表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

3.『That fellow came back』


 その日、特に仕事も無く、急ぎの用事も無かった青年は、ソラを連れて例の酒場へと向かった。

 ……いや、本来青年に、少女を連れていくつもりは無かったのだが、青年が部屋を出ようとすると、少女の方から腕にまとわりついて来たのだった。

「…………はぁ」

 昨日の朝、彼女と朝焼けを見てから少女の様子が妙におかしい。やけに青年の腕にまとわりついてくるし、とにかく青年の後を着いて来ようとする。そのくせ、青年が少女に目を向けると、何故か彼女はフードを被ったり顔をそらしたりと、青年と目を合わせようとしないのだ。

 少女の謎の行動が全く理解できず、青年は首を傾げながら酒場への道を歩いた。

 そうしてしばらく歩き、青年は酒場の入り口で足を止める。同じように、青年の腕にまとわりついていた少女も足を止めて青年の顔を見上げる。

「…………?」

 酒場の入り口を見ながら、青年は怪訝そうに顔を顰めた。普段はまるで客の居ない酒場だというのに、今日は誰かが居るらしい。一瞬、ヴィルだろうかとも考えたが、しかしあの気の良い新人の青年は、今日も城壁を守る仕事に付いている筈だ。

 では、誰だろうか。一応は酒場であり、客が居ることに違和感を感じるというのもおかしな話だが、それにしても。と青年は思う。

「…………?」

 酒場の前で立ちつくしていると、隣に立つ少女が外套の裾を引っ張った。顔を向けると、不思議そうに首を傾げている。

「ああ……いや。なんでもない」

 青年は首を振って少女に答えると、再び酒場に目を向ける。

 何にせよ、ここまで来たのなら酒場に入るしかあるまい。ただの客であるならそれで良いし、そうでないのなら……。

「……少しの間、ここで待っていろ。俺が呼んだらこい」

 少女をその場に待たせ、青年は外套の下の刃の柄に手を置いた。そのまま、少女を守るように一歩前へ足を踏み出す。

「…………」

 入口の端に身体を隠し、酒場の中を覗き込む。見ただけで分かるような違和感はなかった。店主は相変わらず、信用の出来ない愛想笑いを浮かべながらカウンターに立っていて、その前には、フードを被り顔を隠した、一人の客の姿。

「…………誰……だ……?」

 顔は見えないし、後ろ姿だけでは性別すらも分からない。しかし、その背中は、何故か見覚えがある気がする。

「……………………」

 ともかく、こうして覗き見ているだけではどうしようもない。そう決めた青年は壁から身体を離すと、刀に手を置いたまま酒場の入り口を潜った。

「お、よう『夜』。今日も暇みたいだな」

 青年の姿に気付いた店主が、普段通り挨拶をする。そこまではいい。次だ。店主の台詞を聞いた時、カウンター席に座る客が、ピクリと反応した。

「…………」

 青年の身体に緊張が走る。気付かれないよう半歩ほど足を開き、右手で刃の柄を掴む。ゆっくりと姿勢を低くする青年に対し、その客は席から立ち上がりゆっくりと振り向くと、顔を隠すフードを外し――

「…………あ?」

「――『夜』!」

 間の抜けた青年に、フードを外した客は声を上げて青年の胸元へと飛び込む。呆気にとられた青年は反応することが出来ず、客のタックルをもろに受けて仰向けに倒れ込んだ。

 輝くような金髪と、翡翠色に煌めく瞳。未だ幼さを残すその顔には歓喜の笑顔が浮かんでいる。

「『夜』! 会いたかった!」

「…………エミリア?」

 思わず呟いた青年の言葉に、エミリアと呼ばれた少女はますます頬を緩めて、青年の胸に顔を埋めた。

 少女に伸しかかられたまま、青年はようやく緊張を解いて、代わりに呆れの籠ったため息を吐く。

 見覚えがある筈である。この金髪の少女、エミリアは彼がこの街に来た時からの付き合いで――恐らくはこの街で唯一、彼と同年代で、彼と共に過ごした旧人の少女なのだから。

「……どうでも良いが、退け。重い」

「相変わらずデリカシーがないねー。まあそれでこそ『夜』だけど。帰って来たって感じがするよ」

 言いながら、エミリアが青年の上からどいて立ちあがる。青年も、立ちあがると、二、三度外套の裾を叩いて、再びエミリアと向き直った。

「……何時帰って来たんだ」

「んー……昨日の朝かな。いやー。丁度辿り着くと同時に夜が明けてさー。危うく街を目の前に野宿する羽目になりそうで……」

 あはは。とお気楽に笑うエミリア。二ヵ月ぶりの再会だが、変わった様子はなさそうだ。そんなエミリアを上から下まで見渡して、青年は再び息を吐いた。

 そのため息に、安堵の感情が混じっていることが分かるのは、恐らくはこの場に居る人間か、せいぜいヴィルくらいなものだろう。

「……まあ、相変わらずそうで何よりだ」

 青年はエミリアから視線をそらすと、頭を掻きながら呟く。エミリアもまた、それに笑いながら頷いて。

「うん。ありがと。『夜』の方も、元気そうで何よりだよ。――ところで」

 エミリアは言葉を切ると、青年の後ろを指差して。

「その娘――誰?」

「……………………」

 青年が無言で振り返ると、そこに、何とも言えない複雑な表情をしたソラが、店の入り口で立ち往生していた。



「んじゃ、自己紹介。私はエミリア。一応この街の住人……だけど、職業柄、あんまり街に居なくてさ。で、久々に帰って来たわけですよ」

「…………」

 カウンター席ではなく普通の席に、エミリアとソラは向かいあうように座り、その仲立ちをするかの如く青年が二人の間に座っている。相変わらずのお気楽笑顔を浮かべるエミリアに対して、ソラは微妙に不機嫌そうに唇を尖らせながら、半目で目の前の女を睨んでいた。

