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2.『Encounter2』

「ほら。服を数着と、ブーツとサンダルな。全部旧人の職人に作らせたもんだから、モノは良いぞ」

 店主がカウンターに並べていく、少女用の服を前に、青年は顔を顰める。確かにどれも質は良い。肌触りも柔らかい。……しかし。

「おい……これは、良いのか? 流石に高級すぎるだろう」

 青年には、服の値段の相場等分からない。……だが、今目の前に並ぶこれらが、相当な額になるものだということは、青年にも分かった。

「ああ。良いんだよ。元々服なんてそんなに高い買い物じゃないんだから」

「なに……?」

 男の発言に、服を眺めていた青年は顔を上げた。

「だから、もともとこれくらいのものを取り揃えるつもりだったのさ。普通に服を買うつもりで、あんなに金を貰うかよ」

 眉を顰める青年に、店主は不適に笑う。それが尚更気に障ったのか、青年は店主を睨み付ける。

「それならもっと安物で良いから、金を返せ。アイツが来てから何かと忙しいんだ」

 一人が二人になれば、当然水や食料の消費量も多くなる。流石に二倍とまではいかないが、それでも青年の財政を圧迫するには十分なもので、ここ数日は青年も、単純な城壁の防衛という本業だけでなく、いわゆる『副業』の数も増やしていた。

「安物で良いとはなんだ。お前、あの娘にあう服を用意しろって言ったろ? あんな可愛い娘に、安物の服なんてあわないだろうさ」

 肩を竦める店主に、青年は憎らしげに舌打ちをする。そうだ、この男はこういう奴だった。

「まあそう睨むな。それと、こんなものを用意したぞ。ほら」

 そう言って、店主はカウンターの下から、飾り気の無い純白の布を取り出した。

「……これは?」

「あの娘のサイズに合わせたローブだ。お前のそれと同じ意匠にしてある。この街で外を出歩くなら、こいつは必需品だろ?」

 店主が布を広げると、それは確かに、青年が今着ているものと同じデザインの外套だった。

 店主の言うとおり、この街で外出するならば上に羽織るものは必要だ。それは寒さをしのぐ為もあるが、それ以上に、砂埃を防ぐ為でもある。故に外套に限って言えば、出来るだけ高価で丈夫なほうが良い。

 しかし……。

「わざわざ俺の衣装にあわせるなんて……随分と無駄なことをしたもんだ。もしかして、それで余計に高く付いたんじゃないだろうな?」

「まあそういうな。ほら、これを着てたら、仲の良い兄妹のようじゃないか?」

 青年の問いをかわすように店主は笑うと、外套を投げ渡す。青年は、何かを言い返そうと口を開くが、結局口を閉ざし、ため息を吐いた。

「仲の良い……ね」

 代わりに口から漏れたのは、彼が抱えるもう一つの懸念事項。

「やっぱり、上手くいってないのか?」

「……ああ」

 青年は小さく頷くと、抱えた外套を隣の席に置く。

「……正直、子供の相手がこんなにも厄介だとは思わなかった。未だ怯えているようで、心を開かないし、おまけに声が出ないときた。まるで何時までも慣れない猫でも飼っているかのようだ」

 肩を落として酒を啜る。その姿は、とてもじゃないが新人たちを恐怖に陥れる『黒閃』とは思えない。

「あれから一週間……流石のお前も、子供の相手はお手上げか」

 店主は、苦笑しながら肩を竦めると、青年に向き直った。

「……こんなことなら」

「こんなことなら、拾わなければ良かった。……そんなことは言うなよ。そもそもお前が原因なんだから」

 零れそうになった愚痴を、店主の言葉が戒める。

「……ったく。お前はそういう所、不器用だからな。あのな、『夜』。口に出さなきゃ、思いなんて伝わんねえんだよ。お前は何も喋らないくせに、他人に自分の気持ちを分かってほしいなんて、そんな都合の良いことを言うんかい」

「…………」

 痛烈に胸を抉る言葉に、青年は口を噤んで俯いた。店主が言う言葉の意味も、分かっている。分かっては、いるのだが……。

「……まあなんだ。とにかく、何でも良いから上手くやれ。お前だって、あの娘を傷付けたくなかったから、柄にも無く引き取ったりしたんだろう? だったら最後まで責任を持て。あの娘が笑えるように、頑張ってみろ」

 ふっと息を吐いて、店主は纏う雰囲気を幾分和らげると、飄々とした笑みと共に青年の肩を叩く。

「そうだな……なんなら、手篭めにでもしてしまえ。お前の魅力でメロメロにしちまえば、随分楽しくなるだろうさ。……お前にとってもな?」

「……誰がするか。そんなこと」

 視線を逸らしながら、忌々しげに毒づく青年に、店主は「だったら精々頑張りな」と、肩を竦めながら返した。



「あ……、『夜』……!」

 青年が城壁に戻ると、焦燥した様子のヴィルが、慌てて駆け寄ってくる。

「どうした?」

「あの、その、なんだ。お、落ち着いて聞いてくれ」

 お前が落ち着け。と青年は思ったが、口には出さなかった。青年の手の中には、先程店主から受け取った少女用の服があるので、あまり長く相手をする気も無い。

「その……なんだ、どういっていいのやら。なにしろ俺もこんなことになるとは」

「……いいから、用だけを、簡潔に話せ」

「……あ、ああ。……そうだな」

 青年が低く唸るような声を出すと、ヴィルは少しだけ落ち着きを取り戻した。

「……ふう。よし。その……だな」

 落ち着いたは良いが、やはりどこか様子のおかしいヴィルに、青年は小さくため息を吐く。久々に早く帰れたというのに、こうも厄介事に巻き込まれては堪らない。

「だからな……本当に言いにくいことなんだが」

「だから、なんなんだ」

 何時までも要領を得ないヴィルの口調に、青年が苛立ち混じりに言葉を返す。と、ヴィルは、いい加減心を決めたように、口を開き、

「その……あの娘、居なくなっちまった。ちょっと目を離した隙に……って、おい!?」

「……っ!」

 ヴィルの言葉を最後まで聞く事無く、青年は踵を返し、再び夜闇に駆けていった。



「…………」

 少女が目を覚ますと、奇特な同居人は既に姿を消していた。青年が何処に行っているのかなど、少女に知る由も無いが、それでも見当は付く。彼は少女と出会った時のようにまた誰かを襲っているのだろう。

