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ひとひらの花びら

作者: 小松郭公太

 角館(かくのだて)には、この町ならではの春の色合いがある。緩やかに湾曲する桧木内川(ひのきないがわ)に沿った染井吉野の並木。武家屋敷通りの黒板塀に揺れるしだれ桜。どの場面を切り取っても絵になるのが小京都角館の桜である。が、それよりも増して私の好きな風景がある。それは外ノ山の山桜である。萌えたばかりの若草と開いたばかりの桜色が夢見るような美しさで魅了する。

 夜に、勤め先の有志による花見会があった。桧木内川の袂に敷かれたブルーシートの上で酒を酌み交わした。夜空に浮かび上がる花の色。頬をくすぐるそよ風に乗ってひとひらの花びらが私の紙コップに運ばれた。

翌朝は、行きつけのゲストハウスのベットで目を覚ました。車による長距離通勤ゆえ、飲んだときはいつもここに泊まることになっている。調度品など何もない殺風景な部屋がかえって落ち着く。

「さあて、風呂にでも行ってくるか」

近くにある温泉旅館の朝風呂に入ってから、コンビニで朝食のサンドイッチとコーヒーを調達してくるのがいつもの習いである。

 早朝の温泉旅館は人気(ひとけ)がない。入浴回数券をフロントに出し、灯りのない板の間の廊下を風呂場に向かう。途中で右に折れる一角があり、そこに朝日が差している。夜には見えない壁のほころびが目に入った。

 脱衣所の棚に並んだ籐かごを使っている様子はない。清々と一人で入れると思うと、それだけで嬉しくなってくる。カラカラと音を立てるガラス戸をそっと開けた。やはり風呂場には誰もいなかった。

 三十畳ほどある風呂場の真ん中に桧作りの浴槽がある。湯ノ花でふやけてしまった桧には風合いがあるが、その老朽化は隠せない。朝の光は見えなくていいものまで包み隠さず見せてしまうのだ。

 黄色い湯桶でかけ湯をしてから湯船に浸かる。

「ふあー、ううー」

ちょうど良い湯加減にうなる。誰にはばかることのない朝風呂の独り占めである。

お湯は、無色透明でさらりとしている。腕から首筋までを無意識に掌でさすり、そのなめらかな感触を確かめる。

 お湯が少しずつ体に馴染んでくると、瞼が自然に閉じて、頭も体も空っぽになる。この恍惚……。

 そのとき、脱衣所の方で微かな音がした。衣服を解いている音だ。それは、間もなく誰かが風呂場に入ってくるという合図でもあった。朝の静寂を壊さない気遣いのある音だが、その合図に先ほどまでの私の恍惚はどこかに消え失せてしまった。

カラカラと小さな音を立ててガラス戸が開いた。私は再び瞼を軽く閉じた。後方から人が歩いてくる気配がして、そのまま後ろを歩いていく。かけ湯の音がし、私の右側の一番離れた所から浴槽に入ろうとする姿が瞼の隙間から見えた。

 それは一人の青年だった。七三に分けたさっぱりとした髪型をしている。体格は中肉中背。若いのに早起きだな、と思った。

 私はそのまま湯船の中で自分の世界に浸った。そして、もう少ししたら洗い場で髪を洗おうと思っていた。

 しばらくして、湯船が静かに動いた。思わず瞼が開く。若者が浴槽から上がるところだった。彼は、おどろくほど白い肌をしていた。おろしたての絹を思わせるきれいな肌である。私はその姿を一瞬捉えた。しかし、すぐに目をつぶった。

 肩口から背中にかけて描かれた刺青。青と赤の線が白い肌に鮮明に浮き出ている。それは、腕や足にまで続いていて、全身が色彩に覆われているように見えた。

 そこには、浴槽に流れ込む温泉の音だけがあった。風呂場の高いところにあるガラス窓。その曇りガラスの向こうにある朝の光。青年は、肌を火照らせて洗い場の方へ向かった。

 私は、彼と二人同じ場所にいることができなかった。彼が洗い場に座るのを見届けて、逃げるように風呂場を後にした。

 私には、あの白い肌に彫りつけられた刺青が無用なものに思えてならなかった。青年は何故あの白い肌に刺青を入れたのか? 白い肌に浮かび上がる刺青の色が、しばらくの間、頭を離れなかった。


