VS. バレンタイン (7) ~栞の場合~
土曜日のバレンタインデー。時間は、野球部の練習が終わった直後のことだ。
野球部の練習を終えた大村は、真っ先に部室に入った。いつもならば、練習後はチームメイトたちと他愛のない話でもするところだが、今日に限ってはそうはいかなかった。両親の帰りが遅くなるため、妹のしのぶの夕食の準備をするために早く家に帰る必要があったからだ。
部室で素早く着替えを終わらせ、脱いだユニフォームを押し込んだスポーツバッグを肩に担ぎ上げた大村は、ふとロッカーの中に見覚えのない箱が置かれていることに気付いた。
大村は、小さく首を傾げながら、その箱を手に取った。インディゴブルーのセンスある包装紙と黄色の上品なリボンが目を引く。軽く箱を振ってみると、いくつかの塊がゴトゴトと動く音がした。その音から読み取れる感触と実際の重みから、大村が達した結論は至極自然なものだった。
「チョコレート……?」
今日はバレンタインデー。チョコをもらったとしても全く違和感のない日だ。
(ひょっとして……萱坂さん……!?)
贈り主が誰なのかを考えた大村の頭の中に、密かに恋する“りん”の笑顔が真っ先に浮かび、意図せず心臓の鼓動が跳ねた。だが、よく考えたら、それはありえない……ということに思い至った。すでに“りん”は、部活が始まる直前に小さなチョコを全員に配っていたからだ。もちろん、大村にも同じものを。加えて、“りん”に限って自分だけに本命チョコをくれるなんてマンガチックな展開もありえないことくらい、大村にもよくわかっている。
じゃあ、一体誰が……? という疑問に行きつくは必然の流れだった。この部室は野球部の部室であるが、他部の人間が入れないかと問われれば、決してそういうわけではない。たとえ野球部がグラウンドで練習中であっても、部室への出入りを四六時中見張っているわけでもないのだから、極論すれば誰でも入室は可能なのだ。
箱を裏返してみても、差出人の名前は記載されていなかった。大村は、思い切って中を見てみることにした。念のため、人違いだった場合にすぐに元に戻せるように、包装紙を破かないように丁寧に剥がしていく。
上手く剥がし終わると、中に入っていたのは、美味しそうな一口大のチョコが八つ。そして、たった一枚の直筆のメッセージカードだった。それを見て、大村は無意識に唸った。
好きです――。
唐突過ぎて、呆気に取られるしかなかった。書かれた四文字から視線を動かすことが出来ぬまま、半開きになっている大村の口。まるで、アルファベットの“O”のようだった。
生まれて初めて受けた告白。しかし、誰からなのかがわからない。このシンプルなメッセージカードを、穴が開かんばかりに凝視していた大村だったが、ふとあることに気付いた。
(なんだか……この字、見覚えがあるような……)
誰の筆跡なのかまではわからなかったが、初めて見る筆跡でないのは確かだった。そんなことを考えて立ち尽くしているところに、他の部員たちが部室にガヤガヤと入ってきた。大村は、咄嗟に手に持っていたチョコとメッセージカードを慌ててスポーツバッグに押し込んだ。
「あれ? 今日は早く帰らなくちゃいけないんじゃなかったっけ?」
入ってきた部員たちの中でも仲の良い広瀬が、まだ部室でモタモタしていた大村を見て首を傾げた。そうだ……大村は、広瀬に言われて急に思い出した。今日は、早く家に帰る必要があったから、真っ先に部室に入ったのだった、ということを。
「いけね! そうだった! じゃあ!」
大村は、手に持っていたスポーツバッグを肩に担いで部室を飛び出した。全力疾走で校門まで一気に辿り着いた大村に、校庭でバットケースを運んでいたマネージャーの栞が声をかける。
「お疲れ様でした、大村さん!」
「うん、お疲れ様!」
大村は、立ち止まることなく、笑顔とともに軽く会釈をして通り過ぎていった。特にぎこちないところもなく、いつもの礼儀正しい大村そのものだった。
(……)
走り去っていく大村の後姿を眺めながら、栞はため息を一つついた。
「どうしたんだい? 珍しくため息なんてついて……」
栞の背後から、ちょっと落ち着いたトーンの女性の声が掛けられた。栞は、誰の声かなどとは考えなかった。こんな変なしゃべり方をするのは、この学校に一人しかいないからだ。
「のんちゃん、まだ残ってたんですか?」
「うん、生徒会の仕事でね」
今日は土曜日……しかも、もう午後四時を過ぎている。部活をやっていない生徒ならば、とうに下校している時間だ。にもかかわらず、こうしてまだ仕事をしているのどかに、栞は改めて感嘆のため息をもらした。
「大変ですね、いつも……」
「ううん、もう慣れたから。それより……栞の方こそなんだか元気なさそうに見えるけど?」
「そ、そんなことは……」
「そうかい? わたしはてっきり恋の悩みかと……」
栞の顔が誰の目にもわかるくらいボッと赤くなり、指摘が図星であったことをわかりやすくのどかに伝えた。
「のんちゃんは、もう誰かにチョコあげました?」
「あげたよ」
「あ、あげたんですか……?」
「お父さんに……だけどね」
そう答えたのどかは、イタズラがばれた時のようにペロリと舌を出して笑ったが、のどかが
「で、栞は……?」
と尋ね返すと、栞はもう観念するしかないと諦めざるをえなかった。もちろん、旧知の仲であるのどかだからこそ……だ。
