VS. バレンタイン (4)
「お~い! りん~!」
この広いグラウンドにあっても、ひたすらよく通る不思議なアニメ声が響き渡る。
今日は土曜日。土曜日の部活動は、基本的に全ての部が午後四時には終わることになっている。大会などが間近の場合などは特別に時間を延長して練習を行なう場合もあるが、近々大会などがないこの時期は、どの部も午後四時を知らせるチャイムとともに活動を終えていた。
大方の部員が帰っていった後、“りん”はまだユニフォーム姿のままだった。というのも、男子たちが部室を使い終わるのを待っていたからだ。さすがに汗交じりのアンダーシャツを気持ち悪く感じた“りん”が、さっさと着替えようと部室のドアを開けようとした時、東子に大声で呼び止められたのだ。
ちょうど、その後の沙紀のことを聞きたかったところである。“りん”は、急いで東子のいる校庭まで走り寄ったが、泡を食った様子で先に“りん”に尋ねかけてきたのは東子の方だった。
「あっ! りん! 沙紀知らないっ!?」
「……っ!? 沙紀がどうかしたのか?」
「うん……、部活終わったら、もういなくなってたのっ!」
グラウンドと校庭を仕切るフェンス越しに、東子の顔が心配げに曇る。あの収集庫での一件の後、平常どおり二人は部活に出たらしい。特に沙紀は女子バスケ部のキャプテンなのだから、簡単に休むことも出来ないだろう。東子の話によれば、とりあえず沙紀は平静を保っていたという。
「じゃあ……、一人で帰っちゃったってことか……?」
「多分……。部活の最中はなんかちょっと上の空って感じだったし……」
「……」
「なんか、身が入ってないっていうか、目が虚ろっていうか……」
その時を思い出すように、東子は視線を宙に這わした。いくら平静を装っていても、やはり内心はショックだったに違いない。“りん”が何度も頷いていると、そのすぐ後ろを山崎が通りかかった。
「よう!」
「あっ! 山崎くん!」
「タッくんはやめろ……」
“タッくん”は、子どもの頃の山崎の呼び名である。東子は何も気にせず、高校生となった今も山崎のことをそう呼んだが、山崎は居心地悪そうに頭を掻いていた。
まだユニフォーム姿、しかもこれから校舎に向かおうとしている山崎に、“りん”は軽く首を傾げた。
「そっちこそどうしたんだよ」
「ちょっと監督に呼ばれてな。それより……珍しいじゃねぇか、二人だけなんて。沙紀はどうした?」
“りん”と東子は、思わず顔を見合わせた。ちょうど、その沙紀のことを話していたところだったからだ。
山崎と沙紀と東子は幼馴染である。その気安さから、東子が例のチョコの一件をかいつまんで説明すると、山崎の顔がみるみるうちに険しくなっていった。
「胸くそ悪くなる話だな」
「だから、力一杯引っ叩いてきた」
「でかした」
「さすがりんっ♪」
山崎が納得したように深く頷き、東子は“りん”の快挙を褒め上げるように手を叩いた。やはり、怒りを感じるポイントはみな同じ……“りん”のビンタで溜飲を下げたということだろう。
「でも、やっぱりショックだったんだろうな……」
「そりゃそうだよね……っ」
“りん”と東子が、思わずため息をつく。何しろ、一生懸命作ったチョコが封を開けられもせずに捨てられていたのだ。
「ね、一緒に沙紀の家まで行こっ? きっと落ち込んでるよ。慰めてあげなきゃ……」
「そ、そうだな。それじゃ……」
東子の提案に、和宏は一も二もなく乗ろうとした。その時、山崎が少し強めの口調で二人をたしなめた。
「やめとけよ」
山崎の言い方は、幾分きつかった。東子と“りん”は、驚いた顔で山崎を見返した。
「お前らが行ったってしょうがねぇだろ」
「ど、どうしてよっ!」
「だって……お前らと顔合わせるのが気まずいから一人で帰ったんだろ?」
「そ、それは……」
思わず東子が口ごもる。
「でも、一人ぼっちじゃ沙紀がかわいそうじゃないっ!」
「知るかよ! 勝手に先輩とやらに入れ込んで、ふられただけじゃねぇか! 変にお前らが気を遣う方が却って堪えるんだよ、沙紀の場合は!」
「でも……でも……」
「とにかく……、今日はやめとけ……」
そう言って、山崎は校舎の方に走っていった。あとに残されたのは、山崎の吐く正論に反論できなかった二人だけだった。
「なんだよ……。冷たいなアイツ……」
「ううん、きっと逆だよ……」
「逆?」
「山崎くんの方が沙紀のことわかってるんだなぁ……って思っちゃった。確かに、ただアタシたちが行ったってなんにもならないもん……」
「……」
友だちとして、ただ慰めるくらいなら出来るかもしれない。しかし、山崎のいうとおり、それを沙紀が望むのなら一人だけ先に帰ったりはしないだろう。
「やっぱり沙紀のことが好きな人は違うなぁ……」
「そうだな……って、おい!」
「え? なにっ?」
「す、好き……って? 山崎が? 沙紀を?」
「……」
「……」
東子が、なぜか『なんでそのこと知ってんの?』という顔をしながら、“りん”と目を見合わせる。不自然な間を置いて、東子は恐る恐る“りん”に尋ねた。
「あれ? ひょっとしてアタシ、なんか口滑らしちゃった?」
「多分……っていうか間違いなく」
大きく“りん”がうなづくと、東子は諦めたように肩をガックリと落とした。
「ふみゅぅ……。またやっちゃった……」
“また”ってことは秘密漏洩の常習犯なんだな……と思いつつ、和宏は頭を抱える東子に苦笑した。確かに、東子のキャラとすれば秘密をバッチリ守るイメージではない。その証拠に、東子は開き直ったかのように饒舌にしゃべり始めた。
「山崎くんはね……沙紀がいるから鳳鳴高校に来たんだよっ♪」
「そういや、どっかからスカウトがあった(「俺、りん」第109話参照)けど、結局断ったって言ってたな……」
いつの日か聞いたおぼろげな記憶を呼び起こす。高校進学の際、甲子園を狙う強豪校からのスカウトがあったという話を聞いた時、和宏が羨ましく感じたのは確かだ。
「でも、なんで知ってるんだ? そんなこと……」
「山崎くんがね、一度だけアタシの前で口を滑らせたのっ♪」
(ぅわぁ、お気の毒……)
どういうシチュエーションかはわからないが、よりによって幼馴染の上に沙紀の親友である東子にそんなことは知られたのは痛恨だったに違いない。和宏は、少しだけ山崎に同情した。
「他には誰かにしゃべってないんだろうな?」
「しゃべってないモン! こう見えてもアタシ、りん以外には口が固いんだからっ♪」
(嘘くせぇ!)
