プロローグ:崩れ去った日常
神山透は信じられない光景を目の当たりにしていた。
夕刻。既に日が沈みかけ、辺り一面は薄暗い闇に覆われている。じめじめとした空気が透の鼻孔と素肌をやんわりと刺激した。
透は……正確には透とその側に寄り添う少女は、市街から少し外れたところにある閑静な住宅街の狭い路地裏の奥にいた。
透達が今目撃しているものは、「かつてヒトだったはずのナニカ」だ。
それは数秒前までは見知らぬ男性の姿をしていた。しかし現在は徐々に、徐々にとその姿を異形のものへと変化させつつある。
身体部位のあらゆる箇所がゴムであるかのようにぐねりと歪み、いたるところの皮膚が裂け……その裂け目からは鋭利な刃物状の骨のように白い何かが突出している。
やがて、その「ナニカ」は最早ヒトとは呼べないほどにぐにゃぐにゃに歪んだ塊から、鋭く尖った骨が何本も突き出しているという……まさに「狂気の沙汰」という言葉を体言したとしか思えないような肉の彫刻へと変貌を遂げていた。
「クキギ……グキギグキギ……」
その「ナニカ」……怪物はくぐもった鳴き声のようなものを漏らしながら、骨のような刃を軸足にして少しずつ透達の元へとにじり寄ってくる。
詰まるところ……彼らは謎の怪物によって路地裏の奥へと追い詰められていたのだった。
「な、なんだよ。コイツ。ば、化け物……」
透は自分の正気を疑った。
こんな気色悪い生き物がいるはずがない。これは何かの見間違いだ。でなければリアルな悪夢だ。そうに違いない。
必死にそう思い込もうとするが……無駄だった。
次の瞬間。
怪物から生えていた白い刃が伸びた。そう。伸びたとしか思えなかった。そして、その刃は真っ直ぐ透の顔面に向かって明らかに殺傷を目的として突き出された。
「!?」
透は咄嗟に頭部を大きく背けた。
そして無意識のうちに身体を捻り、側にいた「少女」を押し倒すようにして路地裏の更に奥の方へと飛び退いた。
「大丈夫か!?」
透は、共に身体を地面へと投げ出された黒髪の少女へと声をかけた。
彼女は「うぅ……」と声を漏らしつつも返事をする。
「いたたた……私は大丈夫だよ。」
「それならよかった。ほら、立てるか?」
「うん。」
幸い身体に大した痛みは無かった。しかし、刃の一撃は少しかすったようで、頬にちくりと痛みがはしる。
透は直ぐさま立ち上がり、片手を少女に差し伸べる。そして、彼女もすぐに俺の手を取って立ち上がった。
そうしている間にも、少しずつ怪物は近付いていた。
「透くん……ち、血が出てるよ!」
「こんなの平気だ。早く逃げよう。」
透は少女の……幼なじみの藤岡桜の手を引いて、一緒に路地裏の奥の方へと走り出した、その直後。
「ぐっ。」
唐突に頭の中で何かがパチパチと「弾ける」感覚がした。同時に軽い頭痛。
何かが頭の中に棲み着いているような、何かが噛み合わないような、えもいわれぬ感覚が透の中を走り抜ける。
「本当に大丈夫なの!?苦しそう……」
「大丈夫。大丈夫だから……」
どうしてこんな目に……ふざけるな……
そんな無駄な愚痴を頭の中でこぼしながら、透は更なる暗闇の向こう側へと一歩足を踏み入れた。