第三章「瓦解した都市内の楽園」
旧世界の戦争痕、その場所から一日程度しか経っていないところにかつては都市だった場所があった。
未だに残る旧世界の技術で作られた地面に突き刺さる巨大な細長い建物が、これでもかという程に崩れかけた自らの存在を主張している。
中には倒壊し、地面に横たわる物もあったが、殆どはその場で何かしらの攻撃を受けて崩れかける物ばかりだ。
彼女達の乗る軍用車両で走る道も長い間使われず、人が消えて補修される事も無かったからだろう。
舗装されていた道は細かく隆起し、場所によって大きく罅割れ、挙句には風雨によって錆びて浸食された車両達が大通りを占領していた。
他にも車道よりも外側、高層ビルに隣接する様に地下へと通じる階段状の入り口が何か所も設置されているのを見ていた二人。
一度だけ地下へ降りる階段を二人は降りようと試みるも、中は長い時間放置された事によって排水設備が故障し、雨水や当時の生活排水などで溢れ、勿論故障しているのだから流れなど発生する訳が無く、溜まりに溜まった水は腐り、緑色に染まっては異臭を放つ得体の知れない液体へと変化していたものだから、流石に降りようとは思わなかった。
「ここも通れないか……」
廃都市に入って何度目かの大きな溜息と同時に、落胆の言葉が出る。
それもそうだろう。彼女達二人が乗る軍用車が経由した都市へと繋がる道とは全くの反対側に、朽ち果てた車両が阻む様に伸びているのだ。
まるで何かから追われて、逃げようと長い列を為すそれらに、悪態や落胆はできるが、強行突破なんて出来る訳も無く迂回を強いられる。
けれど所々に見られる彼女達と同じタイプの軍用車両に、荒野などでたまに見る戦車や装甲車などが目に入るところを見ると、この都市に住んでいた旧人類がどれだけ急いでいたのかが分かった。
どれもこれも、無傷な物など一つもなく、その近辺には必ず小銃を持ち、風化しかけた軍服を身に纏った骸が居る。
ある者は頭部の骨が砕け、ある者は体がバラバラになっており、どの骸も決して寿命で亡くなった訳では無い証が付いている。
「……土にすら還れないのは悲しいですね」
野ざらしで白骨化した兵士の亡骸を見て、マリアは悲し気に呟いた。
遥か昔は大都市だったこの場所も、細かな場所は粉々に破壊されており、だが大まかな場所は枯れかかった植物に覆われているが、形をギリギリで保てている。
「争いなんてそんなもんだろ。負けて死ねばそこに放置だ」
マリアの言葉にアリアは同情など無駄だと言わんばかりにそう返す。
そして、マリアはそれ以上答えない。幾らマリアが悲し気な表情を浮かべようとも、その事実を知っているのだから反論する事が出来ない。
荒廃した都市に視線を送る相棒に、ただ無言で車を走らせ続けるアリアは、例え道路上に骸が居ても避ける事無く走り抜けていく。
そうやって都市に入ってから数時間程の時間が経ち、それでも目的地に着かない。
二人が乗る車両は迂回に迂回を重ね、現在は大通りから外れる様になり乗っている車両がぶつかるかどうかの瀬戸際で通れる葛折り状の小道をゆっくりと通っている。
「……ちっ」
無言の車内でアリアの舌打ちが響く。最初の数回は運転席の彼女を宥めていたマリアも、流石に宥めようとせずに外をはっきりしているのかしていないのか、分からない意識のまま人形のの様にずっと眺めている。
だが到着しない事自体は道も知らないのだから、迷うのは当然だ。だが加えて細々とした小道を通っており、これも時間がかかりすぎるのは納得できる。ハンドルを握るアリアは理解と納得は出来ていても、あまりにも通りたい道が塞がれているのを見てしまうと、感情が表に出てしまう。
小道の中でも彼女の心を最も揺らしたのは、強い陽光に晒されて色褪せ、雨ざらしで塗装が剥がれかかった赤い標識が車輪の付いた真っ黒な塊に衝突され、拉げて一つのオブジェクトと化した道だった。
何故ならば通れるかと思い通過しようとするが、そのオブジェクトによって見事に入れた筈の道が入れず、思わず叫びそうになったからだ。
――先程も言ったが、勿論大通りはそれが当然の様に大量の車両達によって塞がれており、時折見る事の出来る高層ビル群の合間を縫う様に出来た小道や細道も朽ちた車両達に塞がれ、他にも大通りを進もうと並ぶ廃車達とは正反対……彼女達が通って来た道に近い、別の大通りを戻ろうとする車両も居た、それらに訝し気な視線を送る二人。
不可思議な行動を起こした車両はどれも大通りからは離れており、もし旧人類が逃げるのであればあまりにも理解の出来ない行動に思えた。
「マリア、ここに住んでいたとして、逃げる場合はどうする?」
そんな景色ばかりにふと気になったアリアは暇つぶし代わりと熱くなりかけている頭を冷やす為と、相棒へそう問いかける。
マリアは右手で顎を触りながら、周囲を二度ほど見渡すと答えた。
「基本は非常に分かり辛い道ですし……何故か土の中に入る様な道もあるみたいですしねぇ。まぁでもここから離れるのに一番近い道を選ぶんじゃないですか?」
「ま、それが普通だな。だからこそ大通りは逃げきれなかった廃車で溢れてる」
アリアの言葉に大通り一杯一杯にあった廃車達を思い出すマリアは静かに頷く。
「変な赤い塗装がされた看板が付いた棒みたいな物に突っ込んでる車に、通るべき道を通らない車……私の推測だが予想以上に敵の侵攻が速かったのかもな」
何かに気付いたマリアが答える。
「だから軍服を着た人間の数が中心地になればなるほど少なかった……?」
アリアの推測は、マリアにとってはぴったりとハマったのだろう。今までを思い出せば目的地に向かう為に、巨大な廃墟と化したこの都市の中心部へと近づけば近づく程に軍服を身に纏った骸など見なくなったからだ。
その代わりにこの都市に入ってすぐは兵士らしき者達の骸が多く、軍用車両が多く存在していた。まるで……いや、都市を守る為にそこに居たと言うように。
「守る者が居なくなり、ただ蹂躙されるだけ……ま、ただの推測さ。もしかしたら違うかもしれん」
表情の無い顔でそう言ったアリアは、本当に暇つぶし程度の質問で特別興味を示さない。
それでもマリアは自身の心を切なく、きゅっ、と締め付ける何かを感じ、胸部の中心に右の掌を押し付けた。
その気持ちをマリアは少しでも紛らわせようと外の景色へ視界を移すが、結局は外の景色を見れば誰かの死があり、それらに他人とは思えない哀れみと胸の締め付けを感じ、ふと自分を包み込む何かに気付く。
それは夜に包まれた闇に、日の光など差すことも無く、体の芯すらも凍える様な冷気の様だった。目を瞑れば意識を落としてしまいそうな――――
「……マリア?」
「あっ、ご、ごめんなさい……」
遠くなりかけていた意識を呼び戻す様に低めのハスキー声が彼女の名前を呼んだ。気付くとマリアは左手でアリアの肩を縋る様に掴み、微かに震えていた。
車両の運転中という事もあり、急いで掴んでいた手を離し、謝る。が、視線は前を向いていてもアリアの表情はマリアに対しての不安の色に染まっていた。
「久しくなってなかったのに……やっぱ寂しいか?」
寂しさに悲しみ、それが入り交じりながらもそう言うアリアの横顔は、それでもマリアの事を必死に考えていた。その気持ちを隠そうとマリア自身には決して見えない様、そっぽを向いて。
「……大丈夫です。でも寂しくない、と言えば嘘になります」
アリアの気持ちと、その行動の意味を知っているからこそ、マリアもそう答えたくはなかったけれど、嘘は吐けなかった。戦車の天蓋上での自分の質問に、ついていくまでは言わなくとも肯定を示してくれた彼女を裏切ってしまう様に感じたから。
でも、どんな思考をしても必ず頭の中で映像として蘇る、綺麗な軍服を身に纏い、まるで子供の様に無邪気な笑顔を浮かべるある男達の姿に、想い馳せてしまう。そしてもう一度、会いたいと懇願する自分がいる。
「そうか、なら一刻も早く探さないとな。大丈夫、知ってると思うが今向かってる場所はそれなりに規模がでかい」
そう言ってマリアに一瞬見せた顔は、悲しみと不安に曇り、染まっていた筈がマリアを安心させようと晴れ晴れとした表情に変わっていた。
……無理をしているのが丸分かりな笑顔、だがマリアは何も言えない。言おうとすらできなかった。
「ほら、見えて来たぞ」
少しの気まずい沈黙が二人の間を流れるが、それを破る様に視線を正面に置いていないマリアへ、運転席に座る彼女が指を差して言った。
今まで走っても走っても、周囲にある巨大建造物のおかげでまともに日の光さえ浴びる事が出来なかったが、廃車一つ見えない見通しの良い大通りに出た時、それが見えた。
――――瓦解した都市の中心部、そこから大分離れ、視界を覆う程の巨大な建造物の高さが急に低くなり、やがて空が見える様になると、それ以上の高さの目的地を示す目印が、二人を導く様に姿を現した。
アリアがそれを目にした時、何故その場所が、彼女達二人が目指している巨大なコミュニティだという事が分かったのか、理由はそれほど難しいものではなかった。
これまでの旅で、そこがどういうところなのかを聞かされてはいたかも知れない。けれどそれを無しにしても分かりやすすぎる目印が、あった。
「……あれは、明らかに人の手で作られてるな」
一瞬視線を逸らし、それを見て呟くアリアは安全の為にすぐに視線を車両、フロントガラス越しの道に戻す。代わりにちゃんとした確認をする為にマリアはフロントガラスから斜め上方向に見えるその目印を、注視する。
「暗い青色の十字……あそこですね。あんな目立つ様な目印、普通はしません」
――――長くそこにあるのか罅割れ、所々が欠け、蔓性の植物や藻が纏わりついた煉瓦造りの長方形の建物。見た通り全く手入れや掃除などが行われていないらしい。
四方向あるうちの一つの面とそれの反対の面の計二つに大きく、入れば必ず視線を他へ移すのを躊躇う程目立つ十字のマークが描かれていた。
マリアが呟いた様に荒廃した新世界ではあり得なく、自殺願望のある者だけが行う様な目印がそこにはあった。この場所を見つけてと言わんばかりに。
「あれが見えて来たんだ、もうすぐだろうな。長時間座り続けるだけの生活も……これでやっと少しの間だけ、解放される」
注視し、確認をして確信を得たマリアの言葉に、座りっぱなしで体中が凝り固まっては伴う痛みに、アリアは嫌々ながらも座り続ける。時折疲れた様に肩を最低限の動きだけで回し始める。
その姿に運転の出来ないマリアは心苦しそうに言った。
「代わりに私が運転出来ればいいんですけど……」
「あー……当てつけみたいになったが、良いんだ。普段はマリア、お前に戦闘を任せてるからな」
先程の言い方に、遠回しではあったが若干棘があった事に気付いたのか、右手で支えていたハンドルを、左手に替えると右手を開き、マリアの左正面に翳してそれが今できる事なのか謝った。
勿論、マリアは相棒のそれがただ純粋に疲れから来たものだという事を理解しており、言葉ではなくルームミラー越しに合った相棒の視線に笑いかけたのだった。
それからは目的地を大分近くに見る事ができ、少し元気の戻った二人は他愛もない会話をしては、気になる建物や物を見つけては探索をしつつ、目的地へと着実に進む。目印は遠くともすぐそこに見えており、決して迷う事は無かった。
……何度か無数の廃車達に阻まれはしたが。
日が徐々に傾き始めていた。空は澄んだ水色から朱と金を織り交ぜ、憂愁を帯びた色に染まりつつあり、二人の目に映る景色を静かに焼いている。
目印が見えてから二時間ほどの道中、人の気配など微塵も感じられない廃都市を二人は出来る限り探索をしていた。
例えば床の崩壊した民家、元は薬を売っていたと思われる店、奥に分厚い鉄の扉がある広い建物など。だがそのどれもが既にもぬけの殻となっており、大した収穫を得る事は出来なかった。
……長い白髪を紐で後ろに縛り、狭く崩落した建物の中で唯一の武器、鎖閂式の銃を持つアリアは、別の事を行っていた。
自分達の生活で必要な物は相棒に任せ、彼女はその相棒の為になりそうな物を必死に探していた。
相棒が探してるというある男達の痕跡を……
各々が決められた役割を全うしながらの探索、その途中でアリアはある物を見つけていた。
倒壊しかけたある建物で、長年人の手が加えられず、無数の紙が散乱し錆びの塊と化した機械が置かれた一室で寂し気に放置されていた。
「これって……新聞、じゃないですか……?」
