山小屋
ほんの小さな軽い嘘が、それを糊塗するための嘘を誘い、ついには抜き差しならぬ事態へと追い込まれるのは、お芝居でも現実にもままある話だ。
そうはいいながら、命まで獲られる破目に陥ることは余りない。かなり犠牲を払うことになったとしても、そこはまあそこそこのところに収めてしまうのが、所謂大人の智恵だ。ところが、大人になり切れない連中が徒党を組み、集団が形作られて、閉鎖社会ができあがると、普通なら冗談で済ませるところが凄惨な悲劇を生むことになる。
その典型が、既に歴史的事実になった感のある大菩薩峠から北軽井沢浅間山荘へと続く『総括殺人』、所謂連合赤軍事件だ。或いはオウム真理教の一連の事件もその類といえよう。
これは、某高校で起こった、一つ間違えれば二つの命が山中に消えたかもしれぬ話である。
2年5組に、一人の転校生があった。友永秀喜といい、音だけ聞けばノーベル賞を二回受賞できそうな、又字面を読めばラグビーか野球の一流選手になれそうな名前の主だ。
で、無茶苦茶頭が良いかというとそうでもなく、まあ並。運動神経も良さそうな印象はない。要するに、名前負け。
ご面相は、とても二枚目とは言い難い、三枚目。
人物の実相を示せば、モノマネが巧く、口が軽くて、人を笑わせることに長けている。大阪生まれの大阪育ちかと、誤解されそうなキャラクターだ。
このクラスにネクラゴンタロウなる人物がいる。無論、本名ではない。が、正にその綽名通りの嫌われ者。蓼食う虫も好き好きというくらいだから、変人には変人で、一人くらい物好きもいそうだが、それもいない。
何かものを言えば不快になるだけだから、クラスの誰も言葉を掛けず、只管シカト。当人もそれを村八分のイジメとは受け取らず、どこ吹く風の半兵衛さん。
件の転校生ダブルノーベル―早速ついたニックネイム。略してダブ―が、面白いことを言って大爆笑の中、唯一人クスとも笑わない。むしろ鼻先でフン、て感じ。
ダブのオチのオチは、
「そんなん、全部ウソやでー」
関西にそういう口癖の漫才師がいるのかどうかしらないけど、どうやら口真似らしい。誰がどう聞いても本当にそんなことがあったらしく、真に迫った話なので、へぇそんなことがあるのかと聴いていると、最後に嘘やで~が来る。
毎回、嘘だろうと思いながら聴くのだけれど、時々、
「これ、嘘と思うてるやろ。ところがな、それがウソやねん。嘘が、ウソやねんで」
と、煙に巻いたりする。
ヒメさまと評判の女子生徒が、隣のクラスにいる。
竹中満月といい、成績は群を抜き、色白でその整った容貌、スタイルはモデルか女優にしても十分通用する。おまけに放送部で声も好いときているから、ファンは大勢いる。が、余りに高嶺の花過ぎて、誰も近寄らないという不思議。
知らぬが仏というのか、とんだドン・キホーテというのか、これに敢然と挑戦したのが友永秀喜、その人。
公然と口にして憚らないところが、道化の有卦狙いの人柄。皆に笑われながらも、胸を張る。手を変え、品を変えてアプローチしたようだが、結局目的は果たせず、意気消沈。でも、ない。表面上、何事もなかった素振り。だがやはり、行動に変化が現れた。
それがこともあろうに、ゴンタとの接触。
当初、あれこれ声を掛けても肝心のゴンタが返事もしなければ、煩さそうな態度で相手にしなかった。ところが何があったか、2週間ばかりすると、あのゴンタが口を利いている。しかも普通に。奇跡。アリエナイ。が、アリエテル。現実にその光景を見ては、我が眼を信ずるよりほかはない。
もう一つの変化。嘘やでぇが、嘘ちゃうでに変わったこと。
で、話の中身も尤もらしい事柄から、如何にも嘘っぽい内容になった。つまり今までとは逆パターンになったわけだ。本当のような嘘から、嘘のような本当の話へ。話術が高度化したというべきなのか。
―今度の夏休みに、僕は高嶺岳に登ります。山頂付近にしかないといわれる希少植物、黒い○○の花をとって来ます。ひょっとすると行方不明になって、二度と皆に会えないかもしれないので、今のうちにお供えを頂きたいと思います。終業式までを〆切としますのでよろしく。友永秀喜―
そんな張紙がしてあった。
「おいダブ、君、登山の経験なんてあるのか」
「そんなもん、ないに決まってるやろ」
「ないに・・・・・て、そんな、死ににいくようなものじゃないか。高嶺岳て高さとか知ってんの」
「勿論、知るわけない」
「止めておけ。どんな理由があるのか知らないけれど、命あっての物種って言葉もあるし」
「いや、もう決めたことだし。誰が何と言おうと登る」
「理由は?まさか自殺?じゃないだろうね」
「どうして自殺しなきゃいけないんだよ、僕が。失恋?んなわけないだろう」
「オレ、付いてってやろうか」
突然割って入ったのは、何を隠そうゴンタロウその人。
え!ええ!えええ!
