第二章「戦争の傷跡」
元々は整備された道路が伸びていたが、今は罅割れハチの巣の様に穴が穿たれ、道路脇には朽ち果てたコンクリート製の支柱の様な物が、あらゆる場所に障害物として鎮座している。
整備された道路などアリアは走った事は無かったが、走る度に大きく縦に揺れる様な道も流石に走った事は無かった。
「あー……哨戒も楽じゃねぇなぁ」
白髪の女性、アリアが愛銃の狙撃銃を持ち、荒野を見回して酷く退屈そうに、更に太陽を忌々し気に仰ぎ呟いた。
「タイヤ、パンクしましたけど折角の休憩なんですし」
旧時代に作られた防弾軍用車の右前輪を、額に汗一つ浮かべずに交換しているマリアが気休め程度に言った。
「……暑さもそうだが、私が一番気になるのは、この炎天下で汗を掻いてないあんただよ」
車両後部辺りで周囲の警戒を行い、野戦服の腕を肘関節部分まで捲り上げ、前を開け、ちらと見える胸部を覆う白い布が、張り付く程に汗だくのアリアは彼女の様子にぐったりして答えた。
頭上を少し傾き気味に昇った昼下がり、二人は無駄口をそれ以上叩くことなく、それぞれの仕事に専念し始める。
機械全般に強く、近接戦においては戦闘用の義手と共にアリアを遥かに凌ぐが、運転はできない黒髪のマリアはパンクしたタイヤ交換に、目が良く少しの異変にも気付き、ライフル銃を扱うのに秀でたアリアは、機械修理が出来ない代わりに哨戒兵として。
自分のそれぞれの専門を徹底していた。
今の世界では、造る技術が失われつつあり、こういった状況も彼女達はそこら中に転がる瓦礫の数ほど経験してきた。パンクを始め、エンジン故障などは頻繁に起こる。
そうして暫くの間、工具と部品が擦り合わさる音を耳に、アリアは注意深く地平線の先までも見つめる。
流石に四キロ先の狙撃など、裸眼であろうがなかろうが彼女にでも到底出来ないが、僅かな変化ならば目にする事は出来た。
手前を確認、地平線を確認、または地平線を確認、素早く手前を確認する。
それを退屈な中で工具の金属音を暇つぶしに聞きながら繰り返していると……ある異変を目にした。
地平線よりもずっと手前、そこに目をやった時にきら、と太陽光が何かを反射した。
それが一度だけで留まらず、まるで誰かが此方を窺う様に二度三度と反射を繰り返す。
「マリア、一キロもしない距離で誰かが見てる」
それを見たアリアは極めて自然に、気付いた事に気づかれない様に――――反対側を向き、作業中のマリアに話かける。
「了解、ここら辺にバンディットは?」
こういった事は何度もあった。陽気に手を動かしていたマリアも、真剣な眼差しでそう問う。
(ここら辺にそういった連中はいなかった筈だが)
立ち寄ったどんな小さなコミュニティでの話も頭の中で記憶の限り思い出し、その情報があったかを探るが……アリアの知る限りそういった忠告も注意もされた覚えがない。
「さてな。立ち寄った場所でも聞かなかったな」
監視してる連中には気取られないよう、素早く、そして最小限の動きで遊底を半ば程引き、排莢口から薬室内に弾丸が装填されているのを視認する。
「後はボルトだけなので、合図したら撃って下さい」
アリアの臨戦態勢に、素早く作業を進めるマリアが言う。
「分かった。当てられるかどうかはわからんぞ」
「それでも大丈夫」
あまり反対側を向いているのは不自然だ。アリアは彼女の返答を聞くと振り返り、気付ていないふりを続ける。
どうやら相手は、太陽光が反射している事に関心が無いのか、それとも気付いていないのか……アリアの目に未だ先程の反射光が同じ場所で煌めいていた。
(戦闘に関してあまり詳しく無い奴か?)
