美しき王子の懊悩
今まで思い通りにならなかったことなんてない、なんて言うつもりは無いけれど、恵まれた人生を送ってきてはいると思う。
そこそこ豊かな国の王の次男として生まれた僕は次期王となる重圧は優秀な兄に任せ、生まれ持った美貌と器用さを思う存分発揮しながらのらりくらりと生きてきた。
僕は満足していた。兄との仲は良好で、王太子の座を奪おうなんて思ったこともない。何でもそこそこできてしまうおかげで人生をかけて取り組むべき目標は特に見つからないけれど、特に何をするでもなくのんびり過ごすのは悪くない。周りもそれを許した。曰く僕はそこにいるだけで尊いらしい。
僕は美しい。それも、ちょっとお目にかかれない位。周りは口々に褒め称え女性なら決まって頬を染める。これは事実だけれど、僕自身それに大した価値を見出したことは無い。たまたま生まれ持っただけのものを自ら誇る気にはなれなかった。けど、それを求める人がいるのなら別にそれでもよかった。僕の平穏が保たれるなら、それで。
聖女に選ばれた少女が婚約者になると聞いたときも、別に心は動かなかった。王族が政略結婚をするのは当然のことだ。彼女は平民の出で、描かれた姿はよくある栗色の髪色に、平凡な容姿の至って普通の少女だった。ああ、でも翠の瞳はちょっとだけ珍しくて綺麗かも。
周りは聖女とはいえ王子とは不釣り合いだって言っていたけれど、別に顔なんてどうでもいい。綺麗な顔が見たければ鏡を見れば済む話だ。僕は自分が美しいことを知っている。僕に容姿で釣り合う人間なんてそうそういないだろうに、そんなものを期待する方が愚かだと思う。
実際に会ってみても、ぱっと見彼女は普通の少女だった。ただ、違うのは僕に特に興味がなさそうなところだった。僕に見惚れたり、僕の関心を引こうとしたりしない。その時点で僕の彼女への評価は普通の少女からかなりおかしい少女になった。あと、翠の瞳はやっぱりちょっと綺麗だった。
魔王を倒すための訓練を受けるため、彼女は頻繁に王城に通うようになった。僕はその度婚約者との距離を深めるため彼女に会いに行く。
「いつも熱心だね」
そう微笑めば、周りが思わずため息をつく。もうこれは癖みたいなものだ。但し、彼女本人には効いていないみたいだけど。
「王国のために、早く強くならなきゃいけないので」
「有り難いけど、無理は禁物だよ」
「……ありがとうございます」
彼女のふわっと笑う顔は春の風みたいに自然で、柔らかくて、暖かい。
周りの人間が口々に褒め称えるこの美貌も、彼女にはなんの意味もなさない。なぜか僕にはそれが心地よかった。
でも、その笑顔は僕だけのものではなかったみたいだ。なんてことはない、彼女にとって僕の存在は取るに足らないものなんだと、それだけのことだった。
そのことに気づいたとき、その事実が酷く僕の心をかき乱した。彼女が僕以外にその顔を向けるのが嫌だ。彼女が周りの人間にも同じように接するのが嫌だ。彼女が僕を特別扱いしないのが心地よかったはずなのに、どうして?
苛々する。何でもないように僕の平穏を乱す彼女が腹立たしい。
思わず旅の仲間にそうこぼしたら、彼らも彼女をよく思ってはいなかったようで、いろいろと喋り出した。
曰く、庶民で平凡なくせに我が物顔で王城にいるのがおかしいだとか。曰く、そんなのが僕の婚約者だなんて、とか。僕の婚約者は身も心も美しいもっと聖女らしい人が相応しいんだと。
僕としてはそんなことはどうでもよかったんだけど、僕を主と仰ぐ彼らには大事なことらしい。
僕は気づいていた。彼女がこの会話を聞いていること。
その後何でもないように彼女に話しかけたとき、彼女は一瞬傷ついた顔を見せた。それを見て、仄暗い愉悦が胸を満たすのを感じた。この顔は、僕だけのものだ。騎士にも魔術師にも見せない、僕だけの。それが酷く嬉しかった。
それがそもそも大きな間違いだなんて気づきもせず。
彼女に接するたびだんだんと仮面を貼り付けたようになっていく表情に僕は余計に苛立って、どうしようもなくなって。
そう、だから僕はあの日、彼女を絶望させるような言葉を吐いたのだ。僕の平穏を乱す存在を切り離すことにして。
色を失くした彼女の顔に、満足したのは一瞬だけだった。王国に戻っても苦しさはなくなるどころか増すばかりで、これ幸いと婚約者を押しつけようとしてくる貴族達にもうんざりだ。令嬢たちと話すのは彼女と一緒にいるときよりもずっと煩わしかった。
彼女の死に泣き叫ぶ彼女の両親や友人を見てようやく、自分がとんでもないことをやらかしたのだと気づいた。彼女は本当は生きている、けれど。魔王を倒すほどの彼女だ、置いていったって危険なことなど起こらないと思いこんでいたけれど。本当に無事なのかはわからない。それに、ここでは死んだことになっている。僕と、彼らの嘘によって。
僕は、僕の勝手で一人のひとを殺した。その事実を認識した途端、その重さに押し潰されそうになった。どうにかなりそうだ。
