4.『End of the world, we are still alive』
「なんだ、思ったよりも傷は浅いね」
「…………」
何時もどおり誰も居ない夜の酒場、その店の一角で、傷付いた腕を机の上にさらけ出した青年と、救急用具を脇に抱えたエミリアが、向かいあって座っていた。
あの後、エミリアの操縦により街へと戻った三人は、まずは傷の治療をと店に向かった。もっとも、少女の傷は軽い打ち身と首の引っかき傷だけで、誰がどう見ても青年の腕の傷の方が重傷だったのだが、青年はソラの傷の手当てを優先させた。
その後、ソラはヴィルに連れられて、青年の部屋へと戻り。店主は荷物と奪ってきた金貨を回収しに店を出て、今この店にいるのは、青年とエミリアの二人だけである。
「まあでも、これじゃあしばらく剣は振れないかな。少しの間、お仕事はお休みだねー」
「…………っ」
エミリアが鼻歌交じりにアルコールの瓶を開けると、どばどばと青年の傷口にかける。その後、片手に持った綿を掴み、何の手加減も無く傷口に何度も押し当てた。
「…………おい、もうちょっと丁寧にやれ……」
「えー?」
青年が脂汗を浮かべながらも、唸るような声でどうにか抗議する。しかしエミリアが力を緩める様子はない。結局青年はしばらくの間、その痛みに無言で堪え続けなければいけなかった。
「いやー。懐かしいね、こういうの」
綿を投げ捨て、机の上の包帯を手に取りながら、エミリアが呟く。
「『夜』が吸血鬼とか呼ばれるようになる前は、よくこんな怪我してさ、私の手当を受けてたよねー」
「…………うるさい」
青年の呟きに、エミリアは口元に手を当てて苦笑すると、さらに言葉を続ける。
「『夜』って昔から強かったくせに、妙な所で素直って言うか、人を信じすぎる所があったからね。それで、よくよく痛い目を見てたね」
「……………………」
「あの子のこと、あんまり責めないであげてね」
「……別に」
責めるつもりなんて、最初からない。
ただ、心配ではあった。
今日の出来事は、件の少女に強い衝撃を与えたらしい。少女は街へと戻る馬車の中でも、手当を受けている間も、ヴィルに連れられて部屋に戻る間も、酷く弱った顔をして、俯いたままだった。
何かと後ろ向きで、思い込みの激しい少女だ。きっと今回のことも、酷く気にしているに違いない。
心配であると共に、何時かのような思い切った行動に出やしないかと、青年は不安に思った。
「思い切った行動って?」
「……アイツ、一度家出しやがったことがある。色々あって、あの時は一応収まりが付いたが……」
当時、その場に居なかったエミリアが、青年の腕に包帯を巻きながらへぇっと意外そうに声を上げる。
「大人しいだけの子なのかなーと思ってたけど、なんだ。案外で行動的なとこ、あるじゃん。心配して損した」
「……………………」
青年が視線をエミリアに向けると、何故か彼女は満足そうな表情をしていた。
青年にとっては不安でしかないと言うのに、何故エミリアはそんな顔をしているのか、青年にはよく、分からなかった。
「ま、そんなに心配しなくても大丈夫だって。今はあんなでもさ、その内ちゃんと強く育ってくれるさ」
最後に、包帯の端を短刀で切ると、エミリアは青年の傷口を軽く叩いた。
「これでよし」
傷口を叩かれた痛みで、思わず声を上げそうになるが、青年はどうにかそれに堪えて息を吐くと、うんざりとした口調で言う。
「……どうだか。どうせ、今にもそこの入口から、ヴィルが飛び込んできて――」
「た、大変だ『夜』!」
大きな音と共に入口が開き、見たことのある巨体が入ってくる。狼狽しているヴィルの姿に、奇妙なほどの既視感を覚えた青年は、何故だか凄く、嫌な予感がした。
「あ、その……そ、ソラが、ソラが居なくなっちまった! また目を離した隙に――!」
「……大当たり」
ぼそりと呟くエミリアを無視して、青年は大きくため息を吐くと、椅子を蹴って立ちあがる。
「ヴィル、お前は街中で聞きこみをしてくれ。俺は他を探してみる」
「お、おう!」
ヴィルは頷くと、すぐさま踵を返して店を出る。青年もその後に続いて、走り出そうとするがその肩を、後ろから伸びたエミリアの腕が掴んだ。
「まあそう焦らないの」
「なんだ……っ」
青年が苛立ち混じりに振り向くと、エミリアはにこにこと笑いながら、自分の顔を指す。
「私、手伝うよ?」
「……………………」
