聖女、思い悩む。
それからのことは、あんまり覚えていない。あのあとヴェルドさんと何を話したかも、どうやって部屋に戻ったかも、せっかく作ったリランのケーキの味も。
ただわかったのは、彼の魔力が戻ったからには私は王国へ帰らなきゃいけないんだ、ということだった。
どうして忘れていたんだろう。最初からこの暮らしは期限付きだったのに。
本当は私は喜ぶべきなのだ。やっと故郷に帰れる、やっと両親や友人達に会える、って。そう思うのに、心は重く沈んだままだ。
レドリーさんが言うには、ここ最近ヴェルドさんの外出が多かったのは魔力を早く取り戻す方法を探していたかららしい。早く私を故郷に帰してやりたかったんだとか。
嬉しかった。そんなに私のことを考えてくれていたなんて知らなかったから、嬉しかったけど、でも。
……私が王国に帰ってしまったら、もう多分、会えないのだ。
旅をしていたとき、王国からこの国まで辿り着くのに半年かかった。私から会いには行けない。ヴェルドさんの魔法なら一瞬かもしれないけれど、王国では魔族は恐れられているから、簡単にはできない。
彼は危険を冒してまで会いに来てくれるの?
その問いに自信を持ってはいと答えられるほど、自惚れることはできそうもなかった。
おまけに意気消沈する私にヴェルドさんはさらに追い討ちをかけてきた。
「二日後……ですか」
「ああ。なるべく早い方がいいだろ? 二日で諸々の準備を終わらせるから、そうしたらここを出るぞ」
二日後には私はここを出なきゃいけないらしい。急すぎる。特に荷物もないから荷造りもすぐ終わるし、交友関係も広くないから挨拶回りもすぐ終わるだろうけど。でも、それにしたって。
……もう少し、寂しそうにしてくれたっていいじゃないか。
ぼふん、と力なくベッドに倒れ込む。もう私の心は傷だらけだ。オーバーキルだ。空元気する気力すらない。
妹みたいな扱いされてるなって思ってたけど、妹ですらなかったのかもしれない。だって妹をこんなに冷たく手放せるわけないもん。別に結ばれたいとか思ってたわけじゃないけど、でも、こんなのあんまりだ。城下町にまた一緒に行く約束だって、まだ果たしてもらってないのに。
なんて厄介な人を好きになってしまったんだろう。
彼に私を好きになってもらう方法なんてちっともわからないし、奇跡的にそれが叶ったとしても、私と彼の立場でそれが許されるとも思えなかった。そんなことにも気づかず浮かれていた自分が馬鹿みたいで、恥ずかしくて、声を殺して泣いた。
ぐう、と自分のお腹が鳴る音で目が覚めた。窓からのぞく空は真っ暗で、すっかり夜なんだってことがわかる。肩にはかけた覚えのない毛布が掛かっていて、多分、夕食の時間になっても来ない私を心配したクレアさんが呼びに来てくれて、私が寝ていたから掛けてくれたんだろう。泣き疲れて寝て夕食を食べそびれるなんて、間抜けすぎて笑えてきた。でも、こんな酷い顔でヴェルドさんに会いたくはなかったし、いいか。
……おなか、すいた。
ボサボサの髪は整えて、顔を洗った。目元の赤いのは流石に治せないけど、少しはましになったと思う。月明かりだけが照らす廊下を、ずんずん歩き出した。
すると、前の方から足音が響いてきて。そちらへ目を向ければ、今一番会いたくなかった人の、ルビーの瞳と目が合ってしまった。
「ほら、これでも飲むといい」
「ありがとうございます……」
流石に逃げ出すわけにもいかず、蝋燭の灯りと月明かりだけなら泣き腫らした目元もごまかせると信じて、大人しくヴェルドさんの執務室の椅子に収まって暖かいココアを頂いた。美味しい。
「夕食食べそびれるなんて珍しいな」
「ごめんなさい、寝てしまって……」
「それだけか?」
「え」
「赤い」
そうしてヴェルドさんの指が優しく目元に触れる。なんで気づくの。おかしい。
「……寝すぎただけですよ」
真っ赤な嘘だった。だけど彼もそれ以上追及はしてこなかった。
「ヴェルドさん」
「ん?」
「ありがとう、ございました」
かたん、とテーブルにカップを置いて、立ち上がって、深々と頭を下げた。これだけは言っておかないといけないと思う。
「ヴェルドさんがいなかったら私、野垂れ死にしてたと思います。助けてくれて、ありがとうございました」
頭をあげると、いつもみたいに大きな手が優しく触れる。やばい、泣きそうだ。
「ここの生活、すごく楽しかったです。みんないい人だったし」
違う、なんで、こんな。最後の別れみたいなこと、言いたくなんてないのに。それなのに口は勝手に動いて、どんどん私は泣きそうになる。
「良くしてもらったから、寂しいです」
「……そうだな」
……本当に?