「…………」

 毛布を握り締め、蹲る。あの日少女は、青年の後を着いていった。

 信用したわけじゃない。ただ、他に行く当ても無くて、自分が何処にいるのかも分からない少女は、着いていくしかなかったのだ。

 その選択が正しかったかは分からない。未だ黒い青年が少女に害を及ぼしたことは無い。しかし、その青年は必要最低限の言葉しか口にせず、時折少女を見つめる無機質な黒い瞳からも、その真意を読み取ることは出来ない。少女にとって青年は、よく分からない、怖いものだった。

 最近では、少女が目を覚ます頃には何時も出掛けていて、夜明け前に帰ってくると、少女に目もくれずに眠りに落ちてしまう。

 彼は、恐らく自分に興味が無いのだろう。と、少女は思う。ただ気紛れに、少女をここに置いているだけで……。

 そう思うと、途端に怖くなった。今は未だ置いてもらえる。ここに居ることが出来る。窓も無い部屋の中だとしても、あの馬車で売られていた時や、それまでの生活に比べればよっぽどマシだ。でも彼が、真に少女を『必要ない』と判断したら……。自分はまた、一人外に放り出されてしまうのだろう。

 ……それだけは、避けたかった。

 自分がここに居る意味を見せなければ……頼るものの無い少女は、今度こそ路上で野垂れ死んでしまうだろう。

「…………」

 誰も居ない部屋。窓一つ無い暗がりの中で、少女は決意を固めるように、小さく頷いた。


 城壁から外に出た途端、身体を打つ冷たい風に、少女は軽く身を震わす。以前もこの道を青年と共に歩いたというのに、あの時の風と今の風では、今の風のほうが格段に冷たい気がした。

 ――どうしてかと考えて、ふと思い立つ。そうだ、今日は、あの黒い外套が無いのだ。

「…………」

 思わず、両手で身体を抱きしめる。「そんなわけがない」と自分に言い聞かせる。あの外套を着ていたのなんて、ほんの十数分のことだ。自分は今まで、この風の中で生きてきたんだから。

 ……なのに。どうしてだろう。

 ただ、あの外套が無いだけなのに。どうしてこんなに、不安になるのか……。

「っ……」

 大きく首を振って、考えを打ち消す。不安に飲まれてはいけない。自分がここに居る意味を見せなければ。自分が役に立つのだということを証明せねば。

 前を見据える。暗がりが続く街の中、少女は一歩、足を踏み出す。



「何処に行った……?」

 周囲に気を配りながら、青年は街中を走る。通り掛る人間を捕まえて片っ端から聞いて回ったところ、どうやら未だ街は出ていないだろうが……。しかし、今に限って言うなら、寧ろその方が問題だった。

「あまり良い道順ではないな……」

 徐々に街灯の少なくなっていく道を走りながら、青年は悪態を吐く。この街の夜は、旧人が多いとはいえ、決して治安が良いとは言えない。……いや。そもそもが法や常識から押し出された者達が集った街である。街の中には、必ず暗部というべき部分が存在する。

 ……そして、少女が向かっている先は、そういう者達のたまり場だった。

「くそ……どうして……っ」

 悔やむより、何故という思いのほうが強い。

 そんなに、居心地が悪かったのだろうか。少女にとっては、食事や寝床を差し置いても、逃げ出したくなるほどに。

「……だとしたら、それは俺の所為か」

 入り組んだ路地の中、青年は足を止めた。ここから先には街灯も殆ど無い。初期の頃に実験的に建築され放棄された、街の住民であれば先ず近寄らない区域。そしてそれを理由に、この街でも特に暴力的な連中が拠点としている所でもある。立ち止まるのは得策ではない。

「俺は、何をしていたんだろうな……」

 それでも、青年はその場に立ち尽くす。立ち尽くすことしか、出来ない。

 ……そうだ。あの少女は、ずっと自分に怯えていたではないか。彼女はただ、他に当ても無いから青年に着いてきただけで。少女からすれば青年も、あの新人の商人達と、さして変わらないものではないのか。

「なるほど……それなら、この結果も頷ける」

 軽く自嘲して、右腕に目をやった。

 自分はこの手で何が出来ると思ったのだろう。少女一人に寝床を与えた程度で、英雄にでもなったつもりだったのだろうか。だとしたら滑稽だ。自分には結局、あの少女を救うことなど出来なかったのだ。この手は刀を握るためのもので、人に差し出すためのものではない。

 ――ああ……そもそも、どうして自分はこんなに必死になってるのだろう。

 あの少女は、偶々行き会って、少しばかり同じ時間を共にしただけの他人である。なら、別れも突然なものなのだろう。要するに、その時が来たというだけの話。少女が去ろうと、青年には何も関係は無い。

 そう――

「――――」

 ――例え目の前で、少女が男達に追い詰められているとしても。



 呼吸を荒げながら、少女は入り組んだ路地を走る。足は決して止めてはいけない。止めれば、後ろから迫る奴らに追いつかれてしまう。

「……っ……っ」

 乱れる呼吸を必死でかみ殺して走りながら、本当に、どうしてこんなことになってしまったのだろう。なんて、他人事のように少女は思った。


 ――自分の存在理由を手っ取り早く証明するには、やはり、自分で金を稼げるということを証明することだろう。

 では、その為にはどうすればいいのか。合法的に金を稼ぐにも、声も出せなければ大した知識も無い少女を雇ってくれるところなんて存在しない。だからと言って非合理で金を稼ぐにも、少女の矮躯には、あの青年の様な力は無い。精々返り討ちにあって、再び商品に逆戻りするのがオチだ。ならば、ひ弱な少女でも、簡単に金を稼ぐには――

「…………」

 冷たい風が吹きすさぶ中で、少女は先行する新人の四人組に狙いを付けた。特に狙い目は真ん中の男だろう。外套の下から覗き見える袋は、銀貨を入れるものに違いない。袋は、ベルトに紐を通しただけで簡単に吊り下げられている。あれなら盗るのも容易そうだ。

「……っ」

 ごくりと唾を飲む音が、やけに大きく聞こえた。緊張で震える身体をどうにかいさめて、少女は徐々に、男たちとの距離を狭めていく。怖がるな。あの商人達に拾われる前には、何度もやってきたことじゃないか。何時も成功していたとは言えないが、それでも、これだけ隙だらけなら――

