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VS. バレンタイン (1)

 チョコレートの、むせ返るような甘い香りがキッチンに漂っている。四人の女子高生が使うには少々狭いキッチンだ。無理もない。いつもは“りん”の母親であることみが一人で使っている、平均的な大きさのシステムキッチンだからだ。

 バレンタインデーを翌日に控えた金曜日。部活が終わった沙紀と東子、そして、店……“のんちゃん堂”の仕事ウェイトレスを休んだのどかが、“りん”の家に集まり、せっせとチョコ作りに励む。いや、“励む”という言い方は少々御幣があるかもしれない。どちらかというと“ドタバタ劇を演じていた”が正解であった。


「だーかーらー、なんでそこでケチャップを入れるんだ!?」

「隠し味に決まってるでしょうが!」

「さっきもそういって醤油をドバッと入れちゃって失敗してたよな?」

「そ、それは、ちょっと分量を間違っただけよ!」


 それなら今回も醤油を入れとけっちゅうねん……と、和宏は心の中で突っ込みを入れる。口に出さなかったのは、これ以上沙紀に口答えしても、無慈悲なアイアンクローが飛んでくるだけだと理解していたからだが、なぜか結果は同じだった。


「醤油でもケチャップでも同じでしょうが!」

「イダダダダダッ!」


 沙紀の、女子にしては大き目の右手が“りん”の額をガッシリと掴んで離さない。完全にホールドされた両こめかみからは、とびっきりの激痛が送り込まれてくる。それにしても、なんという理不尽さだろうか。やはり理不尽女王の名は伊達ではなかった。


「さあさあ、それくらいにしないと時間がなくなってしまうよ」


 のどかが、キッチンから見渡せるリビングの壁掛け時計を指差しながら仲裁に入った。時間は、すでに午後八時になろうとしている。普段なら、“りん”と母親のことみが夕食を終えて風呂にでも入っている時間だ。しかし、今日に限ってはことみの帰りが遅くなることがあらかじめ確定していたため、遅い時間ではあったが、こうして四人が集まってバレンタインデー用のチョコ作りに勤しんでいるのである。


「あ、何食べてんだ?」


 沙紀のアイアンクローが外れて自由を取り戻した和宏は、ホッとする間もなく東子の口がモゴモゴと動いていることに気付いた。


「大丈夫っ♪ アタシの分だからっ♪」

「ま、まだ固まってなかっただろ……?」

「平気平気っ♪ トロッとしておいしかったよっ♪」


 固まりかけのチョコが、さぞかし美味だったのだろう。東子の、ただでさえ垂れている目が幸せそうに垂れ下がり、その表情はどうしようもなく蕩けきっている。念のため冷蔵庫の中を確認すると、沙紀よりも一足先に完成させた東子のチョコのほとんどが、東子自身のつまみ食いによって消失していた。


「いいのかよ。もう残ってないじゃん……」

「大丈夫っ♪ もともと自分用だもんっ!」

(誰かにやるんじゃないのかよっ!)


 力強く突っ込みながら、“りん”は、やれやれ……と小さく肩をすくめた。東子の食い気は大したものだと、逆に感心するほかはない。太らないのだろうか? などと、余計な疑問すら湧いてくる。

 冷蔵庫には、東子のチョコに他に“りん”のチョコも冷えて固まるのを待っていた。何の飾り気もない一口大のチョコボールが多数。二十人以上いる男子野球部員たちに配るためのチョコだ。なんともやる気の感じられないチョコだが、そもそも和宏はチョコ作りなどする気はなかったので当然といえば当然だった。

 何が悲しくてチョコをあげる方の立場で、そんなイベントに参加しなくてはならないのか。それは、沙紀の事情が大きく関与していた。沙紀には、憧れているというサッカー部の先輩(「俺、りん」第42話参照)がいる。今春めでたく卒業する先輩であるが、今はセンター試験の追い込みの真っ最中らしい。卒業すれば会えなくなる先輩に、せめてチョコを渡そう……という、沙紀にしては珍しく乙女チックな事情だった。