相手の事を思考しながら辺りを見渡し、彼女はあくまで無能な哨戒兵を続ける。普通ならばあれだけ分かりやすい反射光、見逃そうと思っても見逃せるものではないが。
合図を待ち、その時一瞬だけだが今までよりも一層強い風が、太陽によって熱された体を冷やし、撫でた。
――――左から右へと吹き抜ける風と同時に、マリアが工具をホイールに軽くだが叩きつけた。
合図を待つ間に集中力を高めていたアリアの右耳を劈くその音に、体が反応し、反射光があった上部方向に、更に少し左にずらして照準を向けた。
そしてなんの躊躇いも無く引き金を引く。聞き慣れ乾いた銃声はこの広大な荒地に大きく響き、空を音速で切る鉛の弾丸が僅かな放物線を描き、飛翔していく。
けれど予想通り左から右に吹く風に、銃弾は煽られて大きく着弾点がずれた。
だがこれは彼女にとっては威嚇射撃に過ぎない。ある種の忠告や警告でもある。
反射光が消え、主は撃たれた事に驚いたのか、それ以上見せる事は無かった。
「準備大丈夫です!!」
マリアの声を聞き、車両後部で射撃を行ったアリアも、次弾装填を素早く行いながら左側にある運転席へと急いで乗り込んだ。
差しっぱなしになっていた鍵を回し、銃声程では無いが、エンジンがまるで猛獣に似た咆哮を上げると継続的に小さな爆発音が鳴り始める。
「ったく、折角の休憩が台無しだ」
「追って来てるか?」
ハンドルに手をやり、アクセルに右足を置くアリアが、サイドミラー、ルームミラーを確認する。
運転中ではあまり後ろの確認はできないからだろう。助手席で周囲の警戒を行っていたマリアにそう聞いた。
「……いや、いませんね。これだけ見晴らしが良ければ、普通見えますし」
元々は平坦な草原だったのか、走っているこの場所の周囲には……マリアの目には建物一つですら何も見えなかった。
――――数日前滞在した弱者達の楽園、あそこは元都市部か何かで、倒壊した建物が多く道を塞いでおり、迷路と化していた。
ここは全くの逆だ。何もかもが見えやすいが、代わりに向こうからも、此方の位置が観測できる。
「――ッはぁ……ほんと、勘弁してほしいよ」
監視か、はたまた観測かははっきり分からなかったが、アリアは大きく溜息を吐く。
「私達と同じ流れ者かな……」
「流れ者だとしても、あれは双眼鏡もしくは狙撃用スコープだ。大分珍しい物を持ってるのは確かだな」
何も無い荒地で距離の離れた場所から此方を窺い、太陽光を反射させていた。そんな物が新世界で簡単に手に入る訳が無いのを二人は知っている。
「コミュニティでは……良く目立ちますね」
そう呟くマリアの口角は怪しく上がっていた。彼女としても折角の休憩を邪魔されたのは、些か不満ではあったらしい。
お互いに安全を確認出来て、張り詰めていた緊張の糸がゆったりと緩んでいくのを感じ、アリアと同じく疲れ切った溜息を吐くと肩の力を深呼吸に合わせて抜いていた。
「まぁ危害は加えて来なかったんだし」
既に肩の力を抜いていたアリアは、運転をしながらも最低限の動きで固まり気味の左右の肩を回す。すると小気味の良い骨の音が鳴る。
そして冷や汗で僅かに湿り、ヒヤッとする上着を脱ぎ、乱雑に後部座席へと投げた。
「追いかけても来てない。そう気にする必要も無いさ」
アリアの言う通り、監視してようが何をしてようが、今じゃ他人にはなんの関係も無い。
旧世界ではわからないが、二人からすれば見られていた、たったそれだけで気に病む必要は無いという事だ。あの場で追いかけ、目的を問おうとしても逃げられるのが関の山でもある。
「うーん……」
それはこの時代を生きるマリアとしても同じだ。けれど、何か引っかかるのか、アリアにそう言われた事に半分納得をしながらも不服そうに唸る。
「そんな事よりも、私はあの馬鹿にガソリンを要求したいね」
マリアの反応と深い思考に身を堕とそうとするマリアを引き留めるかの様に、アリアは僅かにイラつきを露呈させた。
決して視線を前方から外さず、右手を運転席と助手席の間に伸ばすと薄汚れたつまみを回し、エアコンを付けた。