寂しく思うのなら、なんで何も言ってくれないのだろう。
そうだ、私は。引き留めて欲しかったのだ。
私から、もっとここにいたいなんて、絶対言えないから。こうやって言えば、もしかしたら引き留めてくれるかも、なんて。そんな浅ましい期待はあっさり裏切られた。
きゅうっと心臓を締めつけるような痛みがする。彼が何も言ってくれないことが悲しくて悲しくて、頭が真っ白になる。
「……なんでそんな、平気そうなんですか」
「!」
「私、王国に帰るんですよ? もう会えないかもしれないのに」
言ってはいけないことを言ったと、わかっていた。こんなのは子供の駄々と同じだ。それでももう、どうにも止められなかった。
「引き留めて、ほしかった」
目頭が熱くなって、声が震える。どうせもう会えなくなるのなら言ってしまえ、と頭の隅っこで声がする。彼の方は、見られるわけがなかった。
「少しくらいは、なかよくなれたと、思ってた、のに」
ついに目尻から熱いものが一筋零れた。
「家に帰れるって、喜ばなきゃいけないのに、全然嬉しくないんです。もう会えなくなっちゃうのかなって、そんなことばっかり考えてて」
頬に流れるそれを手で拭い、漸く顔を上げる。もうここまできたら、伝えてしまえばいい。最後だとしても、ううん、最後だからこそ。
「わたし、ヴェルドさんのことが――」
その先の言葉を続けることはできなかった。熱くて柔らかいものに口を塞がれてしまったから。
上を向かされた視界の端で、黒い短髪が揺れる。
……あれ、私、キスされてる。
そう気づいたときにはもう遅かった。何度も何度も、角度を変えて重ねられる唇に、ただただ翻弄されるだけ。なんで、どうして、と混乱する頭で問いかけようにも呼吸と一緒に掠め取られて。首の後ろと腰に回された手は優しいけどしっかり固定されてびくともしない。
ようやくそれが止んだと思ったら、問いかける間もなくきつく抱きしめられた。
「……平気なわけ、あるか」
「!」
耳元で、掠れた声がした。それは普段とは打って変わって余裕なんてひとつもなさそうで。初めて聞くその声が、どうしようもなく心拍数を上げていく。それって、もしかして。
「こっちは必死で抑えようとしてんのに……お前のせいで全部台無しだ馬鹿」
「ばか、って……」
「故郷を思って泣いたお前を見てたんだ。しかもお前は今、俺しか頼れるやつがいねえんだぞ。帰したくないなんて言えるかよ」
「……!」
「俺がお前を望むってことは、お前に故郷を捨てろって言ってんのと同じだ。俺の気持ちひとつで命運が変わるような立場のやつに、そんなこと言えるわけねえだろ。力に物言わせて縛るようなことはしたくなかったんだよ。それをお前は……くそ、最悪だ」
絞り出すような声でさらけ出される彼の本心を聞いて、さっき得た答えが自惚れでないことを確信したけれど、そんなことより、嬉しさより、情けなさで涙が出た。
彼の言うとおりだ。私は馬鹿だ。大馬鹿者だ。私、何もわかってなかった。自分のことばっかりで、なんにも。ヴェルドさんのこと、考えようともしてなかった。最悪だ。勝手に傷ついて、子供みたいに八つ当たりして。
彼はこんなにも、私を思ってくれていたのに。
「ごめ……なさ、い」
「いいよ、俺の勝手な事情だ。そんなもんわかるわけねえ」
こんなに優しい人を、私は他に知らない。
私よりずっとずっと大人なこの人の、余裕のない本音をもっと引き出せるようになりたいと、そうして幸せにしてあげたいと思った。傲慢かもしれないけど、こんな私じゃ無理かもしれないけど、私への気持ちゆえにそれを封印しようとしたこの人を幸せにする権利を、誰にも譲りたくない。
だって、彼と過ごした時間は最高に幸せだった。
この気持ちは絶対に、嘘じゃない。間違いじゃない。そう確信できるんだ。
「ヴェルドさん」
「……なんだ」
「気づかなくて、ごめんなさい。でも、私、ヴェルドさんになら縛られてもいいです」
「!」
「故郷に帰れなくなるのは嫌だけど、ヴェルドさんと二度と会えなくなるのはもっと嫌です」
彼が、はっと息を呑む。
「あなたと一緒にいたいです」
ごめんなさい、お父さん、お母さん。私はこの人の手を取りたいんです。
「……馬鹿だな」
「そうですね」
気が抜けたように笑う彼に、一瞬見蕩れて。今までで一番優しいその笑顔を携えたまま、彼の手が頬に触れた。
「好きだ、セイラ」
私も大好きですって、そう言いたかったのに。吐き出した声は音になる前に彼の口づけに飲みこまれて消えてしまった。