アリアが見つけた一枚の紙っ切れ、旧世界のどこかに存在した文字で書かれた紙だ。野ざらしであれば跡形もなく消失していたところだが、奇跡的に建物の奥で、散乱した紙束の中で奇跡的に保存されていた。
いや、保存と言っても所々破れては文字が消えており、決していい状態ではない。けれど合流後にそれを見た瞬間相棒、マリアはその紙をまるで知っている様に、けれど声にならない呟きで呟いた。
「知ってるのか?」
路肩に停車されている車の中、運転席で興味津々にそれを見ていたアリアは、汚れた薄い一枚の紙を見て自分でも驚いた様に目を見開いたマリアに恐る恐る問いかけた。
……アリアは相棒が旧世界の異物にそういった反応を示すのをこれまでの旅で何度も目にしていた。何故旧世界の朽ち果てた物を知っているのか、そして何故知っている事に驚いているのか……
出会ったばかりの頃こそ、仇である漆黒の回転式拳銃を持った男の仲間なんじゃないかと疑ってすらいたが、そういった素振りを見せる事は一切無く、やがて疑いは晴れた。
記憶が曖昧、もしくは何かしらの影響で混乱しているのではないか、と考える事もあった。しかし、アリア自身が知る限りの旧世界の知識と差異はなく、そして矛盾も無く、結局は分からずじまいになっている。
「え、えぇ……この車両を見た時と大分同じ様な気分ですが、確かに覚えてます」
問いかけには、きちんとはっきりとした意識で、しかし動揺しているのか掠れ気味の声で答えた。同時に頭痛も襲って来たのか右手でその痛みを抑える様に艶やかな黒髪を義手の指で掻き分けると頭部に触れる。
「頭痛か?」
「少しだけ……」
助手席の背凭れへゆっくりと体を預け、辛そうに答えた。
夕焼けで周囲が夕焼けによって焼けている事もあり、アリアもはっきりと顔色を判別する事は出来なかったが、それ程酷い頭痛という訳でもないみたいだった。発汗もしておらず、多少表情が崩れた程度だ。
「無理はしてほしくない……だが出来ればでいい、これには何が書かれてるんだ?」
アリアは手に持つ薄汚れた一枚の新聞紙をマリアに手渡すと少し不安気な顔で訊いた。何年もの間を一緒に過ごしていれば当然の反応だろう。
「多少頭痛はありますが……アリア、貴女の為なら私の知識なんて幾らでも貸しますよ」
右手の義手を変わらず頭部へと触れさせ、崩れた表情を取り繕うように笑ったマリアに、運転席のアリアは余計に顔を曇らせ、心の中にある不安を増長させていた。
けれどそんな事はお構いなしに新聞紙を受け取ると、ぽつりぽつり、破れ、文字の掠れた新聞の内容に瞳を横に移動させながら読み始めた。
文字を読むという事に彼女が慣れているからか、数分もしないうちにその一面に載っている話が分かったらしく、アリアのいる運転席へ肩を寄せ、新聞左手で持ち文字を読めないアリアにも分かりやすいようにその個所に右手で指を差した。
「まず最初の見出しはNUSA財団の発足と書かれてますね」
物が掴める様に金属で形成された義指が、夕日を反射させながら横へスライドしていく――いつもならそう見る事のない相棒の義手は、近付かなければ分からない微細な傷が目立つ事もせず存在していた。
激しい近接戦闘によってできたそれらの傷に一番危険な仕事を押し付けてしまっている事実が頭を駆け巡り、申し訳無さを感じてしまうアリアは少し伏し目がちになる。
運転席にいる相棒の様子にマリアが気付いた時には、彼女は既に新聞よりも義手の傷に視線を送ってボーっとしており、心ここにあらずという表情だった。
気を利かせた行為を無碍にされている様で、流石にムッとしたマリアも……
「聞いてます?」
そんな相棒へと言葉を厳し目に放つと相棒の顔をジト目で覗き込んだ。
流石に気付いたアリアは誤魔化し気味に座席を座り直すと苦笑いを浮かべながら話を続ける。
「あっ、す、すまん……それで財団ってのは?」
アリアの問いに指を下に動かし、本来そこに書かれているであろう文字列が全て消えている事を示し、申し訳なさそうに答えた。
「詳しい個所は擦れて見えなくて」
「それなら構わない。次は?」
「コールド……スリープと書かれてますがここも同じく見れません。擦れて破れちゃってますね」
丁度その記事が詳しく書かれた個所には穴が開いており、悪戯心かマリアが金属製の義指を突っ込みぽっかりと開いているその穴を強調する。
「ふむ、やっぱり保存されていない紙は使えないな。当時の状況すら見えん……が」
新聞を見る為に前のめりになりかけた上半身を、座席へと再びかけたアリアはそこで言葉を止める。何かを思案する表情で夕日が綺麗な外に視線を移す。
彼女自身何が書いてあるかは分からなくとも、書かれている文章の中で疑問の浮かぶ場所があった。
破れ穴に突っ込んでいた指を抜き、隣で未だに新聞紙に目を送っているマリアへ声をかける。
「頻繁に見る文字とそう見ない文字が重なってるな……それに、なんちゃら財団というのも聞いた事が無い」
「無理もありませんよ、戦前の旧世界のお話みたいですから」
そう言われ、納得を余儀なくされる。
年単位で旅を続ける二人だが、旧世界の技術を使用しているコミュニティなどは見た事も無く、ましてや旧世界から存続する組織が活動を続けている、なんていう突拍子もない噂も聞いた事が無い。
旧世界での大規模戦争を生き残った人類もいたとしても既に、歳老い、もしくは大けがや放射線汚染、化学物質による汚染で何も出来ない体になっているのは絶対だ。
事実彼女達が出会った旧人類の殆どが例に挙げたどれかに当てはまっていた。
「あ、後ろにもなんか大きく書かれてますね」
二人はそんな会話をしつつ、マリアはバックパックへとしまい掛けた新聞をひっくり返すと裏面にも記事がある事に気付く。
「大きく?読んでみてくれないか」
「はい、どれどれっと」
やはり大きな記事と言えど同じ紙に裏表で印刷されたもの、破れている個所などは同じで、表面の様に擦れて読めなくなっている個所だってある。
目を細め、一生懸命書いてある事を読み取ろうとするマリアだったが――横に書かれた大きな文字を横に流れる黒目で読んだその時……
「……戦闘……アンドロイド、イM型の完成……」
マリアがそう呟いた言葉に彼女自身、何か覚えがあるのだろう。それだけを読んだマリアはそのまま読めるかもわからない文字列に、必死に目を走らせ始めた。
周囲さえ見えなくなるほどの集中力だ――――紙切れを読む為に俯き気味になった相棒の顔を、先程のやり返しとばかりにアリアは覗き込む様に見た。けれど文字列へと走らせ、心の中で読み進めているのだと思っていた相棒の顔は……実際は黒い瞳がある目をただ驚愕で大きく見開いていただけで――泣きじゃくる訳でも堪えて泣くわけでも無い、まるで泣いている事すら無自覚に、静かに一滴の涙を流していた。
「お、おい、マリア」
――――両眼から流れ落ち、頬を伝った涙は顎で一つになり、大きな雫になるとマリアの野戦服の太腿部分を濡らしていた。
アリアの問いかけにも答えず、ただ無表情を顔に浮かべ、涙を流し続ける。アリアはただどうしようもなく弱り切った表情をするしかなかった。
「……すみません。なんか、わからないんですけど悲しくなっちゃって」
流れる涙は夕日に照り、反射を繰り返し、その反射に無自覚だったマリアが頬に流れる水滴に気付く。左手で掬い上げる様に拭うと更にそれに驚いていた。
「心臓が止まるかと思ったぞ。急に泣き出すもんだから」
微かに濡れた左手の甲を見つめながらも、いつもの調子に戻った相棒にアリアは安堵の吐息を洩らす。流石に突然の涙はこの世界を生き残って来たアリアからしても驚きだったのだろう。それがましてや付き合いの長い相棒なのだから。
マリアの俯き気味の顔を覗き込む為に、狭い車の中で身を折り屈める態勢だったアリアは尻を上げて体を動かし、背凭れに背中を預けない程度に浅く座り直した。
「あの紙を見た時に、何か忘れてはいけない何かを思い出した様な気がしまして……」
「忘れてはいけない?」
車両のキーを回し、エンジンをかける。
「私自身、記憶が無い訳じゃないんですが、あの新聞に妙な既視感を覚えたんです」
「既視感……か。見た事も無いものにそう覚えるのも仕方無い、ここ最近はまともなベッドにも寝れてない」
運転席、座り直したアリアは相棒が夜、寝ている後部座席を親指で軽く指し示して言った。それに釣られてマリアも後部座席を見るが、そこには人一人が横になれる程の空間と枕代わりの缶詰が入ったバックパックしかなく、納得せざる得なかった。
間違ってもお日様の良い匂いと一緒に柔く体を包み込む清潔なシーツがある様には見えないからだ。
「……そうですね、きっと疲れてるんです。早くベッドに入りたい……」
両腕を胸部でクロスさせ、両手で左右の肩に触れてまるで何かを抱く態勢になると体中に溜まった疲労感を抜く様に、そしてベッドの偉大さに恋焦がれてるかの様な言葉と大きな溜息を吐く。
相棒の様子に、運転席に座るアリアも思わず考えてしまう。もうかれこれ、どれだけの間ベッドの上で睡眠を取っていないのか、と。けれども思い出そうと思考したところで思い出せる範囲内ではベッドなんかにありつけていない事を再認識するだけだった。
「――ま、安心すると良い。今夜だけは必ず、ベッドの上で寝る事が出来そうだぜ?」
隣ではベッドを渇望する相棒に、運転席で丸まって寝る事にいい加減嫌になりかけている自分が居たが……ふと、車両を走らせ始めた時にフロントガラス越しに映った景色にアリアは口角をニヤリと上げて言った。
だが、それも当然だろう。
今し方話していたベッドにありつけそうな場所……煉瓦造りの塔の様な建造物に、紺色の巨大な十字が目印として描かれたそれが、すぐそこの暗闇で聳え立っていたのだ。
瓦解した都市の楽園。
そこは楽園という言葉が、名前が、この荒廃した世界ではあまりにも似合っていた。
一体どこから電気を作り出し、ここへ送っているのか楽園内部は無数の電線に繋がれ、電気を供給される薄汚れ壊れかけた街灯があった。それらのおかげで周囲一帯は明るく照らされていた。それは楽園の外周へ近づけば近づく程、眩く目印の描かれた塔を、空に広がる暗闇さえ照らす。
車両に乗る二人は幻想的とも取れるその光景に、見惚れながらも車両内さえ冷やす外の冷気に、身震いする。
夜になれば基本的には動かないのが定石だ。日光が無ければ寒さによって動きは鈍くなり、更に夜目が効かないとなるとバンディットに襲われた際に、圧倒的な不利となる。だが当然襲うとなれば相手も同じ状況ではあるが、更に車両が動いているとなると暗闇ではその音は目視よりもはっきりとした情報になる。
それを知っている二人はだからこそ夜になれば動かないのだが――――今回だけは違っていた。
太陽から降り注がれる日光程ではないにしても、そのコミュニティの明るさは新世界ではあまりにも眩い。せいぜい彼女達が知ってるのは車両の前照灯くらいか蝋燭もしくは松明の原始的な明るさ程度だ。
「まさかすっかり夜になるとはな……」
「本当ですね。私達が遅いのやら、それとも陽が落ちるのが速いのか」
紺色の十字マークを頼りに、入り口はどこかとコミュニティを守る様に建つ壁の外周を回る。左に回っており、右にはコンクリート製だが、所々廃材で補強された痕のある壁が左にはかつて道とそこを分け隔てる為の鉄柵が様々な様相で放置されていた。
策の先は闇夜で閉ざされていたが、目を凝らせばコミュニティからの光で数メートル先までを視認できた。
廃都市の中にあるそれは、旧世界の写真に写っている人工的に溜められた池に酷く似ている。場所や形などは全く違っているが、雰囲気はそれに近かった。
夜闇によってその殆どは見えないが、想像すればそこはきっと緑が溢れ、息抜きに旧世界の人々が憩う、素敵な場所だったのだろうと。
体を冷やす夜闇の冷気と隣に座る相棒の微かな体温を感じながらゆったりとした気分で車を走らせる。
やがて体感で半周程した時に前照灯に照らされる、壁伝いを歩く野戦服姿に小銃を持つ数人の男達を見つける。
男達は敵意は無いらしく、手にある小銃を構えるのではなく、二人の乗る軍用車を自分達の目前で止める為か、一人の男が右手を上げた。
「……何か?」
「いや、すまない。俺達はそこの町の自警団でね。あんたらもそこに用があるんだろ?」
運転席側に近づいてくる手を上げた男に、左前方扉、運転席側の窓ガラスを開け、対応する。