「そ、そんなに暑い?」
「だから私はなんであんたが暑くないのか不思議だっての」
苦笑いをするマリアに、怪訝そうな表情を浮かべるアリア、見知らぬ人物に今し方監視されていた可憐な女性にしては、どこか楽し気な二人だが、やがて会話も無くなり、代わり映えのしない景色に視線を移していた。
心底嫌になる程に続く長い道のり、空には煌々と輝き続ける太陽光が防弾ガラスを透過し、ゆっくりと確実に熱を帯びさせた。
時折、障害物に乗り上げると車内が激しく揺れ、後部座席にある食料の缶詰が、甲高い音を鳴らしぶつかり合う。
楽しみなど無い今はそれを楽しみつつ、こくりこくりとうたた寝始めた相方を隣に、アリアはアクセルを踏み続けていると……
「あぁ、ここにもあるのか」
――そんな何の変哲もない移動時間に、これまでの旅で幾度となく見て来た旧世界の旧人類による戦争の傷跡――――幾ら錆び、朽ちようともそれは生々しく半永久的に残る物達。
……戦車の、迫撃砲の、爆撃機の、徹甲弾、榴弾、爆弾によって出来た大小様々なクレーターが、何も無かった殺風景の荒野に突然現れた。
その中には爆散した無限軌道の残骸、対空砲火によって撃墜された鉄の残骸が散らばりその当時の戦争が、どれだけ熾烈だったのかを物語っていた。
「……」
けれど、その残骸の中には無傷の物もあった。
いや、厳密には無傷とは言えない。戦車の足部分である履帯が壊れ、そのまま修理される事なく放置されたと思われる物だ。
微かに盛り上がる丘上で静かに自身が朽ちるのを佇み待つそれに、アリアは車を横づけさせた。
隣で静かに寝息を立てていた相方も、停車時の揺れで起き、閉じていた瞼をぱちくりとさせた。
「んむ?もう目的地?」
眠気眼を擦り、何を勘違いしているのかそんな事を言う相方を後目に、車両を停車させて、サイドブレーキを引き、後部座席に乱雑に置かれた上着とバックパックを手に取って降車する。
マリアはまだ沈んでいない太陽を一瞥し、大きな欠伸をしながら呟いた。
「……もう休むんですか?」
「疲れたから休む」
ぶっきらぼうに返って来た返答に、苦笑いをしつつ固まった体を伸ばすマリアも、素っ頓狂な声を上げながら降りて来る。
そして、周囲に広がる光景に、アリア程の反応を示す事はなく、それがいつもの役割らしく履帯を損傷しただけの戦車内部にハッチから入ると漁り始めた。
アリアはバックパックから年季の入ったカセットコンロとガス缶を取り出し、朽ち果てる戦車の天蓋部分に乗り、抜けない事を確認するとその場に座り込み、コンロに火を点けようとつまみを掴む。
それを回すとカチカチ、と何かが弾ける音が鳴る。ぼうっと青い炎が点いた。
太陽は沈み切ってはいないが、夕方頃から夜にかけて段々と空気が冷えて来る。
彼女は胡坐を掻き、飯盒を取り出して夕飯になるスープ缶を吟味し始める。
今まで無傷の物を拾い続け、それを食しては凌いできたが、手持ちの缶詰も大分少なくなってしまっていた。
そんな中でバックパックの奥底にあった一つの缶詰を手にし、それを見る。
「トマトスープ、か」
外観は汚れ、華やかに書かれていた文字も既に掠れていたが、赤い色をした何かが描かれている缶詰だ。
なんとか読める文字から読み解くとどうやらそれはトマトと言われる赤く、瑞々しい何からしい。
それが描かれた缶を手に取り一人呟くと、もう一つあった全く同じ種類のスープ缶を、バックパックの奥底から取り出した。
どちらも旅の途中にある廃工場で見つけた物、食料が無く血眼になって探したアリアは丁度二人分を見つけ、取っておいたのだった。
どんなに外観が汚れていようとも中身さえ無事ならばどんな物でも生きる者達の栄養価になる。
缶詰を開ける為に彼女は右足の太腿に手を伸ばすと拳銃嚢に隣接する様にある専用のレッグホルスターからナイフを取った。
缶詰の枠に切先を突き立てなんとも豪快に突き刺す。
刃の四分の一程度が入り込み、引き抜こうと力を込めたが、予想外にも簡単に抜けたナイフの腹とその切っ先から握る右手に赤く僅かにドロッとした液体が飛沫した。