「…………」

 少女は男達の間を小走りで走り抜け、即座に腰元の袋を抜き去った。小さな身体が幸いした。男達はいきなり現れた少女に驚き、呆気に取られているせいで、自分たちの異常に気付かない。

 男達を背に、奪った袋を身体で隠す。成功したという事実に、少女は大きく息を吐いた。後はこのまま、気付かれること無く、この場から離れれば――

「おい、ちょっと待て、そこのガキ」

「――――っ!」

 バレた――そう思った時には既に、少女は走り始めていた。


「……っ……っ!」

 背後から聞こえる怒号と足音から、少女は必死で逃げる。男達を撒くためになるべく入り組んだ、明かりの少ない道へと足を向けたのが失敗だった。裏路地は少女が予想した以上に入り組んでおり、少女自身、何処を走っているのかも分からない。

 帰り道も分からない……そう思って、そもそも自分に、帰るべき場所などあるのだろうかと考える。

 そうだ、自分に帰るべき場所など無い。物心付いたときから、屋根のある家など無く、自分と同じような境遇の子供達と暮していた。それから、いつの間にか商品にされていて、毎日理不尽な暴力に怯えていた。

 ……それでも、ここしばらくは、幸せだった。ちゃんと屋根もあって、食事もあって。

 何より、寡黙な青年は、優しかった。

「――――」

 ああ――そうだ。あの人は、誰よりも優しかったじゃないか。本当なら、青年と全く関係の無い自分を、愚痴を言いながらも引き取って。見返り一つ要求しないで、自分を部屋に置いてくれた。

 そうだ……それが嬉しくて。そうやって自分を認めてくれたのが、自分がここに居てもいいと、教えてくれたのが、嬉しくて……だから自分は、青年の役に立ちたかった。

 こんな自分に居場所を与えてくれた青年に、せめてもの恩返しが、したかった。

「…………」

 零れる涙を拭いもせず、少女は走り続ける。

 帰りたい。と思った。「何処に」なんて、言うまでも無い。自分の帰るべき場所は――あの部屋しかないのだから。

「…………っ!?」

 突如、背中に衝撃が走った。視界が普段よりも高い。奇妙な浮遊感が少女を包んだと思った途端、建物の壁が少女の眼前に近づいてくる。

「…………っ!」

 衝突する直前に、両手で顔を守る。全身に衝撃が走った後、少女はどさりと、仰向けに地面に倒れた。

「――――」

 ……視界に広がるのは星空。

 周囲を壁に囲われた、狭い夜空が目の前に広がる。何が起こったのか、よく分からなかった。とにかく、背中が痛い。呼吸が出来ない。……身体が、動かない。

「おいおい。少しは手加減しろよ。旧人のガキは壊れやすいんだぞ」

「ああ……悪ぃ悪ぃ」

「――――っ!」

 近づいてくる声に、少女は咄嗟に身体を起こす。肺が痛み、咳き込む。涙が止まらない。それでもどうにか、壁を頼りに立ち上がることは出来た。

「なんだ、案外丈夫だな」

 そうして対峙するのは、四人の新人の男達。

「よう。ガキ。この街で俺らを相手にスリたぁ……中々良い度胸だな」

 一歩前に出たのは、少女に財布を盗られた件の男。その体格は新人らしい恰幅で、とてもじゃないが、少女に敵うはずが無い。

「……が、この街はそんなに甘くねえ。こいつは、説教代だ」

 拳を作りながら近寄る男に、少女は瞳を閉じ、歯を食い縛る。


 助けて欲しいと、思った。

 助けて欲しいと、願った。

 そうして、一度は助けてくれた。黒い青年は、まるで少女の祈りのとおり、あの幌の中から彼女を救い出してくれた。

「――――」

 それなのに、自分はそこから飛び出した。

 結局、何処にも行けないのだ。

 自由なんて、持っての他。

 この真っ暗な――狭くて息苦しい場所が、自分の終着なのだろう。

 もう、祈ることもしない。自分には助けられる権利も無い。あんな幸運は、きっと一度きりの奇跡だったのだから。

 ……それなのに。


「――おい」


 ――暗がりから聞こえた声は、確かに、少女を救い出したあの声だった。

「は……?」

 男の拳は何時までも振り下ろされず、変わりに戸惑う声が聞こえる。

「…………」

 少女は、閉じていた瞳を開いた。


 ――そこに、影が立っている。

 纏う外套は漆黒。フードの下から覗く瞳や髪の色もまた、漆黒。闇に溶け、輪郭を曖昧にする青年に対して、右手に握られる片刃の刀だけが、月光を受けて鈍く輝いている。

 『黒閃』。『吸血鬼』。或いは――『夜』。

 あらゆる名前で恐れられた青年が、まるで少女を守るように、目の前に立っている。


「お……お前……『黒閃』――っ!?」

 男の動揺した声にも、青年はその表情を崩す事無く男を睨んだ。

 普段と変わらないように見えるその顔はしかし、普段とは違う色合いを見せている。強いていうなれば、怒気とでもいうべきか。普段感情を表に出さない青年が、今では背後からでも分かるほどにその感情を露わにしている。

「失せろ」

 簡潔に。だが、明確な殺意と共に、青年は男達に告げた。吸血鬼とまで恐れられた青年の迫力に、男達は気圧される。それでも退かなかったのは、男達にもまた、この街で暮すものとしてのプライドがあるからか。

「だがな、黒閃さんよ。そのガキは――」

 男の言葉を遮るように、青年の刀が揺らぐ。一瞬、男は身を竦めるが、刃は男を傷つける事無く、周囲の壁に傷跡を付ける。

「失せろといった」

「……っ! おい! 引き上げだ!」

 人造石すら一瞬で両断した刃が、男の目の前に突き付けられる。もう選択の余地すらない。男が叫ぶや否や、背後に居た男達は挙って裏路地に消えていき、残された男も、後ずさりしながら青年と距離をとると、即座に踵を返して走り去って行った。