暗闇ならばはっきり分からなかったが、前照灯に照らされたシルエットの人数は四人。来たのはその中で一層目立つ右瞼から左頬にかけて、ナイフか何かで斬り付けられたのか、大きな傷痕を持つ男だ。
「そう警戒しないでくれ。入り口ならこの先にある」
そこら辺にいる狂人よりも恐ろしい悪人顔をしているが、中身はそうでもない様だ。にこやかな笑顔をアリアへ向けると左手の指先を車両が向いている先を指した。
「親切にどうも、じゃ行っていいか?」
それでも警戒を解くことなく、不愛想な表情で正面に立ち塞がる男の仲間達を見て、言った。
「おっとこりゃ悪かった。よーし、敵じゃねぇ。ただの旅人だ」
「……親切装って区別するのは失礼じゃねぇか?」
声を上げ、男はこれが意図的だったと認める様に左手を上げると立ち塞がる様に立っていた男達数人は指示に従う様に退く。だが『それ』に気付かないアリアではなかった。伊達に何十年もこんな世界で生き残っている訳じゃない、そう語るが如く男を睨みつける。
「もし、あんたが右手を上げてたら……私達はどうなってた?」
「……おいおい、そう睨むなよ……俺達は自警団だ。こんな軍用車を乗り回してる様な輩を止めない訳がねぇだろ?」
アリアの質問には――答えない男に、アリアは体の、自分のものとは思えない遥か奥底の感情から這い上がるぞくっとする感触に、身の毛を逆立たせた……感じた事のある純粋な死の恐怖という物だ。
目前の男は変わらず、その顔に朗らかな笑みが浮かべられているが、彼女達の目に映る男の目は笑っていない。笑おうとすらしていなかった。男が彼女達を敵だと認識した時点で、慣れた手つきで右太腿にあるホルスターから拳銃を抜く。
拳銃など持っていないアリアからすれば、その状況は最悪。為す術もなく殺されるか、投降するしかない。
一触即発という空気が流れる中、アリアと男へと視線を送り続ける助手席のマリアは車内の暗闇で、右手の義手を微かに動かした。最悪の状況に陥った際の備えだろう。
張り詰めた緊張の糸にアリアの胸部にある心臓は体内に響き渡る程の大きな鼓動を繰り返す。
彼女は出来る限り平静を保ち、額に滲む汗をあまり気にしない素振りをする。もし見せれば発汗している事がバレると同時に隠し事をしていると怪しまれるからだ。
「……ま、それもそうか。悪いね、別に悪さをしに来た訳じゃない。分かるだろ?」
「あんたらにゃ関係ねぇが俺達も神経質にならなきゃならない理由がある。それも分かってくれよ?」
威圧的、高圧的な男の態度に彼女も警戒を解かない。少しでも気を緩ませてしまえば男が躊躇なく右太腿にある拳銃を抜く気がしたからだ。
ちらと正面を見るアリア、先程まで立ち塞がっていた男達は道を開ける様に退いてくれている。最悪な状況ではあるが、死ぬよりはマシという事か、強行突破もアリアの思考の中で過ぎる。
顔面に傷を持つ男が進行方向にいた男達を退けてくれていたとしても、奴らが持つのは小銃だ。
この車両も防弾仕様とは言え、古い。数十年以上も前の物だ、多少はその防弾性能に劣化があることを疑ってもいいだろう……だからこその、強行突破。
ハンドルにかけていた汗ばむ右手でしっかりと一層強くそれを掴み、アクセルペダルへと足をかける。助手席のマリアにしか見えない角度で、義手による射撃援護の合図の為にハンドルを掴む右手の人差し指をゆっくり上げた。
……男とアリアによる沈黙の睨み合い。
一滴の汗がアリアの額からはっきりとした鼻筋を滑り落ちていく。けれど、彼女の目前にいる男は、顔面にある古傷に相応な男だ。
アリアを見る目は瞬きすらせず、若干光に照る顔面には一つとして汗が無い。それが似た様な状況に慣れている証拠だ。
正面を退いた他の男達も、同じ様だ。焦ることなく、来るその時をひたすら待ち続けている。
――何分経ったのか、アリアにはその状況があまりにも長く感じられていた。銃を額に突きつけられた訳でもない、けれどその緊張で命のやり取りをしている感触に苛まれ、一時間にも数時間の様に果てしない。
ピンと張られたワイヤーか、もしくはコップになみなみと注がられ、零れようとする一杯の水の様に――
「くはっはっは。いや、本当にすまない!冗談だ、冗談」
安全ピンを抜かれた手榴弾が数秒の時間を残し、爆発を予言する。当事者からすれば死の宣告であった。けれどその数秒後、手榴弾は不発と終わり、自身の予言を否定した。
決闘ならば両者が拳銃嚢のボタンを外し、一丁の拳銃をお互いに構えたその刹那に――――男は豪快に笑いだしていた。
この場の空気を占有する緊張にはあまりにも似つかわしくない笑い声に、車両を発進させようとしていたアリアは目を見開く。
それもそうだろう。彼女は既に合図を出す為に人差し指でハンドルを叩こうと、マリアはそれに反応する様に肩をぴくっと脊髄反射させていたのだから。
「……は?」
アリアを襲うのは安堵ではなく、気が遠くなりそうな驚きだった。
戦いの火蓋を切るよりも、正気の沙汰とは思えない程の笑えない冗談。たった一つの冗談で殺し合いが始まる所だった。
「どこまでが冗談だ?」
……けれどまだ安心はできない。クラクラする頭、思考が掻き混ぜられる衝撃を与えられた気分だが、それを無理矢理に回転させる。
男は大きく笑い冗談、とは言ったもののそれが信用できるものなのか、そしてどこまでが一体本気だったのかを聞いておかなければならない。この世界じゃ、人を簡単に信用した奴から死ぬのを、アリアは良く知っている。
「そうだな……」
豪快な笑い声を上げていた男は、アリアの問いにつるつるの露出した頭皮を右手で撫でる様に触れると、数秒ほど間を開けて答えた。
「神経質にならなきゃならんのは事実だ。怪しい連中を止めて話を聞くのもな」
頭皮に触れる右手を離すと、右太腿にある拳銃嚢に収められた拳銃を抜き、安全装置のかかったそれを見せて来る。
「……こいつを抜こうとしたのも事実さ」
その返答に、アリアは怪訝そうに男を睨む。どこが冗談なのか、と。
だがアリアのその反応も見越しての事なのだろう。男は再び豪快に笑うと拳銃を元あった鞘へ戻し、彼女達二人が進んで来た道を反対側へ歩き出して小さく呟いた。
「目的はあるみたいだが、俺達に敵意がねぇ。俺達だってやらなきゃ冗談で済むだろ?」
その男は右手を上げ、手先を宙で円を描く様に軽く回すと車両前方の、離れた所に立っていた男の仲間達がそれを合図に、顔に傷痕を持つ男を追いかける様に歩き出した。
「また会おう」
すれ違う仲間の男達は、何故か嬉しそうに満面の笑顔を浮かべながら車両に乗って、呆気に取られている二人を見ると、愛想よく手を振ってくる。
……それを無視する訳にも行かず、けれど唐突な事で状況を飲み込めなかったが、マリアは手を振り返していた。勿論、手を振りながらも助手席の相棒も理解は追いついてはいない様子だ。
十秒にも満たないその時間、通りすぎていった男達の後姿を見送りつつ――最初とは打って変わって友好的な男達に、二人は放心してしまう
……やがて空いている窓から、極度の緊張に発汗した体を、必要以上に冷やそうとする凍てついた空気が流れ込んでいる事に気付く。
「……暖かい空気の無駄だったな。行こう」
凍てついた空気に身震いし、同時に本来の目的を思い出したアリアが空いている窓を閉め、相棒に話しかける様に呟いた。
「そう、ですね。もうなんか色々と痛いですし疲れました……」
右手の戦闘用の義手、いつでも射撃ができる様に準備をしていたマリアは、大きな溜息を吐く。
それもそうだろう。確かに変な誤解を生まず、そして彼女達二人が目指していたコミュニティの自警団と名乗る男達と戦闘状態にならなかったのは一番だが……精神の削り具合はとてつもない。
「……今日ぐらい、ベッドに入れればいいが」
憔悴しきった心に強張っていた体、そのせいもあるのかアリアの頭の中支配するのは、少し前に話していたベッドだ。
「もう……今日だけ車は嫌です……」
マリアは相棒の言葉に同感と言わんばかりに頷き、言葉さえ喋るのが億劫の様で座席に深く背中を預ける。足も座りっぱなしで棒の様に固くなっているのか、軍用のブーツを乱雑に脱ぐと脹脛辺りを優しく指を使って揉み始める。
相棒のその様子に、アリアは自分の足にも大分疲労が溜まっている事に気付く。揉み解す程度じゃまるで治りそうにない鈍い痛みだ。
疲れた足に鞭を打ち、最後の気力を振り絞り、アクセルペダルを踏み込む。
すると当然車が進み始め、それに一種の安堵感を感じ、ゆっくりとコミュニティの入り口を目指す。目と鼻の先にある、パトロール中の自警団に教えられた通りの道を、真っ直ぐ走り出した。
車を発進させてから、数分も経たない間に扉へと辿り着いた。
まず二人の目が捉えたのは、内部から外へ漏れ出る光……ではなく、ゲートを直接明るく照らす二つの光源だ。
無理矢理に設置させたらしく、掘られた跡のある地面に雑に突き刺さり、軽く傾いている街灯。本体も随分と錆びだらけで光を放つ個所からは低い虫の鳴き声の様な音が上がっている。
そして次に目に入るのは重厚で巨大な鉄扉。悠に三メートルは超え、幅は彼女達の乗る旧軍用車両が楽に通れる程の広さがあるが、どうやら後から付けられた物らしい。
設置された鉄扉は鉄製の廃材の寄せ集めで作られた、継ぎ接ぎだらけの物だ。頑丈ではありそうだが。
新世界へ残される旧世界の廃車から取れる鉄くずなどの廃材を半ば強制的に合わせた扉だろう。
そしてその前方、そこを守る様に服装はバラバラだが、手に銃を持ち、辺りに視線を送る自警団の男達が数人程立っているのが見える。確かに楽し気に会話をしている奴もいるが、どれも彼女達が見て来た哨戒兵役のバンディットとは違っている。
隙が見えない。どの男達も臨戦態勢に入り、何かしらの異常があれば躊躇いなど少しも見せずに引き金を引くだろう。
彼らが持つ銃――小銃にはきちんと弾倉が挿入されているのも視認できる。
「さっきみたいにならなきゃいいが……」
あのパトロール隊の顔面に傷痕があった男の顔を思い出し、これ以上嫌な事が無い様にと願いつつ、彼女達に気付き車両に近づいてくる一人の男にアリアは再び運転席側の窓を開けた。
「どうも、もしかしなくても……ここに用があるんですよね?」
鉄扉を指さしてそう問う男は、それほど二人と年齢は変わら無さそうだが、開けられた窓から見えた女性二人に少し驚いたらしく、一瞬言葉に詰まりかけた。
「……何か?」
その反応にアリアは怪訝顔を浮かべ、不機嫌そうに問う。
「あ、あぁいえ、気にしないでください。来るものは拒まず、去る者は追わず……一つだけ注意事項がありますので、それだけお伝えしますね」
……他人から見れば彼女の無愛想さは不機嫌と同じ、男はアリアに少したじろぐが、出来る限りそれを態度に出さない様に若い男は造り笑顔を張り付けながら、胸ポケットから紙を一枚取り出し、読み始める。
「『悪さを行えば、その時は銃殺』となります。我々自警団の前ではくれぐれも行わない様にお願いします。勿論市民の方々にも」
――――銃殺、その言葉に二人は僅かに体の一部を反応させる。
けれどこの秩序のなくなった新世界で、大きなコミュニティになればなるほど独自の秩序が生まれていく。それに違和感など感じる訳もなかった。
「わざわざありがとさん。じゃあ開けてもらってもいいか?」
変わらず不機嫌そうに答えるアリアに、若い男は軽く会釈をすると鉄扉へと向かい、騒々しい音を鳴らしながら鉄扉を強く叩いた。
数秒も経たない間に、鉄扉は罅割れた地面と自身を擦り付けながら耳を劈く音を鳴らし始める。
開け放たれた鉄扉、そこから見えたものはもはや旧世界の文明と言えるもの、本来人類が歩んでいた科学という道の、一つの終点。
水の様に迫り、全てを飲み込み人を恐怖に陥れる闇を、その人工的な太陽達は辺りを、鉄扉の先から此方側を眩く照らす。
暗闇にばかり慣れたアリア達の眼には、溜め込まれた光を解放した様に見えた筈だ。
「――ッ」
ほんの一瞬、眩い光によって視界を奪われアリアは思わず視界に入る光を遮ろうと腕を盾にする。
……目が慣れるまで、そう時間は掛からなかった。
目に入るのは瓦解した都市でも、旧世界の残した傷痕でもない。ましてや瓦礫で作られた家なんかでもない。
――――住民は手に銃を持つ事も無く、その通りを往来していた。アリアの正面に広がる道は扉よりも遥かに広く、向こうから此方側、此方側から向こうへ頭上の街灯に照らされて歩き、今まで見た事も無い程に幸せそうだった。
外界から切り離された別世界。