特別気に留めず、手に付いた付着物をぺろっと舐め取り、幾らかその黒目を見開かせた。
微かに舌に伝わるトマト味と言われるそれに、思わず呟く。
「美味い」
今では土地が戦争によってやせこけ、まともに植物など育たない中でのこの一滴は、食べた事の無いアリアには美味しいという感情以外を思い浮かばせない。
そして再び軽く缶へと目を通し始めたアリアへ、彼女の真下でごそごそと使える何かを探していたマリアが、なんの前触れもなくハッチから顔を出した。
いやらしい笑みを浮かべながら軽く開けられた缶詰の上部を見せるアリア。
「マリア、この缶美味いぞ」
「あれ?もう食べちゃったんですか!!」
黒髪や野戦服に引っ付いた埃や煤を軽く叩き、ハッチから壁を乗り越える様に出てきた彼女の右手には弾薬と弾倉が幾つか握られていた。
この朽ち果て気味の鉄くずからの収穫だろう。
ナイフに付着した中身を布で綺麗に拭き取りながら目に見えて嬉々としているアリアを見て、むっとする様に言った。
「もー先に食べるのは無しって言ったじゃないですかぁ!」
「しょうがないだろ、手に付いちゃったんだから」
「むぅ……」
そんな会話をしつつ、アリアは飯盒の中にトマトスープを入れ始める。
勿論一缶だけでなく、取っておいたもう一つの缶もマリアと話している最中に既に開けていたそれを、スプーンを使い一滴残らず入れ、飯盒を満たした。
満杯、とまではいかなかったが五割ほど赤い液体に満たされた飯盒を、使わない弾倉を火に当たらない程の距離に重ね、それを左右対称にし、一本の鉄の棒を取っ手に潜らせコンロの上に飯盒を吊る。
青い炎は丁度飯盒の真下に来て、赤い液体を徐々に温める。
時折風に揺らめく炎が赤く染まる。それを真っ直ぐに見つめるマリアが、昼とはまるで違う冷ややかさを孕んだ風に、身震いした。
「もうちょっと、気軽な旅がしたいなぁ……」
アリアの向かい側に座るマリアは、夕日を反射させる右手の義手を撫で、少し瞳に恨めしさを宿らせるが、何故だか半分諦めた様に呟いた。
上を仰げば薄い水色をした空も段々焼け始め、何もない荒地の遥か先に視線を移せば地平線に段々と落ち始めた太陽が、寂し気に輪郭をぼやかす。
「気軽に?」
スプーンで飯盒の中身をゆっくりと掻きまわすアリアは、意図が分からずそっくりそのままの言葉で返すが、マリアは右手の義手を翳す様に上げて、答えた。
「こんな武器を使わずに、です」
……アリアは彼女の諦め気味の言葉に納得してしまう。
人を殺す殺人集団が闊歩するこの世界で、武器を持たないのは自殺に等しい行為だ。殺されるよりも前に殺すというのが新世界での――生きる為のルール。
殺されれば殺された方が悪い、それが今、彼女達が生きる世界の現状。
だが相棒の言葉をアリアへ当てはめると、相棒の焦がれる様な願いから全く正反対になる。
「……でも、それだと目的を果たせない」
その言葉に、マリアは首を傾げる。何故か、と。
「私は、ほら、復讐の為に奴を追ってるから」
疑問符を頭の上に浮かべるマリアに、その返答は全く納得のできるものではなく、被せる様に問う。
「じゃあ復讐が終わったらどうするんですか?」
マリアも、決してわざとこう言った訳では無い。けれど、結果として彼女が今一番に考えている事柄であっただけ、それに関しては一度も彼女から口にした事は無いのだから、不思議になるのも当然かも知れない。
「……」
どれだけ長い旅をしても、マリアと出会った現在でさえ未だに解決の糸口すら出せていない。
手を動かすのを止め、深く考え込むアリア。
復讐の為だけに、義理の『父親』の影を消す為に生きてきた。
それだけしか考えて来なかったが故に彼女は……アリアはすぐに答える事は出来ない。
「私は――――」
黙り込むアリアにもどかしさを感じ、何かを言い掛けたマリアは、後の言葉に詰まりながらも顔を俯かせて少し照れくさそうに続ける。
「この旅を、続けていたい」
「……へ?」
――不意に、耳に届いたその言葉は予想外だった。