「子供の頃から、何度も登ってるし」
意外。ゴンタにそんな趣味があったなんて。
周囲の皆は、突拍子もない友永の宣言より、ゴンタの一言に唖然として口が閉さがらない。ポッカ~ン。
「だから、下界の俗人とは合わないんだよ」
下界の俗人。誰が。クラスの、学校の皆か。じゃ、君は仙人か。てな顔で、見詰める数十の眸。
「う、うん。でも、独りでこっそり行かなきゃいけないんだ」
「それ、どういう意味だよ、ダブ。何か隠してるな。絶対そうだ」
「大体だよ、希少植物とか動物なんて、確か法律で保護されてて、盗っちゃいけないことになってるはずだ。てことは、泥棒するってことかい」
「誰も盗るなんて言ってないよ。そんなに前科一犯にしたいのかい、君たち」
「だって、ここにほら、とって来ますって書いてるじゃないか」
「とるのは、盗むとか採取するじゃなくて、撮るつまり撮影するって意味もあるぜ。一番人聞きの悪い字を連想することないじゃないか。そうか、君らはそんな目で僕を見てたんだな」
「おいおい、待てよ、そんないじけた言い方しなくたって、よ。保護植物の話が出たから、つい。悪かったよ。ごめん。謝ればいいんだろう」
「分ればよろしい」
「待て。そうやって煙に巻いて誤魔化そうたって、そうはいかないぞ。隠し事を追及されないために、そうやってどうでも良いことをネタにしたのは、読めてるんだ。ちゃんと隠さず、裏を言えよ、裏を」
「へへ、バレたか。けど、裏なんてない。只、興味本位てヤツさ」
「いや、誤魔化されない。高嶺岳はないけど、僕だって富士山に一度登ったことがある。あんなに大勢行く山だって、一つ間違えば足元さえ見えないくらいになるんだ。高嶺岳なんてそんなに人が行く山じゃないし、険しさだって相当なものだって聞いたよ。それを経験もないダブが単独登頂しようなんて、考えられない」
「誰も単独なんて言ってないけど」
「なぁんだ。ガイド付きか。それなら迷子になったり、行方不明なんて、考えられないじゃないかよ」
「ガイドと一緒とも言ってない」
「おかしい。何かもったいぶってるよな。怪しいぞ。絶対」
そんな話で盛り上がった始業前の時間帯も、授業開始ベルで一先ず鎮静化。
昼休みに、再燃。
「僕さ、考えてみたんだけど、黒い花なんてそもそも本当にあるのか。華が色彩鮮やかなのは、虫をおびき寄せるためなんだろう。黒なんて最も地味で目立たない色の華は、なくて当たり前なんだ。それをとりに行こうなんて、この前習ったかぐや姫の『つばくらめの子安貝』とかっていうのと同じじゃないか」
それを聞いた同級生。
「ひょっとして、まさか、な」
「どういう意味だよ。思わせぶりな」
「いや、でも思い過ごしだよな。かぐや姫ってウチのヒメさま、竹中さんじゃないだろうな、な、ダブ」
「・・・・・・・」
「え、ひょっとして中りなのかい。それは・・・・・、いくらなんでも無理難題」
「過ぎるよ」
「家具屋なだけに」
「俺が、抗議して来てやる」
「ま、待って、待ってくれ。勝手に決めつけないでくれよ。そんなことされたら、僕が恥を掻くじゃないか」
「でも、そうなんだな。話の出元は」
沈黙は、認めたのと同じ。
「ダブ、お前、フラれたんじゃなかったのか。諦めたみたいなこと言ってたじゃないか」
唇を噛む、ダブ。演技ではなさそう。
「これは5組が、いやいや、男子生徒全員が虚仮にされたようなものだぞ。これは何とかギャフンと言わさないと、僕らの沽券に係わるってヤツさ」
「大袈裟だなあ。多寡がこんなことで」
「多寡がっていうけど、命懸けなんだぜ。ダブが死んでもいいって、君は言うのか」
「だって単なる男女のもつれに過ぎないじゃないか。個人的なことで、僕らには何の関係もないよ」
「そうは言うけどな、ヒメさまは俺たち男子を鼻先であしらってるんだぞ」
「そうだ、無理難題を突き付けて・・・・・」
「ちょ、ちょっと待ってよ。勝手に皆で先走らないでくれない。これは僕が言い出したことで、向うから出されたことじゃないんだ」
話が大きくなってしまって、収拾がつかなくなりそうな有様に、ダブくんが割って入る。
それならきちんと経緯を話せということになり、渋々語ったのは。
猛烈アタックを敢行したダブ。得意の話術や形態模写で気を引こうとしたが、ヒメさまは全く乗って来ず、無関心。古風なラブレター作戦から、すり寄り作戦、甘えん坊作戦、プレゼント作戦、お願い作戦まで考えられるあらゆる手立てを講じたけれど、無視。
「タイプじゃない」
の一言。
とどのつまりは、
「つきまとい、ストーカーで訴えるわよ」