いや、別世界と言ってもそこに文明的な生活が目に見えているだけで、変わらず世界が荒地になっている面影は見える。
扉と同じ材質の、廃材で作られている壁に屋根。全く家とは言えないが、そこを出入りする人々の表情は言葉に出来ない。
中には出店の様な物をやっているところもあった。どこから仕入れて来るのか、土に塗れながらも瑞々しい肌を見せる野菜達が、また幸せそうな住人達に、一枚の紙と交換されては持っていかれている。
ここが、これが楽園と呼ばれる所以だ。見た事はないが、きっと旧世界の人間もこういった生き方をしていたのだろう、という想像がアリアの頭を満たしていく。
「では出る際には内側の警備にお声掛けくださいね」
開けられている窓から若干遠くなったその声に、車内の後部座席越しに振り向く。同時に耳を劈く金切り音が耳に届き、鉄扉が内側に常駐する警備によって押されてゆっくりと横にスライドする。
最後に鉄と鉄が軽くぶつかり合う音が鳴ると固く閉ざされた。
……だが、アリアにとってはそんなことよりも気になる事があった。隣で同じように鉄扉が閉まるのを見ていた相棒が、あまりにもが浮かない顔をしているからだ。
一度車両を動かすのを止め、相棒へとを意識を向ける。
「何かあったのか、最近随分と多いが」
彼女の反応に、どこか妙なおかしさを纏った寒さと違和感を背中に感じるが、その正体を考える間もなく、マリアは答えた。
「……見ませんでしたか?」
マリアの瞳は微かに揺らいでいる。恐怖、いや動揺だ。彼女の目にはアリアが見た様な文化的で、幸せな生き方よりも、それを全て上から塗りつぶす様な何かを見てしまったのだろう。
どこかにそんなものがあったか、それを考えるアリアだが……思い浮かぶはずもなかった。
「見た……何をだ?」
問いかける、その原因を。
「……」
「とりあえず駐車する。待ってくれ」
ゲート近く左側にある華やかさなど皆無の居住地、正面真っ直ぐの道しか見ていなかったアリアは気付けなかったが、後ろを振り向いた時に入ってすぐの左右に延びる道があった。
どうやら壁の外周と内周にここを囲む道がある様だ。
アリアはそんな事を考えつつ、幾ら道幅が広いとは言え、多くの人が行き交う通りを突っ切る訳にも行かず、車両を駐車させる為に左側にある居住地近くに停車させた。勿論邪魔にはならない隅だ。
サイドブレーキを引き、鍵を抜くと動いていたエンジンが止まり、同時に細かな振動も止む。
改めてアリアは相棒へと意識を向ける為に視線をマリアへと移す。
「それで……マリア、お前には一体何が見えた?」
だが座り心地があまり良くなかったのか、浅く座り身を乗り出す様に運転をしていたアリアは、一度背凭れに背中を預け、深く座り直すと動揺し激しい動悸を胸部へ両手を強く押しつけては抑えようとするマリアへ、改めて問いかける。
「子供が……子供がいました」
「子供?」
マリアの言葉にアリアは訝しみ、反射的にオウム返ししてしまう。
だが、おかしな話だと思考する。
勿論子供は居た。彼女達がいるそのコミュニティの大通りに、多くの子供が走り、もしくは親に連れられ、歩いていた。
「――大通りじゃないです。あの扉の先に……薄暗い瓦礫の中に佇んでた……」
それを口にしようとした瞬間、マリアは思考を読んだ様に否定し、マリアの右手側にある既に閉め切られた鉄製のゲートを指さして言った。
「……」
アリアはその人差し指に誘導される様にゲートへと視線を送る。
彼女の思考はマリアの言葉を鮮明に想像してしまうが、勿論ゲートの先など見える訳がなく、安堵の溜息を吐く。
「それが実在するのかどうか……」
「わかりません……幻だったのかも」
やっと落ち着き始めたのか、何度か大きな深呼吸を続け、マリアはそう答えた。
だが既に疲れ切った心に体を持つアリアからすれば、言葉にしなかったが疲労からの幻だと、そう心の中でマリアと自分に言い聞かせていた。
確かめる術もないのだから、と。
「とりあえず、今は体を包み込む暖かく柔いベッドにありつく為に行こう」
マリアが落ち着いたところで車両の扉を開け、銃と弾薬の入ったポーチを後部座席から手に取ると外の冷たい夜風に一瞬震え、車両の鍵をポーチに入れて言う。
その顔は大分疲れが表に出ており、足取りもあまりはっきりとしていなかった。
「……そう、ですね。明日にでも聞けば分かるかもしれませんし、そもそも私達の目的はそれじゃない」
外に出たアリアを確認し、そう呟きながらマリアは前部座席から後部にある半分ほど空になったバックパックへ手を伸ばし、手に取る。
「そういう事だな。それにもうくたくたで眠い」
本来太陽と共に寝て、起きるという事を繰り返してきた彼女達からすれば、夜が深まりながらも起きているのはあまりにも辛かった。
無論、今日この日の疲労は迷宮と化した廃都市にパトロール中の自警団……特に顔面に大きな傷を持つ男の影響があまりにも大きかった。
スリングで銃を肩に担ぐも、隠しようもない疲れ果てた姿で、アリアとマリアは大通りをゆっくりと歩き、進んでいった。
人通りの多い大通りを挟み込むように左右にある店では、様々な物が売られていた。
店頭で木材を中心とした廃材を用いられた台座に置かれている、例えば彼女達が良く朝食や夕飯で世話になっている缶詰や、どこで栽培されているのか分からない生野菜などが並んでいた。
どうやら売られている物は食料だけでは無いらしい。二人が通りを少し先へと進むと店先に野菜やもはや肉か分からない塊が置かれていた場所が、ガラッと印象を含め、全てが変わっていた。
油の匂いと時折店の奥から聞こえてくる機械音、そして鳴り響く甲高い金属音に店先を覗くと、置かれている物は電子部品に銃の部品。
他にそれの本体などが立てかけられ、個人で持つにはあまりに多すぎる量に二人はただただ驚くしか無かったが……
アリアはその取扱いの多さに、体の鈍い痛みや疲れをすっかり忘れて何かを探す様にひっきりなしに店先を覗き込む。
「流石にスコープなんかは無いか……」
部品屋通りの最終地点、十字路に差し掛かる手前の、それほど広くはない最後の店を覗き込むと、小さく呟きながら悄然と地面へ腰を下ろした。
どうやら欲しい物があったらしいアリアだが、結局最後に覗いた店にも無かった様だ。
けれど、それも当然だ。彼女が欲しがっているのは狙撃銃用の高倍率スコープ……滅多どころか、この時代ではもう手に入らない代物だろう。
「もう行きません……?」
酷く落ち込むアリアの後姿に疲れた顔でそう問うマリア。
だが彼女はその場で座り込み、大きな溜息を吐くだけで動こうとはしなかった。
変わらず木材で作られた台座に、置かれた部品を眺めるアリアにその隣で棒の様に固まり痛みを伴い始めた足を、解そうとくるくる回しながら、呆れすら通り越して項垂れるマリアへ、アリアが縋る様に言った。
「まだだ……この部品を売ってる場所が、ここで最後なんだよ……」
マリアは大きな溜息を吐くと、部品が置かれていた台座を背凭れの様に凭れ掛かり、背負うバックパックをクッション代わりに座った。
「客か?」
不意に、野太いが随分としわがれた声が聞こえて来た。同時に背後に感じる気配とその声へ二人は顔を向ける。
筋骨隆々の上半身を露出させた一人の老人が立っていた……常人とは全く違うその体付きに二人は驚愕してしまう――彼女達の二倍はある肩幅に、鍛え抜かれた腕と胸。身長も悠に二メートルは超えている様に見えるが、歳老いた肌は見た目相応に枯れていた。
だがその老人は随分と簡易的で今し方自分が出てきた扉の前に立ち、何かを待つように腕組みをするとそこに佇む。
「あ、えっとその」
老人のその威圧的な姿に、座り込んでいたマリアはまるで上官が来た軍人の様に立ち上がり、背筋をピンと立てた。今にも敬礼をしそうな勢いだ。
「探しもんがあるんだが」
一瞬の驚愕はあったものの老人の姿に臆することなく、アリアもゆっくりとだが立ち上がり、彼女自身が探している物があるかどうかを聞くのか、言葉を続ける。
「この銃用の高倍率スコープは無いか?」
担いでいた自分の愛銃を老人が差し出した、傷だらけだが硬く肉厚な手に渡す。
「……」
老人は暫くの間、受け渡された銃を静かに眺める。
時折、随分と慣れた手つきで弾倉を外したり、遊底を動かし動作の確認を行う。その姿に老人にはあえて口は挟まなかったが、頭の中に一つ疑問符を上げる。
一分も経たない程度の時間で、弄り回していた老人は満足したのか、それとも使い手の使い方を見ていたのか、口を開く。
「昔だろうと今だろうと、職人による手作りが必須の狙撃銃自体珍しい、スコープなんてのは以ての外だ」
一つ断ればそれで終わりのところを、目の前の老人は無愛想な態度に冷ややかな言葉を言い放つ。気の強い人間であれば、反発する程に。
……案外、それはアリアよりも隣にいる最初こそ老人の体付きに怖気づいていたマリアがその一人らしく、噛み付いた。
「貴方の言う珍しい銃を渡したのはこっちですが、その言い方はあまりにも冷たくありません?」
いつもなら穏やかな笑顔を浮かべては、アリアのイラつきを抑え、慰めるマリアだが何がそんなに気に食わなかったのか、アリアは考えていたが今にでも口論を始めそうな彼女を止めようと一歩、前に出る。
「マリア、まだ話の続きがある」
老人は銃を持ったまま、そう言ったアリアへと目を向ける。
彼は細目を見開き、少し驚いてはいたが安堵した雰囲気を出す老人に、ひとまず敵意が無い事を確認するとアリアも心の中にある緊張の糸が解れ、一安心する様に深呼吸をする。
若干納得のいかないマリアは訝し気な眼差しをアリアと老人のどちらにも向け、黙り込む。
老人は此方へ渡した狙撃銃を差し出しながら、ぽつり、呟いた。
「……さっきも言ったがここにはない。だが持ってる人間であれば見たぞ」
アリアはそれを受け取るとスリングを右肩に通し、担ぐ。
そして同時に老人の言葉に一つ、衝撃を受ける。人生を捧げるほど、待ち望んでいた事では無いが、つい数日前にあった出来事がすぐさま蘇った。
隣にいるマリアも同じことを想像していた様で、老人への憤りなんかとっくに過ぎ去った様で軽くアイコンタクトを取り、意志を確認する……二択の選択だ。
二人はお互いの意が同じだと確認できたらしく、頷く。
そしてアイコンタクトをやめた瞬間、二人は鬼の様な剣幕と怒号に近い声で言った。
「それはどこで!?」
「どんな奴だった!?」
ほぼ同時に口に出た言葉と前のめりになる二人の体。けれど予想が出来ていたらしい老人はそれに一瞬の動揺も見せずに答える。
「詳しくは知らないが、若い男だったな。何日も前に随分と古い回転式拳銃を持った男と一緒に来てたが」
――――一言、たったその一言でアリアの背中に走る悪寒、そして覆うじっとりとした嫌な汗が、下着代わりの布と肌とを張り付かせた。
蘇るのはあの日の記憶に今でも見るあの悪夢。
思い出してしまう。二度と感じたくないあの死の恐怖を、死の足音を、可視化された死を。
「……ッ」
微かに震える両手に両肩が、アリアの愛銃を震わせ、瞼を閉ざさずとも網膜に浮かび上がる、あの情景……
まるで金縛りにあったかの様に動かなくなった体に、見開かれた眼球は『今』を移さずに彼女が復讐を誓ったあの時を映していた。
不意に体が重力に引っ張られ、落ちる感覚に囚われる。それは血に塗れ、倒れた男を見つけた時に、酷く良く似ていた。力が入らなくなり、床に座り込んだあの時。
「アリアッ!!」
現実を映さず、記憶ばかりを映し出していた目が、ふと気づくとマリアの顔を大きく映し出していた。
アリアはくらくらと纏まらない思考を無理矢理回転させ、理解の出来なかった現状を数秒ほど時間を置いてやっと理解することが出来た。
慌てに慌てたマリアの呼び声と、自身の妙に低い視線、そして視界の端にいる、カウンター越しに此方も慌てた様子で手を差し出そうとしている筋骨隆々の老人。
彼女は地面がどこなのか混乱しながらも、マリアの肩を左手で掴み、右手で太腿を押さえ支えにすることでやっとの思いで立ち上がった。
「悪い……思い出しただけだ」
脳裏に焼け付き、未だに自分を苛む光景を思い出し、マリアの心配そうな顔と呼び声に自分が出せる精一杯の言葉を返す。
「アリア、少しの間休んだ方が」
「ここで、燻る訳にゃいかねぇ。その為に旅をしてるんだ」
マリアの言葉に一寸の迷いもなく彼女は答えた。
当然のことだ。彼女が旅をする理由は単純。自身を拾った男の復讐? それもあるだろう。だが一番は――――ただ心の内にあるトラウマを排除する為に。