素っ頓狂な声を上げてしまい、徐々に気恥ずかしくなり顔が紅潮していく。明かなその表情の変化はきっと、夕日と自身の気の抜けた声だけのせいではないだろう。
「でも、気軽に旅をしてみたいと思いません?」
気恥ずかしそうにするアリアへもう一度そう問うマリアの目は、何か期待に満ちていた。その期待が一体なんのなのか……分かっていたマリアの胸中を理解しながらも、彼女は即答できなかった。
勿論、気軽で武器の無い旅、要するに旧人類が築き上げた世界の事を知らないというのもあった。
しかしそこを知る機会は幾度もあった。
旅をし風化に耐え抜き、焼けずに残り続けた旧世界を撮った写真に誰かに宛てられた手紙など、数多あった。
……けれど、それを自身の眼球を通した映像として目前にした訳では無い。
そんな彼女にしてみたら、どれも真実味を帯びる筈が無い。
陽気な天気でガールフレンドとの散歩中の写真? 子供三人に初老の男女が笑顔で映る家族写真? それらに映る人々や景色も彼女が知る怒りと憎しみに溢れる荒地なんかじゃない――――喜怒哀楽が様々で決して苦しそうな表情は浮かべておらず、何より背景には緑豊かな自然があった。
手紙に至っては、見た事が無いものを想像はできない。
どれだけ幸せという言葉と、愛という言葉が綴られて、並べられていても実際に誰かをそう想った事が無い彼女には、一つとして理解できなかった。
「気軽ってのが分からないが、もし本当に拾った写真みたいな世界だったら……してみたいね」
やっとの思いで絞り出した答えは、あまりにも不安定なものだった。物事の殆どを即決、白と黒で決める彼女自身も思いもしなかった言葉。
自身ですら納得できない言葉に、流石に納得してくれないか……と上目遣いで恐る恐る相棒を見るアリアは、その表情を見て思わず安堵する。
「ふふ、やっぱりそう思うんですねぇ」
夕焼けに染まるマリアの顔は少し嬉しそうに微笑み、火で揺らぐ空間を見つめていた。
――――カセットコンロの火を消し、煮立ち始めたトマトスープを元々入っていた空き缶に移す。
飯盒を満たす赤い液体を一滴たりとも残すことが無い様にスプーンで綺麗にすくって。
「赤いけど、美味かった」
均等に分けて注がれた片方の缶ともう一つのスプーンをマリアへと渡す。
「赤いんですか?西日のせいで良くわからないんですが……」
アリアの言葉に缶の中に入った液体を揺らしたり、西日に当てて見るが色までは判別が出来なかったらしい。
「あつっ」
西日が世界を焼く様になってから、夜の帳が落ちるまでは早い。意識を別の方へと向けると殆ど地平線へと太陽は沈んでいた。
すると辺りの気温は急激に下がり、それを合わせて更に二人の間を吹く風が体温を奪い手はかじかむ。
暑い日差しが照り付ける日中が寂しくなるほど寒いが、そこに温めたばかりのスープが入った缶を持つと、じんわりとだが、火傷する程に熱い。
スプーンの柄にまで伝わるその熱は、凍えそうなこの昼夜の境界を融かす様で……心地いい。
「あ、美味しい……」
熱を感じない戦闘用の義手である右手で缶を持ち、一口そのスープを口にしたマリアが目を見開く。
濃厚なトマトという食材の味が口の中に広がり、このスープに仄かに存在する酸味が鼻から抜ける。
一見、スプーンですくうと湯気を立てながら少しどろりとした感触のそれは、初めて見た彼女達からすれば食欲のそそるものには決して見えなかった。
けれど口にした瞬間、急激な気温の変化に影響されることなく熱々に保たれたそれに、体の芯が温まるのが分かった。
「マメスープなんかよりもずっと美味いし体が温まる……」
その味に、その熱さに、その一言以外はひたすら無言で口に運び続ける。
……からんころん、という音を鳴らし乱暴に戦車の天蓋に打ち付けられた缶に、スプーンが円を描く様に中で転がる。
「はぁ……美味しかったです」
アリアに続き、マリアも天蓋に置くが、アリア程豪快な性格ではないらしく優しくそれを置いた。
そして目を瞑り、少しの間久しぶりのマメスープ以外の物を食べた満足感に浸る。