何という屈辱。そこまで断じられたら、あっさり諦めてしまえばよさそうなものだが、これが哀しい恋心。邪険にされればされるほど、募る愛しさ、未練。
最後の手段。
高嶺の花の文字通り、もしその花を採ってきたら、一度でいいからデートしてくれるかい。
莫迦みたい。そんなことしたら、君、逮捕されちゃうわよ。
それまで、そんな法律があることさえ知らなかったダブ君。
それじゃ撮ってくる。
考えておくわ。
その申し出を承知させるパフォーマンスとして、公然化したというわけだ。
「ダブ、君さ、山歩きの経験はあるの。山って怖い所なんだぜ」
山岳部員が尋ねる。
「山くらい登ったことあるさ」
「山って、皿伏山なんかは入らないんだぞ。あんなのは岡っていうんだ」
皿伏山というのは街からほど近い、小学生・幼稚園児が遠足で登る山だ。
「冗談じゃないよ。小学生の頃四国の剣山へ登ったのを皮切りに、同じ四国の石鎚、山陰の大山、中学では谷川とか穂高へ行ったよ」
「へえ、それは凄い。結構ベテランじゃん」
「それなら分かると思うけど、山の天気は変わりやすく、下手をすると夏山で凍死することもあるって、当然知ってるよな」
「そ、そりゃあ・・・・・」
顔色が幾らか蒼ざめた。
「初めての山はガイドなしでは危険、死ににいくようなものだってこともね」
「も、もちろん」
実のところ、ダブには登山経験など一度もありはしない。子供の頃、四国の剣山や石鎚山に連れて行ってもらったことはある。でも麓まで車で行き、ゴンドラやケーブルカーに乗っただけの話。父親の仕事の関係で、3年ばかり住んでいた頃の話だ。
大山だの谷川・穂高の話は、本人ではなく、歳の離れた兄のこと。つまりは、嘘。但し、兄から遭難しかかった経験の話は耳にしている。
「しかしだな、密かに登って写真を撮ってくるにしても、確かに本人が行った証拠にはならないぞ。単独なら秘密は保たれるかもしれないけど、事実を証明できない弱点があるからな」
「そう、アリバイの逆」
「そういえばかぐや姫にも、ズルい貴族のネタバレ話があるよな」
四方からの集中砲火に撃沈目前のダブくん。進退窮す。
「ダブ、俺が途中まで一緒に行って、インチキなしってことを証明してやるよ」
顔を見合わせる、一同。他ならぬゴンタの口出しだけに、唖然。確かに、極度の変人ではあるけれども、否それだけに、彼の証言には重みがある。
「八合目辺りまで一緒に行って、後は一人で探したって、そこまでゴマカシはできないからなあ」
「それなら、僕が付いていった方が安全だろう。一応、その道の専門家なんだから」
山岳部野郎の申出。
キンコーン。休憩時間終了。
嘘から出た真作戦が軌道に乗るやら、乗らぬやら。おかしな具合に、話が逸れていく雲行に頭を抱える、ダブ。
騒ぎが大きくなれば誰か止めてくれるだろうし、ヒメの冷淡さを非難する声も上がり、何らかのリアクションが先方からあるのではと期待したが、どうやら大勢は危険を冒して山へ登り、目的を遂行することを期待されているようだ。
しかし、誰かと一緒に行けばどんな誤魔化しも効かないし、本当に花を見つけるまで独りで捜し回らなければならない。とはいえ、こうなっては後に引けない。ええい、どうとでもなれ。自棄の表情は毛ほども見せず、
「夏休みに入ったら、天候とか調べて高嶺岳へ登ることにするよ。付いて来たい人がいるなら、それは別に拒みません」
夏休みに入ったからといって直ぐに総ての授業がなくなるのではなく、二回に分けて補講がある。だから、実際は八月にならないと休めない。
甲子園練習が始まったというニュースの流れる日。
ダブくんと付添・見届け役を自認するゴンタロー、山岳部の山野涼太の三人が勇躍バスに乗り込んだ。
高嶺岳に登るには、駅前から出ている登山道入口行バスに乗るのが便利だ。自家用車で送ってもらえばより楽だけど、そんな奇特な人はいない。
朝早い時刻というのに、クラスの数人が見送ってくれた。尤も、笑いながら、
「生きて帰るんだぞ。遺体で戻ってきても、お香典も供えてやらないからな」
という乱暴な餞を添えていたが。
がらがらのバスに、リュックを持つ三人がバラバラに座る。ゴンタは端から最後部の広い席へまっしぐら。君たちとは口も利きたくないの態度、丸出し。
何が入っているのか、最も大きなリュックを脇に置いた山岳部員山野君も体力温存のためか、直ぐに仮眠状態。
ぽつねんと座るダブは為すこともなく、ぼんやり風景を眺めている外ない。その胸に去来する想いがどのようなものであったか。
駅から1時間半で登山道登り口終点に到着。
