元刺客の覚悟
月明かりを背にゆっくりと空から降りてくる、さっき眠らせたはずの神官長。
その姿を視界に捉えた瞬間、考えるよりも先に体が動いた。フードくんのローブをがばっと掴んで、くるりと踵を返す。強化の魔法をかけた足で蹴った地面が深く抉れる。
脱兎のごとく逃げた。それはもう全速力で。
「なんで!? 起きるの早すぎないですか!?」
「知らねーよ! あんたの魔法でしょう!?」
フードくんと私を鎖で結びつけた状態で、魔法で加速をかけた全速力で走りながら私達は散々にパニクった。
なんで、なんで。私の魔法が失敗した?
そんなわけない。他の神官には効いていたし、効くのが遅かったとはいえ、眠ったのを確認してから逃げてきた。
考えられるとすれば――
「短時間睡眠体質」
「いくらなんでも短時間すぎるだろ!!」
「でも実際個人差があるんです。それか本当に不眠症で、普段からちゃんと眠っていないのかもしれない」
「そういえば確かにあの人、ずっと働いてて三時間以上寝てるの見たことないですね」
「さん!?」
つまりは、詳しい原因はわからないけれど、私の魔法でも神官長はちゃんと眠れなくてすぐに目覚め、真正面から向かってくる兵士たちはただの時間稼ぎに使われていたということだ。
これはまずいことになった。
「あとなんであの拘束魔法使えてるの!? 許可制なんじゃなかったの!?」
「許可制ですよ!! あいつ、職権濫用したな」
「どういうことぉ!?」
神官長の仕事のひとつに、神官たちに使用許可の下りた魔法を貸与するものがある。その過程で神官長にも濫用ができないようにいろいろと難しい仕組みがあるらしいんだけど、その仕組みすら解き明かしてしまったのでは、というのがフードくんの考えだった。
そんなことを話しているうちにまた追尾するように魔法が飛んできて。
私がまず防御の魔法をフードくんごと守るように張り、それをすり抜けてくる拘束魔法をフードくんがカバーする。
これは神官を封じる策が失敗した場合に考えていた作戦だ。こんな状況で使うことになるとは思わなかったけど!
「なんでこの速度に追いつけるの! 神官長さんあなたより強いんじゃないですか!?」
「いくら結界で弱体化してるとはいえそんなわけないでしょ!! 確かに俺に魔法を教えたのはあの人ですけど!!」
そう、そのはずなのだ。生まれ持った魔力量の差も多少は魔法の腕で覆せるけれど、流石に限度がある。ただの神官が私や彼と張り合うのは普通は無理だ。
だって普通の人ならこの速度を出したらすぐに魔力が枯渇する。けれど彼は速度を維持しながらこちらを攻撃までしてくる。常人にできることじゃない。
……まさか。
私はある仮定にたどり着く。
「ねえフードくん! この国の結界ってどうやって維持してるの!?」
「え!?なんで今そんな」
「いいから答えて!!」
一見場違いな質問だとわかっていた。でも私にも余裕がなかったんだ。だって、これが本当に私の想定通りなら、大変なことになる。
「ああもう、神殿を通して神官一人一人が魔力を送ってるんですよ!」
「神殿には神官から送られた魔力を蓄積する機能がある。そうですね!?」
「そうですよ!なんで聖女のくせに知らないんすか」
教えられてないからだよ!
魔力を蓄積することができる物質はうちの国にもあった。クソ王子が転移に使ったあれだ。
多分この国の神殿にはそれよりも大規模なものがあって、なぜか光の魔力として保存されるんだと思う。それが神の力なのかどうかはわからないけど、今はそんなことはどうでもいい。
「その魔力を結界っていう魔法に出力する術式を作ったのは誰ですか」
「そりゃ、神官長――」
はっとしたようにフードくんが言葉と動きを止めた。彼も気づいたようだ。
「あの人、神殿の魔力を自分の魔法に利用できるように術式を作ったんだ」
「――正解だ。よく気づいたな、小娘のくせに」
「!!」
真横で声がした。反射的に勢いよく後ずさって距離をとる。
不敵に笑う神官長と対峙し、私は一旦足を止めた。
「どうやらその駄犬の首輪も外されてしまったようだね。少々君を見くびりすぎたかな」
「この人は犬じゃない。人間です」
不快な発言だ。じっと神官長を睨めつける。
「あなた、やってることが汚いんですよ。本当に神官ですか」
「私には私の信仰がある。ただそれだけだよ」
どうする。どうすればいい。神官長の魔力はほぼ無尽蔵といってもいい。神殿には今この瞬間にも神官たちから魔力が供給されている。長引けば長引くほど不利になるのはこっちだ。
そして私が捕まったら、ヴェルドさんは――
「セイラ様」
「!」
「外してください」
初めて、彼に名前を呼ばれた。言われた通りに鎖を解くと、彼はゆっくりと私と神官長の間に割り込んで、覚悟を決めたような表情を向けた。
「俺が相手します。行ってください」
どくん、と心臓が鳴る。その言葉の意味するところはわかった。わかったからこそ、すぐに受け入れることができなかった。
「無茶だよ、結界の中じゃ全力出せないんでしょ」
「だからってこのままじゃ二人とも共倒れだ」
「でも」
「早く行けよ!!」
初めて彼が声を荒らげた。その勢いに気圧されて、私はその背中に伸ばした手を止める。
「でも、これは契約だって言った。私まだ何も」
「対価ならもうとっくに貰ってる」
「!」
「俺のために怒ってくれた。人間だって言ってくれた。自由にしてくれた。命を懸けるには十分だろ」
違う、私はこんなことさせるためにやったんじゃないのに。
「優先順位を間違えるな。あんたが捕まったらこいつはあんたに聖痕を刻む。そしたらあんたは愛する人を手にかけることになるんだぞ」
彼はずるい。
だってそんなこと言われたら、私は従わざるを得なくなるってわかってるくせに。
くるりと背を向ける。詠唱と共に全力で足に強化の魔法を付与して。
「――本当に感謝してるよ、セイラ様。あなたのおかげで俺は人間として死ねる」
ちょうど詠唱が完了したその刹那に聞こえたのは、短い付き合いの中でもいちばんに優しくて、穏やかな声だった。
視界が滲む。
彼を呼びたかった。でも、私は呼びかけるべき名前を知らない。
ああ、こんなことならもっとまともな渾名でも考えてあげればよかった――
そのとき、頭上にふと影が差したのがわかった。月が雲に隠れたのだろうか。確認する間もなく、何かが壊れたような激しい衝撃音と、同時に巻き起こった強い風に身体を攫われそうになる。
思わず足を止め、空を見上げる。
月明かりに翼を生やした人のようなシルエットが浮かんでいた。その人物はそのまま降りてきて、静かに着地する。それと同時に肩に生えていた黒い翼は掻き消えて。
壊れたのは多分結界だ。それは硝子の破片みたいに散らばって、きらきらと霧散していく。着地の衝撃に砂埃が舞う中、月の光に照らされて輝く黒と真紅。それが誰のものであるか、私はよく知っていた。
「――どうも、うちの婚約者が世話になったな?」
本気の怒りを孕んだ目を神官長へと向けて、空から降臨した魔王様は汗の滴る前髪を搔き上げた。