「滅多に別の物は食えないからな……」
アリアは満足げな表情をしつつ、バックパックから二枚大きな布を取り出す。
使用感のある薄汚れた布だが、厚く作られており、これに包まれば外でさえなければ寒さに耐える事は出来るだろう。
畳まれた布を傍らに置き、ガス缶を抜きカセットコンロをしまい……その布をマリアへと渡そうとした時だった。
「アリアさん……なんで人って争うんですかね」
――――突然の事に考えた事も無く、マリアの横顔へと反射的に視線を移動させる。
突拍子の無い事を問いかけて来るまではトマトスープの余韻に浸っていたマリアだったが、瞑っていた目を開き、遥か頭上を仰いでいた。
いつもと大して変わらない綺麗な夜空。そしていつもと変わらない薄暗闇に閉ざされた荒野。
その変わらない日々に何を思ったのか、何故そう思ったのか……マリアは傍らにあるトマトスープの空き缶を何故だかもう一度手に取った。
その問いかけに、アリアは首を傾げる。
「それは旧世界での事か?」
「いえ、全部です」
拍子抜けする。アリアはてっきり旧世界自体を荒野にしてしまった大規模戦争の事かと思っていたが……相棒の考えでは無かった。
「全部……って言われてもなぁ」
彼女のその返答に唸り、頭を掻く仕草を行う。
すると本当に純粋にそう思っているのが分かる程、まっすぐな眼をアリアへと向けて触れていたトマトスープの缶を指さした。
「これだけ美味しい物があって、写真に映るあれだけ平和で綺麗な場所があって……不思議だと思いませんか」
「……」
沈黙、けれど言われてみればそうだ。
何故これ程までに全てを手にしていたのに、世界が荒地になるまで戦いを続けたのか……今の今まで彼女は考えた事も無かった。
今よりもずっと秩序が存在した筈の世界、そこで一体何があったのか。
人類という種が全てを捨ててまで……行われるべきだったのか。
「分からない、な」
だが彼女達はそれを知らない。どれだけ激しい戦闘が繰り広げられたのか、行った理由が何だったのかさえも。
――――考えた末の結果は分からない、だ。
アリアはそう答えた。いや、そう答える以外無かった。
「そうですか……」
マリアはその言葉に、若干落胆した様に俯くが、顔を上げアリアを再び見つめると言葉を続けた。
「ここも今は荒地になって、残骸で埋め尽くされてるけど……昔はきっと、緑溢れる場所だった」
夜の闇に冷やされた大気は流動し、夢想を熱く語るマリアの体も冷ますが、彼女から溢れる熱は決して冷やし切る事は出来ない。
月光と星光しかない薄暗闇に、手を広げ語る彼女の子供じみた姿。
「楽し気な人々、緑の匂い漂う森、異なる味の食べ物!」
まるでそれを見て来て、今のこの時代を憂いている様にも聞こえる言葉に、アリアは何も言えない。
「それを何故破壊してしまったのか……私には理解が出来ません」
言い終えるとトマトスープの空缶を掲げ、それを悲し気な表情で見つめる。
これだけ激しいのは見た事が無かったが、情緒不安定な演説染みた言葉は、時折マリアが使う。
おかしくなっていると言えばそうだが、常時死が隣り合わせの彼女達からすればストレスも溜まる。
こうやって自分の考えを大袈裟に言葉にして披露するのは、彼女にとって一番のストレス発散だと言えるだろう。
「すっきりしたか?」
「……体が熱くなるほどに」
アリアの問いかけに、大きな溜息を吐いて冷静に答えると空缶を再び同じ場所に置き、そのまま背中を地面という錆びた天蓋へ預けた。
「ま、今日は嫌な事があったからな」
マリアの様子に納得しつつも、傍らに置いていた厚手の布を仰向けで寝転がるマリアの顔に投げる。
……それは、空を仰ぎ見始めたマリアの意識を、此方へ向ける為でもあった。
「わっぷ!?何するんですか!」
鼻腔へ入り込む古臭い布の匂いに、慌ててそれを剥ぎ取り……
「……最初の質問に戻る」
自身へと視線を向ける事を予想していたアリアは、錆びだらけの戦車の天蓋に預けていた背中を浮かし、此方をジト目で見つめていたマリアを、まっすぐに見る。