「…………」

 青年は、男たちが居なくなったのを確認して刀を納め、少女へと振り返る。

「ぁ……」

 少女は呼吸も覚束無い状態で、青年を見上げる。

 相変わらず、青年の顔は無愛想で、黒い瞳は、何を考えているのかもよく分からなくて、

「……大丈夫か」

「――――っ!」

 その一言で、少女は我慢しきれなくなったように、青年に強く抱きついた。



「…………」

 泣きじゃくる少女に抱きつかれた青年は、少々躊躇った末に、結局少女を抱き返した。

「…………」

 またも助けてしまった自分に、青年は小さくため息を吐く。関係無いと思っていたのに、少女を目の前にしたら、反射的に身体が動いていた。

 どうして自分は、見ず知らずの少女をこんなにも気にかけているのか。どうして自分は、今少女が無事な事に、こんなにも安堵しているのか。

「あまり……心配を掛けるな」

 ……言葉にして、彼は自分が少女を心配していたことに、初めて気づいた。

「反省してるか?」

「…………」

 こくこくと、胸の中で頷く少女。

「二度と、勝手に外に出たりしないな?」

「…………っ!」

 何度も頷く少女に、青年は、ふっと口元を緩めながら、指先で少女の頬を拭う。見上げてくる青い瞳は、果たして何の色だったか。

 宝石には無い色。自分の記憶には無い光――ああ、そうだ。

「……『ソラ』」

「…………?」

 青年の呟きに、少女は小さく小首を傾げる。

 それは、ふとした思い付きだ。どちらにせよ、青年が少女を呼ぶときの名前は必要なのだから。

「お前の名前だ……『ソラ』というのはどうだろう」

 それは、青年が未だ見たことの無い。決して見ることの出来ない、圧倒的な青色の名前。

 その色を瞳に閉じ込めた少女を、青年は『ソラ』と呼んだ。

「……気に入らなかったら」

「…………」

 少女は青年を見つめながら、首を横に振るう。

「……良いのか?」

 こくり。頷く少女に、青年は「そうか」と呟いて、一度その頭を撫でて、身体を離す。

「…………」

 名残惜しそうな少女の瞳に、青年は苦笑すると、ずっと片手に抱えていた白い布を少女に被せた。

「…………?」

「お前用の外套だ。……その格好では、寒いだろう」

 何時かと同じ台詞と共に少女に渡されたのは、青年のものと同型だが、丈は少女に合わせてある、白い外套。

「これでもう、寒くは無いな」

「…………」

 少女は外套の裾を持つと、大切そうに抱きしめる。

 微笑みながら、幸せそうに。

「…………」

 その顔を見れば、それだけで良いと、青年は思った。

 理屈なんて要らない。目の前に泣いている少女が居て、それに手を差し出すなんて事は、決して、悪いことではないのだから。

 泣いているなら、笑って欲しい。

 困っているなら、助けたい。

 そんな、当たり前の偽善を、青年が持っていても、何も不思議なことなど無い。


 ――どうしてなんて聞かれても、答えは見当たらない。

 それでもこの時、彼は思ったのだ。

 純白の髪。純白の肌。彼女の白さが、汚れることが無いように。

 少女の純粋さが、これ以上汚されることが、無ければ良い。と。


3.


「……それで、今はあの娘に文字を教えているってか」

「ああ。また、理由も分からずに出て行かれても困るしな。それに、必要だろう」

 この街で生きていくには。と、無愛想に答える青年に、カウンターの向かいに座る酒場の店主は、小さく肩を竦める。

「やれやれ。ちっとはマシになったかと思えば結局遠回りしてやがんな。まあ、一応は落着したようだし。これで良いか」

 店主の言葉に、青年は不満げに瞳を逸らす。これでも、お互いに譲歩したほうなのだ。

 あの後、ソラからどうにか部屋を飛び出した理由を聞きだした青年は、彼女がここに居るべき理由を考えることにした。青年にとっては気にしなくても良い事だったのだが、ソラにとっては自分の存在意義に関わるほど重要なことらしい。

 その結果が『教育』という関係だ。青年はソラに、生きていく為に必要な知識や技術を教える。ソラが教育を終え、一人前になった時には、ソラは青年に頼るのを止めて自立し、代わりに青年に恩を返す。というもの。

 張りぼての師弟関係だが、それでソラが満足するならと、青年はその提案を呑んだ。どちらにせよ、今回のようなことが無いように、外で生きていく知識は必要だ。

「しかし……」

 店主は、意地悪げに口元を歪めながら、青年に問いかける。

「その教育とやらは、一体何時になったら終わるんだい?」

 青年はその問いかけに眉をよせて沈黙するが、やがて不機嫌そうに、顎に手を当てて肘を付き、

「……決まっている。そんなの、俺が一人前だと認めたときだ」

 青年の答えに、店主は思わず噴出しそうになるのをどうにか堪えた。

「なんだそれ。要するにお前、一生手放さないつもりじゃないか」

 笑いを噛み殺しながら言葉を返す店主に、青年は顔を顰めると、腰元の袋から銀貨を出してカウンターの上に置く。

「なんだお前、もう帰るのか? 未だ全然飲んでないじゃないか」

「ああ。ソラが待っているからな」

 青年は立ち上がりながらそっけなく答えた。店主はそれなら仕方がないと肩を竦めると、姿勢を正して、青年に向き直る。

「待て。最後に一つ聞かせろ」

 出口へと去っていく青年を、店主は呼び止めた。

「お前があの娘を助けたのはどうしてだ?」

「…………」

 それまでの軽口を叩いていた時とは違う、真面目な表情で、店主は青年に問う。

「責任か?」

 違う。と、青年は首を振るう。

「同情か?」

 それも違う。

「……惚れたか?」

「…………」

 青年は無言で、店主へと向き直り。

「……さあな。答えがあるなら、俺が教えて欲しいところだ」

 普段通り、無愛想な表情で、答えた。

「そうか」

「そうだ」

 それを最後に、青年は再び向き直り店を去っていく。今度こそ、店主も呼び止めることは無く。

「いい夜を」

 一言だけその背に掛けて、青年を見送った。


2.『The starry night like this』


 酒場という店は、昼よりも夜の方が大勢の人が集まりやすい。特にこの城壁の街は、その人口の半数を夜に生きる旧人が占めている為、夜の街は他のどの都市よりも活気に満ちている。