「とにかく、もう一回頑張ってみよう。今度こそ失敗しないように」


 チョコ作りのために買ってきた板チョコは、沙紀が何度も失敗したこともあって、もう残り少なくなっていた。これ以上失敗したら、明日のバレンタインデーに間に合わなくなってしまう。のどかは、慎重な作業を――要はレシピどおりの作業を――沙紀に促した。

 わ、わかってるわよ……と、口を尖らせながら、沙紀は再び板チョコを細かく刻み始めた。包丁の使い方が、これでもかというほどたどたどしい。和宏たちは、ハラハラしながら沙紀の包丁さばきを見守った。のどかの用意してきたレシピによれば、大きさを揃えて細かくカットしないと湯せんの時に溶け方が均一にならず、火が通るまでに時間がかかって風味が飛んだりするという。何事にも大雑把な沙紀には苦手な作業だったが、のどかが事細やかに指導したおかげで少しずつ作業が進み始めた。

 生クリームを入れた鍋を火にかけ、沸騰しないように気を付ける沙紀。その目は真剣そのものだ。和宏が何か茶々を入れようとしたが、のどかが目配せして押し留める。手持ち無沙汰になった“りん”と東子は、いつになく真剣な沙紀の姿を眺めながら、お互いに顔を見合わせた。


(二人とも、バットとオーブンシートを用意しておいてくれないか?)


 のどかが、集中している沙紀の邪魔にならぬよう、小声で“りん”たちに指示を出した。いずれも、次の工程で使う物である。こうして、沙紀のチョコ作りは佳境に入っていった。

 先ほど細かく切ったチョコレートが入ったボウルに、沸騰直前まで熱した生クリームを入れ、冷めないうちに泡立て器で小気味よくかき混ぜていく。パワー型の沙紀にとっては、これまた苦手な作業である。案の定、力任せにかき混ぜては生クリームが辺りに飛び散っていった。


「ちょっ! 力入れすぎ!」

「うるさいわね! 冷めないうちに手早くやらないといけないんだから仕方ないじゃない!」


 意地になってかき混ぜる沙紀の手つきに、さらに力が篭る。そこへ、のどかの手が優しくフワリと押さえつけた。


「腕の力でかき混ぜたらダメだよ。腕を動かさないで、手首だけを動かしてみて」


 素直に助言アドバイスに従って手首を拙くこねてみると、なんとか飛び散らなくなった。そうしてかき混ぜていくうちに、生クリームと溶けたチョコとが混じり合い、ボウルの中身が滑らかなクリーム状に変わっていく。まさに出来立ての生チョコの香りがキッチン中に充満していった。