「どうしたんですか……?」
マリアは彼女の顔に浮かぶ、今まで見た事の無い表情に、思わずそう問いかけてしまった。
そこにあるのはいつもの勝気でクールな表情ではない。まるで暗闇の中にあった、手元の灯りを失う運命を知った様な、絶望を隠す事もしない顔だ。
そしていずれ訪れるそれに抵抗できないという諦めの孤独感に、苛まれている表情の様にも見えた。
「私も旅は続けたい。だがお前の仲間が見つかれば、それも終わる」
……彼女と出会うまでは孤独に旅をしていたアリアとしても彼女の最初の質問、それの言葉は嬉しいものだった。
だが彼女自身が目標を達成してしまえば、彼女には守ってくれる仲間がいる。そうなれば、無理に彼女を連れる様な事は出来ない。
マリアの……彼女の居場所はそこなのだから。
「……どうでしょうね。もう既に死んでいるかもわからないんですし」
マリアも決して無責任な事を言わず、曖昧な返答をする。アリアの目的を知っているからこそだ。
そして、迷いの結果でもある。
アリアは暫しの沈黙の後、完全に陽が落ち、星明り程度しかない薄暗闇が広がる世界に目をやり、まるでそれに溶け込む様な暗い、光の無い目をして言った。
「……不確かであれど戻れる場所があるだけ、いい」
夕食後、温まった体が夜の底冷えする寒さに耐えられる間に二人は車へと戻っていた。
二人のその判断は結果正しく、夕食から一時間も経たない間に外は強風が吹き荒れ、時折巻き上げられた砂粒が激しく車体へとぶつかると、ちりちりと音を鳴らしていた。
……二人はと言うと、アリアは前部座席の運転席で厚手の布に包まり、マリアは後部座席でバックパックを枕代わりにもう一枚の布に丸まって横たわっていた。
後部座席のマリアは規則的な寝息を立て、深い睡眠の中にいたが、運転席のアリアは目を閉じながらも眠れずに妙に覚醒する意識の中で思考していた。
耳に届く砂粒が車体を擦る音……それが原因だという事は分かっている。
彼女にとって、この音は旅を始めるきっかけ……復讐を心に決めた数年前を思い出させるからだ。
――――当時の彼女は本当の両親の顔など知らず、奴隷を探していた男に死にかけていたところを拾われ、衣食住の提供の代わりに働かされていた。
働いてさえいれば死ぬような事が無くなるという事実に、当時の彼女は酷く満足していた。
時折機嫌の悪い時には暴力さえ振るわれる事があるが、その程度の事は意に介さなかった。死ぬことの無い安心というのを与えられたからか。
ある日奴隷として働かされながらも幸せだったその日々は、終わりを告げた。
少女というよりは青年と言われるまでに成長していた彼女は、トタンと木材と瓦礫で作られたその家で主の帰りを待っていた。
強風によって舞い上げられた砂粒が屋根や壁に叩き付けられてはちりちりという雑音が鳴り響き、部屋とも言えぬトタンで仕切られただけの狭い空間に、所々腐った木の板が張られた床の上に薄い布を敷いただけの簡易的な寝床。
そこで雑魚寝していた彼女は夢の中で微かに聞こえた破裂音に目を覚まし、出かけていた男が帰って来たのかと思い、出迎えようと起きた。
部屋の扉を開け、トタンの壁伝いに歩き、玄関とは到底言えない出入口にまで到達する。
男の機嫌を損ねぬ様に、体に植え付けられた暴力の恐ろしさに震えながら、死への恐怖には劣る、と言い聞かせる。
だが長方形に模られたトタンは、扉だというのに閉まることなく吹き荒ぶ風と砂粒を家の中に容易に侵入を許し、強風に煽られては同じ材質のトタン壁に衝突を繰り返す。
彼女はいつもと違うその光景を不思議に思い、男の姿を探す。
明かりの無い家の中は薄暗く、劣化したトタンに空いた小さな穴から差し込む光を頼りに探す。
――――狭苦しい通路、その奥へと視線を移動させ幼い彼女の目に映ったのは、自身を拾った男が大量の血に塗れ這いずった跡だった。
あっという間に木の板は男の血液を吸い込むと、真っ赤に染まっていき、鼻に付く久方ぶりの鉄錆に似た臭いに彼女は嗚咽する。