少しの沈黙の後、青年は一度頷くと、今度こそ前を向いて、店を出た。
♪
「……やれやれ」
青年が店を飛び出していくのを見守りながら、エミリアは苦笑しながら息を吐いた。
「躊躇なく飛び出していくとか、ほんと変わらないね。『夜』は」
肩をすくめる。外見だけは随分と大人になったが、内面は、彼女が出会った頃とまるで変わっていない。
本人は、自分で自分を冷静で冷酷な男だと思っているようだが、実際の彼は、何処までもお人よしで、誰よりも優しい、そんな男だった。
それを、本人がまったく自覚していないことも含めて。
「……さて、それじゃあ私も行きますか」
一度、ぐっと伸びをして、エミリアは店の出入り口へと向かった。
♪
「……………………」
何処までも続く砂漠。地平線の上に広がる遮るもののない星空を見上げながら、ソラは両膝を抱えて小さくため息を吐く。
彼女が青年に付けられた、ソラという名前。どうして青年が自分にそんな名前を与えたのか、少女には分からない。
ただ、なんとなく分かるのは、青年はその名前と、彼の希望を重ね合わせているということで。
……しかし、今の少女はどうだ。自身のミスで青年を窮地に陥らせ、利き腕に傷を負わせた。どれも少女が居なければ、そんなことにならなかった筈だ。
「……………………」
ソラは視線を降ろすと、膝の間に顔を埋めた。青年の為になりたくて。世話になった彼に恩返しをしたくて。だから、この話に乗ったというのに。
これでは、あの日と同じだ。
青年の部屋を飛び出して、独りこの街を徘徊していた時と変わらない。結局あの日と同じで、自分がやったことは、青年の足を引っ張っただけだった。
……しかもそれを助けてくれたのが、あの女だというのだからもう。
「…………」
ソラは少しだけ顔を上げると、唇を尖らせるが、結局、息を吐いて再び俯いた。
ここでうじうじしていても意味が無い。そんなことは分かっているのだが、胸に湧いたわだかまりは、自分ではどうしようもなくて。
地平線を見ながら、ソラは色々な事を思う。
青年は心配しているだろうか。いや、間違いなく心配しているだろう。あの青年は、自分で言っている程に冷たい人間ではない。寧ろ、どうしようもないほどに優しくて甘い、そんな人間だ。
だからきっと――今頃は、少女を探して街の中を走り回っているのだろう。
エミリアほど付き合いは長くないが、それでも、そのくらいのことは、ソラにも分かる。
「…………………」
足を抱える腕にギュッと力を込めて、少女はますますその身体を縮こまらせた。
もし、もしも万が一青年が、自分を迎えに来なかったら、どうしよう。
確かに青年は、ソラの事を心配しているかもしれない。必死になって街中を探し回っているかもしれない。しかし、それで見つかるとは限らない。
もし、夜が明けるまでに、青年に見つけて貰えなかったら――どうすればいいのだろう。と、少女は思った。
部屋に帰ることが出来るだろうか。
その時の事を考えたら、このまま太陽の光に焼かれて死んでしまっても良いような気にすらなる。
「……………………」
それは、名案に思えた。
どうせこのまま、何も役に立てず、青年の重荷になるくらいなら。
ここで、死んでしまった方が、よっぽどマシに思える。
もしも彼が時間までに自分を迎えに来なかったら。このまま、ここで、燃え尽きてしまおう。
少女は、そう決めた。
しかし――
「――こんな所に居た」
――背後から聞こえた声は。彼女が待ち望んだものでは無くて。最近聞き覚えのある、若い女のものだった。
「よっ。隣、良いかな?」
ソラが顔を上げると、すぐ横にエミリアが立っていた。
エミリアはソラの返事を聞くことなく隣に座ると、持ち前の明るい笑みを少女に向ける。
「こんなところでなにやってんの?」
「……………………」
エミリアの問い掛けに、ソラは答えることなく顔をそらす。この女と会話を交わす気なんて、ソラには無い。
そもそも、この女さえ居なければ、少女がこんな思いを抱くことも、無かったというのに。
「なるほど。『夜』を待ってるのか」
しかし、あっさりと自分の思惑を当てられて、ソラは思わずエミリアに顔を向けた。エミリアは、得意げな笑みを浮かべると、人差し指を立てて少女の額を軽く小突く。
「ふふっ。驚いてる驚いてる。君の考えなんて、お姉さんにはお見通しだぞ。大方、心配した『夜』に迎えに来てもらおうとか考えていて。来なかったら来なかったで、そのまま死んじゃっても良い。なんて考えてるんでしょ」