一生、復讐という重荷を背負う事になろうとも、幼心に刻み付けられた男という防護柵を破壊された時の衝撃は、ただ殺し合いを行うよりもあまりに大きかったのだから。
「じいさん、だから教えてくれ。その回転式拳銃を持った男と、スコープを持った男の行先を」
――――ぶっ倒れた上に、憎悪に駆られた悪魔染みた表情で、しかもアリアがイラつきながらそう言ったからか、それほど大きな動揺を見せなかった筋骨隆々の老人も、流石に落ち着き払った態度を通す事は出来ていなかった。
「まさか……名前が出ただけでここまで拒否反応が出るとは思ってなかった」
二人は店を出てガラクタやら銃やらその部品を扱っていた出店通りの一角を通り過ぎ、このコミュニティの中央にある十字通りを徒歩で歩いていた。
アリアが倒れてからもそう、時間は経っていない。
「でも本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫さ。言っただろ、ここで燻って止まる訳にいかないって」
隣を歩くマリアが覗き込む様に此方の顔を見る。表情は困惑してる様だが、当の本人であるアリアは笑顔を浮かべ、そう答えた。
「……無理ばかりしないでくださいね」
――拒否反応自体は昔からあるが、マリアがこれだけ過剰に心配するという事はそうそうなかった。
もしかすると自分が今日あれだけ異変のあったマリアに優しく声をかけたからか、と彼女は思考する。だがすぐに的外れか、と心の中ではあるが訂正した。
「私の事は気にしなくていい――それよりもあのじいさんの話が本当かどうか、だ」
十字路を過ぎ、様々な物……例えば家具や無線機、やはり旧世界の技術で作られた物ではあったが、銃や刀剣などの武器というよりは日常雑貨と言われる物が多く、店先の腰辺りまである土台に並べられては、そこの店主が通りを歩くここの住人や疎らに歩く旅人を呼び込んでいた。
だが目的の決まっている二人はそれらを完全に無視し、ある場所へ向かっていた。
「事実かどうか、確かめる為に歩いてるんですよ」
心地よい出店通りの喧騒を背中に、二人はそれを見る。
半ば……闇に包まれ、下から仰ぐそのマークは見え辛くなっているが、形、大きさ、高さ、全てが移動中に見た物と一致している。
既視感ではない。ましてや幻でも、影でもない。
それはここに向かう道中、車両のガラス越しにあまりにも強すぎる主張をしていた、聳え立つ煉瓦造りで箱型の塔。
表裏対になるように描かれた暗い紺色で塗られた十字のマーク、それが二人の頭上で明かりによって怪しく照らされ、風に吹かれていた。
「なんだお前ら、旅人か?」
十字通りを真っ直ぐ歩き、辿り着いた場所――――ここのコミュニティと荒廃した荒地が広がった外界とを隔てながらも、唯一行き来の出来た巨躯が恐ろしい扉よりも、遥かに小さいものではあった。
だがその鉄扉前には三人の男達が立っている。辺りを注意深く見回し、明らかにその場を守っている様だ。
手には小銃を持ち、外で出会った自警団と名乗り、顔面に大きな傷を持った男と同じなのだろう。
……そして二人は一つだけその光景に違和感を覚える。
「ここって……」
マリアが改めて見るそれの存在感に、言葉を失い頭上を仰ぎ見て、ぽつりと言った。
「あぁ、お前らもここの目印を見てやってきた口だな?」
彼女の反応に、自警団の一人が納得した様に言い、何処か誇らしげに男は語り始めた。
「旧世界の言葉で(びょういん)という場所だ。怪我やら病気やらを治してくれるぞ」
「怪我や病気を……?なんでもか?」
「勿論だ。旧世界の失われた技術の一部を蘇らせて出来た場所だからな」
男の言葉に感心する素振りを見せながらも、抱いた違和感を問う。
「他は見回りだけだが……何故ここだけ見張りがいるんだ?」
それだけここが重要な施設なのか、疑問と違和感を感じた上での質問であったが、聞く程のものでも無かった事に彼女は気付く。
目の前にいる先程から説明をしてくれている男よりも先に、アリアはそれを口にしてしまう。
「……目印だからか!」
このコミュニティを表現するにはあまりにも目立ち過ぎるマーク。
そして彼女達がここを目指し走っていた時に、思わずあれを見て口走った言葉。殺人に強盗や強姦、無法地帯をいい事に好き勝手をする連中、旅人だけでなくそういった輩も引き寄せるからだろう。
しかもここが旧世界の技術を蘇らせたとなれば余計に欲しがる連中は増える、価値さえ分かっていれば、と思わず一人で納得をする。
「説明するまでも無かったなぁ。まぁ大体考えてる通りさ」
男の反応に、アリアは隣にいるマリアの様子を横目で窺い、ここの巨大さにただただ圧倒されていたのが「欲しがる連中がいるからですか」と小さく呟いているのを確認する。
「……おいトム、あんま喋ってんじゃねぇぞ」
長く話し込んでいたのが気に食わないのか後ろの二人の内の片方、胸ポケットの中から雑に手巻きの煙草を取り出し、火を点けては白い煙を吐いていた男が言った。
「おっとこりゃ悪い。喋るのが好きなもんで、ついつい話し込んじまう」
トムと呼ばれた目前の男は、短く切られた自身の髪を申し訳無さそうに撫で、だが表情は人懐っこさそうな笑顔を向け、答えていた。
ただ、それがあまり気に食わないらしい煙草の男は小さく舌打ちをすると次に、トムの肩にわざとらしく肩を当て、更に彼よりも前に一歩出ると、話していた三人の前に立ち塞がり、異常に低く、唸るような声と高圧的な態度でこう言った。
「いいか?旅人だろうが賊だろうが、基本的にゃ外界からの来訪者ってのは俺達からすれば喜ばしいことじゃねぇ」
言葉の途中で、人目に付く色の抜けた真っ白な髪を持ち、生い立ち故に鋭い目つきを持つアリアへと詰め寄り、小銃を左手で持つと遊ばせている右手の人差し指を彼女へと向けていた。
「おいクリス!!」
トムはクリスのその行動に、肩を強く掴み制そうとしていたが、それに従う様な男ではない。
「てめぇ……その目つきは何だッ!!」
しかもクリスの行動はそれだけには留まらず、黙っているだけのアリアが、正常な判断を狂わせる程にこの上なく不愉快でもしくは虫唾が走る程に、気に食わないらしい。
彼女の野戦服の襟に手が伸びかけていた。
「……やめとけ、クリス」
トムの制止さえ聞くことが無かったクリスは、今までただ傍観していただけの一人の男に、そう言われると狭まることを余儀なくされた視界を取り戻していた。
「隣の嬢ちゃんもその手を戻せ」
――クリスの右手がアリアへと伸びた時点で、逆にその手を掴もうとしていたマリアの手を、三人目の男が見ると彼女から発せられるその殺気に、間髪入れずに止めていた。
「私は一向に構わないが」
肩に背負う銃を構える訳でもなく、ましてや戦闘準備をする訳でもなく、アリアはごく自然体で、そう伝える。
二人の本意ではなかったが、ここで舐められればこのコミュニティでの動き自体が制限される可能性があったからだ。
勿論、頑とした態度も制限される可能性はあったが、今回ばかりは彼女達に敵対の意志は無い。
向こう側が勝手に暴走を始めただけだ。
「アリアへと手を出すのであれば、覚悟をする様に」
「……っつうことだ。クリス、今度ばかりは俺達に非がある。この二人が問題を起こした訳でもねぇんだよ」
アリアとマリアの非を否定するが、決して最後までそれを口にすることは無かった。
当の本人であるクリスは、三人目の男からの声によってマリアから発せられている殺気に気付き、うっすらと額に汗を掻き始めていたが、それでも納得が出来ないのか咥えていた煙草を右手で潰す様に握り、やり場を失った怒りを込めると地面に激しく叩き付けた。
通りはどこも電気によって明るいが、それでも赤色した火の粉が叩き付けられたと同時に周囲に飛散し、儚く消えていくのが見えた。
「ったくもう、どこ行くんだよ……」
クリスはそのまま二人が歩いてきた通りを歩いて行ってしまい、人混みへと消えてしまう。それを見ていたトムは困惑気味にそう呟いていた。
けれど今までも何度かあるのか、決して彼の背中を追う事はない。
「すまなかったな、嬢ちゃん」
三人目の男は改めて、という感じで詫びの言葉を口にする。
「言っただろ。私は構わない」
「……それもそうだが、隣の嬢ちゃんがあまりにも悪寒の走る殺気を出してたもんでね」
飄々とするマリアをちらと見やると再びアリアへと視線を戻す。
本気の殺し合いが始まる事を懸念しての事だろう。アリアとしてもそれほど気にはしていなかったが……
「まさかあれが平常運転ではないですよね?」
アリアが口にする前に、マリアが目の前にいる二人へとそう問いかけた。けれどその問いは至極当然で、どこかへ行ってしまったクリスという男、あまりにも二人を敵視し過ぎていた。
それでいて仲間だというのに追おうとしないトム、二人からすればどう考えてもおかしな状況だ。
――目前の男達に不信感があっての問いも、予想の結果は半分正解で、半分は不正解だった。
「……ふむ、そこを説明するとしたら数年前の出来事を話さなくちゃならん」
「時間は有限だが、参考までに聞きたい……マリアは?」
「私も一応聞きたいですね」
彼女達二人が肯定の意を示すと仕事の休憩がてら、という事なのか男は持っていた小銃を自身が守る鉄扉へとほぼ垂直に立てかけ「自己紹介だけはしておこう」と呟き、深呼吸をすると言葉を続ける。
「俺の名前はジョン、ここの自警団警備班班長だ」
そう言うとジョンは親指を後ろにある鉄扉に向け、自身の身分を明かす。
見た目で言えばトム、クリスよりも遥かに老けており、物静かな彼の雰囲気は、ベテラン兵としての風格が漂っている。
事実、彼女達の目に映る彼の銃を含める装備品は、幾ら新品が無くともどれも使い手の愛が見えるほど年季が入っており、使用感があった。
「自己紹介の後にやるもんじゃないが、今一度言おう。俺の管理下にある部下が、申し訳ない事をした」
ジョンは雰囲気に似つかわしくない弱った表情で他意の無い、純粋にそう思っているらしく、頭を深々と下げながらそう言った。
「……もういい。そこまで謝るのであれば、最初から止めれば良かっただろ」
けれどそれを見て少しうんざりしてるのか、苛立ちながらアリアは答えるが、マリアは彼女の手を肘で突っ突き、少し呆れた様に睨んだ。
どうやら話が進まない事に対して言った様だ。
「奴があそこまで過剰に反応するとは思ってなかったんだ」
そう言って頭を上げ、二人の様子には触れずに言葉を続ける。
「最初に問いたい。あんたら二人は『外を見たか』?」
――――ジョンのその質問は、アリアが怪訝な顔をするには十分だったが、隣にいるマリアは反対にどこかそれに見当がついてる様な、腑に落ちながらもその事実に驚きを隠せない、そんな表情をしている。
そしてあまり抑揚の無い声でそれを口にした。
「外にいた子供って……」
マリアのぽつりと呟かれた言葉にジョンは答える様に頷き、二人の様子にアリアは目を見開いて驚愕した。
それもそうだろう。このコミュニティへ入った時……つい一時間もしない前にマリアの口から、コミュニティ入り口の、鉄扉が閉まる数秒の間に『それ』を見たという話を聞いているのだから。
話しか聞いていない彼女は、半信半疑、半分は疲労による幻覚と半分はこの世のものではない何か――
「だ、だがそれとあの男と何の関係があるんだ?」
ズレかかった思考を、幽霊などいないという半ば強引な思考に持っていくと、本来の話の核に動揺しつつも戻す為に言った。
「今じゃクリスが言った様に旅人にすら厳しい態度を取る様になったが、数年前までは違っていた」
少し悲し気な表情を浮かべ、ジョンは言葉を連ねる。
「確かに外界連中とのイザコザはあったがそんなもの気にも留めなかったが……ある日、それが起こった」
「それ……?」
マリアは相槌混じりに言葉を入れ、彼は大きく頷いた。
「ここは旧世界の医療技術によって成り立っている。傷病者ってのはどこにでもいるもんでな、ある病気にかかってた男が来たんだ」
その時の事を思い出しているだろう。ジョンの言葉は次第に弱くなってきているが、最後は強調するように語気が強くなる。
トムはそれを見ると、ジョンに近寄り、地面へと座る様に促したが、彼は顔色を悪くしながらも立ったまま、続ける。
「――――名前は黒死病、旧世界でも広まったことのある、多くの人間を殺していた病だ」