「ああ、因みに私の職業ってのは……んー。なんだろ。行ってしまえばトレジャーハンターみたいな? 砂漠に埋もれてる昔の廃墟とか遺跡とかに入って、使えそうな機械とか備品とかを取ってくるわけ。場合によってはそれこそ数カ月もかけて遠出する仕事だからねー。旧人の身としては辛いものだよ」

「…………」

 少女は無言で手元のスケッチブックに視線を落とすと、片手に持ったペンでさらさらと文字を書き、エミリアに向ける。

『なら、どうしてやってるんですか?』

「ん? あー。まあねぇ。これは仕方がないんだよね。新人の皆さまはさ、旧文明が理解できないから、ガラクタとそうでないものの区別が付かないんだわ。だから、多少のリスクを負ってでも、私みたいに知識のある旧人が行く必要があるわけ」

 大変だけどね。とエミリアは肩をすくめて苦笑すると、再びソラに目を向けて台詞を続ける。

「……ま。だけど、全然抵抗する術がない訳じゃないしね。こちとら旧人でありますし。例えばほら、こういうの」

 エミリアは腰元に手をやると、ベルトに掛けた特殊な形状のサックから、見覚えの無いモノを取り出した。

 明らかに手で握る為に作られた、グリップ上の取っ手の上に、直角というにはやや滑らかに鉄製の部品が取り付けられている。手元に近い所には、鉄で作られた円柱状のパーツがあり、その先に、筒状の棒が伸びている。

「銃だよ、銃。ソラちゃんも、この街で暮らしてるなら、見たことは無くても聞いたことはあるでしょ?」

 エミリアの言葉に、ソラは頷いた。確か、この間読んだ文献に載っていた気がする。火薬の力で鉛玉を飛ばす、旧人類が生み出した武器の最終形態ファイナルアンサー。サイズによって呼び方や用途が違った筈だが、確かこのサイズの銃器は、拳銃と呼ばれていた筈だ。

 ソラが黙ったまま考察を続けていると、先ほどまでやたらと喋り続けていたエミリアは、どうしてか黙り込んでソラの顔を眺めていた。

「…………?」

「んや、ちょっとした疑問なんだけどさ」

 ソラが首を傾げると、エミリアはソラの顔と、手に持つスケッチブックとを見比べて、

「もしかして、喋れなかったりする? 声が出ないとか」

「…………」

 ……今更気付いたのか。という感情と、言われたくはなかったという感情が、ソラの心の中で入り乱れる。あまり良い気分ではなかったが、あえて顔に出す事は無く、頷いた。

「そっかー。いや、そうじゃないかとは思ってたんだけどね。さっきから」

 それなら、わざわざ突っ込まなくてもいいではないか。そう思いつつも、ソラは必至で感情を押し込めた。何故か彼女の前で、そういった感情を露わにするのは、嫌だった。

「ふーん……。なるほどなるほど」

 一人、納得したように頷くエミリアから視線をそらし、ソラはカップに口を付ける。気にしなければ平静を装える。そう、自分の胸に言い聞かせながら。

 ……が。そんな彼女のささやかな抵抗は、

「そっかー……まあ、こっちもこっちで全然喋らないしね。っていうか、なんか言えよー。折角久々に会えたのにー。『夜』は喋れるだろー?」

 エミリアが、唐突に隣に座る寡黙な青年に絡みだしたことで、あっという間に破綻した。

「………やめろ。絡むな」

「えー。なんでよ。久々に会えたんだし良いじゃんさ」

 エミリアが青年に絡むのを見る度に。ついでにいえば、それをあしらう青年が、決して本気で拒絶しているわけではないのを見る度に、ソラの胸の内を、良く分からない感情が支配する。むかむかとした、あまり良い気分はしない感情だ。

「あれ、ソラちゃんどうしたの? 怒ったような顔をして」

 青年の首に手を回しながら、疑問符を浮かべたエミリアが首を傾げる。ソラは、出来るだけ平静を装いながら(実際は、全く装えていなかったのだが)首を横に振ると、再びスケッチブックに視線を落として、乱暴に文字を書くと、エミリアに見えるように机の上に叩き付けた。

『お二人はどういう関係なんですか』

「ああ、それは――」

 青年が口を開こうとしたのを、エミリアの右手が塞ぐ。不満げな瞳を向ける青年とは裏腹に、エミリアはにこりと微笑むと、青年の唇に顔を近づけて、そのまま軽くキスをした。

「――――」

 呆気にとられるソラに、エミリアは青年の首に手を回したまま視線を向けると、口を開き。

「――こういう関係」

 なんて、怪しげに微笑んだ。


 城壁の街。そのシンボルともなっている、常に拡張を続けている白灰色の城壁は、ただの壁としての役割だけでなく、多く技術者である旧人や門番を行う新人の居住区となっている。下水の整った各人の個室はもちろんのこと、食堂や共同浴場、談話室まで用意されたそれは、ただの城壁というよりも共同住宅といった印象が強い。

