導入
プレイヤーたちの阿鼻叫喚を想像し、意気揚々とキーボードを叩いた過去の自分を不定形の原形質に沈めてやりたい。
両手で頭を抱え、偵馬 和司はそう思った。
1931年6月13日、正午。アメリカ マサチューセッツ州アーカムシティ。
ウエストアーミテッジ通りの隅。喫茶店内。
対面に座る美しい金髪の少女は目を燦々と輝かせ、高らかに宣言した。
「おめでとう、ティモシー!合格です。あなたをこの私、シャーロット――
シャーロット・ホームズの助手として雇いたいと思います」
ああ、なんてことだ。
その悍ましい言葉に、和司は激しい眩暈を感じた。
動揺を隠すため、手元に置かれたやけに酸っぱいコーヒーを啜ろうとするが、手がマナーモードの如くブルブル震えているせいで、危うく零しそうになる。
そんな彼の反応など意に求めず、少女は興奮気味にまくし立てる。
「 実は会った時から思っていました、あなた、私のイメージにピッタリなんです!
東洋人でしょ、変な服装でしょ、一文無しでしょ、その上、記憶喪失!!
これはすごいことですよ、ティモシー。
あなたはまるでミステリーの文字を潰して人型に引っ張って固めたような存在。
探偵の助手としてはこれ以上ないほど相応しい人物です!
ああ、神様、この素晴らしい巡り合わせに感謝します!
まさかこんな完璧な人と出会えるなんて、やはり私は名探偵になる運命なんですね!
ハハ。アハハ
アヒャヒャ…アヒャヒャヒャヽ(´>∀<`*)ノアヒャヒャヒャ!!」
彼女は両手を合わせ、感極まった雰囲気で薄汚い喫茶店の天井を仰いだ。
陰険な表情をした店員が一瞬何事かとカウンターから顔を出すが、すぐに興味を失ったのか、また引っ込めた。
やっぱりだ。間違いない。
これはあの世界だ。
圧倒的な恐怖と壮絶な吐き気が波のように和司へ押し寄せる
そうでもないと、現実のどこにこんなヤツがいる。
「…あ、ごめんなさい。ティモシー」
僅かな時間、沈黙が場を支配したが、少女ははっと我に返ると、申し訳なさそうに口を開いた。
「ちょっと取り乱してしまいました…実は、あの…まさか面接に来る人が一人だけだなんて思ってなくて…で、ダメだったらどうしようと心配してて――でも、想像よりも遥かにいい結果だったので、ついテンションが…
すみません。
話を戻しましょう。
ティモシ―、あなたにはとてもすごく、すごーく満足しています。
まぁ、あの…ちょっぴとだけ減点ポイントを申し上げるとすれば、格闘技ができないことくらいですかね?東洋人なのに…
ただ、うん。大丈夫です!そこは目を瞑りましょう!
完璧な人間なんていないですもんね。
かくいう私もまだまだ駆け出しですし、これから覚えてくれれば、問題ないです。自信を持ってください。一緒に頑張りましょう!!
それで、後は、えっと…あ、待遇でしたね。心配には及びませんよ。
チラシには書いてないですが、金に糸目はつけないつもりです!
そうですね…あなたの場合であれば、支度金として200ドル。そのあとは…月払いで150ドルほど、成果に応じて昇給あり!って感じでどうでしょう?
それ以上は正直、私のお小遣いだけでは難しくなってしまうので、その…
あ、でも望めば住む場所を提供できます。ここらへんは家賃が上がってるし、悪い話ではないと思います!
きっと後悔はさせません。私が保証します。
ですから――」
こちらにサインお願いします!
「バン」
しきりに喋ったあと、少女は勢いよく契約書を机に叩きつけた。
そして、子羊を前にした肉食獣のように、じりじりと詰め寄ってくる。
和司は背筋の冷や汗でナイアガラの滝を作った。
月150ドル、年間で約1800ドル。まだまだ暗黒の木曜日の影響でデフレ気味なこの年代で言えば、間違いなく破格な条件だろう。
そこら辺の中流階級の家庭と同じくらいの収入かもしれない。
しかも支度金や住居付きとなれば、今の状況の和司にとってはすぐに飛びついても可笑しくない話だった。
しかし、彼の手は錆び付いたように、動くことを拒む。
どうしてこんなことになってしまった。
内心密かにそう呟いた。
奇妙で俄かに信じがたい話だが、偵馬 和司はこの世界――1930年代アーカム――の人間ではない。
彼は21世紀初めの日本で生まれ、日本で育ち、ごく一般的で、どこにもいそうだが、趣味がややマイナーな、純粋培養な日本人である、はずだった。
異変は今朝起きた。
インターネット上の友人たちと集まり、オフ会を開催する予定だったため、休日にもかかわらず早起きし、髭をそり、鼻毛を抜き、髪の毛をワックスで固め、お気に入りのフード付きパーカーを着て、ぎりぎりで電車駆け込み、地下鉄に乗り換え、うとうとと船を漕ぎ、うねうね捻じれる触手から必死に逃げる夢を見て――
目が覚めると、なぜかここにいた。
怪訝そうな表情で自分とすれ違って行く外国人たち、行きかうレトロチックな車、そして、全く見覚えがない古風な街並み――地下鉄を乗り過ごしたにしていささか不可解な状況だった。
急いで携帯を取り出し、時間を確認しようとする。
しかし、ポケットの中は空っぽだった。財布すら見当たらない。
――何かのドッキリであってほしいと本気で思った。
幾ばくか呆然と立ち尽くす。
だがどれだけ待っても、カメラを担いだおっさんやら、看板を持った芸能人やらが出てくる気配はなかった。
周りの人間たちは明らかに日本人じゃないし、ガヤガヤと風に乗って聞こえてくる話し声は英語で、どうしたらいいかわからず、仕方なく、目的もないままトボトボ歩き始める。
ここはどこなのだろうか?
外国?でも何で急に。
記憶喪失でもしたか?いやいや、流石にそれはないだろ…
でもそうじゃないとしたら…
まさか何かの犯罪に巻き込まれたとか!?
例えば、臓器売買のような。
不穏な単語が脳裏をよぎり、不安で押しつぶされそうになる。
急いで服をめくり、何か傷跡がないか確認する――
幸いにも内臓は無事だった。
和司は五体満足なことに感謝し、ほっと一息つく。
ダメだダメだ。頭を切り替えよう。変なことは考えるな。今パニックになっても仕方ないだろ。
頭を振り、自分に発破をかけた。
まずは落ち着こう。混乱するな。とりあえず冷静になれ。
そういえば、不幸の幸いか、マイナーな趣味のおかげで、こういった状況を何度か演じたことがあるじゃやないか。
ああ、そうだ、あのゲームと同じ状況だ。
そう思い込もう。
それなら慣れているし、どう行動するべきかも分る。
まずは何か場所や時間を確認できるものを探そう。
コンビニとか、標識とか、何でもいい。
それで、警察っぽい人がいたら話をかけよう
日本大使館へ連絡してもらえれば、きっと色々対処してくれるはずだ――
あ!でも身分証明書がないのはまずいな。
不法滞在と勘違いされたらどうしよう…
英語は得意じゃないし、状況を上手く説明できない可能性が高いぞ。
リアル信用は低いしなぁ…
歩いていて、運よく他の日本人に出くわせれば一番いいのだが。
――まぁ、なにが起きたにせよ、なんとかなるだろう。
クトゥルフじゃあるまいし。
和司はそう思った。
週刊予定。ゆっくりまったりいきます。