「……………………」
自分の心境を次々に言い当てられて、ソラはエミリアの顔がまともに見れなくなる。視線を落とすソラに、エミリアは追い打ちをかけるように言葉を続けた。
「死んじゃっても良いってのは、どーせ自分がアイツの重荷になってるから、このまま死んでしまえば――とか考えてるんだろうけどさ。でも、もしも君が死んだら、アイツは間違いなく自分を責めるよ? 『夜』はソラちゃんの事を、それくらい本気で心配してる。分かってるよね? 分かってないと、こんなことしないもんね」
「…………っ」
「でもさ、それって結局アイツの優しさに甘えてるだけってこともわかるよね。アイツが絶対に心配してくれるって分かっててやってるんだから、だから君は、本心では単に心配されたいだけってことも、分かってる?」
胸の内を抉るようなエミリアの台詞に、ソラは膝の間に顔を埋めて動けなくなった。
……どうして。と、ソラは思う。
本当なら、今隣に居るのは、彼女ではなく青年だった筈なのに。
どうして彼女は今、自分の隣に居るのだろう。
どうして、彼女はこうも的確に、自分の考えを言い当てることが出来るのだろう。
「んー。何で自分の考えが分かるのか。って顔してるね?」
「……………………」
顔も何も、少女は今、顔を膝の間に埋めているので、エミリアからその表情を見ることは出来ない。
しかし、エミリアの口にした疑問は、まさに今、ソラが感じている疑問そのものだった。そして、またも言い当てられたということも含めて。
「それくらい簡単だよ」
エミリアは可笑しそうに笑いながら、言った。
「私も昔、似たようなことを考えた時があったからさ」
「…………?」
ソラが顔を上げてエミリアを見る。
彼女はどこか懐かしむような顔で、ソラの顔を見つめていた。
「ようするに、私も同じなんだよ。ソラと同じで、どうしようもないって所まで人生に詰んでたところを、アイツに救われたわけ。……まあ、当時のアイツは、吸血鬼と黒閃とも、『夜』とも呼ばれていない、少し腕が立つだけの普通の少年だったんだけど」
二人が未だ、城壁の街に辿り着いていない時の話だと付け加えて、エミリアは話を続ける。
「この街に着くまでは大変でさ。アイツも余裕が無いし、私は、何にもできない同じ普通の女の子だったし」
「私は足を引っ張るし」
「アイツは、今ほど強くも無かったし」
当時を思い返しているのか、エミリアは瞳を閉じたまま、楽しげに言葉を紡ぐ。
「色々と危険なこともあってー。……まあ、その七割くらいは、私の所為だったりもして。自分のアイデンティティというか、存在意義を考えたりもして。自暴自棄になったりしてさ」
今のソラみたいに、彼の前から姿を消してみたり。なんて、エミリアは苦笑しながら言った。
「でもさ――そうしたら、アイツは探しに来てくれるじゃない。そんで、私がミスしても、普通にこっちを最優先に心配してくれてさ。本人は否定してるけど、優しいんだよ。凄く」
「…………」
そんな事は、言われなくても知っていた。青年は、強くて、優しくて、だから――
「――だから、そんな姿見たらさ、心配とか、かけられないじゃん」
そう言って、エミリアは笑った。
「そうはいっても、アイツは何時までも心配し続けるんだろうけど……だからさ、あんまり気にしないの。最初は心配させることも多いだろうけど……後で諸々、利子付けて返せばそれでオッケー。わかった?」
そういうと、エミリアはぽんっとソラの頭に手を置いて、くしゃくしゃと撫でる。青年の乱暴な手つきとは違う、繊細で柔らかい撫で方だった。
「…………」
それで、気付く。
この人は、何時までも落ち込んでいる自分を、叱りに来たのだと。
それは、青年には出来ないことだから。
そして……励ましに来たのだと。
結局、彼女も青年と同じくらいに、優しい人なのだ。なんて、今更になって気付いた。
「……んじゃ、まあ私はこの辺で」
そう言って、エミリアはソラの頭を軽く叩くと、その場を立ちあがった。
ソラが、エミリアの後に付いて立ちあがろうとするが、彼女は笑いながらそれを押さえる。
「…………?」
首を傾げるソラに、エミリアは悪戯っ子のような頬笑みを浮かべながら指を一本立てて、ソラの額に突き付ける。