 そして、その中の第三談話室。他に人も居ない中に、ふくれっつらのソラと困ったような顔で彼女を宥める巨大な影の姿があった。

「――――っ! ――――っ!」

「ああ……なるほど、エミリアが帰って来たのか……いてっ!」

 苦笑いを浮かべながらソラを宥めるヴィルの足を、彼女は頬を膨らませながら蹴りつける。もっとも、彼の足は鉄のように硬く、逆に蹴り上げたソラの足の方が痛んでしまい、少女は足を抱えて蹲る。

「ふぅん。アイツが帰って来た……ねえ」

 対するヴィルは、蹴られたことなどもう忘れてしまったか、あるいは気付かなかったかのようにソラを見下ろしながら頬を掻く。

「で、どうしてソラだけが帰って来たんだ?」

「…………っ!」

 ヴィルの問い掛けに、ソラはキッと顔を上げて彼を睨みつけると、すぐさま手元のスケッチブックを取ってさらさらと文字を書き、間抜け面のヴィルの眼前に突き付ける。

「おお……って、ああ。なるほど。追い返されたのか。まあ、久しぶりだしな。積もる話もあるだろうさ……」

 感慨深げに呟くヴィルに、ソラはスケッチブックを手元に戻しページをめくると、物凄い勢いで文字を書き殴り、再びヴィルに向ける。

「あーっと。あの人とどういう関係か、だって? ああまあ。なんていうかな。ちょっと特別な関係というか。……あ? 付き合ってるのか? いや、そういうんじゃなくて……いたっ! 痛いっ! スケッチブックで殴るなよ!」

 曖昧な返答しかしないヴィルに腹を立てたソラは、閉じたスケッチブックで二、三度その身体を叩く。もっとも、相変わらずその巨体にはダメージは与えられていないのだけど。

 眉を顰めるヴィルに、ソラはもう一度スケッチブックで叩くと、踵を返して談話室から出ていこうとする。

「あーっと、とりあえずそんな気にすること無いと思うぞー。あいつ、あんまり街に居ないしさ、どうせ今回もすぐに街から出ていっちまうって」

「…………」

 苦笑を浮かべながら呟くヴィルの言葉に、ソラはふんっと鼻を鳴らすと、今度こそ振り向かずに談話室を出ていった。


 部屋に戻ったソラは、スケッチブックを机の上に投げ、外套を床に脱ぎ散らかすと、普段青年が寝ているソファにばふんと身体を預けた。

「…………」

 ヴィルはああ言っていたが、それでも、ソラの胸に渦巻く不安は、何時までも消えない。

 それが、どういう不安で、どういう意味を持っているのかも、少女は良く分からないままに。

「…………」

 良く考えれば、当たり前の事なのだ。少女がここに来て、未だ一カ月しか経っていない。青年との付き合いも、勿論それだけ。その十倍以上の年月をこの街で過ごしてきた青年に、少女の知らない人間関係があっても、何の不思議も無い。だから、当たり前の事なのに……。

「……~っ!」

 ぼふっと、ソファに頭を埋める。普段は青年が使っているソファ。その匂いは、彼女を安心させるものだったが、今はその匂いを嗅ぐと、同時にエミリアの顔が脳裏をよぎり、いまいち落ち着くことが出来なかった。



 エミリアが帰って来てから、一週間近く。ヴィルの励ましとは裏腹に、ソラの抱いていた不安は、見事に的中することになる。

「やっほー『夜』ー!」

 仕事の無い青年が、部屋のソファでゆったりとしていた所、部屋の扉が勢い良く開くと同時に、気風の良い笑顔を浮かべたエミリアが顔を出した。

「おー。夜も更けたというのに未だ寝てるんだ。相変わらず怠惰な生活を送ってるねえ」

「……また来たのか」

 青年が気だるげな瞳でエミリアを見つめる。

「うん。来たぜ」

「……たまの休みくらいゆったりしたいんだが」

 青年の台詞とは裏腹に、その声色や雰囲気は、決して本気で拒絶しているわけではない。……もっとも、それが分かってしまうからこそ、ソラの心は言いようのない苛立ちにとらわれてしまうのだが。

