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聖女、ホームシックになる。

 誰もいない部屋、静かな自室に本を捲る音が響いた。ヴェルドさんに貰った絵本だ。


 あれから少しして、簡単な本なら難なく読めるようになった。よく良く考えれば話している言葉は同じなので文字が違うだけで文法も大体変わらない。そのことに気づけば覚えるのはすぐだった。


 それでも、まだあの恋愛小説には手を伸ばすことができずにいる。


 絵本の内容は、主人公の少年が仲間を見つけながら悪い魔物と戦うストーリー。以前の私と同じような環境だけど、絵本の中の主人公は勇敢で、真っすぐで。なのに私は立ち止まってばかりだ。


 ぱたん、と絵本を閉じて溜め息を吐いたら、部屋の扉をノックする音がした。


「入るぞ」

「どっ……どうぞ」


 もう大分聞き慣れた低い声が聞こえて、その声の持ち主が入ってくる足音がする。


 ……やばい、どうしよう、顔が見れない。


「どうした? いつもその辺歩き回ってんのに閉じこもって」

「本を読めるようになったので、お部屋でも暇を潰せるようになったんです」

「おやつの時間になっても何も食べにくる気配がないからクレアが心配してたぞ」

「私ってそんなおやつばっか食べてるように見えますか!」

「見える」

「断固抗議します……んむっ」


 聞き捨てならない言葉に思わずヴェルドさんの方を向いて、開けた口に、何かを押し込まれた。甘い香りが口一杯に広がる。


「やっとこっち向いたな」


 悪戯が成功した子供みたいに、ヴェルドさんが笑った。これ……マドレーヌだ。多分、私がこの間食べたいって言ったけど売り切れだったやつ。


「この間売り切れだったやつ買ってきたんだが、いつまで経っても食いに来ねえからこっちから来てやっ、た……」


 つう、と自分の頬を暖かい雫が伝うのを感じた。ヴェルドさんの目が見開かれて、語尾が弱々しく消えていく。


 口の中のそれは、思っていた通りに懐かしい味がした。


「お母……さ、お父、さん……」


 王国で両親が営む焼き菓子の店。この間城下町で見かけた店は両親の店となんとなく雰囲気が似ていた。バターと砂糖が焼ける甘ったるい香りも懐かしくて、だから心惹かれたのだ。子供の頃のおやつはいつも手作りで、私はマドレーヌが一番大好きだった。


 今まで思い出さずにいた。いや、思い出さないようにしていた。次はいつ会えるかわからない両親のこと。心配しているだろうか。聖女として旅立つときも、不安そうだったのに。王子達の凱旋に、私の姿がないことに気づいてどう思っただろう。二人は大丈夫だろうか。


 堰を切ったように溢れ出した郷愁の思いが、涙となって次から次へと流れていく。


「ごめ……なさ、なんか、涙、が」


 ずっと黙ったままの彼にかけた言葉を遮るように、ふいに引き寄せられた。私の後頭部を優しく掴んだ彼の手が、私の額を彼の胸のあたりに押しつけて、そのまま抱きしめられる。肩に回されたもう片方の腕が、手が、触れたところが少しずつ熱を帯びて。


 嫌悪は、全くなかった。


 もっとずっと昔から傍にあったような。そんな気がするほど自然に、私はその温もりに縋りついて、枯れるほど泣いた。






 ――数分後。正気を取り戻した私は部屋の隅っこで隠れるように蹲っていた。


「もう無理……死んだ方がマシだ……」

「何でだよ。気にすんなって言ってるだろ」

「だって! こんな歳になってまで親が恋しくて泣くなんて! しかも男の人の前で! 子供か!! うわああああ」

「お前幾つだっけ?」

「18です」

「じゃあまだ子供だろ」

「そういうことじゃない! そもそもヴェルドさんが不意打ちでマドレーヌ食べさせるから〜〜」

「悪かったって。残りはここに置いておくから、後で食べろよ。俺は仕事に戻るから。じゃあな」

「ありがとうございますお疲れ様です!」


 ヴェルドさんはそう言って、私の頭を軽くぽんぽん、として去っていってしまった。私は子供か。


 しん、とまた静まり返った部屋で、断固として上げなかった顔を上げて、タオルを手にして、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を綺麗にしていく。


 ……こんな顔、見せられるわけない。鏡を見ずともわかるくらいに、誤魔化しようもなく真っ赤になった顔なんて。


「……ばか」


 抱きしめられた逞しい腕の感触が、まだ残っている。高鳴る鼓動は、まだ治まらない。このまま心臓が壊れでもしたらどう責任取ってくれるんだろう彼は。


 全身が、沸騰するみたいに熱い。早く治まれと思えば思うほど、脳裏に浮かぶのは彼のことだった。


 なんでもないように触れて、なんでもなかったかのように去っていったのに。私だけこんな風になってるなんて、ずるい。おかしい。不公平だ。


 こんなの、知らない。自分が自分じゃないみたいだ。


 もう、駄目だった。自分をこんなに掻き乱す感情の正体を教えてくれるものはあちこちに溢れていて、逃げられない。知らないふりなんて、させてくれない。


 私はきっと、ヴェルドさんのこと――


 止まない熱に怯えて布団の中に逃げこんで、枕に縋りついたけれど、いつまで経っても熱は引かなかった。





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