そんなときだ。彼女が魔王を伴って戻ってきたのは。そんなことを思う資格もないけれど、無事だったことに少しほっとする。僕の最悪な嘘がバレて父と兄にはこっぴどく糾弾され、王位継承権の剥奪を言い渡された。あと、彼女への謝罪も。
そんなことより、しでかしたことの大きさに、彼女にどんな顔をしてどう謝ればいいのかわからなかった。
久しぶりに会った彼女は、なんだか綺麗になっていた。顔立ちは平凡なままだけど、雰囲気が違う。それはきっと隣に寄り添う赤い瞳の男のせいだと、すぐにわかった。彼女は、魔王と婚約をするらしい。今までにないくらい、心臓が締めつけられた。
魔王の指が彼女に触れるたび、そして彼女がそれを受け入れては幸せそうな顔をするたび、荒れ狂う感情を抑えるのに必死で。もうそんな資格はとうに失っているのに。今更言うべきことなんてみつからないのに、僕は彼女に話しかけずにはいられなかった。
「セイラ、久しぶりだね」
振り向いた彼女の瞳には、なんの感情も浮かんではいない。
「あの日は本当に――すまなかった。この国のために命をかけた人にする仕打ちではなかった。僕はどうかしていた」
「……そうですね。でも私は別にもう気にしてません。むしろ感謝しているかもしれませんね、あなたのおかげで真に信頼し合える生涯の伴侶をみつけられたのですから」
何を言っても、その目に僕は映りはしない。謝罪すら受け入れてもらえないほどのことを僕はしたのだと、今更思い知らされる。これ以上どうにもならない。わかっているのに、僕の口は勝手に動く。
「……きみは、僕の婚約者だったじゃないか。それなりに僕のことを好いていてくれたと思っているんだけど」
「なんですかそれ、私あなたのこと好きだったことなんて一度もありませんけど。仮に好きだったとしても裏で陰口叩かれてあんなことされれば百年の恋も冷めます」
「それは……」
「それはってなんですか。いい加減にしてください。何がしたいんですか? 私を捨てたせいで王になれる可能性が潰えたのが悔しいのですか?」
「――王の座なんてどうだっていい」
「へ」
そのとき初めて、彼女の無表情が崩れて、そのことに歓喜する。でも、違う。わかっていた。僕が欲しかったのはそんなものじゃなかった。彼女には全く意味が無いとわかってるのに無意識にはりつけた僕の仮面はついに崩れて、感情がこぼれ出す。
脳裏に浮かぶのは、魔王に寄り添う彼女の姿。そうだ、僕はずっとあれが欲しかったのだ。愛するものに向ける、最上級の笑顔。
なんてことはない、僕は彼女に恋をしていたのだ。自分で壊してしまったけれど。
いっそ罵られた方が楽だったのに。こちらへの興味すら失った彼女に打ちのめされた後、怒りを露にした魔王に容赦のない殺意を向けられて、そんな彼を嬉しそうに見つめる彼女にとどめを刺された。僕から彼女を守ろうとする彼は、彼女や彼女の大事な人を悲しませた僕なんかよりずっと彼女に相応しい。
僕は、何もかも間違っていた。
「……何してるんだおまえは」
去っていく二人を見送った後、しばらく壁にもたれかかって蹲っていたら、兄の呆れた声が頭上から降ってきた。
「……ほっといてよ」
兄は僕の手を引っ張って立たせた後、ついてこいと言って歩き出す。僕も言われるがままそれについていく。
「お前も馬鹿だなあ。お前が彼女を気に入っているのは私にもわかったっていうのに。なんでお前自身が気づいていないんだ」
呆れたように兄が言う。その通りだ。僕は間違えたのだ。僕が余計なことをしなければ、彼女は僕と結婚して、もしかしたらいつかあんな風に見てもらえたかもしれなかった。そんな未来を投げ捨てたのは、僕だ。馬鹿な考えで彼女を傷つけて、危険な目に遭わせて。得難いひとを、僕は僕のせいでもう永遠に失ってしまった。
「王太子としてお前の行いを許すことはできないが、もうお前の処断は下った。弟の初めての失恋だ。今日だけは兄として慰めるくらいはしてやる」
出来の悪い子供を見るような目には失望の色はない。父さんには内緒な、と父秘蔵のワインを取り出す悪戯っぽい表情はいつもの優しい兄だ。
僕はこれから、表舞台から去ることになる。謝罪すら受け取ってもらえず姿を見ることもない場所に幽閉され、彼女への罪悪感と未練を一生抱えて細々と生きていくのだろう。兄が兄として接してくれることもきっともうなくなる。それでも兄には僕はまだ弟なんだと言われているようで、泣きたくなった。父にも兄にも見放されて当然なほどの行いをしたのに。
「内緒にしても絶対バレるよ。兄さんくらいしかそれ持ち出せないだろ」
「細かいことはいい。なんなら父さんも呼ぶか?」
「やめて」
兄が用意した二つのグラスに赤い液体を満たしていく。片方を手渡されて、兄が傾けたグラスをこちらのグラスに軽くぶつける。硝子が鳴いた。
今まで経験したことないくらい感情を露わにして、泣きながら兄の部屋で二人で飲んだワインはいつもよりほろ苦かった。