「…………」

 エミリアは無言でベッドに座るソラの方へと目を向けると、意地の悪そうな頬笑みを浮かべて再び青年へと向き直った。

「まあそう言うない。今日の私は店主さんの使いで来たんだからさ」

「アイツが?」

 青年はソファから身体を起こすと、幾分真面目な顔をしてエミリアを見つめ直した。

「そ。久々の仕事の依頼っぽいよ」

「……わかった」

 表情を引き締めた青年がソファから立ちあがり、壁に掛けた外套に手を掛けて羽織る。そして、壁に立てかけられた刀を掴むと、外套の下のベルトに差した。

 あっという間に身支度を整えた青年は、ベッドに座ったままの少女へと顔を向けて、口を開いた。

「……そういうことらしい。朝まで帰らないかもしれないが、普段通り、朝方は外に出ないように気を付けて――」

「あー、ちょっと待って。店主さんは『夜』だけじゃなくてソラちゃんも連れて来いって言ってたから」

「…………なに?」

「…………?」

 首を傾げるソラと、訝しげに眉根を寄せる青年。二人がエミリアへと視線を向けるのは、ほぼ同時だった。

「……どういうことだ」

「どういうことって、そういうこと。良くわかんないけど、その娘も連れてこいーって。……というわけで、ソラちゃん」

 エミリアは、ベッドの前まで歩みよると、今もって状況が分からず混乱するソラに顔を寄せ、満面の笑みを浮かべて、その腕を掴んだ。

「お姉さんと一緒にまいりましょー」

「…………っ!?」

 エミリアはソラを無理やり立ち上がらせると、腕を引いて歩きだす。

「……………………」

 その様子を見ていた青年は、呆れたように息を吐くと、同じく壁に掛けられていた、少女用の白い外套を手にして、二人の後を追った。


「おお。ようやく来たか。遅かったな」

 三人が店に入ると、珍しくカウンターから出ていた店主が、笑顔で出迎える。

「……仕事か?」

 普段通り、無愛想な態度で呟く青年に、店主は頷くと、店の中心にある四人用の机を指差した。どうやら座れということらしい。

 青年が先行して、奥の椅子に座ると、次にエミリアが彼の左隣の席を取る。ソラは少しだけ悩んだ末に、青年の右隣の椅子を引くと、俯きつつも控えめに座った。

「うん。ちゃんと穣ちゃんも連れて来てくれたらしいな」

 ソラが顔を上げると、店主が盆の上に乗せたミルクの入ったカップを少女の前に置く。同じように、恐らくは酒が入っているのであろうグラスを、青年とエミリアの前、そして最後に開いた席に置くと、店主は盆を近くの机に置いて、青年の向かいの席に腰掛けた。

「ふぅ……ま、飲め」

 椅子に座った店主はそう言うと、自分の前のグラスを手にとって口を付ける。エミリアもまた、同じように口を付ける中で、青年だけは手にすることも無く目を細めて店主を睨みつけた。

「……どういうつもりだ」

「どういうつもりとは?」

 低く唸るような声で喋る青年とは対照的に、店主はあくまでも飄々とした様子を崩さない。その態度に、青年は軽く舌打ちをすると、グラスを手に取り、しかし口を付けずに言葉を続ける。

「ソラを連れてこいという話だ。俺の仕事に、どうしてこいつが必要なんだ」

「それは、今から説明するよ」

 店主はにやりと笑うと、酒を一気にあおり、空になったグラスを木製の机に勢いよく叩き付ける。

「今回お前に頼みたいのは、まあ、ちょっとした取引だ。先方は北にある新人の集落の代表。こっちは鉄器。あっちは金」

「…………」

 店主を睨みつけながら、無言で話に耳を傾けている青年の横で、ソラは近頃手に入れた知識を動員して話の内容を理解しようとする。

 鉄器。というのはそのままの意味だ。かつて、旧人が繁栄を誇っていた頃、鉄器の使用は決して珍しいものではなかった。しかし現在、それほど高度な製鉄技術を有しているのは、点在する僅かな旧人の集落か、もしくは西に広がる巨大な帝国のみである。そのどれもが――この街も含めて――鉄の製法を機密としている為、新人の世界では鉄器は非常に珍しく高価な存在となっていた。

 旧人の技術とはいえ、それ自体には特別な技術が使用されているわけでもなく、新人にも扱える鉄器は、ここ城壁の街にとって、外との通商での重要な商品の一つとして扱われている。……筈だ。

 しかし、それなら――

「それなら、普通の取引だろう。俺やお前が出張る理由がない。……こいつを連れてくる理由は、更にない」

 少女の疑問を言葉にした青年は、ぽんっと少女の頭に手を置く。

「ごもっとも」

 しかし。と店主は肩をすくめると、悩ましげに頭を抱えた。

「ま、そう簡単には行かなくてね……。そんな楽な仕事、俺の店には回って来ないからな」

「だろうな」

 店主のわざとらしい演技に、青年はため息を吐くと、少女の頭から手を降ろし、椅子に座りなおす。

「で、なんだ」

「どうにもそいつら、随分と礼儀を知らない連中らしくてね。正直、あまり良い噂を聞かない。今回の取引も、まともに行うつもりなんて無いだろうな」

 その説明を聞いた青年は、横目に少女を見やると、ますます顔を顰めた。

「……なら、俺一人が行けば済む話だろう。どうしてこいつを連れていく必要がある」

「そこだよ」

 我が意を得たりとばかりに、店主は青年の額を指差した。

「そう。太古の技術で武装した旧人や、洗練された技術と武装を持つ帝国の軍人達を相手にするならともかく、そこらの安い小悪党どもにお前が負けることはないだろう」

「なら――」

「だから、それが問題なのだよ。考えてもみろ? 絶対に敵わない相手に勝負をふっかけよう何て思うか? 特にお前は有名だから、姿を現した途端に尻尾を巻いてとんずらだ。あの手の輩は、何よりも自分の保身を優先するからね」

「…………」

「まあ、そのまま放っておいても害はないんだが、利益にもならない。どうせなら稼げるだけ稼ぎたい。というわけでうちに回ってきたわけだが……これだけ言えば、大体言いたいことは分かっただろう?」

 黙り込む青年に代わるように、当事者であるソラはスケッチブックを取り出すと、さらさらと自分の予想を書いて机の上に立てた。

『囮?』

「正解」

 店主の指先がスケッチブックを指すと、ソラは照れたように頭を掻いた。

「…………」

 一方で、先ほどから沈黙したままの青年の顔は、ますます厳しい顔になっていく。店主は顔をソラの方に向けたまま、話を続ける。

「砂漠で噂の吸血鬼を相手にする。こんなバカな話に乗る奴は居ない。でも、相手が年端も行かない少女なら? 奴らは乗ってくるどころか、思いっきり油断してくれるだろうな。そこを『夜』が――」