「すっごいおいしそうな匂い~っ♪ ちょっとだけ舐めさせてっ♪」

「絶対ダメよ!」


 手伝ったのにぃ~……と、キッパリと断られた東子の目が涙目になっている。ちょっとかわいそうに思った和宏だったが、自業自得なので特にフォローは入れなかった。

 さっき“りん”たちが用意したバットの上に、ボウルの中でまだ温かさを保つ生チョコを流し入れ、表面を平らに整えて……出来上がりだ。


「出来たわ!」

「うん。生チョコの風味がよく出てるし、これは良い出来なんじゃないかな?」


 のどかのお墨付きが出た。沙紀は、バットを冷蔵庫に仕舞い込みながら、珍しく喜色満面だった。


「ありがと、のどか。おかげで上手く出来たわ」


 いつも料理と名のつくものは壊滅的に失敗する沙紀にとって、まともに出来ただけでも快挙なのである。


「でも、最後まで油断しない方がいいんじゃね?」

「……はぁ?」

「そうそう。最後のカッティングで失敗したりして……」


 冷蔵庫で一時間ほど冷やすと、生チョコが固まる。それを、包丁でカットしていくのだが、飛び抜けて不器用な沙紀のこと、跡形もなく粉々に砕いてしまっても不思議はない。


「あはは。大丈夫だよ。ちゃんと包丁を温めれば簡単に切れるし」

「いやいやいや、油断大敵。のどかは沙紀を甘く見すぎなんだよ……」


 冗談交じり、でも半分以上本音。とはいえ、少々悪乗りが過ぎたかもしれない。沙紀の切れ長の瞳は、“りん”を睨みつけながら怒りに震えていた。


「もう一度喰らいたいみたいね!」

「イダダダダダダ!」


 本日二回目のアイアンクローが炸裂した。しかも、今度は完全に和宏の勇み足……自滅だった。


「ところで……そのサッカー部の先輩って、沙紀のことを知っているのかい?」


 のどかから飛んできた質問に、沙紀は指に込めていた力をフッと緩めた。激痛から逃れることが出来た和宏は、思わずホッと息を吐いた。


「知ってはいるけど、そんなに話したことはないわよ……」

「片想いってこと?」

「べ、別に好きとかそんなんじゃなくて! センパイ、私なんか話にならないくらいモテるし……」


 沙紀の顔が、これ以上ないほど真っ赤に染まる。


「かっこいいモンね~、東条先輩」

「ああ、あの人、背が高くてイケメンだね」


 モテモテオーラの濃さは三年生の中ではトップクラス。当然、女子からの人気もトップクラスだ。校内では有名人の一人だといえるだろう。


「受験前で大変だろうから、ただ渡すだけでもいいか……って思って」


 いつもは姿勢良く伸びている背中を心持ち丸くしながら、人差し指をツンツンと突き合わせている。普段では見られない沙紀の姿に、さすがの和宏ももうからかう気にはなれなかった。


「いいんじゃなねぇの? もらった方も嬉しいだろうし」

「ほ、ホントにそう思ってくれるかしら?」

「多分……な」


 時間はもう午後八時半を過ぎ、まだ使い終わった道具が散乱するキッチンには一段落感が色濃く漂う。あとは、冷蔵庫に入れたチョコが固まるのを待つばかりである。


「さて、わたしはそろそろ帰るね」

「え? もう?」

「うん。店の後片付けもしなくちゃいけないし……」


 そう言いながら、のどかはテキパキとキッチンの後片付けを始めた。“りん”たちも、思い出したように後片付け作業に加わると、あっという間にキッチンはチョコ作りを始める前の状態に戻った。


「そういえば、今日シオリンはどうしたんだろっ?」

「誘ったんだけど、今日は用事があるって」

「ふーん……。シオリン、こういうイベント好きだと思ってたんだけどなぁ……」


 腑に落ちない表情の東子を尻目に、のどかは自分が作ったチョコを冷蔵庫から取り出した。一番最初に作ったため、もう完全に固まっていたそれは、小さなのどかの手よりも一回り大きいサイズのハートの形をしたチョコだった。


「ところで……」

「なんだい?」

「のどかはそのチョコ……誰にやるんだ?」


 和宏が、あまり穏やかでない心中を押し隠しながらのどかに尋ねた。大きさといい、形といい、どう見ても本命チョコにしか見えなかったからだ。


「・・・ひみつ♪」


 のどかは、少しイタズラっぽく舌を出しながらそう答えた。


「それより……明日、先輩にちゃんと渡せるといいね」

「な、なに言ってんのよ! ただ渡すだけなんだから! ど、どうってことないわよ!」


 沙紀の方を見てニコリと笑いかけるのどかに、沙紀はいささか固い表情で答えた。口では強気なことを言いながらも、もう今から緊張している様子が一目瞭然だった。

 明日はバレンタインデー。そして、それが平穏には終わらないことを今はまだ誰も知らない。



 ――To Be Continued

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