バスから降りたのは五人。二人は大人。この人たちは縦走でもするのか、テントまで用意している。ということは、単独峰の高嶺岳ではなく連山へ向かうのだろう。それでも途中までは一緒。オジサンたちも気軽に声を掛けてくる。
「そうか。でも、なるべく早く降りるんだぞ。僕の勘だが、午後遅くなるとガスが出そうだからね。山でガスに巻かれた日には、命が幾つあっても足りないぞ」
「じゃ、気を付けて行くんだよ」
分岐まで色々親切に話してくれ、谷に架かる吊橋を渡っていった。
「おい、二人とも急ごう。あの話の通り、ガスが出たらお終いだからな」
山野くんが、急き立てる。
「こんな、雲一つない青空なのに、かい」
「おいおい、大丈夫か、ダブ。山の天気と女心ってのは、気紛れで変わりやすいものの代表じゃないか」
「それか。気紛れな女心に、こんな酔狂なことをやろうって」
「ゴンタ、何も僕は付いてきてって頼んだわけじゃないぜ」
少し先行した山岳部員が立ち止まって、
「今は良いけど、話すだけで体力は消耗するんだ。なるたけ体力を残して登らなきゃ、下りて来れなくなるぞ。それより、無駄口叩いてないで、もう少し足を前に動かせよ」
谷川に沿った路を黙々と歩く三人。真夏の太陽は容赦なく降り注ぐ。
「ふう、暑いな。喉が焼けそうだ」
そう言って水筒を開けようとするゴンタを制した、山野。
「水は貴重なんだ。山の中に水道はないんだぜ。いつでもどこでも手に入らない。一時間ばかり歩いて来たから、もう少し先で休憩するけど、そこで湧水を飲めばいい。もう少し、我慢だ」
ゴンタは舌打ちして、水筒を戻した。
もう少しと言いながら中々だったが、やがてこんもり繁った枝が日陰をつくる場所に辿り着く。丁度腰掛けるに手頃な石もあって、天然の休息所。
山野は、山から湧き落ちる水で顔を洗い、ごくごくと飲んだ。
「うーん、美味しい。これがあるから山登りは止められないんだよねぇ。さあ、お二人さん、どうぞ」
「ん、んんんんんん、んめぇ」
こんなゴンタの素っ頓狂な声は聞いたことがない、という裏返り声。ゴンタの反応を笑ったダブも一瞬息が止まる、ほどの美味しさ。冷たく、滑らかで、水道の塩素臭など欠片もない。
「う、うう、ううう、うま、うまっ、うま~い」
「そうだろう。これを味わいたくて山に登る人だっているくらいだからな」
木陰で一休みして、チョコを食べる。これからの本格的な登りに備えての栄養補給だ。
暫く沢伝いの道を進んでいたが、やがて川を逸れて木立の中へ分け入る。蝉の声、鳥の声が色々な方角から聴こえる。
「叢には近寄らない方が良いよ。まむしとか蛇なんかを刺激すると、やられちゃうからね。あ、それから、手頃な棒が転がってるから、二人ともそれを突くといい。楽になるから」
流石はベテラン。注意が細かい。この頃には、ダブの話した山登り経験が嘘だと山岳部員山野には見透かされ、素人扱いになる。
一つ山を越え、又尾根を過ぎ、曲がりくねった山道を歩き続ける。3時間もすると、誰も口を開く者はなくなる。山野くんだけが、ポイントポイントで指示を出す程度。
山深い道なき道―というほどでもないけれど、人ひとり通るのが精一杯の小径―を行くと、今が何処なのか、上っているのか下っているのかすら、分らなくなる。
(こんな所で迷子にでもなろうものなら、絶対生きて帰れないぞ。携帯だって、ケンガイだものな)
ダブくんは不安を覚えた。
(山野に裏切られて、その先を曲がったところで消えられたら、どうしよう)
そんな不吉な思いが脳裏を過ぎったとき、
「あと少し、もうちょっとでお昼にしよう」
リーダーの歩みが少し早まった。置いてけぼりにされて堪るものかと、ダブも足を速める。ゴンタも同じ。とすると、ゴンタも同じ妄想に駆られたのだろうか。
「よし、お昼も過ぎたことだし、そろそろ飯にしようか」
リーダーの山野くんの声が掛かったのは、 登り始めて4時間も経った頃。途中、小休止はあったものの歩き続けた。
「登山てのは、こんなに長く歩くものなのか。休憩もとらずに」
ゴンタが咽喉を潤しながら言った。
「こんなのは楽な方だよ。一日中懸命に歩き続けた上に、テントを張ったりしなきゃいけないことだってあるんだから。しかも今回はザイルを使わなきゃいけないようなルートでもないし」
これで楽な方だと聞いて、山岳部の連中は余程のMか変人だと思うダブ。同時に化け物とも。
山稜が幾重にも重なり、正に山中の景色。手頃な岩に腰を下ろして食べる、昼食の旨さ。一陣の風が通り抜け、何とも快い。
「慌てて食べちゃいけないよ。ゆっくりよく噛んで食べなきゃ、この辺りにはお医者なんていないんだからね」