「断る」

 にべも無く、青年はその提案を拒んだ。

「……おいおい。もう少し考えてくれても良いだろ」

「断ると言った。この話には乗らん。ソラ、帰るぞ」

 言うが早いか、青年は椅子を立つと踵を返す。少女は慌てて、その後に付いていこうとして、

「まあ待て。せめて穣ちゃんの意見を聞いてからにしろよ」

 そんな、店主の一言に、足を止めた。

「…………?」

 ソラは店主の方に目を向けて、首を傾げる。『穣ちゃんの意見』も何も、この話はソラだけでは成り立たない。もう一人、護衛役が居ないことには、ソラ一人では何もかも奪われてしまうだろう。下手をすると、ソラ自身も青年と出会う前の様な売りモノにされてしまうかもしれない。

「腕護衛役ならここに居るじゃん。ほらほら」

 と、先ほどまで全く会話に加わらず、ちびちびと酒を飲んでいたエミリアが、頬笑みを浮かべながら片手を振る。間髪入れず、店主もうんうんと頷きながら口を開いた。

「そう。こいつのもつ『銃』ってのは旧人の武器だ。さすがに『夜』程とまではいかんが、そこらの小悪党相手なら十分さ」

「……っ! 待て!」

 青年は足を止めて振り向くと、少女が今までに見たことが無い程の焦りを見せて、机へと戻ってきた。

「だから、そういう問題じゃないと言っているだろうっ」

「こういう問題だろう? お前が受けないっていうなら、俺は他のツテを当たるだけだし」

「で、ちょうど私は暇だしー?」

 意地の悪い笑みを浮かべる、店主とエミリア。少女はその二人と、唖然とした顔で立ちつくす青年の顔を交互に見比べて、困ったように頭を掻いた。

「なあ、穣ちゃん。穣ちゃんも、いい加減この街には慣れてきただろう? そろそろ一つ仕事をこなしてみると言うのも、悪くないと思うんだ」

 唐突に話を振られて、ソラはびくりと身体を震わせる。

「どうだい。アンタ、今日までこのアホの世話に成りっぱなしだったろう? ここはひとつ、一人前に成長した所を見せてやるってのも良いんじゃないか?」

「…………」

 店主の言葉に、ソラは黙って俯いた。

 そう。店主の言い分はもっともなのだ。ソラが青年の世話に成り始めて、約一カ月。これまでにソラがやったことと言えば、ちょっとした家事の手伝いと勉強だけ。

 よく思い返してみれば、青年の為になることを全くしていない。だから、ソラは、彼の役に立てるような機会を、今か今かと待ち望んできた。

 そして、今。

 もしかしたら、青年の手伝いが出来るかもしれない仕事が、目の前にある……。

「おい、待て。こいつを丸めこもうとするな」

 青年がソラを庇うように手をやって店主を睨む。だが、店主は笑みを浮かべたままで、青年とその後ろのソラに言い聞かせるように言葉を続ける。

「でもな、こんな良い仕事はねぇぞ? 相手も三下。腕の立つ護衛も着く。最初にちっとばかり危険を冒すだけで、初仕事としては上々だ」

 そう、確かに危険も無いことはないが、それでも青年が普段やっていることと比べれば、そのリスクは格段に少ないだろう。

 決して、出来なくはない。

 青年の為になる。

 何より、初めて自分の力で報酬を得ることが出来る。一人でとは行かないが、それでも与えられるだけの生活に比べれば、格段の進歩だ。

 それは、大切なことだった。彼女が生きる為には。

「だから、その危険を冒すと言うのが……」

「――んじゃ、私一人でやろうかな」

 未だに渋る青年の言葉を遮って、エミリアが言う。

「エミリア……?」

「別に良いでしょ? 私だってこれでもか弱い女の子だし。だけど強いし」

 確かにエミリアは、おとり役と護衛役、両方の条件に当てはまっている。なので、そもそもエミリアが仕事を受ければ、何の問題も無い。……しかし。

「だからま、任せといてよ。バッチリ『夜』の代わりを務めて来てみせるからさ」

 その言葉は、僅かに芽生え始めた少女の決意を確かなモノにするには、十分だった。

「…………っ!」

 ソラは両手で勢いよく机を叩くと、すぐにスケッチブックを広げて文字を書くと、呆気にとられる青年の顔に、その言葉を突き付ける。

『やりますっ!』

 ……何となく、店主やエミリアに上手く乗せられた気もするが、それでも良かった。

 青年の役に立つ為に。

 自分一人で生きていく力を手に入れる為に。

 そしてなにより――目の前で不敵に笑う、エミリアへの良く分からない対抗心の為に。

 ――か弱い少女は、戦うことを決意した。



 突然にやる気を出したソラは店主から「取引は明日」という話を聞くと、さっさと城壁へと帰ってしまった。

 店に取り残された青年は、カウンター席に移動すると、結局話し合いの間一度も口を付けなかった酒を一気に飲み干し、大きくため息を吐く。

「……一体、なんだってんだ」

「アンタの役に立ちたいんでしょ。良い子じゃん」

 隣に座るエミリアが、からからと楽しげな笑みを浮かべる。

「うるさい。大体、お前がけしかけたんだろうが」

「おおっ。怖い怖い。相変わらず過保護だねー」

 青年が睨みつけると、エミリアはわざとらしく怯えた演技をする。

「ま、でも。相変わらず変わってなくて安心したかな。そういうところも含めて」

 青年に視線を向けて頬笑みを浮かべるエミリアに、青年は不満げに唇を尖らせて視線をそらした。

 エミリアとはそれこそ、この街に来た時――というよりも、それ以前からの付き合いで。恐らくは今現在、彼の感情や内面を誰よりも理解出来ているのは、彼女である。

 だから今、青年がその内心で、どれだけの不安に駆られているかも全て理解したうえで、エミリアは笑った。

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、あの子も。私だって大丈夫だったんだからさ」

「…………………」

 そんなエミリアの言葉に、青年は何も言えず、黙ったまま顔を俯けた。



 ――そして。次の日。

 北の城門を出てすぐの砂漠に幌馬車が止まっており、そのすぐ隣に、青年とソラ、店主とエミリアの四人が集まっていた。

「んじゃ、とりあえず計画を説明するぞ」

 店主が両手を叩いて三人の注目を集めると、親指を立てて背後の馬車を指す。

「件の鉄器はこの馬車の中に入っている。穣ちゃんには、馬車を引いて奴らとの取引の場所まで行ってもらう」

「……出来るのか?」

 青年が隣に立つソラに問うと、ソラは勢いよく頷いた。その事実に、青年は少しだけ驚く。

「なんだ、お前知らなかったのか? コイツが色々回って勉強してること、お前だって知ってるだろ?」

 店主の問いに、青年は視線をそらして舌打ちをする。一緒に暮らしているとはいえ、ソラは口が聞けないし、青年もあまり話す方ではない。そもそも、青年は仕事があるので、あまり部屋に居ないことが多いのだ。