その憎悪すべき病の名を口にすると、弱々しくその場に座り込んでしまう。
ジョンの顔にはこれから先、二度と拭えないであろう後悔と憎悪の感情が表情に映し出されていた。けれど次の言葉に彼が何故そんな顔をするのか、そしてクリスの反応に、二人は納得して、しまう。
納得を、するしかなかった。
「だけどな、そいつは旅人なんかじゃねぇ。ここを羨ましがり、妬んだここら一体瓦礫の中に潜んでる連中だったのさ」
――溜息の様に吐いた言葉に、強く握りしめられ、血が滲む彼の拳が何も出来なかった自分の無力さを憂いていたのだ。
「分かってほしい。俺は誰かを失った訳じゃないが、奴は……クリスは愛する者を失ってる」
振り絞り、やっと出た彼の言葉は二人を納得させるには十分過ぎた。
クリスの出来事で多少、憤りを感じていたアリアも、彼の言葉が出尽くした時にはもう既に心の底にあった憤りも霧散していた。
「……ま、今回の事は気にしないでくれ。私達には関係の無い事だが、その気持ちは痛いほどわかる」
そう言うとアリアはジョンに手を差し出し、地面に座り込んでしまった彼を立たせようとする。
彼女の言葉は決して嘘ではない。手を差し出したのも彼に同情した訳でもなく――ジョンの言葉の端々から伝わる感情は、復讐にも似ていたからだった。
酷くその病を、病を持ってきた男を、何も出来なかった自分自身を恨む様な感情の起伏を感じたからだ。
「すまない……」
ジョンは申し訳なさそうにその手を取ると立ち上がり、鉄扉に立てかけられていた小銃を再び手に取る。
休憩は終わり、という事だろう。トムも彼の様子に少し安堵の表情を浮かべている。
「いや……時間を取らせてすまない。ここに用があるんだろう?」
ここ、という言葉とジョンの親指が彼の背後にある病院を指し示し、二人は反射的に頷く。
「あぁ、それに最後に聞きたい事がある」
ジョンはトムに指で何かの合図を出すと、トムは自分の防弾プレートと腹部との間に手を突っ込み、弄る様な仕草を見せ、一枚の紙とペンを取り出す。
「良いぞ。折角年寄りの話に付き合ってくれたんだからな……その前に二人の名前を教えてくれ」
「アリア……アリア、キャピタル」
「私はマリア・クトゥノフと言います」
アリア、マリアと順番に答えるとトムはそれを紙に書き込んでいく。
どうやら出入管理の為らしい。徹底しているという事はそれだけここのコミュニティにとって重要な施設だという事だ。
トムが二人の名前を書き込んでいるうちに、アリアは少し眼光を鋭くさせながら、聞きたかった質問を行う。
「ここに長距離狙撃用のスコープを装着した男と回転式拳銃を持った男を見なかったか?」
アリアにとって人生最大の目的。復讐、殺す事だけが目的の、その男の風貌を蘇る記憶の通りに口にした。
――すると一番に反応を示したのは以外にも、トムの方だった。
さらさらと動いていた手が一瞬止まり、彼女が瞬きをした後には何事も無かった様に紙に向かう手が動き出していた。だが一方のジョンはなんの反応も示さずに、ただ否定しただけ、それに気づかないマリアとアリアではなく……二人は一瞬、顔を見合わせた。
付き合いが長くなると、しかも死地を潜り抜けて来たとなれば、目を見ただけで気持ちが分かる様になる。
それでもトムの行動はアイコンタクトをするまでもなく二人の意見は一致していた。
「では、入ってもいいですよ」
一瞬の反応を見せたトム、彼が紙面に必要事項を書き終え、此方へ意識を向けたその刹那に――――問い詰める。
「トム……でしたよね?」
「ん?そうだけど」
マリアがトムとの距離を詰める。逃げられない様に。
「狙撃用のスコープを持った男か回転式拳銃を持った男、知ってますよね?」
「いや、く、詳しくは知らな……いてっ」
――――マリアがトムの眼前にまで迫り、断定的な言葉を投げかけ、アリアがそれに加勢をしようとしたその時、後ろに下がりつつ、誤魔化し気味の笑顔を浮かべていたトムの背後。
……彼らが守っていた錆びだらけの鉄扉が、随分と耳障りな高音を辺りに鳴らし、内側から外へ開いていた。
それも普通に開けられた訳では無い。問い詰めれていたトムの重心が背後にありながらも、大人一人分を軽く飛ばす勢いで、だ。
「トムさん!?ちょっ……」
瞬間、バランスを崩したトムに押される形でマリアは地面へと倒れ込む。
その一瞬の隙を、この場の混乱を他所にそれとも意図してか、小柄な人影が大人四人の間を素早く駆け抜けていった。
「あの小僧……!」
大通りを真っ直ぐに、あの巨大なゲートへ向かうその人影の後姿を見たジョンは、鋭く貫く様な忌々しげな眼光を人影へ向け、持ち直した小銃を構えた。
(ルールを破れば即射殺……!!)
ジョンの行動を見たアリアはゲート前に聞かされた言葉を思い出す。
突然の事で人影に視線をあまり送っていなかったアリアだが、それでも必死に逃げようとしている小柄な……少年の後姿に、そしてすれ違いざまに見えた両手に抱えて持つ医薬品の数々に――――反射的に叫んでいた。
「マリアァッ、絶対に殺すな!!」
「お前ら何を……ッ」
アリアの怒号にジョンは一瞬だけ彼女へ意識を向ける。前方へ走る少年の背中に合わせていた照準を、何を勘違いしたのか、此方に向けて。
マリアは上に乗っかっていたトムを持ち前の腕力で退け、背中に背負う荷物をその場へと置き、アリアの言葉と同時に彼女は走り出し、とんでもない瞬発力で、少年を追っていた。
「……殺すな、そう言った以上は私もそうしなきゃならん」
マリアは肩に担ぐ狙撃銃を手に持ち替え、ぽつりとそう呟いた。
――――このコミュニティを目指すにあたっての目印、紺色の十字が描かれた煉瓦造りの四角い塔。
コミュニティを囲む壁の内側から漏れ出た電気による光は、外へ漏れ出ることなく、まるで手に持つ闇を照らす懐中電灯の様に、夜空に映る分厚い雲を白く浮かび上がらせた。
「言ってた以上に随分と高いし、風も強いな」
縄梯子を昇り切り、一つ大きく息を吐いてジョンの言葉よりも、予想以上に強い風が吹き、高低差がある頂上に、聞こえる訳が無い愚痴を溢すが、その動きにはなんの躊躇もなかった。
だが言われた通りだった事もある。それはこの場所が鉄板を敷き、ただ固定されただけのまっ平であることだ。
いつも通りであれば上着を脱ぎ、ごつごつとする地面に膝を、それか肘を守る為に敷くのだが、必要なさそうだ。
もう一つ、光り輝く下からの光に、塔の頂上までは完璧に照らす事は出来ていない様で、真っ暗な影が出来ている。これも言われた通りだった。
アリアは肩に担いでいた狙撃銃を改めて手に持ち替え、屋上とも言える場所の縁に立ち、片膝立ちになって大通りへと視線を移す。
調整などは緊急事態が故に出来ない。
二人がどこにいるのかを確認する為、それともう一つ別の確認の為に歩いてきた大通りに目をやる。
……目的は分からないが、ここを昇る為に設置された簡易的な縄梯子を使って一分強で到着させている。
マリアが少年の逃走を妨害しているおかげか、十字の交差する中央地点に二人はまだいた。通りにも人が多くおり、それも相まって逃げるのに苦労をしているのが彼女の目に映る。
ゆっくりと呼吸をしつつ、その場所を照星と照門越しに覗き込むが、縄梯子を昇っている時は真っ暗な空しか見えていなかったからか、暗闇に慣れた目を刺激する明るさに、多少の眩しさを感じアリアは目を細めるが、閉じる訳にもいかない。
「距離は三百程度……」
自身が選んだ場所なのだから我儘を言う訳にもいかず、心の中で歩いてきた自身の歩数を思い出す。
精確ではないが、一種の指標になるそれを頭に人の波が一層薄くなった瞬間――――引き金を引いた。
「外したか」
乾いた破裂音が自身の耳に、辺りの闇を斬り裂く様に鳴り響く……だが、それは少年のどこにも命中せず、けれど狙った右足を掠めて地面に砂埃を上げ着弾する。
即座に小指と中指でレバーを掴み、遊底を引き戻す。排莢口から黄金色の空薬莢が地面である鉄板に落ちていき、小気味の良い音が鳴る。
「……次は外さない」
再び照準を合わせ、少年の足を真っ直ぐに見るが……ふとアリアは少年が走る先を見た時に目標は小さいが、当てる事さえできれば無傷で捕まえられる方法を思いつく。
距離があろうとライフル弾が足にすら当たれば、病院があったとしても必ず痛みが伴う。
出来れば痛みを与えたくない、そう考え――――アリアは建物を、辺りを照らす街灯へ照準を向け、躊躇いなく撃つ、勿論人々が逃げ惑うとしても、誰にも当たらない様に。
背後から聞こえる銃声、辺りの人々は一度目で狼狽し、二度目のそれを聞くとバラバラに逃げ惑い始めた。
それを収めようと自警団員達が収拾しようとする。
目の前を走る少年はその状況を上手く使い、全速力で走って逃げるが……銃声の後に銃弾が前方にある街灯。裸電球に集光する為の鉄の皿を乗せ、剥き出しの電線によってぶら下げられている簡易的なそれの、電線を切る様に飛来していた。
明らかに少年の頭上へ落ちる裸電球に鉄皿。高さはそれほどない。銃弾が当たるよりも遥かに安全策だ。
勿論多少の痛みはあるだろうが、足を止める程度の衝撃だろう。
(流石ですねアリア)
心の中で称賛の声をかけ、アリアの思惑通りに……少年の頭にその二つが落ち、足を止めた刹那……マリアは飛び掛かり、少年の体に密着する様に腕を掴み、素早く彼の手を背中に回させ、関節を極めると動きを封じさせていた――――
「くそっ……くそっ……」
ゲート手前で捕らえられた少年は、後ろ手に縄で拘束されると悪態を吐きながら地面に落ちた医薬品とパックの中に入った青くぼんやり光を放つ液体を、憎らしげに見つめていた。
乱雑に抱えられ、地面に落ちた衝撃で中身が散乱する物もあったが、その惨状と逃げた少年。
本人へ聞くまでも無く、病院へ傷病人として侵入し、錠剤の入った瓶や液体の入った四角状の袋。それらの医薬品を盗み、逃げようとしていた様だ。
だが、マリアとしては一つ疑問があった。この大通りを走って来たまでは良いが、この場所は高い壁と巨大な鉄扉によって外界とは隔絶された場所。
突破するには自警団の銃撃を掻い潜り、壁を何かで這い上がるしかない。
第一に巨大な鉄扉を突破するのは無理だろう。ゲート前には数人の見張りが居て、普通に考えれば連絡は幾らでもされる筈だ。
「君、どうやってあの扉の突破を?」
座り込み、ぶつぶつと何かを呟く少年へ、マリアは自身の思考の限りでは無理な状況を、どう打破しようとしていたのか、問う。
「……俺には、俺には助けなきゃならない妹がいるんだ!」
だがそもそもそんな考えなど無かったのか、それともここで口に出来る内容ではないのか――どちらにせよ、少年は答える気など無いらしい。
マリアの問いに俯いていた顔を上げるが、目には一杯の雫を溜め、強く訴える様にそう言うだけだった。
「マリア」
どうしようか、と頭を抱えそうになったところで少し息を切らせ、大通りの向こう側にある塔方面から駆けて来るアリアが無事を確かめる様に彼女の名を呼んだ。
それを追う様に後ろからは十人弱の自警団員達が来ている。全員が同じ小銃を持ち、十人弱の中にはマリアの銃声を聞き、集まった連中もいるんだろうが、その複数にはジョンとトムもおり、アリアを捕まえた様子が無く、説明は済んでいる様だ。
「お前、なんでこんなことをした?」
一人の団員が少年の傍に散乱する薬を怒気の籠った視線を一瞬送り、低く冷たい声をかけ、アリアよりも前に足を踏み出し、近づく。
流石に既に無力化され、逃げる気を失った少年を撃つつもりは無い様だが、その質問に答えずにすすり泣くだけの少年に、男は一切の躊躇いを見せない一挙動で銃床を向ける。
少年の顔面をそれで殴る為だ。
――マリアは自身の行動に、自分ですら驚く。
気付くとマリアは、男の暴力から少年を守る様に抱えていた。同時にアリアが銃床を向けた男の左肩を引っ張り、足を刈る様に蹴った。
男は突然重心が背後に傾き、背中を強く打つ様に転び、それを生まれつきなのか鋭い眼光で見下ろし、アリアが言葉を口にする。
「とっ捕まえたのは誰か、言ってみろよ一介の兵士」
背中に走る衝撃と痛みで男は咳き込むが、キレやすい性分の様でアリアの挑発的な言葉に一気に頭に血が昇ったらしい、顔を真っ赤にさせながら男は拳を振り上げた。
「ちゃんとここを狙え」
アリアは鋭い目つきに、挑発的な半笑いをして馬鹿にする様に自分の顔面に指を差す。
そこまでの事を行って、彼女が殴られる訳もなく、頭の中で全ての動きをシミュレートし、反撃までする準備をしていたが……意外な人物が拳を振り上げた男を止めに入った。