声にならない声が喉元から漏れ、口内が瞬く間に乾いていくのを感じた。
同時に目前の死を目の当たりにしたことで足に力が入らなくなり、静かにその場にへたり込む。
決して大声を出さない様に両手で口を抑え、まだ見えない男を殺した人物から逃げようとするが……まだ生きていた男の苦し気な呼吸と外の雑音に交じって一つ別の音が近づいて来てる事に気付く。
それは一定の感覚で彼女の耳に届き、そしてゆっくりとだが確実に近づいていた。
……拾われるよりも前に、幾度となく聞いた死に良く似た音に、心臓が激しく鼓動する。
震える足に力を込め、やっとの思いで立ち上がり、周囲を見渡して考える――逃げるかそれとも戦うか。
そして彼女の目に一番に留まったのは、奥で倒れた男の傍らに落ちている、血がべったりとついた一丁のライフルだ。
走れば十分間に合う距離ではあったが……彼女は逆を選び、できるだけ恐怖を押し殺し、同時に泣き叫びそうになるその感情に蓋を被せ、覚束ない足取りで自分の部屋へと戻る。
今し方男を探す為に通った通路、自身の部屋の入り口、そこを潜るとトタンの扉を閉めて、最後の力を出し扉に出来た穴を覗き様子を窺う。
出来る限り音を漏らさない様に。
――やがて砂粒の擦れる音に混じった足音が、不意に消えたと思うと一つの人影が床板を踏み鳴らした。
一瞬止まったと思うと左右に続く通路を何かを探す様に見渡している。
全身真っ黒な服装の男は、向こう側に血濡れて倒れている男を見つけると、確かに彼女がいる方向に背中を向け、外の明るさに一瞬照る黒い回転式拳銃が彼女の脳裏にはっきりと焼き付けられる。
それは右手に握られ、男は一歩歩くごとに床板の軋む音を鳴らし息も絶え絶えの男に近づいていく。
……彼女にはそれがまるで可視化された死の様に見えた。
幼い頃に何度も感じた死の感覚、それがあまりにも恐ろしく震える手足や彼女の微弱な震えを抑制し、動けば嫌に響く床板の軋みさえ鳴らすことを、許さない。
圧倒的な恐怖の中で、後に後悔するとも知らずにそれでも男の死に目を逸らすことは出来ずにいた。
床に倒れる男に、回転式拳銃を持った男は、その傍に立つと何かを呟き始める。けれど銃口は倒れる男の額へと向けられる。
撃たれ、苦しそうに俯せで倒れていた体を仰向けに変え、恐らく銃口の先にある真っ黒な服装の男に視線を移したのだろう。
彼女側では分からなかったが、何か言葉を交わしている事だけは確認できた。
銃口を向けている男の口が動き、二言目を言い終えた時に……先程聞いた周囲の雑音に入り交じった破裂音が、家とも言えない簡素な建物で一つ、鳴り響いた。
「……!!」
一生耳に残る銃声に痙攣する様に体が動き、運転席で目を覚ます。
防弾ガラス越しの温かな日光が昨夜の嵐と寒さを嘘だと告げている様に、視界に映る快晴の青空は清々しいものだった。
体を包む厚手の布は、あまりに暑く、確認してみると薄っすらと額と背中に汗を掻いていた。
彼女は腕で額の汗を拭うと後部座席で寝ているマリアへと視線を一瞬動かし、ここが軍用車両の中だという事と今ここが現実だという事を再理解する。
「ちくしょう……嵐だと毎日出てきやがる……」
悪夢による記憶の混乱に、助手席に放られていた古いプラスチック製の軍用水筒を手に取り、落ち着く為に一息に中身を飲み干す。
体に染みわたる水にぼうっとしていた意識もはっきりと明瞭になっていくのを感じ、大きく深呼吸をした。
「あっつ……」
意識が明瞭になると改めて感じる日差しの熱が車両内に籠っているのに気づき、包まっていた布を豪快に剥ぎ、熱を持った体を冷やそうと車両の扉を開ける。
勿論外には昨日と全く変わらない旧世界の傷跡が残っていた。
寂しく佇む残骸達は、彼女の目には何故かどこか物憂げに見えたが……同時に日光に照らされたそれらは使用されていない事が誇らしげにも映る。
「今日も一日、嫌な日が始まる」
……アリアがそう呟くと昨夜の嵐の残りかすか、快晴の空に見合わない一層大きな横薙ぎの風が、アリアの背中を叩く様に吹いていく。
僅かに小さな砂粒を、織り交ぜて。