 角館のお祭りが近づいていた。町内のあちこちからお囃子の音が聞こえてくる。年に一度の「山ぶつけ」。町の人たちは、この三日間の祭りをするために一年間、身を粉にして働く。町を出て行った人たちは、お盆ではなくこの祭りに合わせて帰省する。

 その日、職場の飲み会があった。

 二次会は「スナックとんぼ」。カウンターに五人ぐらいは座れるだろうか。フロアには六人がけのテーブルが二脚設えてある。その周りにあるのは、フォークギター、エレキギター、ベースギターの数々である。これを見ただけでマスターの嗜好が分かる。

マスターの名は鈴木吉夫。みんなからよし坊と呼ばれている。いつものメンバーがテーブルに着き思い思いの飲み物で乾杯をした。

 と、そこへ、ふらりと一人の青年が入ってきた。彼はよし坊に目配せしてから、カウンターの右端に静かに座った。

 よし坊は、カウンターの中に入り青年の飲み物を作っている。私は青年の斜め後方の席に座っている。ウイスキーを飲みながら談笑する私の視界の向こうに彼の姿がある。

 彼はジーンズに長袖のボタンダウンを羽織っている。中に着ているのは白いTシャツのようだが、この暑さの中、長袖とは? と少し不思議に思った。

 小さなステージで、よし坊のギター演奏が始まった。曲は「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」。テーブルの視線が一斉によし坊に向いた。カウンターの青年も体の向きを変えた。

 そのとき、白いTシャツが私の目に入った。そして、その白い襟ぐりの隙間に赤と青の線を見た。色白の肌が色を鮮明にしている。

 あの温泉旅館の朝風呂で出会った青年である。

 青年は、その後もカウンターで一人グラスを傾けていた。時折よし坊が話しかけると何かボソリと答えているようだった。


 角館のお祭りは、三日三晩行われる。山ぶつけと呼ばれる曳山(ひきやま)と曳山の激突も連夜行われ、おやま囃子が囃される中、曳山は通行権をめぐって交渉を重ねる。折り合いがつかず激突となると、それが深夜にまで及ぶことがある。

 祭り翌朝、遠距離通勤の車の中から、深夜の激闘と酒に疲れた祭り衣装の若者たちが道端に佇む姿を見かけた。町の中にはお祭りの余韻が色濃く残っていた。

 「スナックとんぼ」のカウンターにいた青年のことが気になった。あの青年とは、温泉旅館の朝風呂で初めて出会った。抜けるような白い肌に彫られた刺青。あのとき、あの刺青を直視できなかったのは、飾り気のない白い肌と鮮やかな刺青との間に強いギャップを感じたからに他ならない。

 お祭りから数日後、取引先との宴会があった。

 会場へ向かう途中に「スナックとんぼ」に寄ってみた。店はまだ開店前だったが入り口が開いていた。フロアの奥に明かりが灯り、カウンターでよし坊が仕事をしていた。

「あれ、めずらしいね、こんな時間に」

よし坊は、鍋が掛けられたガスコンロの火加減を調節してから、カウンターに立った。

「何作ってるの?」

「ひじきの煮物だよ。意外と評判いいんだ」

以前食べたことがある。男の料理とは思えない家庭的な味だった。

「何か飲む?」

「いいの? 開店前なのに」

「何言ってるの」

「じゃあ、ビールお願い」

冷えた瓶ビールをグラスについで、よし坊にも勧めた。二人で小さく乾杯したあと、私は、何気なく切り出した。

「この間来たとき、このカウンターに座っていた若い人。あの人ってよく来るの?」

よし坊は、

「ああ、彼ね……」

と言ってビールを一口飲んだ。そして、

「彼は、樺細工(かばざいく)職人なんだ」

と、物言いたげに私を見た。私は、温泉旅館の風呂場で彼と初めて会った日のことを話した。よし坊は私の話を聞き終えると大きく頷いて。

「そうか。分かった。彼のこと教えるよ。別に悪いことじゃないからね……」

と、話を始めた。

「実は、俺、せんだん学園という社会福祉施設でボランティアをやっているんだ。もうかれこれ十五年ぐらいになるかなあ。せんだん学園はいわゆる児童養護施設なんだ。親と生き別れたり、捨てられたりした子や、親に子供を育てる力がなかったり、虐待を受けていた子が入る施設だよ。彼は、川津史彦。史彦と初めて会ったのは、あいつが十二歳のときだった」