「……筈、なんだがなぁ」

 カウンター席に腰掛けたヴィルは、誰も客の居ない店の中を見渡して、頬を掻いた。

「前から思っていたんだが……本当に店を開けているんだよな? こうも毎日客が居ないと、少し不安になってくるんだが……」

「冷やかしなら帰ってもらおうかい」

 カウンターの内側でグラスを拭きながら顔を顰める店主に、ヴィルは肩をすくめて、自分のグラスをあおった。

「まあ、俺としては、のんびり出来て良いんだけどさ。他の店はどうにも狭くるしくてならないよ。ここは広々としていて、良い」

「なんだ、図体ばかりでかくなって、気は小さいままか。そりゃあお前みたいな巨体では、周りの邪魔にしかならんわな。役に立つのは、敵の弾避けになる時くらいか?」

 グラスから口を離し、しみじみと呟くヴィルに、店主は先の仕返しとばかりに意地の悪い笑みを浮かべる。

「……やめておこう。こんな言い合い、何の意味も無い」

「違いない」

 顔を合わせた新人二人は、はあとため息を吐いて苦笑を洩らす。

 椅子に座り直したヴィルは、中身の少なくなったグラスを一気にあおると、再び店主へと目を向けた。

「それで、アイツはどうだい。マスター」

「アイツというのは、『夜』のことかな。ヴィル」

 空になったグラスに酒を注ぎながら、店主は口を開く。

「今日は、西の方で仕事かな。帝国に向かう行商人が通るらしいから、それを狙いにさ」

「……相変わらず、か」

「ああ、相変わらずだ。何かと適当で分かり難い男だが、仕事だけは的確で明確だよ、アイツは。伊達に吸血鬼などと呼ばれてはいない。奴が仕事を失敗することなど、まずあり得ないだろうな」

 愉快そうに笑う店主に対し、ヴィルはただでさえ厳つい顔を尚の事顰めながら、頬を掻く。

「……何時まであんな仕事を続けるつもりなんだろうな。アイツは」

「ああ? なんだヴィル。お前、アイツの事を心配でもしているのか?」

「……そりゃあ、まあ」

 店主の問い掛けに、ヴィルは曖昧に頷いて視線を逸らした。

 確かに、心配でもある。特に最近は帝国の動きが活発化していて、それに対応するように他の都市でも警戒が強まっている。

 そこいらの傭兵程度にあの青年が負けるとは思わないが、それでも用心するに越したことは無い。

 ……だが、ヴィルが気にしているのは、その事ではなく。

「……俺があれこれと口を出せる事ではないけどさ。なんというか、あんな野盗まがいの事を、何時まで……」

「まがい。ではなくそのものだがね。……ははぁ。なるほど。つまりお前は、アイツが今以て罪を犯している事に憤慨しているのか。……やれやれ。面倒くさい男だな、お前は」

「うるせぇ……」

 呆れたように溜息を吐く店主の言葉に、ヴィルは大きく肩を落とす。

「まったく……。今更、この世界にそんな道徳が存在すると思っているのかい? 人が人を飼う時代だ。奴隷でも無く、愛玩用の家畜として。そんな世界で、誰彼の罪科を問おうだなんて、それこそ傲慢というものだよ」

 店主は一度、口を噤むと、手にしたグラスをカウンターの上に置いて、再びヴィルへと向き直る。

「大体、この街でそんな事を気にする奴は居ないだろう。そんな事を言い始めたら、この街はあっという間に罪人の街だ。俺達は表の世界で生きられなかったからこそ、この街に居るのだから」

「わかってるよ……でもさ」

 ヴィルもまた、青年が以前のままであるなら、こんなバカげた事を思ったりはしなかっただろう。

 しかし、今の青年は、かつての青年とは違う。……と、彼は思っている。

 あるいは、それはヴィルの勘違いなのかもしれない。青年に変化なんて無くて、彼は昔のまま、冷徹に無感情に人を殺す吸血鬼そのものなのかもしれない。

 ……しかし、今の青年と、昔の青年には、それこそ明確な違いがある。それは――

「――お、よう穣ちゃん」

 と、ヴィルの思考を邪魔するかのように、店主の言葉が誰も居ない店に響いた。

 ヴィルは振り返ると、視線を酒場の入口へと向ける。

「…………」

 そこに、一人の少女が立っていた。純白の外套に身を包み、歳の程は十代前半といったところ。白い髪に白い肌。透けるような青い瞳は、どこか不安げに揺れている。

「ソラ――!」

 少し前、黒い青年にソラと名付けられた白い少女は、ヴィルの呼びかけにびくりと身体を震わせる。

「あ、あー……。いや、その。驚かせて悪かった……」

 思わず腰を上げかけたヴィルは、ソラの怯えがちな反応を見て、慌てて弁解を始めた。その様子を、店主は含み笑いを浮かべながら傍観している。

 ヴィルは非難がましい瞳で店主を睨みつけるが、すぐに視線を逸らしてソラの方に目を向ける。

「えっと……、とりあえず、こっちに来なよ。そんな入口に立ってると邪魔になる……いや、どうせ客なんて来ないかもしれないけれど」

 背後から聞こえる店主の非難を聞き流しつつ、ヴィルは拙い作り笑いを浮かべてソラを招いた。

「…………」

 ソラは、暫くその場に立ちつくしていたが、小さく頷いて、ゆっくりと店の中を歩いてくる。

 カウンターの前まで来たソラは、ちらちらとヴィルの方に目を向けながらも、彼の二つ隣の席に腰掛けた。

「あー……。その、『夜』を迎えに来たのか?」

「…………」

 再び頷くソラ。今度は、こちらに顔を向けることすらしない。

「その……まだ、アイツは帰って来てはいないんだが……」

「…………」

 こくり。

「……えっと、帰ってくるまで、ここで待つつもりか?」

「…………」

 こくり。頷く。

「そうか……」

 それを最後に、ヴィルは口を閉じて、視線をソラから外した。新人の中でも一際大きな巨体を持つ彼にとっては、か弱い旧人の少女という存在はどんな屈強な敵よりも苦手とするものだった。あまりにも小さすぎて、彼の巨大で無骨な指先では、傷を付けてしまわないかと心配になるのだ。

 なので、彼は旧人の女性と相対する時、常に細心の注意を払っている。あまりに気にし過ぎて腕を攣った話は、同僚によく笑い話とされているのだが、ある意味で、彼の性格を端的に表わしたエピソードでもある。

 そんなわけで、ヴィルはソラを苦手としていた。ソラの方もまた、彼に怯えているようなので、二人の仲は一向に縮まらない。

 もっとも、そこまで仲良くなる必要も、実の所ないのだが……。

 視線を逸らしながら頬を掻くヴィルに、俯いたままのソラ。気まずい沈黙の中、ヴィルは助けを求めるよう店主に視線を向けるが、店主はどこ吹く風と言った様子でグラスを拭いている。それを確認してから、思わずため息を吐く。

