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一般向けのエッセイ

スマホゲーをやめての感想

  

 「ドールズフロントライン」というゲームがありまして、五ヶ月くらいやっていたのですが、最近ほとんどログインしなくなりました。課金額は1500円くらいです。費用対効果としてはかなり遊んだと思います。「費用対効果」という言葉は嫌いですが。

 

 スマホゲーをやっていた時期に「スマホゲーが目指す永遠」という文章を書こうと思って、頭の中でイメージを練る所まではやったのですが、文章にはしませんでした。今から書く事に、その時のアイデアを流用していこうと思っています。

 

 まず、ゲームというのは何かと考えると、ある程度の長さがあり、プレイヤーがキャラクターを操作して、何らかの「体験」が得られる、そういうものだと定義してみます。この定義は漠然としていますが、今はそれで十分かと思います。

 

 僕はスーファミ世代ですが、ゲームというものが変わってきたなと感じたのは、「モンスターハンター」です。「モンスターハンター」ははっきりしたストーリーがあるわけではなく、強い敵を倒したり、世界を救うのが一番の目的ではなくて、敵を倒して素材を手に入れて武器・防具を強化するのがメインです。このあたりで、目的と手段が入れ替わったと自分は感じました。

 

 もちろん、ゲームというのは、ある流れがあって、そこで何らかの体験をするというだけでなく、ゲーム内部で貨幣に相当するものや、アイテム・素材を集めるというのは過去にもありました。ただ、漠然とした感じではそれはあくまでも「おまけ」的なものでした。ドラクエやFFは基本的に、ゲーム内の世界をたどってエンディングを見るのが目的だったはずです。

 

 それが、「モンスターハンター」の大流行と共に、目的と手段が入れ替わった……もともと、潜在的なものがはっきり表面的に現れてきた。そうして、その流れがスマホゲーにまで一直線につながっていきます。少なくとも、自分はそんな風に感じています。

 

 スマホゲーは、やった人はわかると思いますが、実質的にはゲームというよりギャンブルに近い部分があります。スマホゲーには終わりがなく、運営は常にイベントを用意し、ユーザーを毎日ログインさせ、金を使わせる事を目標とします。この場合、ゲームそのものの体験、ストーリー、戦略性というものよりは、損得勘定、射幸心、自分だけが得をしているとか、レアキャラを全部集めたいとか、そういう欲望を刺激するようなものになっています。

 

 僕が注目したいのは、スマホゲーには「終わり」がないという事です。スマホゲーは終わりがなく、毎日ログインする、常に右肩上がり、常に得をしている、常にやり続けなければならない、そういう感情を掻き立てるようにできています。スマホゲーは現実の時間とリンクしているので、ゲームというより、生活の一部と感じられます。それと共に、その世界内での「得をしている」とか「このキャラが欲しい」という感情も、ゲーム内部の感情というより実際のリアルな生活での感情に近づいていきます。

 

 そうしてスマホゲーは生活と密着し、一体化し、そこに境界というものを作り出しません。そこでは終わりがないわけです。生そのものの内部にも限界はありませんから(ウィトゲンシュタイン)、スマホゲーにも同様、限界はない。いわば、スマホゲーは「開かれている」わけです。以前書こうとした文章のタイトルを「スマホゲーの目指す永遠」にしたのはそういう事を言おうとしたわけです。

 

 スマホゲーには終わりというものがなく、その内部に居続けるのが要求されます。それと共に、僕のようにスマホゲーをやめる時は、ただなんとなくやめる事になって、もう次からログインするのが億劫だという状況になります。運営からすれば、ユーザーにずっとやり続けて欲しいのでしょうが、現実には限界がありますから、どこかで辞める事になります。しかし、その時に、スマホゲーを辞めたとしても「ある体験をした」という感覚を得る事はできません。スマホゲーは終焉がなくどこまで広がっている為に、ユーザーはその全体を「経験」する事が不可能なのです。

 

 さて、こうした事柄の何が問題なのでしょうか? 僕は現代のインテリよりも、古代の賢者に答えを発見する事がしばしばあります。「欲望は無限だが現実は有限だ」というような言葉があります。ブッダもまた「貨幣の雨を降らすとも欲望は満足されることはない」と言っていました。彼らは、気づいていたのだと思います。つまりは、限界のない世界、広がり続ける欲望の海に溶ける事、その無限性が実は小さな有限性であり、それが有限であると感じられるような場所に彼らは立っていたのだと思います。

 

 現代は、言うまでもなく、「スマホゲー」的なものを目指しているわけです。無限に続く右肩上がりの曲線であるとか、無限に欲望が満足し続ける空間とか、そういうものを目指しているわけです。ですが、これにもおそらくは限界があるでしょう。アイドルは夢を見せさてくれますが、アイドルもファンも年を取ります。年の事については産業は無視をして、新しいファンとアイドルを新たに生み出します。そこでは「アップデート」がされるわけですが、アイドルに時間と金を使った個人、ファンの期待に答え続けた人間がその人生で何を得たのか、そもそもその人生が「なんであったのか」はどこにも示される事はない。ただ「楽しかったから良かったでしょう」と言われるのみです。

 

 生における喪失そのものを喪失した社会に自分達はいる、と自分は思っています。スマホゲーはそれを象徴するようなアイテムであると思います。僕達は生の嘆きそのものを失い、永遠に無邪気に遊んでいられる空間、遊び続けられる空間を理想としている(これに関してはオタクとリア充で差異はない)。本来的にはこれらの事柄が「何」であるかが語られる場所が必要かと思いますが、そういう場所すらこの世界においては排除されている。スマホゲーはそういう世界に非常によく似ている。

 

 スマホゲーという楽しい空間では毎日ログインして、多少の金を使えば楽しく過ごせます。ですが、そこから脱落すると、縁遠いものになり、それが何かわからなくなる。スマホゲーは喪失を喪失した現代世界をよく表現している模型と言えるでしょう。我々はこの世界の中で生き、死ぬ事を要請されるのですが、金銭に変換できない「死」という我々にとっての『恩寵』がいずれこれを破るでしょう。そうなった時、我々はスマホゲー的なものとは違うものを探さねばならない。つまりは、終焉とか限界を見つめるために理性を涵養するのに必要な時がやってくるわけです。

 

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 確かにある音ゲーをぱったりログインしなくなっても喪失感は皆無でしたし、友人の好きなアイドルグループの応援に付き合ったりしましたけど、特に何も残りませんでしたね。 そういうのから離れると、一…
[気になる点] スマホゲーム論では良く言われる話ですが、金がかかるのも終わりがないのもギャンブル性があるのも、全部スマホゲームに限ったことじゃなくて、趣味なら何でもそうですよね、と 例えば釣りならば、…
[良い点] >生における喪失そのものを喪失した社会に自分達はいる、と自分は思っています。 ◆  原始ユダヤ教における神とは、唯一神ではなく、多神が存在する中で、その神だけを民族の神として信仰するとい…
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