偽りの正義
「よし、今日はここまでだよ。すみれちゃん。」
セーターの上から白衣をまとった桂木は、安心させるように笑いかけると、
いつものようにカチャカチャという音を立てながら器具の後片付けをする。
『今日も、ありがとうございましたー!』
お礼を言い少し金色の髪を手でほぐすと、水色のお守りのようなものが付いているヘアゴムを咥えて右の髪の毛を結ぶ少女。彼女は研究所の中で一番元気な子だ。
ポケットに入っていたのだろうか。仕事終わりの喫煙のように、きのこの街を頬張る様を見ていると、僕の飼っていたハムスターを思い出しそうでクスッと幸せな気分になる。
「ちょいと、煙草吸って来る。」
『桂木せんせー?体に悪いですよー!』
「いいんだよ。それより、お前もお菓子ばっかり食ってると太っちまうぞ?ハムスターみたいに。」
『もー!どうなっても知らないからねー!』
「はいはい。来世は煙草星に生まれるから大丈夫さ。」
騒がしい声のするドアが閉じると、壁にもたれかかりライターをつけた。
地下の通路は省電力のため暗く、ライターの火が僕の茶髪を照らす。
彼女はいつも元気だが、ここに居て嫌ではないのだろうか?
不思議に思いながらも、僕には出来るだけ長い間彼女が幸せであることを祈ってあげることしかできない。
△ ▽ △ ▽ △ ▽ △
所長と少女は、奇妙な動物に迎えられた、
へばり付いているペンギンの顔はとても間抜けである。
しかも、良く見ると雛もそれを真似るように一緒にへばりついている。
ドアを開けた白い髪の少女は、黄色い目を丸くして何を思ったのか
同じく水槽に顔をへばりつけた。
「通じ合えたかい?」
『ぜんぜん!』
「あはは。中庭倉庫に行こうか。その子たちに餌でもあげよう。」
やった!と言わんばかりに目を輝かせている少女の一足先に、
中庭倉庫へのドアを開ける所長。
地下にあるドーム状のその部屋には、木々に芝生、鳥も生息しているらしい。
彼女は動物に好かれやすいようで、頭の上にスズメが良く留まる。
そうしていると、遠くから声が。
「あ、お姉ちゃんだ!」
どうやら、よく留まるのは小鳥だけじゃないようだ。
彼女は楽しそうに手を振るすみれの元に向かう。
肩の力を少し抜くと、
所長もしばしの時間、芝生に背中を預けるのであった。
△ ▽ △ ▽ △ ▽ △
三年前――。
「新たな被検体が必要、ですか。僕の病院から…ですか。はい。」
デスクの受話器を肩と頬の間に挟む茶髪は、そのまま話を進める。
「しかし、僕のところにはまだ瀕死に該当する患者がおりません。ですからっ…」
彼の言葉をさえぎる様に、その受話器からは甲高い機械音が放たれる。
病気を治すために健康な人間を被検体にするなんて、これではまるで意味がないじゃないか!
彼は一人、思いのたけを声に出せずに心の中で叫ぶ。
それから数日が経ち、
彼の元へ急患が訪れた。
これで退路が出来た、
と考えた彼の思考はどうやら甘かったようだ。
今回必要なサンプルは女性。しかも、急患できた青年は軍人ときた。
軍人は死亡後の身辺調査が厳重で計画が政府ばれてしまう危険性が高いのだ。
これで僕の逃げ道はなくなった。
「彼はもう助からない。体を死体から移植しないかぎり。」
うっかり口にし、踵を返した時、
そこには、不運な金髪の少女が立っていた。
△ ▽ △ ▽ △ ▽ △
その日は大雨だった。
「先生、私を兄に移植してください。」
少女は彼の独り言を盗み聞いてしまったのだろう。
その言葉に、桂木は耳を疑い、目を見開く。
先日の急患、もう死ぬだろう患者の妹だ。
『馬鹿を言うな。いくら適合者がいないとはいえ、それでは兄どころかキミが死んでしまう。』
「問題ありません。」
『いい加減にしろ!命をなんだと思っている!』
「じゃあ、どうすればいいんですか!先生がやらないなら私はここで死にます!」
彼女の近くにあったメスの刃先は、彼女の喉元をむいている。
その時の彼の脳裏にはひとつの道筋がちらついた。
『頼むから、頼むから落ち着いてくれ、知り合いに腕の良い医師がいる。連絡してみるから少し待っていてくれ。くれぐれも早まらないように。』
受話器からは、微かに年配の男性の声が聞こえる。
『ご、ご無沙汰しております。桂木です。』
それからしばらく、
『えぇ、はい。所長、わかりました。いますぐ連れてまいります。』
受話器を置いて振り返ると、
いまだカッターの刃を収めていない彼女の目からは涙が止まっていなかった。
『大丈夫だ。キミが犠牲にならなくてもなんとかしてくれる先生がいる。』
そういうと、<すみれ>はその場に崩れ落ち
そのとき、僕は嘘つきの笑顔と共に罪人となった。
△ ▽ △ ▽ △ ▽ △
芝生に寝転がるのは、
気持ちが良いかといわれると、思ったより微妙だろう。
義眼を少し動かすと、遠くで遊んでいる子供達が鮮明に見える。
寝ているすみれが、ぺんぎんたちに踏まれているところが。
死体を用いた移植手術の研究は概ね順調だ。
ただ、彼女たちの期限は待ってくれない。
そう物思いにふけっていると、義眼が近くにきた桂木を捉える。
桂木は白衣に人工の風を受けながら、口を開くと所長に問う。
「次は、すみれの番ですか?」
私は桂木の問いに答えることはできなかった。
「すまない。」