よし坊は視線を上に向けて、そのときのことを思い出しているようだった。

「ちょうど中学校に入学するときだった。あまりにも普通の子でね、何故この子がこの学園にいるんだろうって思ったね。色白で品のいい顔立ちをしてたよ」

「なるほど。あの肌の白さは子供の頃からだったんだ」

と私は小さく頷いた。

「ところで、彼、史彦君は、何故その施設に入ったの?」

よし坊は、眉間にしわを寄せて、腕を組んだ。

「うーん、そこまでは分からないな。ただ、かなり小さいときからあそこで育てられたみたいだよ」

「そうか、で、あの……」

と刺青について訊こうとしたとき、店のドアが開いて数名の客が入ってきた。よし坊は、

「いらっしゃい」

と明るい声で客を迎えた。

 私はビールを飲み干して、カウンターに千円札を置いて、よし坊に軽く手を振って席を立った。

 宴会の後、私は、二次会に誘われて繁華街を歩いた。きらびやかなネオンと赤提灯の店が軒を連ねる。いくつもの小路を巡って行くが、街に慣れていない私は、グループの後に付いて行くしかない。

 グループが、一つの小路に入ったとき、人の声が聞こえてきた。恫喝(どうかつ)の声である。

「この野郎、ふざけんじゃねえぞ」

男たち数人が暗がりでもみ合っているのが分かった。

 それは、どうも一人の男を数人で囲んで殴っている構図だった。多勢に無勢。ネオンの明かりが彼らを照らす。

 彼だ。無勢は彼だ。川津史彦だ。輪の中でたらい回しに殴られている。「このままにしておけない」と思った。とそのとき、急に輪が解れた。男たちは、後ずさりするように、その場から立ち去っていった。

 道路の隅に打ちのめされた史彦が寝そべっていた。史彦が着ていた白いワイシャツがはだけ、胸の刺青があらわになっていた。史彦は、それを隠そうともしないで、

「あいつら、これを見たら怖じ気づいて逃げて行っちゃったよ」

と、夜空を見上げた。

 史彦は立ち上がることもできずにいた。かなりの傷を負っている。私は、とりあえず史彦をよし坊の店に連れて行くことにした。


 「スナックとんぼ」のカウンターの奥は畳の部屋になっている。襖越しに談笑の声が聞こえてくる。史彦がよし坊に敷いてもらった布団に横たわっている。

「史彦、どうしたの? そんな大勢を相手にして」

とよし坊が聞いた。

「ふっ」

史彦は自分を嘲るように鼻を鳴らした。

「犬がね、犬が俺に吠えてきたんだよ。あの路地の仕立屋の犬が……」

 その犬は、柴犬の雑種で、仕立屋のご主人が随分とかわいがっていたらしい。一人暮らしの老人にとって、その犬は家族同然の大切な存在だった。その犬は鎖に繋がれていたが、少しばかりでない唸り声で吠えたらしい。

 史彦は子供の頃から犬が苦手だった。学園の職員が、異状に怖がった彼の話をよし坊にしたことがあった。仕立屋の犬は、そんな史彦の警戒心を感じ取ったのかもしれない。

 鎖につながれているのだから、そのまま通り過ぎればいいのに、史彦は、立ち止まって体を固くした。黙っていたら、犬が飛びかかって来るのではないかと思ったという。

 史彦は、近くにあった棒切れを反射的に振り回した。ただ闇雲に振り回した。そうしたら、それが犬の体の何処かに当たったのだそうだ。

 それで、その犬はおとなしくなったのだが、そのことを知った仕立屋のご主人が黙ってはいなかった。

「家の犬を棒で殴るとは何事だ。お前はどこのどいつだ。今すぐ警察を呼ぶぞ」

警察など呼ばれてはたまったものではない。史彦は、ひたすら謝った。謝ることで、警察沙汰にならずに済むのなら、地べたに額をこすりつけてもいいと思った。

 謝ることには慣れていた。史彦は、謝ることが自分を護る最良の手段であることを幼い頃から学んでいた。

 しかし、史彦の心の内は穏やかでなかった。

警察沙汰にならずに済んでよかったが、どこかにムシャクシャした気持ちがあった。そのすぐ後に、通りがかりの男たちから、「眼つけたな」と因縁をつけられたのだった。

 多勢を相手に殆ど抵抗できない史彦を彼らは執拗にいたぶった。が、史彦のはだけたワイシャツの奥に見えた刺青に怖じ気づいて逃げ出したのだった。

 しばらくすると、史彦は布団の中で眠った。


 まだ幼い史彦が、家の前に敷かれた茣蓙(ござ)の上に座らされていた。両脇に女の子が二人座っている。

 廃材の上に緑の草花が置かれ、三人はそれを石で叩いて遊んでいる。戸口の向こうに黒く煤けた天井と板戸の座敷が見える。板の間に西日が差していた。

 どこからか犬の吠える声が聞こえてきた。何に対して吠えているのだろう?