栞は、周囲の目を気にしながら、のどかに耳打ちした。大村のロッカーにチョコを忍ばせたこと。そのチョコに『好きです』というメッセージカードを入れたこと。そして、自分の名前は入れなかったことを。
「大村くんは、そのチョコが栞からのものだってちゃんと気付いてくれたのかい?」
「いえ……、チョコには気付いてくれたと思うんですけど、様子に変わりなかったので気付いていないかと……」
「それじゃ意味ないじゃないか……」
「そ、そうなんですけど……」
栞は、恐縮そうに言い淀んだ。いつも語尾までハキハキとしゃべる栞にしては、珍しく歯切れが悪かった。その時、二人の頭上より男の太い声が聞こえた。
「おーい、久保! すまんが生徒会の資料のありかを教えてくれんか!」
校舎の管理棟と教室棟を繋ぐ渡り廊下の二階の窓から、生徒会指導担当の先生が校庭にいるのどかを呼びつけたのだ。のどかは、栞に向かって軽く肩をすくめながら
「はい、すぐに行きます!」
と、二階に向かって返事をした。
「じゃあ、わたしは行くよ。今度ゆっくり話をしよう」
「はい。お疲れ様です、のんちゃん……」
のどかが生徒用玄関から校舎の中に入っていくと、栞は人がまばらな校庭に一人取り残された。
「さて、後片付けを終わらせないと……」
そう言いながら、栞は再び歩き出した。持っているバットケースを用具室にしまい鍵を掛ける。後の仕事は、グラウンド上に小石やゴミが落ちていないかを確認するくらいだ。栞は、校庭からグラウンドの端っこにある部室まで、地面を確認しながら歩き出した。
(やっぱり……メッセージカードに私の名前を書いておくべきだったんでしょうね……)
歩きながら、眼鏡の奥の瞳がかすかに曇る。
(でも……、きっと大村さんはりんさんのことが好きだから……)
傍目から大村を見れば一目瞭然だった。女性と接する時はいつも緊張している大村であるが、相手が“りん”の時は、その緊張が輪をかけて増す。そして何より、普段から大村の視線が“りん”を追っていることに栞は気付いていた。
(肝心のりんさんは……大村さんのこと、どう思っているんでしょう……?)
栞の目から見て、“りん”が大村に恋愛感情を持っているようには思えなかった。だが、時として二人はどこかお似合いのカップルにも見えてしまうから始末におえない。
そんなことを考えながら歩いていると、地面を確認するために下ばかりを見ていた栞の視界に、ある人影が飛び込んできた。
「なにやってんだ?」
「ひゃっ!」
おかしな悲鳴を上げてしまった口を両手で押さえて立ち止まる。栞の目の前に立っていたのは、まさに考え事の中心人物である“りん”だった。
「どうしたんだよ、そんなに驚いて……」
栞が予想以上の驚きぶりを見せたせいか、逆に“りん”の方が驚いていた。
「す、すいません! ちょっと……考えごとしてたので……」
気を取り直しながら、栞は“りん”がまだユニフォーム姿であることに気付いた。
「あら、まだ着替えてなかったんですか?」
「今から着替えるところだよ。しばらく男子が部室使ってたからさ」
そう言って、“りん”は部室に向かって歩き出そうとした。
「あ! りんさん!」
「ん……?」
呼び止められた“りん”が振り向く。だが、呼び止めてみたはいいものの、栞もまだ躊躇していた。
「あの……」
大村さんのこと、どう思っていますか――?
そう聞きたいだけなのに、なかなか言葉が出てこない。不思議なことに、聞けば何かが終わってしまいそうな気すらした。なぜそう思ってしまうのか……その正体もわからぬまま。栞は、自分から“りん”を呼び止めたにもかかわらず口篭ってしまった。
「……?」
“りん”の顔が、怪訝な色に染まる。栞の頭の中は、尋ねなくては……と焦る気持ちと、聞くべきではない……と押し留める気持ちが攪拌され、混乱の極地に陥っていた。結果、栞の口から出てきたのは、相反する二つの気持ちが辛うじて形になった台詞だった。
「りんさんは……ま、負けたくないですよね……?」
「へ? ま、まぁ……負けるのは嫌いだけど……?」
「じ、じゃあ……頑張りましょうね」
「は? あぁ……うん、頑張るけど……?」
「わ、私も負けたくありませんから……頑張ります!」
「は、はぁ……?」
そんな珍妙なやり取りが終わると、栞はその場から逃げるように一目散に駆け出していった。“りん”は、呆然とそれを見送るしかなかった。
(なんだありゃ?)
珍しく落ち着きのなかった栞に頭を傾げる。もちろん、和宏には理由も意味もさっぱりわからなかった。
「まぁいいや」
そう呟きながら、栞が走っていった方角を見据える。全力疾走で駆けていったからだろう。すでに、栞の姿は見えなくなっていた。“りん”は、両手を上げて一伸びしてから、再び歩き始めた。
物事をあまり深く考えないのは、和宏の悪いところでもありいいところでもある。わからないのだから、考えてもしょうがない。シンプルすぎるほどシンプル……だが、合理的だ。
「とりあえず着替えるか……」
部室の前まで辿り着いた“りん”は、部室の中に誰もいないことを確かめてからドアを開けようとした。その時、校舎の方から、やたらと大きなアニメ声が聞こえた。
「お~い! りん~!」
そして、三話前の『VS. バレンタイン (4)』へ。
これにて、このエピソードは終わりです。引き続き『完結編』の方をお楽しみください。