「うちの班じゃないだろうが、止めとけ。お前一人じゃ間違っても勝てん」
この騒動、声を張り上げたアリアに対し疑いの目を向け、更に銃口を向けたが勘違いと気付き、アリアの質問通りに塔の頂上という情報を教えた男、ジョンが背後から振り上げられた拳を抑えていた。
トムはそれに若干の戸惑いを見せていたが、男を落ち着かせる為か宥める様に言葉をかけ始める。
「それに彼女達が言った通りだ。ここでは我々がルールの代わりとなるが、捕まえたのは俺達じゃなく、そこにいる二人だ」
その場にいる複数の自警団員に向け、そう声を張るジョン。
筋の通った言葉だ。ルールを犯していない二人に対しての暴力となると、自警団としても分が悪いという事だろう。
けれどそれでは他の自警団員が納得出来ない、そう思ったのか……ジョンはある言葉を続けて口にした。
「これは重要施設警備班班長として「市長」にどうするか、直接聞こうと思う」
最初の言葉に文句がありそうな男達も、その言葉を口にした瞬間に、悪態は吐いているが半ば強制的に納得したらしい。
バラバラに、それぞれの持ち場へと戻っていく。
……けれど、二人にしてみればジョンの言葉に気になる単語が出てきた。
「市長……?」
マリアが呟いた。
あの場にいた誰もを納得させた、魔法の単語を。
少年が起こした騒動のせいで、トムのおかしな挙動について問い詰めるのを忘れた事を思い出したのは、少年を捕まえた功績、として病院内部の一室を寝泊まりに使って良いと言われ、案内された時だった。
ジョンの案内であったおかげで、それをマリアが口にするとあっさりと彼の事を教えてくれた。
「トムなら明日非番だ。トムの事だから、銃器屋に居座ってると思うぞ」
どうやら武器やら弾薬やらの知識を詰め込むのが好きな様で、ジョンはそんな事まで口にしてしまったが、上司として大丈夫なのだろうか、と一瞬不安になってしまう。
当の本人は気にしていないのだから大丈夫なのだろうが、と思考する。
「病院側には通してあるから大丈夫だ。ついでに俺の責任で二人共あらゆる怪我病気を治す、診察も行ってもらうように手筈を整えておいた」
ジョンがそこまで言ったところで異様に優遇過ぎる対応に、二人は目の前にいる男に思わず疑いの目を向け、それだけでは留まらずマリアが口にしてしまう。
「あの、なんでここまで……?」
アリアからしても一言で言えば不気味、彼があの場で彼女達や少年を庇う様な動きを見せたのも、少年の身柄を預かる、と言い出したのも何か考えがあっての事ではないのかと邪推をするが。
「あの少年は二日前に来て、色々と私の話を聞いてくれてな、言わば友達みたいなもんさ」
気恥ずかしそうに、いい歳をしてそう答えるジョンに、二人は邪な考えなどしている様には見えなかった。
それに納得と同時にアリアの頭の中に、少年が病院の扉を体当たりで開けたあの一瞬の記憶が蘇る。
ジョンは銃口を少年の背中に向けるだけで、すぐに引き金を絞らなかった。どちらにしても射殺はしていただろうが、大なり小なり、ジョンには迷いがあったのを思い出して感じる。
そしてその行動を見たアリアがマリアへと叫んだ時、即座にジョンがアリアへ銃口を向けた……それに対する謝罪と感謝という事だ。この優待遇は。
「それじゃ、出る時は中にいる警備に声をかけてからここを出てくれ。どこにいるかは見ればわかる」
そう言って病室と呼ばれるこの部屋の扉を閉め、足音をコツコツと鳴らし、持ち場へと戻っていくジョン。
改めて、というよりはジョンの不思議な行動の意味が分かり、やっと他に注意を向ける事が出来る二人は、真っ先に病室を見回していた。
「二人部屋らしいが、案外広くて綺麗だな」
第一に感想として出たものは殺風景という言葉。
次に外観の巨大な壁の様な物だ。薄汚く、罅割れが多く入った壁ばかりでまるで崩壊したビルのようだったが内側の壁は白い塗料が塗られ、罅割れもそれほど目立たない。
少しだけ、天井にある細長いパイプ状の電灯に反射する白い壁は眩しいが、清潔に見える。所々その電灯も無い個所があって薄暗さもあったが。
何よりもこの部屋を殺風景たらしめるのが、外観を見た時に感じたまるで外界とを仕切る壁。要するに窓が無いという事だ。
入り口を一つにさせ、防衛時に有利にさせる為か、はたまたこの場所で悪さを行った者の逃走経路をここだけにする為か。
そんな思考も、二人にはあまり関係は無い、悪さを行うつもりなどないからだ。
部屋の眩しさにも目が慣れてしまえばどうという事も無く、何よりそれ以上に二人の目に飛び込み、感じた事もない手榴弾が至近距離で爆発した様な衝撃を受けたのは――
「これだ!!これこれ!!」
「久しく会えなかった……ベッド!!」
――二つのベッドは隣り合わせではなく一定の距離が空いているが、白く清潔で飛び込みたくなる程にモフモフとした触感が、触らなくとも分かる目に伝わるベッドのもっふ感。
他に埃一つない床とベッドの片隅に置かれた二つの空棚。誰かが毎日掃除をしている様で見る必要も無いが、二つあるベッドにも皺一つ寄らず、顔を近付けるとお日様の良い香りが鼻腔を擽る。
このコミュニティに入る前に、車中泊にいい加減嫌気が差し、どうにかベッドに横になりたいとぼやいていた二人。
それが叶った事が嬉しかったのだろう、マリアは即座に荷物を床に投げ置くとベッドに飛び込み、体を包み込む柔さに、いつ頃からベッドに触れていないのかを考えるが、早くも意識が飛びかけていた。
「マリア、まだだ。先に風呂に入ろう」
アリアはそんな幸せそうなマリアに、少し申し訳なさを感じつつも、部屋を見渡した時に見つけた「風呂」という文字を再度見て、マリアの体を両手を使って起き上がらせる。
けれどそんなお節介はいらなかったみたいで……
「風呂ッ!!」
これもまたここに来る前に話していた単語が耳に入った時点で、半ば叫び声に近い嬉々とした声に、目をキラキラとさせて飛び起きていた。
「そこの壁に矢印と一緒に書かれてるぞ」
長い付き合いでありながらそんな見た事の無いマリアの姿に、若干たじろぎながらも指を差す。
紙が貼られてる場所は間が空けられ、壁に沿う様に縦に置かれたベッドの向かい側の壁だ。ベッドにさえ横になれば見える高めの位置。
だがよくよく見るとその紙は随分昔に貼られた紙らしく、所々が破れ、文字も掠れ始めており、先に確認だけはしておこうとアリアは立ち上がった。
紙があんな様子では矢印の先にあるガラス張りの戸の先がどうなっているのかが気になってしまう。
「ちょっと待ってろ。私が先に様子を見てく……」
飛び起きたが、ベッドの上でもぞもぞしていたマリアに声をかけ、視線を送るが――そこには既に肩口まで切られた黒く艶のある髪を乱し、決して幼さなど無い雰囲気の中にある膨らみかけた胸部に、普段直接太陽の光など長時間に渡って浴びる事が無いからだろう。
半透明で透き通る様な白さに瑞々しくハリのある妙な色気が漂う肌が基本の、傷痕だらけの上半身と引き締まっているが、少し脂肪の付いた弾力性のある太腿に強くしなやかな脚部を露出させており、今下着に手をかけていたところをアリアは見てしまった。
ベッドでのあの音の正体はその行動で、アリアは予想すら出来ていない。
(もぞもぞしていたのはそういうことかッ)
マリアの動きに納得はするものの、友人でもあり、死地を共に掻い潜って来た戦友の、見た事が無い訳では無いあられもない姿に自分の心の隅にある何かが刺激されるのをアリアは感じる。
視線を逸らすものの、妙な色っぽさがある今見た映像を頭の中で再生してしまい、顔が赤くなり、思考がぐるぐると回っていく。
同性だというのに、見た事がある筈なのになぜこのタイミングでそう思ってしまったのかを考えながらも、なんとかそれらを誤魔化そうと彼女はマリアの返答を聞かずに立ち上がり、矢印の先にある浴槽に通じるガラス戸を開けて入ってしまう。
入る、と表現したものの、実際には外から浴室内を確かめる為に戸を開けただけだ。
アリアの戸惑いと誤魔化しの入り交じった、挙動不審な行動はマリアを訝しませるには十分過ぎた。
「アリアさん?」
背後から聞こえて来たマリアの、自身の何かを疑う声にアリアは反射的に肩をびくつかせる。
バレたか……! と考えさせる微妙な間を数秒空けさせ、彼女がアリアへ再び問う。しかも、気付かないうちに背後にまで迫っている、という意地悪まで行って。
「同性ですよねぇ?なんで耳まで赤くさせてるんですかぁ?」
艶めかしい声色、自身が女である事を理解している声色だ。次にわざとらしくひた、ひたという素足の音を立て、更に距離を縮めて来る。
――――アリアは光速でぐるぐる回っていた思考をどうにか正常に戻させた。
マリアには顔が気恥ずかしさで真っ赤なのは既にバレている。絶対絶命のピンチ、どんな死地よりも恐ろしい戦いがすぐ背後にまで迫っているのは理解出来ている。
そこで話を逸らそうとアリアは口を開く。
「ほ、ほほら中は意外に綺麗だぞ」
震える手でガラス戸の横に設置されていたスイッチを押し、電気を付ける。
はっきりと見える様になった浴室内も二人がいる病室と同じで毎日手入れされているらしく、汚れ一つ、カビ一つ見えなかった。
それを伝えようと背後にいるマリアに声をかけるが。
「そうですねぇ……じゃあ一緒に入りましょうかぁ」
一際マリアの気配が近くなった、アリアがそう感じた瞬間――自身の服越しの背中に当たる丸く柔いが、中心に硬さを感じるものと人肌の温もり、それ以上に背中の肩甲骨中心にある背骨辺りに当たるマリアの熱い吐息。
彼女の行動に気恥ずかしさで汗をダラダラと掻き、冷静さを失いつつあったがそれでも確信を得てしまう。
マリアが上半身裸のままでくっついてきたんだ、と。
混乱し続けるアリアの隙をつき、後ろから腰辺りをするっと這い、しな垂れかかる様にそして服の内部へ潜る様に、回して来た腕の関節部分が、右腰に当たるのは硬い感触だったが狙ったのかアリアの骨盤を触れ、さわさわと動くと気持よさにくすぐったさが入り交じった不思議な感覚が沸き上がってくる。
彼女の指がある両手は、アリアの隠れている部分の前で組まれ、意図的に決して触れない様に動かしていた。
――――やがてそれらの行為に頭に血が昇り切ってしまい――――
「ふぁ……」
色々な我慢が限界に達したアリアは、彼女から出たとは思えない程に素っ頓狂な声を、まるで空気の抜けていく風船の様に出すと、そのまま体中から力が抜け……気絶してしまうのであった。
真っ赤な顔に目をぐるぐると回した状態で。
「あれ、ちょっとやり過ぎました……?」
そんなアリアを見る彼女は、どこか寂しげだが小悪魔の様に笑った。
「ん」
目が覚めるとアリア自身の荷物が傍らに置かれたベッドが隣に見える。
まだ軽く血が昇っている感覚が残る頭を右手で意味も無く押さえ、もう片方の手を支えとして寝かされていたマリアのベッドから上半身を起こし、立ち上がる。
ちなみにこれを引き起こした当の本人であるマリアはというと、部屋の中に姿は見えず、荷物が置かれているところから、何処かに行っている様だ。
状況の確認だけ終え、多少方向感覚のふらつきはあるが、何故自分がベッドの上で寝ているのかも理由はちゃんと覚えていた。
「すっごい恥ずかしい……」
マリアのとんでもない姿を思い出してしまい、自分の事ではないというのに両手で自身の顔を覆い、少しの安堵を得る。
けれどそれでも再び頭に血が昇って来ているのを感じ、流石に次はやばいと彼女の頭が判断した様で、友人の全裸よりも自身の愛銃の事を考え始める。
多くない弾丸を二発使っている。弾倉への弾の補充と射撃時に出るゴミなどを取り除かなければ次の射撃に支障が出てしまう。
「気分転換にやるか……」
鼻腔から鉄の嫌な臭いが出始めており、出血させる訳にも行かず、アリアは自身が使うベッド。隣にあるベッドに座り、傍らに立てかけられている愛銃を手に取って、それと一緒に弾薬の入っているポーチも手に取った。
綺麗で清潔なベッドの上でやる事ではないのは分かっていたが、彼女自身が口にした通り気分転換だ。
上着を脱ぎ裏地を表にし、表地をベッド側に敷くと慣れた手つきで愛銃を部分的に分解していく。
部品は汚れない様に敷いた上着に置き、手入れ用の道具を弾薬ポーチから取り出し、簡易的ながらも掃除を行う。
射撃後にこれを行うのは彼女の半ば癖でもあった。