「今日だけ、サービス。もうちょいここで待っといて。日が昇るまでには、連れてきてあげるからさ」
そう言って、エミリアは踵を返すと、彼女を置いて城門の方へと歩いていってしまった。
「……………………」
その場に残された少女は、怪訝そうに眉を顰めつつも、再び砂丘の上に腰をおろし、何処までも続く地平線と、その上に広がる星空を見つめていた。
――少しずつ白んで行く空を、ぼんやりと見つめていた。
黒い天蓋は、地平線から少しずつ藍に染まっていき、世界は、徐々に光に包まれていく。
この光が完全に世界を照らした時、空はどんな色になるのだろう。このまま、青く染まっていくのだろうか。それとも、後から続く赤い光が、全てを塗りつぶしてしまうのだろうか。
それとも、全部の色が入り混じって――誰も見たことが無いような空の色に変わるのだろうか。
考えても分からない。身近な新人にでも聞けば簡単に分かるのだろうが。知った所で、少女にその空が見れるわけではない。
だから、少女にとって空の色は、何時までも謎のままだ。
「――――――――」
少女が空を眺めていると、見覚えのある黒い外套が視界の端を棚引いた。
彼女がそのまま前を向いていると、誰かが隣に座る気配がする。
視線を向けずとも、誰が居るかなんて分かりきっていた。今この瞬間、彼女の隣に座る人なんて、一人しか居ない。
「――昼の空というのは」
不意に、隣に座った彼が、普段通りのぶっきらぼうな声で呟く。
「昼の空というのは。青い色をしているらしい。光というのは、幾つかの色を内包していて……その中で、青い色というのは、一番広がりやすいのだと」
――青。
声を出せない少女は、心の中で呟く。
「青。――この、見渡す限りの天蓋全てを埋め尽くす、圧倒的な青。空色とまで言われる、透明で、美しい、青。俺に、その色を見ることは出来ないが――」
彼が、少女の方を向く。少女もまた、彼へと視線を向ける。柔らかい黒髪。精悍な顔立ち。何時か、助けを求めた――無愛想な表情をした青年の顔を、少女は瞳に捉える。
「――――ソラ」
そして青年は、少女の名前を呼ぶ。
「お前の瞳の色は、きっと――空の色なんだ」
少女の瞳を、真っ直ぐに見据えながら。
「お前の目には、俺の希望がつまっている。だから……その、だな……」
決して瞳は逸らさないようにしながらも、言い辛そうに口を噤む青年。少女は、そんな青年の姿を見てくすりと微笑むと、力強く頷いた。
青年は、そんな少女を見て、意外そうに目を見開くが、すぐにふっと瞳を細めて、柔らかく微笑む。
「…………そうか」
それだけだった。
それだけで、良かった。
青年が、喋れない少女の考えを、言葉が無くとも何となく理解できるように。
少女も、青年がどれだけ自分の事を思ってくれていたのか、感じることが出来たから。
だから、少女はそれで良かった。
「……………………」
青年は無言で立ちあがると、頬笑みを浮かべたまま、座ったままの少女へと手を差し伸べる。
「――帰るか。ソラ」
そして。少女は、その手を掴んだ。
Epilogue『Overwhelming Blue.』
二人……というよりも、ソラが無事に城壁の前に帰って来た時、誰よりも喜んだのは、ヴィルだった。
その巨体の割に、涙もろい彼は、ソラが無事であることに涙を流し、ソラと青年の手が握られているのを見て更に涙を流す。
そんな姿を、隣に立つエミリアがおかしそうに笑いながら見つめていた。
「………………………」
ふと、ソラとエミリアの視線が合う。
少しの沈黙の末、エミリアがふと苦笑を洩らすと、同じようにソラも笑う。
エミリアはソラの前まで来て、彼女に左手を差し出して、言う。
「んじゃ、今度こそあらためて。私、エミリア。よろしくね、ソラ」
ソラが空いた左手で、躊躇うことなくその手を取ると。ヴィルはそれでもやっぱり泣いて、二人はそれを見て笑う。
そして。
「じゃあ、帰るか」
青年の言葉に、ソラとエミリアが頷く。
これ以上外にいることは出来ない。どれだけ空の色が美しくても。どれだけそれを渇望しようとも。ここにいる彼らには、それは見ることの出来ない夢だ。
だから、今日はもうおやすみだ。
明日からも、暗い夜を生き抜く為に。
城壁の中へと入る前に、少女はもう一度空を見上げた。
遮るものの無い天空の、藍色は徐々に赤色へと侵食されて、城壁の外を光が照らす。
――頭上には、朝焼けのソラ。
何時か、青空へと移り変わる。