 と、家の中から男が飛び出してきた。炭坑ズボンに白い半袖シャツをボタンを掛けずに羽織っている。首に銀色のチェーン、両腕に赤と青の刺青が見える。酒の臭いがした。

 男は野球のバットを手にして、家の向かいにある町工場の前に立った。そこには白に茶色の(ぶち)が入った雑種犬が繋がれていた。さっきから吠え続けている犬だ。

男は、その犬の頭をいきなりガツンと打ちのめした。キャンキャンキャン、と鳴き声が聞こえた。

一瞬の静寂。

 弱々しい犬の鳴き声を聞いて、老婆が出てきた。体を震わして地面に横たわる犬。その横にバットを持って仁王立ちになっている上半身裸同然の男。

「あんた、家の犬に何かしたか?」

「何だと、この(ばばあ)

男は、老婆の方に体を向けてバットを振り上げた。老婆は、一歩後退した後へなへなと腰砕けになった。

「こんな婆じゃ話にならねえ」

男は工場の奥にある事務所へと向かった。 

「社長、社長は居るかー」

 社長は、事務所の一番奥で仕事をしていた。

「社長、お前の家の犬がうるさくて、寝てられねえ。なんとかしろ」

男は、精一杯、脅しの言葉を発した。しかし、社長は、男のことを相手にしない。男のことを見ようともしない。

「社長。この野郎、何とか言え」

と吠えても相手にしない。

「この野郎、お前、俺をバカにしているのか」

「何とか言え、この野郎」

 男は、興奮していたが、それ以上は一歩も中に進むことができずにいた。かといって、後に引くこともできずにいる。男の酔いも少し醒めてきたようだ。

 男は、事務所の前で仁王立ちのままだ。

 やがて、工場の前に白い幌掛けジープが止まった。頭に赤色灯が付いている。見るとその後部座席に赤い口紅の女が乗っていた。

 女は、酒を飲み過ぎ見境をなくしてしまった男のことをいち早く警察に知らせに行ったのだ。

「このアマ、俺を売ったな……」

と男は逆上してバットを振り上げた。赤い花のワンピースがひらりと揺れた。

「逃げてー」

史彦は女に向かって叫ぼうとした。そのとき、はっと目が覚めた。史彦は背中にじっとりと汗をかいていた。


「君のお母さんの居場所が分からなくなっている」

高校を卒業してせんだん学園を出るときに、園長から初めて知らされた事実だった。

 史彦は、母の顔を覚えていない。たった三歳でこの学園に来たのだ。いつかきっと母が迎えにきてくれる、とずっと思っていた。だが、これからは、自分が母を捜さなければならないのだと思った。

樺細工の店に就職が決まってからも、その内心は揺れていた。親の顔を知らない身の上であることを改めて自覚した。その一方で、「学園には、そんな子供はざらにいる。自分だけではない。大したことではない」とも思った。

 幸いと言っていいのか、樺細工の修行は、自分の境遇などを考える暇を与えなかった。夢中で仕事を覚え一人前の職人を目指して五年間を過ごした。

 五年目の冬。店の慰安旅行で滋賀を訪れたときのこと。史彦は琵琶湖南西にある三井寺で美しい小さな仏像に出会った。

ふっくらとした優しい顔立ちの女性が左手で赤ん坊を抱いている。右手に何か持っているのが分かる。彫刻に色を塗ったあとが残っているのが見えた。史彦は、その優しい眼差しに引き付けられた。

境内を一回りした史彦たちは、観音堂客殿で住職の法話を聞いた。


あの仏像の名は鬼子母神といった。

 鬼子母神には、ひとつの伝説があった。

 鬼子母神は般闍迦パーンチカと呼ばれる神様の妻である。とても美しい女神で、五百人もの子供がいた。鬼子母神はこの愛する子供たちを育てるために人間の子供をさらって食べていた。人間たちは子供たちをさらわれることを恐れ苦しみ、お釈迦様に相談した。