「まあ、良いや。とりあえず話を続けるぞ。で、『夜』には馬車の中に隠れておいてもらう。取引場所に付いたら、馬車を降りて影で待機。奴らが動いたら――」

 店主が、青年の外套の下にある刃を指差す。青年が頷くと、店主はソラへと視線を動かす。

「穣ちゃんも、あちらさんが不審な動きをしたら、さっさと非難すると良い。なに。はなっから小悪党だってのは分かってるんだから、遠慮するなよ」

 こくこくと何度も頷く少女を見ながら、青年は不安に駆られつつも、再び店主に目を向ける。

「……それで、もしも奴らがまっとうに取引をしにきたら、どうするつもりだ」

「うん。殆ど間違いなくありえないことだが、その可能性も無いわけじゃない。そうなったら、まともに取引してお終いだ」

 店主はそこで台詞を終えるが、ふと、思い出したように少女の方を見て言葉を続ける。

「……ああ、一応言っておくが、穣ちゃん、金貨は絶対に、先に受け取るようにしろよ」

 再び頷く少女に、店主は満足げに頷いて、もう一度三人を見渡した。

「取引の場所は、北の遺跡の門だ。そんじゃ、行ってくれ」

 そう言い残すと、店主は馬車の前から退いた。ソラはもう一度大きく頷いて、馬車の運転席へと向かう。

「…………」

 青年は少し考えた末に、少女の後を追って肩を叩く。

「…………?」

「……あー」

 振り向いて首を傾げるソラに、青年は頭を掻きながら、言い難そうに口を開く。

「その…だな。途中まで、俺が馬車を御そうか」

「…………?」

「つまり……結局、取引先に到着した時に、ソラが御していればいいわけだから……途中まで俺が――」

「…………」

 ソラは首を横に振ると、肩に乗った青年の手を取り、にこりと笑った。

「…………」

 それだけで、青年は何も言えず、無言でその手を降ろす。

 青年の手を離し、駈け足で馬車の運転席の前まで向かう少女の背中を見ながら、青年はその場に立ちつくした。

「フラれてやんの」

「やかましい……大体、お前は関係ないだろう。どっかいけ」

 茶化しにくるエミリアを追いやって、青年は馬車の裏手に回った。

 幌の中を覗くと、鉄器の詰まった木箱が積み重なっている中に、ぎりぎり人間一人が座れるようなスペースが取ってある。

「……………………」

 青年は、そのスペースに身体を割り込ませると、木箱を崩さないようにしながらゆっくりとその場に座る。

「……ふぅ」

 背中の木箱に身体を預けながら、青年は息を吐いた。過保護過ぎると何人もに言われ、自分でもその自覚はあるのだが、それでも……。

「心配性」

 顔を上げると、エミリアが苦笑を浮かべながら幌を覗いていた。エミリアはふっと息を吐くと、俯く青年の肩を二、三度叩く。

「ま、心配するのは良いけど、信頼もしてあげなよ。そうじゃないとあの子が可哀想だよ」

 そう言い残して、エミリアは去っていった。幌が戻り、馬車の中を暗闇が包む。

 エミリアが言っていることも、勿論分かる。

「……分かっては、いるんだが」

 それでも、心配なものは心配なのだ。もっとも、こんな事を言っているから、過保護だなんだと言われるのだが……。

「…………はぁ」

 両膝の間に顔を埋めて、青年はもう一度、大きく息を吐いた。


 ガタガタと不規則に揺れる馬車の中で、青年は身動きとらずに心を落ち着かせる。

 甚だ不本意ではあるが、既に馬車は出発してしまった。今の青年に出来るのは、無事にこの取引を終わらせることだけだ。

 無事に……というのは、もちろんこの取引を成功させると言うだけでなく、ソラに傷一つ付けずに、という意味でもある。

「……………………」

 肩に掛けた刃の鞘を、強く握りしめる。今までで一番難しい仕事だと、青年は思った。

一人で行うなら、そう難しい仕事じゃない。普段通り、抵抗すれば切り捨てるだけだ。何の容赦も無く。その為の青年であり、その為の刃である。

 ……だが。今回はそれだけではダメなのだ。自分と敵だけでなく、少女にも気を配らなければならない。

 だから、それが問題だった。彼の刃は斬ることは出来ても、誰かを守るなんてことは、したことが無い。

 それでも、守らなければいけない。彼女の為にも……なにより、青年自身の為にも。

「…………は」

 やはり自分は甘いらしい。と、青年は自虐的な笑みを浮かべる。同時に、馬車がひと際大きく揺れて動きを止める。

 何か問題でも起きたのかと、青年は一瞬不安に駆られる。しかし、馬車から少女が降りる気配を感じて、取引場所に到着したのだと、青年は理解した。

「…………さて」