たった今、口を滑らせてしまったのは“りん”限定だと言い張りたいらしい。和宏は、半分呆れつつも、思う存分心の中で突っ込みを入れた。
「で、沙紀の方はどうなんだ?」
「どう……って?」
「沙紀の方は山崎のことをどう思ってるんだ、ってこと」
小首を傾げて、珍しく東子は考え込むポーズをとった。和宏は、ジリジリと返事を待ったが、戻ってきたのは拍子抜けする答えだった。
「うーん……どうなんだろっ?」
「東子でもわからないのか?」
東子と沙紀もまた幼馴染であり、“りん”よりもはるかに付き合いが長い。その東子を持ってしても、わからないというのが、和宏にとっては少し不思議に思えた。だが、東子は首を横に振りながら答えた。
「ううん、そうじゃなくて……っ」
「?」
「沙紀にとって、山崎くんは……やっぱり特別なのっ」
「特別?」
“特別”の意味が分からず首を傾げた“りん”を、東子はクスリと笑った。
「沙紀って、ちょっと理不尽なところあるけど、誰にでも……ってことないでしょっ?」
「確かにな」
「特に、あんな風に接する男子なんて、アタシの知る限りじゃ山崎くんしかいないのっ」
そういえば……と、記憶を思い返す。理不尽女王の名を欲しいままにする沙紀だが、誰にでもそういう振る舞いをしているかといえばそうでもない。東子や“りん”などの気心の知れた親友相手くらいのものだ。そして、その中に男子としてただ一人……山崎が入っている。
「でも、特別だと思うけど……それが恋愛感情って聞かれるとちょっと違うと思うし……っ」
「そっか……」
「幼馴染って難しいよね。一緒にいた時間が長すぎて」
“萱坂りん”にも“瀬乃江和宏”にも、普通の友だちはいても、幼馴染といえる友だちはいなかった。だから、和宏には東子のいう幼馴染の難しさが実感できなかったが、なんとなく『幼馴染ってそういうものかもしれない』とも思った。
「何かきっかけがないと先に進めないのかもね……」
そう言いながら、珍しく東子は複雑そうな表情で笑った。少しの間、“りん”は難しい顔をして唸っていたが、突然思いついたように手を叩いた。
「ということは……“きっかけ”を作ればいいんだな?」
「え?」
唐突にそんなことを言い出した“りん”に、東子は目を丸くした。
◇◆◇
監督に呼ばれて職員室に行った山崎が、生徒用玄関に姿を消してからちょうど十分後。その山崎が、グラウンドの入口に佇んだままの“りん”と東子の元に戻ってきた。二人の姿を認めた山崎は、開口一番
「なんだ? 二人ともまだいたのかよ?」
と、意外そうな声を上げた。だが、そんな山崎の反応を予想していたように“りん”は答えた。
「待ってたんだよ、山崎を」
「はん?」
怪訝そうな顔をする山崎に、今度は東子が追い討ちをかける。
「はいっ、これっ♪」
そう言いながら、例の沙紀のチョコを東子が差し出すと、山崎の表情はますます怪訝の度を増した。
「いや……なんだ、コレ?」
「えへへ……“きっかけ”♪」
「“きっかけ”? 何のことだ?」
山崎の、形の良い眉が思いっきりひん曲がっている。まるで、眉をひそめた表情の見本のようだったが“りん”は全くお構いなしに言い放った。
「それ持って、沙紀のところに行ってくれよ」
「は? 俺が?」
「決まってるだろ」
「何で俺なんだよ!? こりゃ沙紀がサッカー部の先輩に作ったんだろうが!」
「いいから持って行けって! 後はお前に任せるからさ」
「わけわかんねぇ! お断りだぞ、そんなの……」
映画の中で、外人が『クレージー……』と呟く時のような仕草をしながら、山崎は一回り以上背の低い“りん”を見下ろした。だが、山崎の顔を見上げる“りん”は、全く臆することなく言った。
「じゃあ、勝負しよう」
「あ?」
「負けた方が勝った方の言うことを何でも一つ聞く……」
「なに言ってんだ?」
「一打席限りの真剣勝負を――」
『真剣勝負』……と聞いた山崎の目つきが途端に変わる。それを言い出した“りん”の目もまた真剣だったからだ。
傾きかけた冬の太陽がグラウンドを照らす。冬にしては暖かな日差しとともに、それに似つかわしくない緊迫した空気が二人を包んだ。
――To Be Continued