 誰でもいい。とにかく、この空気をどうにかして欲しい。

 そんなヴィルの願いが届いたのか、誰かの足音が、店の入り口から響いた。

 ソラと二人、示し合わせたかのように振り向くと、そこには、先ほどまで話題に出ていた、黒い青年の姿。

「よ――」

 『夜』と、彼が呼びかけるよりも先に、椅子を蹴るように立ちあがったソラが、青年の元へと駆け寄っていた。

「…………っ!」

 ヴィルだけでなく、他のどの他人にも見せない笑顔を浮かべて、ソラは彼女のものと同じ意匠の黒い外套を羽織った青年の胸に飛び込む。それを、黒い青年は変わらない仏頂面のままで受け止めていた。

 彼の事をあまり知らぬ者であるなら、その表情に何かを見て取ることなど出来なかっただろう。しかし、仮にも彼を『夜』という名で呼ぶ程度の関係であるヴィルには、その無表情の中に幾分の優しさが混じっているのを感じることが出来た。

「……なあ、マスターよ」

 腰にまとわりつくソラの頭に手を置いて、一言二言何事かを口にする青年の姿を見ながら、ヴィルは口を開いた。

「変わったものだよな。あの、何時も冷静で冷酷だった吸血鬼が、さ」

「変わってなんていないさ」

 その言葉に、店主は嘲りと親しみの同居したような、奇妙な笑いを浮かべながら答える。

「アイツは昔から、あんなだったよ」

「…………?」

 ヴィルが疑問符を浮かべながら店主の方へと振り返るが、既に店主の表情は、何時のもの飄々とした、底の見えない頬笑みに戻っていた。

 その様子に、ますます首を傾げるヴィル。だが、先ほどまで入口に立っていた青年が、何時の間にやら彼の隣の席までやってきて座ろうとしているのを見て、意識をそちらに切り替えた。

「よう。『夜』。今日の仕事はどうだった?」

「……ぼちぼちだ。収穫は、外のラクダに乗せてある。後で回収しておいてくれ」

 青年は店主との事務的な会話を即座に終わらせると、腰に吊るした革袋から二枚の銀貨を取り出して、それをカウンターの上に置き、

「俺に酒と……それと、コイツにミルクを」

 青年は自分の隣に――要するに、ヴィルの二つ隣に座りなおしたソラを指差して言った。

「はいよ」

 店主は笑いながらそれに答えると、手に持っていたグラスを置いて少量の酒を注ぎ、それを大量の水で割って、青年の前に出す。

「……上手くいったみたいだな」

 店主が棚からミルクの入った瓶を探すために背後を向いたのを確認して、ヴィルは隣の青年に声を掛けた。

「ん……ああ。思ったよりも物資が少なかったこと以外は、特に問題は無かった」

 青年はヴィルをちらりと一瞥すると、再びグラスに視線を落とし、ぼそりと呟く。

「――だが、どうにもおかしい。警戒が強まっているようだ。おかげで無駄な体力を消費した」

 ふう。と、珍しく疲れたように息を吐いて、青年はグラスを傾ける。ヴィルが何かを言うよりも前に、戻ってきた店主がソラの前にカップを置いた。

「…………」

 カップを両手に持って、こくこくとミルクを飲むソラの様子を、青年はぼんやりと見つめている。

 その瞳に、どんな思いが籠っているのか。彼がどんな思いで少女を見つめているのか、ヴィルには想像が付かない。しかしその表情は、ヴィルが青年に出会ってから、恐らくはじめて見る、穏やかな表情だった。

「――さて。それじゃあ、『夜』。その物資の所に案内してもらおうか」

 軽く両手を叩いて店主が言うと、青年はソラから店主へと視線を移す。その時には、既に彼の顔に穏やかさは無く、普段の冷徹な黒閃の顔へと戻っていた。

「店は良いのか?」

「ああ。今日は店じまいだ。ヴィル、後は頼んだ」

 そう言うと、店主はカウンターから出る。それに応じるように、青年もグラスの酒を一気にあおって立ちあがった。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! 頼むって何だ頼むって!」

「だから、そのグラスと穣ちゃんのカップを片付けて、店じまいしといてくれって言ってんだよ。鍵は何時もの所にあるから」

 当然のように告げる店主に、ヴィルはぽかんと口を開けて固まった。更に、ヴィルが何かを言い返すより先に、追い打ちを掛けるように青年が振り返り。

「ああ。それと、ソラの送りも頼む。城壁の前までで良い。送り届けてやってくれ」

「だから待て! 何故それを俺に頼む!?」

 声を荒げるヴィルに対して、青年は顔を顰めて言葉を返す。

「仕方がないだろう。今日は荷物が多いから、少し時間が掛かるんだ。ヴィルに手伝ってもらいたい所ではあるが、それだとソラが一人で帰ることになる。だから、ヴィルに頼んでいる」

 さも平然と答える青年に、ヴィルは頭を抱えた。

 やはり、変わったと思う。他人の意見を全く聞かない態度はこれまで通りだが、これほど他人を気にする青年を見るのは、初めてのことだ。

 それ自体は良い事だとは思う。……しかし、だ。それならばソラだけでなく、もっと他の人間にも目を向けてほしいものだと、ヴィルは思う。

「……そんなに心配する必要は無いだろう。ソラも、ここまでは一人で来たんだから。一人で帰れるだろうさ」

「………………」

 あからさまに顔を顰める青年に、ヴィルはため息を吐いた。確かに、この街の治安は決して良いとは言えないが、だからと言って、幾らなんでも過保護過ぎるのではないだろうか。

「うむう……」

 ヴィルは唸りながら頬を掻くと、ふと頭に浮かんだ案を口にする。

「……だったら、俺が荷物の持ち運びをやっておくから、お前が送れば良いじゃないか」

「俺が居ないと意味は無いだろう……」

「量があるんだろ? だったら、行って戻ってくるくらいの時間はあるのだろう」

 青年は無言で、未だカップを持ってミルクを飲んでいるソラに目を向けた。相変わらずの無表情だが、恐らくは悩んでいるのだろう。

 以前の彼ならば是非も無く仕事の方を選んだだろう。しかし、今の彼は葛藤している。

 やはり、変わった。それも、良い方向に。

「…………わかった」

 はぁ。と息を吐いて頷く青年に、ヴィルは内心でガッツポーズをした。これから帰るまでの間、この小さな少女と気まずい沈黙を味わうよりは、多少の肉体労働で汗を流す方がよっぽど良い。

