導入2
W.アーミテッジ 387番
しばらく歩き、やや疲れたところでやっと出会った最初の標識には、そう表示されていた。
残念ながら市や町の名前は書かれていない。
もちろん、これだけでは今の居場所など分らなかった。
目に飛び入った横の喫茶店らしき建物には、ヒントだぞと言わんばかりに三色旗と星条旗と王室旗とよく分らない旗が刺さっていた。
「はぁ…」
和司は思わずそこで立ち止まり、溜息をついた。
埒が明かなかった。
携帯さえあれば、GPSで簡単に調べられるのに。
失った文明の利器の思い出し、悔やまずにはいられなかった。
勇気を出して、周りでそそくさ移動する外国人たちに聞こうともしたが、やや人見知り気味な彼にとって、これがなかなかハードル高い。
話を掛けようにも、かつて英検準二級の面接で失敗した時のように、失礼します。の「e」の文字が喉に詰まって、声が出なかった。
帰ったら絶対英会話教室に通おう。
心にそう決心した。
次の瞬間だった。
「バサリ」
目の前の地面に、突然紙束のようなものが捨てられた。
急な出来事たったため、一瞬何が起こったか理解できなかった。
例の喫茶店から仕立てのよいスーツを着た老紳士が出てきたかと思うと、彼は手に持っていた新聞紙を粗雑に畳み、そしてごく自然な雰囲気でそれを――近くの路上に放り捨てた。
あまりにも堂々とした動きだったため、最初は落としてしまったのではないかと心配した。
しかし、老紳士はそのまま拾う気配なく立ち去るし、見ていたはずの他の通行人も躊躇なく上を踏んで行く様子から、和司は思わず呆れた。
え、ポイ捨て?
こんな人の目の前に?
立派そうな身なりだっただけに、やや衝撃を感じた。
祭りの渋谷でもあるまいに、普通はもう少し人気のない場所を探してから…とかしないのだろうか。
人のは見かけによらないと言うか、なんというか。
そのまま放置するのも何だか気が引けてしまい、和司は真新しい足跡付きの新聞紙を拾い上げた。
今までまったく気にしていなかったが、通りをよく観察してみると、そこそこな量のゴミが落ちていることに気が付く。
薄汚い紙屑やら、つぶれた包装紙やら、たばこの吸い殻やら、パラパラと遠慮なく道脇に溜まっていた。
外国といえば、もう少し小奇麗なイメージがあったけれど、観光地限定なのかもしれない。
まぁ、日本の繁華街でも、少し横路地に入てば大体こんな感じだし。
どこの国でも、多かれ少なかれこういう場所があるのだろう。
…流石に新聞をまるまる一部人前で捨てるのはどうかと思うが。
と、そこまで考えて、和司ははっと息を呑んだ。
――ちょっと待てよ。
新聞?
ああああああ、そうだよ。新聞だよ。
なんですぐに思いつかなかったんだ。
こんなの情報収集の基礎中の基礎じゃないか。
新聞さえあれば、間違いなく刊行された日付が分る。
それに現在地についても、必ず何かヒントがあるだろう。
最低限、国の検討くらいはつくはずだ。
思いがけぬ収穫に、思わず小さくガッツポーズをとった。
こんなことってありえるのだろうか。
期待していなかった幸運判定に大成功したときのような気分だ。
大急ぎで紙面を開く。
英語を喋ることは大の苦手だったが、読む分なら多少はマシだった。
さっと目を泳がせると、早速新聞タイトルの下に日付らしい数字を見つけた。
どれどれ。
「アーカムアドバイザー誌
1832年の創刊以来、アーカム一番の洗練された新聞
6/15/1934 水曜日 朝 アーカム市刊行」
――んん?
なんだこれは。
和司はその奇怪な内容に思わず目を疑った。
刊行日にありえない数字が載っていたのだ。
6月15日。月と日はいい。これは記憶にある今日――オフ会の開催日と同じ日だ。
でも年はどうなっている。1934?西暦ではないよな。
新聞から目を外し、腕を組んで困惑する。
日本みたいに明治何年とか、昭和何年とか、別の暦の数え方があるのか?