 刃を片手に掴み、ゆっくりと立ちあがると、少しだけ幌を開いて外の様子を窺う。

 見える範囲に敵は居ない。それを確認してから、青年は静かに馬車から地に降りた。すぐさま馬車の側面に身体を隠し、向かいを窺う。

 馬車から二十メートル程先、石造りの、アーチ状になった門の前に、五人の新人の男達が立っていた。それぞれ砂漠用の外套を羽織っており、少なくとも傍目には武器を持っているようには見えない。

 しかし、青年がその黒い外套の下に刃を隠し持っているように、彼らもまた、その下に武器を持っているかもしれない。

「…………」

 青年は鞘から刃を抜くと、姿勢を低くしたまま右手に構えた。五人程度であれば、青年にとっては敵にすらならない。……しかし、それも一人の時の場合だ。

 男達の前に立つ小さな背中。白い外套のフードを被った少女の姿を見ながら、青年は柄を握る手に力を込める。

 男共が、少女に向けて何か話し始める。ここからでは会話の内容までは聞きとれないが、男共の顔に陰険な笑みが浮かんでいるのは、青年の位置からでも見て取れた。

「……というか、アイツ大丈夫なのか」

 そもそも喋ることが出来ない少女に、交渉事は向いていない気がする。そんな事に今更ながら気付いた自分に舌打ちをしつつ、青年は男達を注視する。

 少しでも怪しい動きをすれば、すぐにでも飛び出して、その首を切り落とすつもりだった。

「――――」

「――――」

 どうやら少女は、スケッチブックで相手と交渉しているらしい。幾度か男の声が聞こえたかと思えば、先頭に立つ男が、足元に置いた大きな布袋を少女の前に投げ渡した。

 恐らく、その袋の中身が金貨だろう。袋は少女の身体くらいならばすっぽりと入ってしまいそうなほど大きく、彼女が抱えようとするなら、かなりの労力が必要に見えた。

 少女は、スケッチブックを外套の下にしまうと、すぐさま袋の下へと駆け寄り――

「――あの、馬鹿っ!」

 少女が袋の前にしゃがんだ所を、先頭の男が上からはがいじめにするようにかぶさった。

 青年は馬車の影から飛び出すと、刃を腰に構えて地を蹴った。

 周囲に立つ男達が青年に気付いて目を見開く。だが、遅い。青年は少女に覆いかぶさる男のすぐ横にまで踏み込むと、男の身体を両断する。真っ二つに別れた男の胴体から降り注ぐ鮮血が、少女の白い外套や白い髪の毛を紅く染めた。

「早く退け!」

 青年が少女の身体に伸し掛かる男の死体を蹴り飛ばして怒鳴る。しかし、少女は目の前の死体を見つめるだけで、その場から動こうとしない。

「――――っ」

 舌打ちと共に青年は駆けだすと、慌てて外套の下に手を入れる新人の男を一刀のもとに斬り伏せる。

 残るは三人。勢いを殺しながら身体を反転させると、青銅の剣を構えた男が真っ直ぐに突っ込んでくる。その突撃を刃の切っ先で逸らし、がらあきとなった胴体を横薙ぎに一閃。分断された上半身は、自らの勢いを殺せずに空中を舞うと、顔面から勢いよく砂漠に落ちた。残るは二人。

 青年に圧倒されてか身動きの取れなくなっている男の前まで間合いを詰めて、青年は刃を振り上げる。男は情けない悲鳴を上げると、手に持った剣を頭上に掲げ、その刃を防ごうとする。

「ふっ――――!」

 それを、青年の刃が、男の身体ごと叩き割った。断末魔を上げることもできず、真っ二つに分かたれた男は砂漠に落ちる。

 これで、残るは一人。内心で安堵に胸を撫で下ろしつつ、青年が振り向くと――

「う、うごくな!」

 ――少女を腕に抱え、喉元に剣を突き付けた新人の男が、立っていた。

「…………っ!」

 青年の顔に、初めて明確な焦りが生まれた。青年は足を止めると、刃を構えたまま、少女と、少女を抱えた男を睨む。

「うう動くなよ!こ、こいつの命がどうなるか、わ、分かってんだろうな!」

「……………………」

 小悪党らしい台詞だと思ったが、笑うことは出来なかった。今の青年には、この状況の打開策が一つも浮かばない。要するに――明らかな絶体絶命。

 圧倒的な強さを持つ彼とて、決して無敵というわけではない。これまでも窮地に陥ったことは何度もあった。しかしそれは、自身の命が危ういという意味であり、今とは状況が違う。

 見方を変えれば、今の状況は窮地でも何でもない。やろうと思えば、男を斬り伏せ、金貨を手に入れ、こちらは何の損失も無く帰還することだって可能なのだ。ただ一つ、少女の命を対価として。

 しかし、それだけは青年には出来なかった。そんな事を行いたくはなかった。甘いと言われても、出来ないのだから仕方が無い。

 では、少女を救った上で、今の状況をどうにかする方法はあるのか?