子供に諭すような口調に、そんなこと分かってるって反駁したいところだが、何も知らないのだから黙って聴くより外ない。
「あと2時間ばかりで山小屋があるんだ。そこは9合目くらいになるから、殆んど山頂と言っていい」
「俺たちは、そこでダブを待つのか」
「そういうことだね。付いていっちゃいけないんだろう。此処まで来てインチキのしようもないわけだからさ、充分証人になるだろうさ」
腹も満たし、渇きも潤し、元気百倍。さあ、出発。
上空は青い空にもくもくと巨大な入道雲が立ち昇るだけで、オジサンが言ってたような天気の崩れは微塵も感じられない。
稜線に沿って眺望の開けた尾根道を進むのは、気分爽快。下界の暑さが嘘じゃないのかと思えるほどの、心地よさ。
やがて建物が見えた。無人の避難小屋。山小屋というから余程小さな建物だと想像していたら、裏をかかれたような山荘の趣。背負ってきたリュックを置き、早速カメラ片手に飛び出そうとしたダブを止めた、山野リーダー。
「3時遅くても4時には出発しないと、下に戻れないからね。いいかい、実質は精々1時間だと思ってくれよ。それ以上は無理だから。それとそんな恰好じゃ、何かあったら助からない。上着は着ていくんだ」
「大丈夫さ。直ぐに戻る。大体の場所は教えてもらってるんだ。1時間もあれば戻って来られるよ」
ダブはリーダーの忠告も聞かず、小屋を飛び出した。
「ゴンタ、君の本当の狙いは何だ。お為ごかしに、親切で付いて来たわけじゃないだろう。裏で何を企んでいるのか、話してもよさそうじゃないか、ここまで来たら」
ゴンタは聞こえぬふりをして、持参のチョコレートを齧る。
「山に入れば、お前がどんなワルだろうと自由にはできないんだ。今からだって、迷わせることくらい簡単だからな」
ジロリと山野を視た、ゴンタ。
「言っとくけど、此処への道が一つしかないなんて思わないことだよ。上がってきた道も下りるときには見分けがつかなくなってるってことを、知っておくべきだね」
「お前がいないと還れないってことか」
「ま、そういうことだね」
「分岐には標を付けてきた」
「知っていたさ。だからこそ、何か企んでいるのが分かったんだ」
二人がそんな会話をしていると、何処からともなく煙のようなものが滲みだしてきた。
「あ、大変だ。やっぱり出た」
山野は慌てて小屋を飛び出す。後ろをのそのそとゴンタも付いて出る。
「見ろ、ガスだ。ガスが湧き出したんだ」
薄らと白濁色の流れが立ち昇ってくる。
「ダブー、おーい、ダブッ、聞こえるかあ。戻ってこ~い。早くぅ」
山野の顔面は、蒼白。それより白い靄が、満ちてくる。次第になんて生易しさでなく、忽ちの内に乳白色は濃くなり、先ほどまで見えていた山肌さえ煙る。
「僕はその辺りまで探しにいく。ゴンタは動かず待っていてくれ。いいか、絶対に小屋から出ちゃダメだぞ。一歩離れただけで小屋を見失う虞だってあるからな」
ゴンタは、そんなことあるものかと言いたげに、鼻で嗤う。
「大袈裟じゃないぞ。自分の脚や腕すら見えなくなるんだ」
山野は分厚いジャケットを着込み、大型の懐中電灯を手に、ザイルを袈裟にかける。それからダブのリュックを物色して上着を引っ張り出す。そのとき、カメラが転げ落ちた。
「いいね、決して出ちゃダメだ。出来たら火を焚いていてくれ」
と言い残して、小屋を出た。入口の赤色灯も点けたようだ。
外は全く様相を変え、素晴らしい眺望を閉じ込めた、全くの白い世界。
山野は姿勢を低くして、足元を懐中電灯で照らしながらゆっくりと進む。電灯は黄色い光を放つフォグランプのようだ。
「おおーい、ダブ、トモナガー、返事をしろう」
無音。白い幕に音すら吸い込まれるのか、鳥の声、風の音さえしない。
ガスは更に濃密さを増し、足元の道はおろか、足そのものを消していく。
それでも山野は果敢に進む。
「おーい、ダブー、トモナガ~、聴こえるかぁ。聞こえるなら返事してくれ~。今、助けにいくぞぅ。そこを動くなよう」
山野は、山頂へと続くはずの径を這って進んだ。
「ううう、寒い。これはひどいぞ。どんどん気温が下がる」
独言を吐きながら、ジャケットの襟口付近を噛み、大きく息を吐く。すると、服が膨らみ始めた。まるで浮袋のようだ。これで保温できるのだろう。
「おおおーい、トモナガあ、返事しろう。死ぬぞう」
あらん限りの声を振り絞っての叫び。
「・・・・・・・・・・」
か細い声が聞こえた。意外と、近い。少し下の斜面から聴こえるようだ。
何故そんなところへなどと、考える暇もない。