 お釈迦様は一計を案じ、鬼子母神がもっとも可愛がっていた一番下の子供の姿を神通力で隠してしまった。

 鬼子母神は嘆き悲しみ、必死になって世界中を気も狂わんばかりに探し回った。しかし、子供は見つかるはずもなく、鬼子母神は途方に暮れ、お釈迦様の元に行き、自分の子供がいなくなり見つからないことを話し助けを求めた。

 お釈迦様は鬼子母神に、

「五百人の子供の内、たった一人いなくなっただけで、お前はこのように嘆き悲しみ私に助けを求めている。たった数人しかいない子供をお前にさらわれた人間の親の悲しみはどれほどであっただろう。その気持ちがお前にも今分かるのではないか?」

と話し、

「命の大切さと、子供が可愛いことには人間と鬼神の間にも変わりはない」

と教え、子供を鬼子母神の元に返した。

 鬼子母神はお釈迦様の教えを受け改心し、これからは、全ての子供たち、お釈迦様の教えを信じる全ての人たちを守ることを誓った。それ以降、鬼子母神は鬼ではなく仏教と子供の守り神となった。


 史彦は、法話を聞いて涙を流した。史彦には鬼子母神が母親そのものに思えた。

旅行を終え、角館に帰ってからもその思いは続いた。

 母にどんな事情があったのかは分からない。しかし、五百人の内のたった一人の子供がいなくなっただけで嘆き苦しんだ鬼子母神のことを思うと、自分を学園に預けたときの母の気持ちが分かるような気がするのだった。

 史彦の中には、いつも鬼子母神がいた。どんなに辛いことがあっても、鬼子母神の存在が彼を助けた。

史彦は一人前の樺細工職人として順調に歩き出していた。任せられる仕事も少しずつ増えていき、彼は、新たな創作のために、多様な伝統工芸との出会いを求め、様々な分野の工芸家との交流を重ねていった。

 ある日、史彦は、秋田市で行われた伝統工芸の展示会場で、あるひとりの男性と知り合った。

 男性は、ジーンズに生成のシャツを着ていた。熱心に史彦が作った(なつめ)を見ていたので、史彦が声を掛けたのだ。

「樺細工に興味がおありですか?」

彼は、棗を見つめたまま、

「この桜の模様が優しくて……」

と呟いてから、史彦の方に体を向けた。

「……」 

男性は、史彦と顔を合わせたとき、一瞬言葉を詰まらせた。史彦の白く美しい肌が目にとまったのだ。

「あなたが作ったんですか?」

「はい、まだ駆け出しですが」

「私もですよ」

と、二人は互いに名刺を差し出した。

『日本画家 喜多川猛』

「画家さんだったんですか」

「売れない画家ですよ」

と、喜多川は少し俯いた。飾り気のない静かな佇まいで彼は話す。

 史彦が作品の特徴を説明すると、頷きながら熱心に話しを聞いた。わずか数分の時間が、互いへの関心を高めた。

「僕も今、桜を描いてるんですよ。もしよかったらアトリエに来てみませんか?」

史彦は少し考えてから、

「この展示が終わってからでもよろしければ、是非お願いします」

と応えた。

 喜多川のアトリエは、羽越本線新屋駅の近くにあった。

 駅からの坂道を少し登った所にある小さな一軒家。生け垣のあたりに来たとき、玄関の引き戸が音を立てて開いた。そこから出てきたのは、喜多川と一人の若い女性だった。喜多川は女性の見送りに出たところだった。女性はすれ違い際、史彦に軽く会釈をして行った。美しい人だった。モデルさんだろうか?

 玄関を上がったところにすぐ居間があった。卓袱台の上に麦茶の入ったコップがあった。喜多川は、

「どうぞ、座って」

と言ってから、コップを下げに台所に下がった。

 隣の部屋への襖が開いていた。史彦は、そのまま襖の方に向かって行った。

 そこには、数多くの絵が所狭しと並べられていた。

「見ていいよ。売れない絵だけどね」

そう言って喜多川は、蛍光灯のスイッチを引っ張った。

 喜多川の絵は、どれも仏画だった。

繊細な筆の運び。金色をあしらった独特の色づかい。史彦の目には、それらは皆一級品に見えた。中でも史彦の目を引いた絵があった。

 それは、蓮台に立つ女性の掛け軸だった。萌黄色(もえぎいろ)の着物から淡い桃色の襦袢が見える。薄い蜜柑色(みかんいろ)の衣がゆったりとなびく。左腕で赤ん坊を抱いていて、右掌にザクロが載っている。優しい眼差しが絶えず赤ん坊に向けられている。