 それも否だ。例えこれで馬車に積まれた鉄器を全て男に渡したところで、仲間を殺された男は青年を許しはしまい。

 そして青年が殺されれば、少女はそのまま男によって『商品』として売られてしまうだろう。彼女がどれだけの価値を持っているかは、愚鈍で粗野な野盗にも明白なのだから。

「…………」

 黙したまま、青年は男の手の内で剣を付けつけられている少女に目を向ける。恐怖に歪んだ、今にも泣き出しそうな顔が、青年を見つめている。

 声も出せない少女だが、それ故にその表情は、その青色の瞳は、何よりも明確に、彼女の感情を青年に伝える。

“怖い”

“苦しい”

“助けて”

「…………っ」

 思わず視線をそらしそうになるのを、青年はどうにか堪えながら、男に気付かれないよう、少しずつ足を開いた。

 一か八か、だ。

 どの道、このままでは少女にも青年にも未来はない。ならば、一瞬の隙を突いて、男の腕を切り落とし、少女を救いだせば……。

「まま、待て! その、剣を捨てろ! こっちに向けるな!」

「…………ちっ」

 青年は構えを解くと、刃を男の方に軽く投げる。くるくると回転しながら宙を舞った刃は、男と青年の間に突き刺さった。

「へ……へへ。よし……」

 青年から脅威を取り除いた故か、男の顔が少しだけ安堵に緩む。

「ふ、ふふ……くそ、舐めた真似しやがって……こ、こんな真似して、……へ、ただで済むと思うなよ……」

「…………」

「んんー? も、もしかしてお前、きゅ、吸血鬼……か……? は、はは! こりゃ良い!お前、知ってるか? 帝国で賞金首になってるんだぜ? お、お前をつれてきゃ、俺は一獲千金! それだけじゃねぇ、吸血鬼退治の英雄様だ! いい、いいね、つ、ツキが回ってきやがった!!」

 男が大げさに高笑いをする。少女の首筋に突き付けられた剣の切っ先が、僅かに少女の首を傷つけ、そこから赤い血を垂らした。瞬間、青年の頭が一瞬で高騰する。

「――――」

「動くなぁっ!!」

 思わず一歩足を踏み出すが、男の叫び声で踏みとどまった。

「へ、へへ……下手に動くなよ……思わず殺しちまうぜ……だ、大体……つ、剣も無しにどうやって戦おうってんだ、ぶ、無様な、旧人風情が!」

 その通りだ。刃を無くし、ただの旧人と化した青年では、新人の男に敵う筈も無い。相手が凶器を持っているならば尚更だ。

「く……くく……いい! いいよ! あの吸血鬼が! 世を震撼させる恐怖の象徴が! 俺の前でそんな悔しそうな顔をするなんて! ああ! 最高だ! 生きてて良かった!」

 男は笑うたびに、腕の力が強まっているのか、少女が苦しそうに顔を歪める。

 悔しそうに歯噛みする青年に、男は満足げに笑いながら、剣を青年へと向けて、口を開く。

「お前は――」

 ――突如。爆音が夜空に響き、男の手にしていた剣が、真横へと吹き飛んだ。

「――――は?」

「『夜』――!」

 聞き覚えのある少女の声と共に、青年は走り出すと、地面に突き刺さった刃を引き抜き、男の懐へ潜り込む。

「ひ――っ」

 男が小さく悲鳴を上げて後ずさる。刃の一閃は下から上へ。男の腕を切り落とし、自由になった少女の身体を青年の左腕が抱きとめる。

「ひっひゃぁあああああああああああああああああ!!」

 男が奇声を発しながら、残った腕で腰の短刀を抜きさり、少女の顔面に向けて突きだした。避けるには遅すぎる。かといって腕や短刀を切り落としても、この勢いでは意味が無い。なので、青年は咄嗟に自分の右腕を短刀の軌道上に差し出した。

 白く輝く刃が、青年の腕に突き刺さる。青年は鈍痛を堪えながら、握った刃を返し、男の首をはね飛ばす。

「――――っ」

 男の身体が倒れると同時に、腕に突き刺さっていたナイフが勢いよく抜け、吹き出した鮮血が茫然とする少女の顔に掛かった。

「…………ふぅ」

 青年が息を吐くと、力の抜けた右腕から、刀が滑り落ち地面に刺さる。

 少女を腕に抱えたまま、青年は爆音がした方へと目を向けた。

「やー、危なかったね。吸血鬼さん」

「エミリア……」

 そこには、片手に銃を持ったエミリアが、苦笑いを浮かべて立っていた。

「……何時からいた」

「けっこう最初から。店主さんに言われてさ、こっそり後を着けてきてたんだよ」

 銃を外套の下のホルスターにしまいながら、普段と変わらぬ口調で答えるエミリアに、青年はもう一度大きく息を吐いた。

「……だったら、先に言っとけ」

「はは……ま、色々言いたいことはあるだろうけどさ、とりあえず、早く街に戻ろう。傷の手当てをしないといけないし、それに――」

 エミリアはそこで一旦言葉を切ると、視線を青年に――正確には、青年が抱える少女に向ける。

「……その子も、もう限界みたいだしね」

「…………」

 その言葉を聞いて、初めて青年は、自分の腕の中の少女へと視線を落とした。

「――――」

 白い外套、白い肌、白い髪――その全てを、敵と青年の返り血で汚した少女は、人形のように立ち尽くしている。

「…………ソラ」

 その姿の、あまりの痛ましさに、青年が小さく呟く。

「――――――――」

 少女の瞳は、青年の姿も、その声も聞こえていないかのように、ただ茫然と宙を見上げていた。


次回更新は10月29日予定

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