレート入れには、見慣れた「校長室」の文字が入っていない。
がらりと先生が開けた戸の向こうには、歴代校長先生の顔写真や、各種トロフィーという、以前の記憶にある物品は、何もない。
代わりに、教材室をほうふつとさせる四段の金属製の棚が左右の壁に。その段それぞれに、段ボールがみっちり並べられていた。
「いつも眠っているからね。ホームルームまで、ここでぐっすり寝なさい」
穏やかな言葉のわりに、ほぼ力任せに放り投げられかけて、俺は部屋へ転がり込む。すぐぴしゃりと閉まった戸は、すぐに外から鍵がかけられてしまった。
額面通りに受け取るわけがない。
戸へ飛びついた俺が、ドアをガチャガチャいじると、ほぼ同時にドアのすき間から、あの甘い香りが忍び込んできた。
昨日嗅いだものより、何倍も強烈だ。俺はたちまちめまいを通り越し、足元がふらつき出すのを感じていた。
当時の俺は知るよしもないが、したたかに酔っぱらった時のようだ。ポカポカ体があったまり、頭もほどよくとんとん痛んで重くなり、ぐいぐいまぶたを落としにかかる。
だが先生の言葉通り、このまま眠ったらきっとロクなことにならない。
俺は父親から預かった、ライターとタバコを取り出し、その一本へためらわずに火をつけた。
煙がドアの向こうへ滑り出すと、たちまち廊下やもっと奥まったところから、数えきれないほどの悲鳴があがる。
およそ人のものとは思えなかった。猫と犬と猿か何かが加わって、互いにがなり立てている、そんな耳障りな騒ぎが続きに続いた。
やがて静かになったころを見計らい、俺が戸を叩いて助けを求めると、先ほどとは違う先生が気づいて、戸を開けてくれた。
その先生も、校長室が校長室でなくなっているのにびっくりしてさ。午前中は復旧作業へあてられたんだ。いずれも二階の教材室が、まるまる校長室の中身と入れ替わっていた。
だが、あの段ボールの中身。外が静かになるまでの間でそっと見てみたんだが、あの加熱式タバコらしくものが、大量に詰め込まれていたのさ。
復旧に生徒がかかわることはなかったから、あれがどうしているかは今も分からね。
だがそれ以来、俺は親父の吸っていた銘柄は、いつも懐に忍ばせるようにしている。実際に、吸うことを控えだした、いまでもな。