「けがはないか。動けるか」
「ぅぅぅぅぅぅ」
「大丈夫だ。今、助けてやる」
山野は手探りで何かを捜し、動きそうにない岩を見つけると、それに持参のロープを巻きつける。グイグイと引っ張って確認を終えると、ロープを確保したまま斜面を下る。
ダブは、ほんの10メートルばかり下りたところで発見。うまい具合に窪地だった。
「大丈夫か。寒くないか」
「寒い、さむいよ」
ダブの上着を渡しながら、
「着ろよ。だから言っただろう。動けるな。何としても動かなきゃ、死ぬしかないんだからな。死にたくなかったら、動け」
「チカラガハイラナイ」
声も震えている。
「体を擦るんだ。熱を出せ。そうだ、何か食べ物は持ってないのか」
ないと言う。
山野も慌てて、そこまでは用意しなかった。が、ポケットを探ってみるとキャラメルが一粒。
「ゆっくり舐めるんだ。ケガはないか」
足を挫いているという。起てるかと問うと、大丈夫だと答え、顔を顰める。
「とにかく起て。こんな所にいたって誰も助けてくれやしない。このまま夜を迎えた日には、凍死して骸になるのが関の山だ」
肩を貸して立たせるが、とても歩けたものではない。とすれば、背負うしかない。
この間にもガスは益々濃さを増し、全くの白一色。ただ湧き上がるだけで、風もなく、鳥の声さえ聞こえぬ静寂。その不気味さといったら・・・・・・・。
山野は体に巻きつけていたロープをベルトに挟み込んで確保し、しゃがんでダブを背負う。そしてロープを負んぶ紐のように掛ける。
ぐいぐいと引っ張って、二人の重さに耐えられるか確かめる。
山野とダブの身長はさほど変わらないが、体の厚みは二回りほど山野が頑丈にできているようだ。
「よし、戻ろう。しっかり掴まってろ」
ロープを手繰るように、斜面を攀じ登る。熊笹が滑って登り難いが、鍛えた腕力でじわじわと這い上がる。
「すまない」
「いいさ。しかし、かぐや姫の大臣みたいな真似はするな。誰からも信用されなくなって、ウチにいられなくなるぞ。お父さんの関係もあるのだろうが、そんなところが前の学校をしくじった原因じゃないのか」
「ど、どうして、それを」
「想像さ。カメラがなぜ二つある。しかも一つはリュックの中に隠してあった。簡単さ」
「そうさ、想像の通りだよ。俺は嘘つきさ。ははははは。だから、どうした。性分なんだから、仕様がないだろう」
馬鹿笑い。
「しかし捻挫か骨折か分からないが、ケガは本物だ」
何も見えはしないが、感触から径にあと1~2メートルまで辿り着いたときだ。ロープがふわっと浮いた。咄嗟に笹を掴んで支えたから良かったものの、そのままなら二人して落下していたところだ。冷汗、一斗。
山野は額から汗を滴らせて、必死の思いで笹を手繰る。
やっと尾根路に辿り着いた。
はあはあと荒い息を吐きながら、慎重にダブを下ろすと、
「オーイ、ゴンタ、聴こえるかあ。聞こえたら、ドアのところから答えてくれー」
右へ下がっていけば避難小屋があるのは解っているが、視界ゼロの世界では音の方が確実だ。
何度か声を張り上げると、
「おお、こっちだ。分かるかあ」
と、声があった。
「よし、ダブ、これで助かった。ゴンタも満更じゃない」
山野は再びダブを背負うと、歌い出す。校歌だ。向うでも唱和する。お互いに位置を確かめ合うのだ。
やっと到着。
開いた扉から、煙の匂いが漂う。それは『臭』ではなく、芳しい『匂』だった。
「おお、見つけたか。よかった」
呟いたゴンタロウの眼に光。
「ありがとう、助かった。遭難せずに済んだよ」
「ありがとう・・・・・」
「なぁに、当たり前のことをしただけさ。俺だって、獣でも化けものでもない。人間なんだ。ちょっと特殊だけどな」
山野は副木になりそうな板切れを見つけ、ダブの足を固定する。
火にあたりながら、ダブは、
「生き返った気分だ。持つべきものはトモダチだな」
しみじみと口にした。
ほれと言いながら、ゴンタが湯を配る。
「へえ、気が利くじゃないか」
「暇だったものでね。それはそうと、このガスはどれくらい続くんだ」
「分らない。僕もこれほどひどいガスを経験したことがない。二、三時間か、もっとか。雨に変われば少しは視界が開けるんだが」
「じゃあ、今日の内に下山できない可能性もあるってことか」
「そういうことだね。今日中に帰らなくても登山計画書は出して来たから、最悪のケースにはならない。此処でじっとしてさえいればね」
「そうか。何もしないことが最善の策ってのも、あるんだな」
「下手に動けば転落、迷子で一巻のお終りってことになる。自然の前では従順な者だけが恵みを与えられるんだ」