 そうと決まればと、ヴィルは椅子から立ち上がると、早足で青年の横を通り抜けて店主の隣に並ぶ。

「それで、荷物は何処だって?」

「……西の門のすぐ外に繋いだラクダだ。城壁の隅に隠してあるが、見ればすぐに分かる」

 その台詞に頷いて、意気揚々と店を出るヴィル。その青年の言葉に、幾分の呆れが混じっていたことに、彼は気付かなかった。



 青年は、少女を城壁の門まで送り届けると、外套のフードを被りなおして踵を返す。

「じゃあ、俺は行くぞ」

 その問い掛けに、ソラは無言で頷いた。青年はそれを見て踵を返すが、ふと足を止めてソラに向き直る。

「……ヴィルとは、どうだ?」

「…………?」

 はて。と首を傾げるソラ。青年が一体何を聞いているのか、少女には良く分からなかった。

「あー……その、だな」

 青年は困ったように頭を掻くと、小さく唸りを上げた。恐らくは、言葉を選んでいるのだろう。

 顔を顰める青年に、以前のソラならばそれだけで恐怖したかもしれない。しかし、ソラが拾われてから、一カ月と少し。今のソラは、この黒い青年が、如何に不器用で、その感情を他人に伝えることが苦手かを知っている。

 それでいて、彼がこうして悩んでいるのが、自分に気を使ってということも分かっているので、ソラは安心して彼の次の言葉を待つことが出来た。

「ヴィルの事、怖くはないか?」

「…………」

 思わず視線を逸らすソラ。青年は、それだけで彼女の心情を理解したらしく、その眉を顰める。

「そうか……」

 はぁ。と青年は息を吐くと、一度少女の頭に手を置いて、乱暴に撫でまわす。

「……すぐ戻る。でもまあ、今日はもう遅いし、夜更かしせずにさっさと寝ろよ」

「…………」

 彼にしては珍しく優しい言葉に、ソラは思わず顔を綻ばせて、青年を見上げる。

 青年は、視線を逸らして頬を掻くと、少女の頭をぽんと一度叩いて、そのまま踵を返すと早足で去って行く。

「…………」

 ソラは、青年に撫でられた頭を押さえて、ますます口元を緩めると軽い足取りで門へと向かった。



 ソラが部屋で読書をしていると、こんこんという軽いノックの音の後で、少しだけ戸が開いた。

 一瞬、青年が帰って来たのかとソラは思ったが、しかし青年ならばノックなどせずに派入ってくるだろう。誰だろう。と少女が首を傾げると、開いた戸の隙間から、厳つい顔が控えめに覗き込んできた。

「…………っ!?」

 驚きに身を竦める少女に、覗き込んできたヴィルは申し訳なさそうに頬を掻くと、あー。と間延びした声を上げて、ソラから視線を逸らしながら、言う。

「えっと……『夜』の奴は、居るか?」

「…………」

 ふるふる。と首を横に振るソラ。一体どこで何をしているやら。少女にも興味はあったが、しかしあえて詮索はしなかった。

「そっか……ん?」

 青年に何か用があるらしく、ヴィルは困ったように視線を巡らせると、不意にソラの手元に目を止めた。

「それ……本か? もしかして昔の書物?」

 ヴィルの問い掛けに、ソラは小さく頷く。この街には、流れ着いた旧人たちが持ち込んだ書物が多く存在しており、それらは貴重な文化遺産として扱われている。が、諸々の手続きさえ行えばいつでも貸し出しが出来る。

「へぇえ……。アイツ、ちゃんと勉強を教えていたんだな」

 ヴィルは心底感心したように声を上げると、はぁ。と小さく息を吐く。

「……んじゃ、まあ良いや。もしもアイツを見つけたら、俺が探してたと教えてやってくれ」

 ソラが頷くと、ヴィルは苦笑いを浮かべて部屋の戸を閉めた。静寂がうす暗い部屋を包み、少女は大きく息を吐いて、ソファに寝転ぶ。

 ヴィルという新人が善良な人格者であることは、ソラも分かっている。しかし、やはりソラにとって、身体の大きな新人という存在は、それだけで恐怖の対象と成り得る存在なのだ。

 慣れなければとは思っていた。しかし、これまでの人生のトラウマは、中々克服することは出来なくて。ヴィルが苦笑いを浮かべるたびに、ソラも困り果てていた。

「…………」

 それにしてもと、ソラは本を閉じて身体を起こすと、締め切られた戸の方へと目を向ける。

 それにしても、あの青年は一体何処に行ってしまったんだろうか。少女が聞いた話では、確か今日の仕事は無い筈だと言うのに。深夜も過ぎた頃、ふらりと外に出て言ったかと思えば、そろそろ夜も開けると言うのに未だに帰って来ない。

「…………」

 ふと、青年を探しに行こう。なんて考えが、頭を過った。

 ソラは閉じた本を机の上に置くと、ソファから立ち上がる。

 心配をしているわけではない。あの青年の強さは、何よりも少女が良く知っている。だから、これは単に好奇心だ。彼女が見ていない所で、青年は一体何をしているのか。

 少女は彼女用の白い外套を羽織ると、戸を開いて外に出た。


 少女が外に出ると、冷たい風が頬を打った。

「…………」

 白い外套の裾を引っ張り、フードを被る。それだけで、何故か暖かい気持ちになる。

 この外套は、青年から与えられた、青年の来ているそれと同じもの。そう思うだけで、少女は安心できた。

「…………」

 フードの裾を引っ張って顔を隠し、少女は夜の街を駆ける。



 ソラがこの街に来て、大体一カ月。細かい裏道はともかく、大通りに面した道なら大体記憶している。……同時に、話しかけても大丈夫な人物かどうか、も。

 手にしたスケッチブックに青年の事を書いて、何人かに聞いたところ、彼が、東の城門から外に出たのを見た。という話を聞いた。

「……………………」

 城門から外に出れるのは、青年や店主、ヴィルといった、腕の立つ人物だけである。本来ならば、ソラの様なひ弱な旧人の少女は門の前に立った時点で門番に追い払われるのが常だ。

