前
その日傭兵団の裏庭で、走り込みや身体を鍛えているクラインの姿があった。
「おい、クライン。なんだか随分気合が入ってるじゃねえか!」
朝から夕暮れまでほぼ裏庭にいるクラインをはやしたてるために、何人かが顔を出した。
クラインは腕立て伏せを止めることなく裏庭の入り口にたむろする連中を見やる。
着ていたシャツはすでに昼間には汗でビショビショになっていたので、今は上半身裸だ。
本当は汗で張り付くズボンも下穿きも脱ぎたかったが、以前素っ裸で木剣の素振りをしていて団長にこっぴどく叱られたので今は仕方なくはいている。
「あぁ。ちょっと俺の身体を見せたいお人がいてな、それまでに身体を完成させときてぇんだ!」
腕立て伏せをするたびに、剥き出しの背中に見事な筋肉が盛り上がる。
その筋にそって汗が滴り落ちるのを見て、野次馬どもはヒュウと口笛を吹いた。
ありゃあいい女ができたな。
そんな噂が傭兵団に広まったのと同じ頃、クラインが5日ほどの休暇をとった。
クラインは朝から足取りも軽く街道を小走りしていた。
本当は体力配分を考えたら歩いていくのが望ましいのだが、どうしてもはやる気持ちを抑え切れなかったのだ。
そして気持ちが高ぶっているせいか、全く疲れることもないままクラインは順調に街道を走り続けた。
あるところでクラインは立ち止まり、しょっていた大きなカバンを下ろした。
そこは何の変哲もない林と藪に囲まれた街道である。
別に疲れたわけではない。
クラインはカバンから酒の入った瓶を取り出し、ゆっくりと藪のほうへ歩いていく。
何の目印もないところで彼は佇むと、キュポンを小気味よい音をたてながら瓶の栓を抜いた。
「ここは花束を手向けるところなんだろうがさ、ここは俺式でやらせてもらうよ。ま、ちゃんと帰りには故郷の花を手向けるからさ」
そう言って瓶を傾け、藪に酒をゆっくりとまいた。
ゆっくりと、ゆっくりと、酒は大地に染み込んでいった。
クラインは目を細めながらそれを見守っていた。
そして次の日の明け方ごろだった。
屋敷のメイドは敷地の掃き掃除をしていた。
ふと顔を上げると、朝もやのなかにうっすらと何かの不気味な影が浮かび上がる。
メイドは小さく悲鳴をあげた。
この領地は王都から離れたのどかな酪農地であり領民の朝は早いが、こんな朝早くにこの領主の館を訪ねてくるものはいない。
もしいたとするなら、それは何か緊急事態が起きたときだ。
それは、半年ほど前にあった狼の襲撃が起きたときのような……。
もしくは、狼自身があらわれたとか……。
メイドは恐ろしい予感に喉をごくりと鳴らしながらもやの中に目を凝らした。
やがて、ゆっくりと影が近づいてくるにつれて輪郭がはっきりと見えてくる。
それは男性のようで、とりあえず狼などではないことがわかりメイドはほっとした。
「あの~すいません…」
「なんでしょうか?」
遠慮したような男の声に、メイドは笑顔を向けた。
メイド自身は下っ端の使用人ではあったが、態度が悪いと自分の主の評価までもが下げられるのだ。
そんなメイドの努力をあざ笑うように、男が姿を現した。
「いぃやぁぁあああああああ!!」
メイドの盛大な悲鳴に、まどろみから醒め始めていた屋敷はいっせいに叩き起こされたのだった。
館の主であるアネスト卿はメイドの悲鳴に飛び起きると、普段着に着替え愛用の長剣を手に取って館を飛び出した。
そして座り込んで震えるメイドと、その前で黒い短髪をかきつつ苦笑いしている若い男を見つけた。
アネスト卿は思わずこめかみを押さえた。
黒い短髪の男は、こんな早朝に領主の館を訪ねてきたというのに、下穿きいっちょのみのほぼ全裸だった。
不審な男としても、貴族に対する侮辱罪・不敬罪としても、アネスト卿には目の前の男を切り捨てる権利があった。
しかしアネスト卿は長剣を男に向けることなく、しばしこめかみを揉み解した。
目の前の男を、アネスト卿は知らない。
だが、なんとなく…、否定したかったがなんとなく予想はついた…。
かなりの時間を要したあと、アネスト卿は表面だけはずっしりと落ち着いた声でゆっくりと目の前の男に声をかけた。
「……お前、クラインだろ……」
「えへへ…お久しぶりです…」
クラインは照れ笑いしながら頭をかいた。
アネスト卿はそうであってほしいような、ほしくないような複雑な気持ちで男を見守っていたが、男の返事に大きなため息をついた。
「お前……昨日から休みで今日の昼ごろに到着する予定ではなかったか?」
「あはは。何か足が止まらなくって、気付いたら寝らずにぶっとおしで来てしまいました…」
庭先に佇む二人の間には、微妙に距離があった。
「…それで、お前のその格好は…?」
「いやぁ、見渡す限りの草っ原が見えてきたらなんかテンションがあがっちゃって…。んで、つい荷物を放り出してゴロゴロと寝ッ転がっていたら、全身糞まみれになっちゃって……。」
「…それで…?」
「あんまりにもくっせぇんでアネスト卿に会うのに失礼かなぁ…と思って…」
「…それで脱いだのか……」
「…ははっ…」
こうして二人は再会したのだった。