 史彦がその絵を眺めていると、

「ああ、それね。表装ができて、昨日届いたばかりなんだ」

と喜多川が後ろから声を掛けた。

史彦は喜多川の顔をまじまじと見た。

「これって、鬼子母神ですよね?」

「そうだよ。どうかした?」

「この絵、僕に売って下さい」

「えっ。どういうこと?」

少し顔色を変えた史彦を見て、喜多川は、

「まっ、座って話そうか」

と居間の方に招いた。

 卓袱台には新しい麦茶が用意されていた。

「実は、僕、両親の顔を知らないんです。一八歳まで施設で育ててもらいました」

喜多川は黙って頷いた。

「面白くない事も沢山ありましたが、何とかぐれずに高校を卒業し、今の仕事に着くことができたんです。」

史彦は、今の仕事に充分満足している。ここまで育ててくれた学園の先生方や樺細工の師匠には本当にお世話になったと思っている。日々の暮らしも仕事も充実している。しかし、充実すればするだけ、同時に虚無感が広がる。その空しさを埋めるために創作に没頭していた。そんな矢先、三井寺で鬼子母神に出会った。

 喜多川は、史彦の話を聞き終えてから天井を見上げた。そして、

「君にこの絵を売ることはできない」

ときっぱりと言った。

「僕は売れない画家だけど、この絵は君に買えるような値段ではないんだ」

喜多川が言わんとしていることはすぐに理解できた。どのくらいの値が付くのかは知らないが、自分には手が届かない値段であることは十分わかってはいた。

「だけど、別の形でだったら、君にプレゼントすることができるよ」

喜多川は真っ直ぐに史彦をみた。

「どういうことですか? それ」

喜多川は、何もいわずにタブレットを操作し一枚の画像を史彦に見せた。

 史彦の目に飛び込んできたのは、女性の背中一面に彫られた鬼子母神だった。

「これは、まだ途中なんだけど……」

史彦はタブレットの画像に魅了された。生身の肌に描かれた鬼子母神に衝撃を受けた。

「これがプレゼントですか……」

「日本画の延長線上に仏画があって、その先に刺青があったということかな。ここまで来るのにはそれなりに時間が掛かったんだよ」

史彦は、喜多川の作品に掛ける思いは本物だと思った。

「喜多川さん、是非一度、喜多川さんの仕事を見せてください」

史彦に迷いはなかった。


 針を束ねた(のみ)が史彦の体に突き刺さる。彫り師喜多川は、突き上げ肌に引っ掛けるように鑿を抜き差しする。

 刺青の中でも特に痛いと言われる色塗り、ぼかし。史彦は、針先の苦痛に耐えた。呻き声をあげながら、まだ見ぬ母の姿を思い描いた。ふっくらとした顔立ち。優しい眼差し。いつか見た鬼子母神の顔である。

 史彦は、その痛みが強ければ強いほど自らそこに立ち向かおうとした。その痛みの先に本当の安らぎがあるのだと信じて。

 針の痕が少しずつ鬼子母神の姿となっていく。史彦は、痛みに耐え続けるうちに、自分の中に母の命が宿り、母と共に自分も生まれ変わるような感覚を覚えた。もうすぐ新しく甦った母と会える。これからは、ずっと母と一緒に居られる。


私の長距離通勤は三年で終わった。

 勤務地が変わって以来「スナックとんぼ」を訪れることもなくなり、川津史彦と会うこともなくなった。

 春になり、桜の便りが聞こえるようになると思い出す。

 桧木内川の桜並木。武家屋敷通りのしだれ桜。外ノ山の山桜。そして、そのどれよりも美しく悲しく、静かに咲いていた史彦という桜。

 あの温泉旅館の朝風呂で、初めて出会ったときの衝撃は、今でもこの胸に鮮明に残っている。あれは鬼子母神という名を持つ母性の象徴だった。誰にも踏み込むことのできない愛の証だった。

どこから運ばれて来たのか、ひとひらの花びらが私の肩に舞い降りていた。


(了)


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