 しかし、青年の事を書いたスケッチブックを見せると、二人の新人の門番は当たり前のように門を開いてくれた。どうやら、門の外に居ると言うのは事実らしい。


 ソラが早足で門を出ると、何処までも続く、遮るもの無い砂漠が、視界に広がった。

 そろそろ、空も白んでくる頃だ。少しだけ焦る。このまま夜が明けてしまったら、家に帰れなくなる。下手をしたら、このまま死んでしまうかも……。

 ふるふると少女は首を横に振り、その幻想を振り払う。それにしても、青年は一体何をしているのだろう。こんな時間から外に出ても、遠出をすることは出来ないし。かといってこんな何も無い砂漠を見ても、楽しい事なんて何もない。

 そもそも、彼は今何処に居るのか。ソラが周囲の砂漠を見渡すと、目当ての青年はすぐに見つかった。

「……………………」

 視線の先、砂浜の上に立つ青年は、こちらに背を向けて立っている。

 黒い外套をなびかせ、口元から白い煙を上げる青年は、少女がすぐ後ろまで近寄ると、ゆっくりと振り返った。

「……なんだ、お前か」

 青年ははぁっと息を吐くと、口元の白い煙を吹かす棒状の何かを砂漠に投げ捨てて、ゆっくりと振り返る。

「お前、こんな所で何をしてる」

「…………」

 ソラが慌ててスケッチブックのページをめくるが、青年はもう一度息を吐いて、少女の頭に手を置いた。

「探しに来てくれたのは良いが、街の外にまで出るのは感心しない。危ないだろ」

「…………」

 青年の台詞に、ソラは眉根を寄せると、スケッチブックを外套の下にしまって恨みがましい瞳で青年を見つめた。

「……まあ。行き先を説明しなかったのは悪かったと思っているが……。それでもだ。大体、ヴィルはどうした」

 その言葉で、ヴィルが青年の事を探していたのを思い出す。

「……何だ。ヴィルが俺に用でもあったか?」

 こくりと頷くソラに、青年は再び肩を落とした。

「わかった……戻ったらアイツの所に行く」

 二、三度、少女の頭を撫でて、青年は再び砂丘の向こうへと目を向ける。少女も、同じように目を向けるが、やはりその先には何も無く、ただの砂漠が広がっているだけだった。

「…………?」

 少女が青年の横顔を見上げて首を傾げると、青年は困ったような顔をして再び少女を見下ろす。

「……お前、そろそろ部屋へ戻れよ。この時間には、旧人達の殆どは部屋に籠る。危ないんだ。だから……」

「……………」

 ソラは右手を上げると、ぴっと青年の顔を指差した。青年は、その指から顔をそらすと、眉を顰めながら呟く。

「……俺は。だな。その……まだ用があると言うか……」

 一体何の用だと言うのだろう。

「だから……ああもう。分かったよ……」

 青年はぼりぼりと頭を掻くと、外套の裾を乱暴に叩いてその場に腰を下ろした。青年が座った時に待った砂埃がソラの気管に入り、彼女は何度か咳をする。

「何突っ立ってる。お前も座れ」

 涙目でむせ込む少女を無視して、青年は少女の腕を掴むと、無理やりその場に座らせた。

 ソラが青年に恨みがましい瞳を向けると、青年は既に遠く、地平線の向こうに目をやっていた。

「……………………」

 仕方なく、ソラも青年が見ている方へと視線を移した。東の空。既に地平線の近くは明るくなって来ている。

「……こういう景色は、街の中では城壁に邪魔されて見れないからな」

 青年が、少女に聞こえるか聞こえないかといった声でぼそりと呟いた。少女が一度、視線を青年へと向けるが、青年は東の空へと目を向けたままだった。今のは独り言だったのだろうか。少女は膝の間に顔を埋めながら、再び白み始めた空を見つめる。

 青年が何時まで経っても動こうとしないのが、少女は気が気でなかった。旧人が日光に直接あたれば酷い火傷を負う。その事を少女に教えたのは、他ならぬ青年だと言うのに。

「……そんなに心配しなくても、日が昇るまでには帰るよ。そんなことより、ほら」

 青年が顎で指示す先、黒で塗りつぶされていた空は、藍色に近い青と、染めるような赤色のグラデーションによって上塗りされていく。

「……俺達が唯一見れる、『夜』以外のソラ。青空ではないけれど……。それでも、やっぱり綺麗だと思う」

 視線を空に向けたまま、小さく呟く青年。その言葉に、どんな感情が隠されているのか、少女には分からなかったけれど――

「――――――」

「……何で笑ってる」

 青年には似合わない、どこか感傷的な台詞に、少女は初めて彼の内面に触れたような気がして、嬉しかった。

「…………ふん」

 青年は顔を背けると、立ちあがって裾を叩く。

「……空が赤みを帯びてきた。いい加減戻ろう」

 そうして、青年が少女に手を差し伸べる。

「…………」

 少女は、その手と、青年の顔を見比べると、ふと笑って、その手を取った。

「……じゃ、帰るぞ」

 手を掴んだまま、こちらを振り返ることも無く歩きだす青年は、そのくせ、歩幅を少女に合わせてくれていて。

 暖かい手を握り締めながら、そう言えば、青年に手を引かれるのは、これで二回目だな。なんて、少女は思っていた。

「…………」

 急に顔が熱くなるのを感じて、少女はフードを目深に被る。青年はそれを横目に見ながら、訝しげに眉を顰めていた。



 青年と白い少女が、東の空を見上げていた頃。城壁の街を挟んで反対側。西の砂漠を歩く、一つの影があった。

 ぼろぼろの外套に身を包むその姿は小柄で、フードを被り顔を隠したその姿でも、それが旧人のものであると分かる。

 それは、城壁の街の全体を臨める砂丘の上で足を止めると、外套の下から僅かに見える口元から息を吐きだす。

「……やー。どうにか日が昇るまでにたどり着けたね。良かった良かった」

 高い声。恐らくは、ハイティーンの少女のものであろう。

「二ヵ月ぶりの我が家っと。長かった。長かったよう……ううう……」

 彼女は俯くと、顎に手を置いてワザとらしい演技と共においおいと声を上げる。

 しばらくそうしていたが、それにも飽きたのか、突然動きを止めると、再び顔を上げて街を臨み、口元を釣り上げて。

「さて。そんじゃまあ……久しぶりに、アイツに会いに行きますか」

 少女は無邪気に笑うと、再び城壁の街を目指して、砂漠の上を歩きはじめた。



次回更新は10月15日20時予定

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