復讐の為、手に取ったこの銃には引き金を引かなければならない時に、引けない事があってはならない。アリアはいつもそんな思いを込めて手入れを行っていた。
自身が恥ずかしさのあまりに倒れた事など忘れ、アリアは夢中になって愛銃の隅々までをも掃除する。
シン、と銃と道具を弄る音しか聞こえない静寂に包まれた部屋。
アリアは手元で金属と金属とが擦れる音に紛れ、気付かなかったが言葉と矢印の書かれた張り紙の先の、ガラス戸を固定する金属の番が軋んだ音を鳴らし、ゆっくりと開き始めた。
――随分と長いタオルを体に巻き、手と足と顔だけを露出させた状態のマリアが、まだしっとりと濡れている足を雑に靴へと突っ込み、未だ気付かないアリアの元へ忍び足で近づく。
一歩、また一歩と近づき、アリアの目前にまで来た時に、アリアはやっとマリアの存在に気付いた。
「び、びっくりした……!」
本当に心臓が飛び出しそうな程驚いたのだろう、右手に持っていた手入れ用の道具を落とすとその手で心臓がある左寄りの胸に一瞬触れ、マリアの顔を見ると次の瞬間には熱された水の入ったやかんの様に顔を真っ赤にさせた。
自分でも驚く程に瞬時に入れ替わる表情と感情に多少の心配はあったが、加えていつもならば見る事の出来ないマリアの小悪魔的な笑顔を向けられ、更に謝罪の言葉にアリアは動揺してしまう。
「ふふっ、さっきはごめんなさい。ちょっと調子に乗りました」
彼女の言葉に何かを答える事も出来ず、服を着ている状態では右手首からしか見えない筈が、露出している肩から下は全て機械の義手を見つめてしまう。
彼女はそれに気づくと少し恥ずかしそうに右手を左手で隠し切れる訳が無いのに、隠そうと触れた。
「ふ、風呂に入ってくる」
それにどこか愛らしさを感じてしまうものの……アリアはどうすればいいのか分からずに、逃げる様に開けられている浴室へ、服を着たまま入ってしまう。
(ど、どうすればいいのかわからんッ)
額や背中から永遠と分泌され続ける汗なんて既に気にならない。
浴室内は本当についさっきまでマリアが使っていたらしく、中は湯気が立ち込み、微妙に香る彼女の匂いとこの場所にある筈の無い柑橘系の匂いが蒸気と一緒に鼻腔を回った。
当然思い出してしまうマリアの姿に、必死に思考は別の事を考えるがそれでも隣のベッドのある部屋にいるマリアの気配を探ってしまう。
……アリアが浴室に入ってから暫くの間、その場に留まっていたみたいだが、微かに布と布と、もしくは布と肌が擦れる音が聞こえ始めて、ベッドの中に潜った音を最後に気配も音も、止まった。
「よ、良かった……」
彼女に聞こえない程の声で呟き、アリアはこれでゆっくりできると胸をなでおろす。
何故浴室でこれだけの警戒をするかというと……アリアが気絶する直前、彼女の、マリアの「一緒に入ろう」という一言があったせいだ。
けれど、これだけ待っても突撃も無く、心の内で冗談だったのかと安堵し、ゆっくりと浴室で服を脱ぎ始めた。流石に服のまま入る事は出来ない。
服をガラス戸の前に置くがてらマリアはどうしているのか様子を見ると……
アリアの目に映ったのは、一見誰もいない様に見える殺風景で寂しい白い壁が眩しいだけの部屋。一瞬マリアの事を探そうと見渡してしまうアリアだったが、考えればベッドの中に潜り込んでいたことを思い出す。
扉側にあるベッドに視線を移し、誰もいない自分のベッドと見比べると明らかに形が違っていた。
それに安心し、自分が脱いだ下着や服をガラス戸の前へ乱雑に置き、ふと考える。
「こうやって安心できるのも久しぶりだな」
つい口に出してしまった言葉は引っ込める事は出来ない。そして自分達の普段の日常を振り返り、無茶ばかりしている事に一人ながらもアリアは苦笑してしまう。
壁に付けられた丸い右と左に矢印が描かれている栓の赤色方向へと回し、一拍置いたタイミングで高めの位置に設置されているシャワーヘッドから、無数の穴に分岐された通り道を出て来る湯が、彼女のきめ細やかな肌を優しく打ち付けた。
パッと見、汚れている様には見えないが、上半身から下半身、そして排水溝の順に流れる水は、見る見るうちに自身の血、他人の血、もしくは様々な場所を這いずり回ったおかげで真っ黒に染まっていた。
「ふぅ」
次にアリアは自分の過去の結果でもある白髪も、滝の様に流れる上からの丁度良い湯加減のお湯に晒す。
此方も汚れていない訳が無く、流れるお湯は黒く再び染まる。
「……これも結果か」
自身の体が汚れているのは分かっていたが、まさかここまでとは思わなかった様だ……生きる為に人を殺し、復讐の為に延命を続けてきた彼女は、これすらも許容範囲だったがそれを目の当たりにして、少し心が揺らいだ気がした。
(あの時、復讐を選んでなければ……)
彼女は思考する。何度も、幾度も、いくらでも、何回だろうと、答えの出ない自問自答を。
繰り返しシミュレートしても、決してそうは行きつかない答えに、夢想する。
――――暫く深い思慮に意識を置き、お湯を浴びていたアリアだが、たまたま浴室で見つけた「石鹸」と書かれた容器に手を伸ばし、用途も分からずにそれで体と髪を洗った。
躊躇が無いわけではない。ただ、既に使われた形跡があり、それがマリアが使ったからだというのが分かったからだ。
最初に手にした時、予想以上に石鹸という液体は彼女を驚かせた。
容器から出たドロッとした液体など見たことも聞いたことも無く、妙に細かな泡が立ち不思議な感触が手を覆った。
恐る恐るではあるが体にそれを付け、軽く擦るとお湯が真っ黒になった様に泡も真っ黒になっていく。
そうした泡をお湯で流すと、洗った部分がただ流すよりも綺麗になってる事に気付き、全身と背中まで伸びる白髪もそれを付けると擦り、もしくはマッサージする様に指を動かした。
「匂いもついてる……」
温かいお湯のおかげで体を包み込む蒸気、そして使用した石鹸からか、体と自身の白髪から嗅いだことのある柑橘系の匂いが漂っていた。
石鹸、という物の凄さに上機嫌で浴室から出て、体を拭く為のタオル、マリアが体に巻いていた物が、アリアのベッドの上に丁寧に畳まれて置かれており、既にベッドの中で寝息を立てているマリアへ小さくお礼を言って、体を拭き始める。
上機嫌な気分を壊したくなく、下着であるパンツという名の布だけを脱いだ汚れだらけの野戦服の間から取り、それを履く。
「ふぁ……流石に眠い」
座ったもっふもふな触感のベッドのせいか、それとも色々あった疲れのせいか、すぐに意識を刈り取る様な睡魔が襲って来た。
どうにかベッドの上に置いていた野戦服の上着と愛銃の部品を組み、やっとの思いで傍らに置いて自分が寝る為の場所を確保し、煌々と点いている電灯を消す為にスイッチを探し、ふらふらしながら消灯させる。
やっと睡魔に襲われながらも、いそいそと久しぶりのベッドの中に入る。
――アリアは母親の事など覚えていなかったが、もし自分が胎児であればここは母親のお腹の中と言っていいほどの心地良さに、意識などすぐに暗闇の中に吸い込まれていた。
暫くして、アリアは自分のベッドの中に誰かが入り込んで来るのを感じ、落ちていた意識を覚醒させていた。
ほぼ全裸である彼女の、右腰辺りを触る硬い感触、そして覚えのある温もりと背中に当たる熱い吐息。
(まさか……!!)
つい数時間もしない前に全く同じシチュエーションをやられたからこその直感は、被っていた掛け布団を捲り、そこにいた人物のおかげで納得を通り過ぎ、呆れに変わってしまった。
「マリア!お前また……」
呆れと気恥ずかしさ、そしてマリアのしつこさに怒りが込み上げ、荒げた事のない声を荒げようとしたその時に――――アリアは気付いてしまう。
扉側ではない、その正反対を向いて眠っていたアリアの背後からベッドに侵入してきたマリアへと向いた視線。
……唯一、廊下と病室とを繋ぐ扉の隙間から、優しく差し込む光に背後からではあったが照らし出されたマリアの表情は、静かに黒い瞳を開き、玉の様な雫を浮かべていた。
その光景に、叱責しようと何を言おうかと考えていた思考は止まり、思い浮かべていた言葉も衝撃に忘却してしまう。
「あ……え……」
下着は上下身に着けており、ただ薄着だけであったがアリアは何を答えようかと思考よりも口が反射的に動いていた。困惑による言葉にすらならない言葉だったが。
「ごめんなさい……寂しいんです。もう自分の感情をどう表現すればいいか分からないぐらい」
目前の戦友が、申し訳無さそうに、けれどわざわざ自分の下半身辺りに馬乗りになると身を乗り出して、溜めた水滴をぽろぽろと溢し、やっと絞り出せた声でそう言った。
白く絹の様な頬は水滴を弾き、ゆっくりと滴り落ちていく。マリアはそれを拭おうと左腕で擦るが、両目から最初に零れ落ちた大粒の一滴は顎で更に大きな雫になり――アリアの露出された下腹部に小さな粒となって砕けた。
戦友の感情の吐露、それが本気である事は、理解できていた。だが何故だ? どこに寂しいと思う個所があったのか、アリアは考える……やがて思考は、思慮は、一つの答えに至る。
特別難しさなどない。捻りなど以ての外だ。
「ははっ」
数々の武装をしたバンディット達を持ち前の能力で屠って来た戦友も、隣で寝食を共にし、可愛らしい笑顔を浮かべる友人も、結局は自分と同じだったという結果に、この場には相応しくないが、笑みが零れてしまう。
その笑みをどう受け取ったのかはわからないが、マリアはショックを受けた様に涙で濡れる目を見開き、おまけに口を半開きさせていた。
「いや、すまん。ただ私と同じだったんだと実感させられちまったんだ」
横にさせていた上半身を起こし、マリアとの距離を近付けさせる。
思ってもいなかった言葉と行動に、感情の移り変わりが分かりやすいマリアは、無意識に首を傾げ、一体どういうことなのかを思考し始める。
……だがそんな時間はアリアからすれば勿体なく、無駄な時間だ。
「私の復讐の相手が見つかりそうで、この旅が終わるかもしれない……そう思ってるんだろ?」
彼女に考える時間など与えずに、アリアは答えを口にし、マリアの体を下から抱き寄せた。
彼女の心の中にはもちろん未だに気恥ずかしさというのはある。けれど普段見せる事のないマリアの弱々しい姿に、その程度の事を気にする訳にはいかなかった。
最も自身と同じ恐怖を持っていたことに、更に距離が近づいた様な気すらしていたのだから。
「んっ、なんでわかったんですか……?」
肩甲骨辺りにまで回した腕に、敏感らしく体を強張らせたが、すぐに力を抜き、身を委ねるとアリアの胸元から上目遣いで見上げて問いかける彼女に、アリアの心がどこか満たされた様な気分になる。
独占欲の様な母性の様な、それらに近い気分に、感じた事も無かったアリアの頭を、心を、幸せへと持っていく。
今まで感じた事も無かった幸せという気分に思考が蕩けそうになるが、そこは彼女であり、狙撃手だ。一歩踏みとどまり、マリアの問いに優しく答える。
「私も同じ気分になったことがあるから」
「どこでですか?」
純粋無垢な返答程困るものはない、と思考の中で呟くが、トマトスープを夜の寒さを感じながら飲んだあの荒野、と真向から答える訳にもいかなかった。
最終的には恥ずかしさが勝利を収め、アリアは視線を外すと同時に誤魔化しの言葉を適当に付け加える。
――――最初、アリアは胸元にいる相棒が誤魔化したことを詰めてくるんじゃないか、と怯えながら考え、それにどう答えるか、言葉にすればいいのかを思慮していた。
けれどそんな予想を覆す言葉が、彼女の耳に届く。
「でも良いです……アリア、貴女が私と一緒の気持ちになった事がある、それだけで気持ちを共有できた気がして、幸せです」
マリアは満足げに目を細め、笑みを浮かべてそう答えた。
本当にたったそれだけの事実でいいのか、とアリアが戸惑う程に素直な眼と言葉。
「……いつまでも一緒に居られればいいのにな」
そのうちに睡魔に耐えられなくなったらしいマリアは、小さな欠伸を一つして、目を閉じていた。
やがて一定間隔の吐息だけが聞こえる様になり、アリアは小さく、嘘ではない本音を呟いた。幸せなこの時間が続けばいい、不器用だからこそ本人には言えない。
……扉からはまるで二人の理解を、希望という一筋の光の様に差しながら、彼女達自身を包み込み、覆う絶望の様な真っ暗闇の部屋を淡く照らしている。
けれどどれだけ外が絶望溢れる荒野だろうと、今この時だけはアリアは幸せを噛み締め瞼をゆっくりと閉じていった