VS. バレンタイン (5)
もうすぐ午後五時……すでに練習を終えた、大半の野球部員は帰宅してしまっている。土曜日のこんな時間に、まだユニフォーム姿のままグラウンドに残っているのは、もう山崎と“りん”の二人くらいのものだ。
グラウンドから見える校門周辺には人通りはほとんどなく、フェンスに寄りかかってグラウンドを見ている野次馬も、ただ一人……東子しかいない。
たった二人しかいないグラウンドに、ある一人の野球部員が姿を現した。たまたま着替えるのが遅くなってしまった一年生が、今頃になって野球部の部室から出てきたのだ。山崎は、その一年生……近藤に声をかけた。
「近藤! 大村見なかったか?」
「大村先輩は、もう帰りました」
そう聞いた山崎は、
(そういや大村のヤツ、今日は早く帰らなきゃって言ってたな……)
と、思い返した。練習が終わってから、もう一時間近く経つ。帰っていて当然だ。
山崎は困ったように肩をすくめたが、その隣で“りん”は笑っていた。
「いいよ、キャッチャーは大村クンじゃなくても」
「いいのかよ? 大村じゃなくて」
「一打席だけなら、投手の方が有利だからね。ハンデみたいなモンだよ」
山崎が、面白くなさそうに口元を歪める。自分に対してハンデをつけられること自体がプライドに障ったのだろう。だが、もう帰ってしまったのなら仕方がないところだ。
「もう着替えちまった後なのに悪りぃけどよ、お前……ちょっと受けてくれねぇか?」
「はい! ……え? は?」
体育会系の性か、主将命令に対してとりあえずハイと答えた近藤は、もう一度着替えに部室に入っていった。よほど急いだのか、すぐにマスクやプロテクター付けて戻ってきたが、この状況を飲み込めていないせいで、さかんに首を傾げていた。
“りん”は、練習終了後、一年生たちによってキレイに整備されたグラウンドに足を踏み入れた。マウンドに上がり、一年生の急造キャッチャーを見据える。その明らかに本職ではない構えは、大村という名キャッチャーに慣れている和宏からするとなんとも頼りなかった。
舞台が整ったと見た山崎は、愛用の金属バットを握り締め、静かにバッターボックスに入った。
「ルール確認するぞ! 一打席勝負! 俺を打ち取ったら萱坂の勝ち! そうでなかったら俺の勝ち! それでいいんだな?」
「いいよ。ヒット性の当たりの判断は……」
「いらねぇよ。そんなダセェ打球を飛ばす気はねぇ!」
今度は、“りん”のほうが面白くなさそうに眉をひそめる。山崎の、実質上の勝利宣言に等しかったからだ。二人の間に火花が散った。
「で、俺が勝ったら萱坂は何してくれるんだ?」
山崎は“りん”を挑発するように尋ねたが、そんなことまで考えていなかった和宏は考え込むしかなかった。今頃になって考え始めた“りん”に、山崎は呆れつつ苦笑した。
「なら、のんちゃん堂の焼きそば、一週間分おごってもらうぜ」
(い、一週間……?)
和宏は言葉を失った。のんちゃん堂に行くたびに大盛りを食す大食漢の山崎に一週間もおごり続けたら、“りん”の一か月分の小遣いなど簡単に吹き飛んでしまう。だが、勝負を持ちかけたのは和宏の方である。今さら下りることなど出来るわけがない。答えは一つだった。
「いいよ、それで」
「よっしゃ! 忘れんなよ!」
もはや、売り言葉に買い言葉だったが、話はすんなりまとまった。後は、勝負開始を待つばかりだ。この広いグラウンドに、“りん”と山崎……そして、一年生の近藤の三人きり。グラウンドの外には、東子が不安げな様子で二人の勝負の行方を見守っている。
静まり返ったグラウンドで、マウンド上の“りん”が大きく振りかぶった。ワインドアップモーションからゆっくりと左足を上げ、テイクバックは小さな身体を大きく見せようとしているかのように。完成度の高いピッチングフォームから放たれたボールは、直線の軌跡を描いて山崎の膝元を襲った。一年生のミットが、危なっかしい動きでそれを掴む。山崎は微動だにせず見送った。
(チェッ、ピクリともせず、か……)
和宏は、顔色を変えずに心の中で舌打ちをした。山崎の苦手な内角低めのストライクゾーンから少し外れたボール。振ってくれたら儲けもの……というボールであったが、山崎はそう甘くはなかった。
早く次を投げて来い……と言わんばかりに、山崎は“りん”を睨みつけている。その構えが妙に大きく感じられ、いつものチャランポランさを微塵も感じさせない。和宏は、どこに投げても打たれそうな感覚とともに、言い知れぬ投げにくさを感じた。