「ほう、哲学者だな、おまえ」
「そんなことないさ。経験から得た知恵を、先輩たちから受け継いだだけさ」
「ところでダブ、おまえさ、どんな悪巧みをやるつもりだったんだ」
ゴンタの詞を遮った山野が、
「もう終わったことだよ。忘れてやれよ」
「そりゃさ、お前がそういうなら忘れてやってもいいけど、何かその、小骨が咽喉に引っかかった気分なんだよな」
「それで、付いて来たのか」
「それだけじゃねぇけど、俺って、自分に正直なんだ。人の何倍もな」
「それは分かるけど。自分にだけ正直で、他人は一切容れないってのは、どうだ。それって自己撞着てやつじゃないのか」
「哲学者かと思ったら、漢字学者かよ」
「茶化すなよ。要するに、真実の自分の姿を曝すことが怖いだけだろぅ。ダブにしたってさ」
「そういうお前はどうなんだ」
「全く、その通りさ。だから山へ登る。自然は僕らのそんな思惑とか体裁とかには見向きもしないで、生身の力を剥き出しにさせるのさ。だから山に入ると敬虔な自然崇拝者になる、否応なく」
「解らねぇよ」
「今だって、ほんの細かな水の粒に取り巻かれただけで、もうどうしようもない。人間なんてそれだけのものさ。無力に近い。自然の前では。台風や大地震、大噴火なんて大災害を引き起こすような、大それた現象でなくたって、これだ」
「その自然の前では、ちっぽけな見栄とか嘘なんて糞の役にも立たないってことか」
「ま、そういうことかな」
「だ、そうだ。な、ダブ。見栄や嘘はつまらないってよ」
「何だよ。ゴンタのことだろう、それは」
「それも真実、だけどな」
いつ晴れるとも知れぬガスの中に、避難小屋はぽつねんと建っている。
一夜明けて、ガスはすっかり晴れたが、冷たい雨が降っていた。
登山道入口の広場では、早朝から捜索隊が集合していた。その中に、ダブの母親と大学生の兄、ゴンタの両親の顔が見える。
捜索の届けを出したのはゴンタの両親だ。日帰りだと言って出たのに戻らないし、連絡もない。夜8時頃になって、警察に相談したのだ。
「今頃、山中に迷って、熊や猪に襲われてるかもしれないんです。寝袋っていうのですか、そんな物も持ってないんです。山の中は冷えるって言いますから、今頃凍えているのかと思うと、不憫で不憫で」
「何もそんなに悲観することはありませんよ、お母さん。登山部の生徒も一緒というじゃありませんか。遭難したとは限らないんですから」
昨夜来、何度かそんな遣り取りがあって、早朝からの捜索隊集結となったのだ。
「高嶺岳へのルートは途中から幾つかに分かれるので、その都度人を分割する形で捜索しましょう」
「隊長さん、よろしくお願いします。弟が勝手な行動を取っていなければ、山野君がリーダーなら大丈夫だと思います」
大学で山岳部に所属する、ダブの兄の言。
「友永君は捜索には加わらないのかい。君なんかは高嶺岳の主だろうに」
「生憎、夏休みは今日までなんですよ。明日からは部の合宿がありますので」
「参考までに訊いておきたいが、君なら何処で待機する?」
第一に避難小屋。第二に、やっぱり避難小屋ですかね。6合目の沢に下りる途中にちょっとした洞窟がありますが、そこでビバークするくらいなら、強引に此処まで下りて来ますよ」
隊長はありがとうと言って、出発した。
一方、避難小屋付近はずっと冷たい雨と時折吹く突風に曝されていた。
「参ったよなあ。こんな天気になるなんて、聞いてないぞう」
「山の天気なんて、誰にも当てられっこないさ。それくらい微妙だし、怖いんだよ」
「畏れ入れってことか」
「しかし参ったな。いつになったら下山できるんだ。こんな雨の中を歩いた日には死んでしまうぜ」
「だから我慢して、辛抱して動かないことも、策の一つってわけさ」
「そんなこといったって、食い物はそんなに持ってきてないし・・・・・」
「なに、いざとなったら此処の備蓄食料を貸してもらえば済む」
登山歴のない二人には山小屋の何たるかも、どんな装備が具わっているかも、全く解ってない。況してや山男たちの掟とかマナーというものを。
山野はインターハイ後、部長に推薦されるほどの男だから、常識の部類だ。
「俺はさ、信州か新潟の大学に進みたいと思ってるんだ」
「そこに山があるから、てやつか」
「まあね」
ザバザバと降る雨音は、止みそうにもない。
「君は、カッパも用意してるんだろうな」
ゴンタが尋ねる。
山野は当然の顔をして、リュックから取り出して見せる。
「お前は本当に良いヤツだよ。一人で下山することだって出来たわけだからな」