いや、違うな。そんなに長生きする王様いるわけないし。
だとしたら…さっきの人は何か調べ物で、古新聞を見ていたでのはないか?
そういえば、写真とかぱっと見た感じ白黒だったし、そっちのほうが可能性が高いな
でも、そうだとしたら、貴重な資料をこんな風に捨てたりするだろうか。
なんだか狐に化かされた気分だった。
そして同時に、何かが和司の脳に引っかかた。
道路を走る時代遅れな車。
薄い色のホンブルグ帽子を被った通行人。
ごちゃごちゃした色のドレスで談笑する女性。
外国だから、で済ませていた違和感がこれを切っ掛けにフツフツと湧き上がった。
何かに気が付きそうな気もしたが、心がざわついて、それを拒絶する。
しかし、時に人の理性というものは悪い方向に働く。
今の和司がまさにそうだった。
――もし、慣れ親しんだ趣味のゲームの中だった場合、この状況は何を意味する?
そう考えてしまったのだ。
結論は、あまりにも早く、唐突に出された。
脳髄に稲妻が走る。積み重なった疑問が脳内で繋がっていく。いや、待て、早計だ。そんなはずがない、科学的に考えてありえない。もっと証拠を集ろと悲鳴を上げる普段の自分を押しのけて、探索者の自分があっさりと答えを呟く。
「タイムスリップだ…」
和司は衝撃のあまり、新聞を落とした。
和司の趣味はテーブルトークロールプレイングゲームである。
これは特定のルールに従い、紙とペン、人間の会話などで進めるRPGゲームだ。
もっと簡単に説明すると、自分がなりたいキャラクターを実際に演じつつ、ゲームのルールに沿って目標を達成する、というものだ。
その中でも特に気に入っているのが「クトゥルフ神話」――
現実とほぼ同じような世界で、一般人として、人間の手ではどうしようもない邪悪なモンスターや太古の邪神に立ち向かったり、足掻いたり、発狂したり、死んだり、踏んだり蹴ったりされるゲームだ。
その世界ではプレイヤーがコントロールする探索者急に変な場所へ閉じ込められたり、異次元へ強制ワープされたり、現実に影響する悪夢にうなされたり、そして過去や未来へ行ったりするなど日常茶飯事である。
そんな影響だろうか、一般人では到底想像もしない、タイムスリップこそまさに自分が置かれている状況なのだと、和司は感じた。
「うそだろ、おい…」
彼は慌てて新聞をもう一度拾い上げた。
一面に目を落とすと、印刷が荒い写真の中でドイツの総統閣下とイタリアの大元帥閣下が仲良く肩を並べ歩いていた。
「ベネツィア会合にて、独伊間合意ならず…」
ショックのためか、難しい英単語もスラスラ読める。
確定的ではないが、周りの環境やこの新聞で状況証拠は十分なような気がした。
目の前がぐらんぐらんと周り、身体がまるで捻じられていくような錯覚を覚えた。
感情の流れは濁流となり、むりやり和司の口を抉じ開け、絶叫という形をとろうとしたが――
すんでのところで踏みとどまる。
おいおいおい。
しっかりしてくれよ相対性理論。アインシュタインが墓から飛び出してくるぞ。
和司は現実に耐えきれず、新聞紙で顔を覆い、地面にうずくまった。
どうすんだよこれ。
1934年とかやばすぎだろ。あとちょっとで第二次世界大戦だぞ。
ここがヨーロッパとかだだったら終わりじゃないか。ほぼ焦土と化すぞ
アメリカでも…やばいな。
太平洋戦争始まったら、対日本人感情の悪化でリンチ確定だし。
じゃあ、なんとか日本に戻るのはどうだ?
それで海軍に入って、太平洋戦争を勝利に導びいて…
ってなろう軍記物あるまいし無理だろ!
海の藻屑になるか、火垂るの墓になるかの2択だ。
というかそれ以前にこれからどうするんだよ。
金もないし、戸籍もないし、英語も碌に話せない。バブル崩壊が目じゃないほどの大不況だから、これじゃあ仕事は絶対見つからないだろうし、生きるだけでも相当ハードル高いぞ。
ああ。
これ無理げーかもしれない。
ネオベネツィアに行きたい。
それだけの人生だった。