第二球……一球目と同じ美しいピッチングフォームから放たれたボールが、インコースからアウトコースへ逃げるように大きく曲がっていく。“りん”の決め球であるスライダーだ。間違いなくストライクゾーンを通過していったそれは、一年生のミットに収まることなく後ろに逸れていった。キャッチャーが本職でない一年生の近藤が捕球するには少々荷が重い球だったのだろう。
「おら! それくらいの球ァ、ちゃんと捕れ!」
山崎が、キャプテンらしい檄を飛ばす。近藤は、すいません……と恐縮しながらバックネット前までボールを追った。
(それくらいの球……か。言ってくれるじゃん……)
この曲がり幅の大きいスライダーは和宏の最大の武器である。それを“それくらいの球”と言われたのでは立つ瀬がない。
ボールを回収してきた近藤がキャッチャーの位置に戻り、勝負は再開された。カウントはワンストライクワンボール。投手にとっては有利とも不利ともいえないカウントだが、和宏はさらに投げにくさを感じていた。最大の武器であるスライダーを投げてしまった後の一投が思いつかなかったからだ。思わず、キャッチャーが大村クンなら……と口走りそうになり、頭を振って打ち消す。
迷いが消えぬ中、“りん”は三球目を投じた。山崎の苦手な内角低めを突いたシュート。だが、山崎はその球を難なく……しかも完璧に捉えた。ジャストミートした金属音とともに、打球が良い角度でレフト方向へ飛んで行く。“りん”は、下唇を噛みながら打球の行方を見守った。
グングンと伸びていった打球は、幸いにもファールラインのわずか外側に落ちた。和宏は、思わず胸を撫で下ろしたが、飛距離だけを見れば完全にスタンドインしていた。
(ちっ……)
山崎の舌打ちが、マウンド上の和宏まで聞こえた。それだけ山崎にとっては会心の当たりだったということだ。
「頑張って! りん!」
東子が、右手を振りながら、持ち前のアニメ声で応援の声を張り上げる。相変らずデカイ声だ……と思いつつ、チラリと東子の方に視線を移した山崎は、その右手に例のチョコが握られていることに気付いた。
(沙紀が作ったチョコ、か……)
山崎は、東子の声援に軽く右手を上げて応える“りん”を見ながら、いったん打席を外した。
(全く……、男の外面に簡単に騙されやがって……)
女子としては飛び抜けて高い身長、可愛らしい……とはお世辞にもいえない、迫力ある切れ長の瞳。外見的に男子から女子扱いされることの少なかった沙紀が、ちょっと優しくされて舞い上がってしまったのだとしたら、それはそれで致し方ないことかもしれない。しかし、山崎には納得がいかなかった。
(いい加減に気付けよな……、昔からお前を想ってる男がすぐ近くにいるってことくらい……)
ジワリと掌にかいた汗を、ロージン代わりにグラウンドの土で拭う。手が汚れたが、山崎は気にせずに二度三度と素振りを繰り返した。感触は悪くない。山崎は、思い出したようにククッと笑った。
(無理か。何か“きっかけ”でもない限り……!?)
そう呟きかけて、山崎の動きが一瞬止まる。そして、山崎は改めてグラウンドの外にいる東子の姿を視界に捉えた。
(そういう……ことかよ)
東子の言っていた“きっかけ”の意味に気付いた山崎は、余計なことを……と苦笑しながら、もう一度渾身の素振りをして、再び打席に立った。
マウンド上の“りん”の視線が山崎を射ったが、山崎は気後れすることなく睨み返した。当然だ。ここで視線を逸らしてしまうようでは四番失格だからだ。
(でもよ……、これは真剣勝負なんだよ。お前らの出る幕じゃねぇんだ)
“りん”は、すでにピッチングモーションに入っていた。今まで飽きるほど見てきたしなやかなピッチングフォーム。投げるたびに揺れる黒髪のポニーテール。その美しさは、いつだって変わらない。山崎もまた、いつものように集中力を高め、心を無にしようとした。だが、山崎の胸の内には、ピッチャーがボールをリリースする直前にもかかわらず、モヤモヤしたものが残っている。それも、真剣勝負の邪魔になるような何かが。
ギリギリまで引き絞られた弦から放たれた矢のような直球が、低め一杯のストライクゾーンを襲う。山崎は、スタンドに放り込むつもりでフルスイングした。だが、そのバットはボールにかすることなく空を切っていた。
――To Be Continued