「山男のプライドってやつかな」
「ダンディだよな、山男って」
「うん、目からウロコだよ。兄貴ってそんなだったかな」
「ダブ、ダブの兄さんて、S大山岳部の友永先輩だろう。前に北アルプスであった。春休みにも、此処で教えてもらったし」
ダブは、えっという顔をした。まさか山野が兄を知っているとは思わなかったのだ。父の転勤でこの4月に引っ越したばかりだし、同級生と接点があるなんて思いが及ばなかった。道理で、決して見せてないはずの裏の顔にも気付いたはずだ。
しかし、それはダブの思い過ごし、勘ぐりというものだ。山野は論理的にダブの意図を類推し、それが正鵠を得たに過ぎない。
そもそもダブは登山に興味がなかったし、だから兄が何をしているのかにも、全く関心を示さなかった。
山男たちの関係は、縦横に緊密だ。ひとつ間違えば命を落とす危険と隣り合わせているだけに、情報交換は尋常一様ではない。例えば冬或いは春山登山を考えてみれば良い。この時季一番のリスクは、雪崩だ。嵐も遭難の危険性は高いが、雪洞を掘るなどベテランなら危険を避ける術は心得ている。しかし、雪崩は予期せぬ間に起こる。他の不心得なパーティの軽率な行為が原因で、被害を蒙ることもなしとしない。それだけに真っ当な正攻法の登山家育成を、一人前の山男なら共通認識として持っている。
ダブの兄もその一人で、山好きな山野のような後輩に対して、好意的な行動を取るのは義務と心得ている。クラスの皆と違った視点で山野が観察していたのを、迂闊にもダブが気付かなかっただけのことだ。
昼近くになっても、雨は変わりなく降り続いた。
「参ったなあ。これじゃ・・・・・」
ゴンタが言い掛けたとき、小屋の戸が乱暴に開けられた。
どきりとして三人が視線をやった先には、重装備のオジサンが立っていた。オジサンは先ずゴンタの本名を呼び、次いでダブの名を確かめ、最後に山野を確認した。そして大声で後ろに向かって、
「いたぞう。見つけた。三人ともいる」
叫んだ。
するとドヤドヤ何人も入ってきて、狭い小屋の中が一杯になる。
山野が、
「どうしたんですか、何か事故でもあったのですか」
問うと、ゴンタの親から捜索願が出されて、それで捜索隊が組織され、ここまで上がってきたのだという。
一応、岐路で手分けしたが、ダブの兄、友永さんの意見を参考に、主力は集まっていると話してくれた。その話を聴いた時の、ゴンタの何とも言えぬ、気まずそうな顔。ああ、たった一晩で何たることだ、の表情。
この場所は携帯電話の圏外になっていて、連絡の取りようもないが、子供じゃあるまいし―高校生もこどもには違いないが―体力気力とも充実している時期だ。山に登って、一晩連絡が取れないくらいで、嵐に遭遇したのならともかく、捜索隊を出すなど大袈裟過ぎる。山岳部のヤツが案内するから大丈夫だと、あれほど言っておいたのに・・・・・。
そんな気持ちが表情から顕わだ。
「オジサン、カッパの余分はないですか。二人分です」
山野が尋ねる。勿論、用意してあるという。
「僕らが山野の言いつけを守らなくて、持って来なかったものだから・・・・・」
項垂れた様子で、ダブが言い訳する。
「充分鋭気は養ったから、これで下山できます」
言った途端、小気味よく腹がキュウと音を立てた。捜索隊の人が熱いスープとパンをくれ、腹ごしらえも済ませて、勇躍帰路に就く。
豪雨で滑りやすくなった山道を一歩ずつ確実に進めて、夕方7時頃に登山道入口に到着。
そこは、避難小屋付近の雨が嘘だったみたいな、上天気。6合目まで下ると雨は小熄みになるし、時々薄日も差すという山の天気の気紛れを、確と味わったダブとゴンタ。
赤い西陽に照らされた事務所。その前に屯する、人の群。三人の家族は無論のこと、珍しい顔がひとつ。
三人の方へ駆けよる人影。
駆け出すダブ。
すっと、すれ違う。
えっ!?
な、なんと。件の人影、少女は、ゴンタの脇もすり抜け、山野の許に。佇む。ややあって、
「大丈夫、だったのね」
「うん。どうってことない」
「心配したわ。遭難したっていうから」
「避難小屋で待機してただけだよ」
その遣り取りを眺めやる、ダブとゴンタ。顔を見合わせ、どういうこと?
「そういうこと・・・・・」
「とんだピエロじゃん、俺」
「お前はそう演じてたんだから、ぴったりじゃないか」
「しかし、演技と本体とは・・・・・。ううう」
「泣くなよ」
無論、少女は竹中満月、通称ヒメさま。
山の上とは雲泥の差の、下界。
高温多湿を画に描いたような家路をたどるダブくんの眼に、我が家の灯はどのように映ったことだろう。