邂逅
夜明けから数時間後。リィンはクロイト山の入口に立っていた。
山に入るという事もあり、露出のさほど多くない服を着たリィンは、少々暑そうな顔を見せて首からぶら下げた懐中時計を見た。時刻は朝十時を回ったところだ。
顎の辺りの位置で切られたブロンドの短髪と、エメラルドグリーンに輝く瞳が象徴的な彼女は、とある理由からこのクロイト山に足を運んでいた。その理由というのは、店で使うキノコや山菜を採りに来た訳ではなく、この山の何処かに身を潜めているらしい、黒衣の武神アキト・ヒガミに先日遭遇したコートの男の事を伝えるためだ。ついでだが、先日の礼を改めてしたいというのも、彼女が今ここに居る理由である。
「この山の何処かに、あの人が……」
そう思うと、足が自然に動いていた。リィンにはもう見慣れた景色に見慣れた道筋だったが、今日はその景色もいつもとは違う景色に見えた気がした。
クロイト山に入り三十分が経過した。昨日酒場のマスターから得た情報の通り、リィンは今山の中心を流れる川沿いを歩いている。
川の水はとても澄んでいて美しく、魚が泳いでいる姿も見られた。この川はクロイト山の奥地から流れていて、川幅は川を下るにつれて大きくなり、シグライノの先まで流れるこの川は、最終的にはかなりの幅を誇る川へと変貌する。
現状、アキトに辿り着くための手掛かりは見つかっていないのだが、リィンは今日のクロイト山に違和感を抱いていた。普段ならば自然豊かなこの山には、様々な動物が姿を見せる筈なのだが、山に入ってから森を抜け、この川までやってくるまでに一度たりともそういった生き物の姿を確認していないのだ。
――――有り得ない。リィンはそんな不信感を抱いていた。経験上、三十分もこの山を歩き、特に森になっている部分で生き物の姿を見ないなんて事をリィンは体験した事がない。山から自分以外の生物の存在が消えてしまっている。リィンはそんな感覚に陥った。
「一体、どうなってるの……?」
不安や恐怖、焦りといったものが、彼女の心に影を落とした。リィンにとっても身近であるこの山が、こんなにも恐ろしく思えた事が今まで一度だってあっただろうか。クロイト山という巨大な檻に閉じ込められたかのような孤独感と圧迫感がリィンを襲った。
そんな時だった。リィンが立つ川原から少し離れた森の中から、何かの音が聞こえた。
「……気のせいかな」
直後、先ほどよりも大きな音量でその音が響いた。金属同士がぶつかり合っているような甲高い音だ。不規則だが連続して聞こえるその音は、剣と剣がぶつかり合って生まれている音のようにも感じ取れる。こんな山の中でそんな音が聞こえる事は不自然だ。そう思ったリィンは、その音の方向へと足を進めた。
もう何度目か分からない甲高い音が聞こえた。近い。先ほどとは段違いに。リィンはそう確信していた。だが、肝心の音の出所は未だ掴めない。
ここまで音に近付いて何も見つからないのはおかしい。何かがある筈だと思ったリィンは、音がする方向へ更に足を進める。先ほどよりも音に近付く。そうして一番音が近い位置までやってきた。
やはり、そこには何もなかった。
「――――あれ? 何だろうこれ。ここだけ靄みたいなのがかかってるような……」
リィンの目の前に立つ二本の木。その間に何やら靄のようなものが見えた。不思議な事に音はその先から聞こえてきていた。
リィンの細くきめ細かい白い腕が自然と持ち上がり、その木々の間に吸い込まれるように引き寄せられた。指先が四メートルほどの間を開けて立つ木々の間の虚空に触れる。指先に静電気が流れたようなチクリとした痛みが走るが、リィンは構わず手を伸ばした。
「な、何これ……?」
伸ばしきった腕の先。木々より先に見える筈の肘から下の姿が消えていた。痛みはないし、血も流れていない。切断された訳ではないという事は、リィンにもすぐ分かった。
そう、肘から下が無くなったのではなく、ただ見えなくなっているだけなのだ。まるで、この木々の間から先は何処か別の空間に繋がっているかのような――――。
「もしかして……!」
リィンは意を決して木々の間を通り抜けた。突如、稲光のような光が彼女の目に映り、リィンは咄嗟に目を瞑った。
――――数秒後、ゆっくりと目を開けた彼女の前に広がっていたのは、異常な光景だった。
彼女が今居る場所は、先ほどまでの森の中とは程遠い開けた平地だった。森に囲まれたそこはこんな森の中にあるとは考えられない程の広さだった。木々が円状に平地を囲む中央には一軒の家があった。リィンはその家を以前本で見た事がある。アキトの故郷である極東の島国《ヒノクニ》で使われる木造住宅だ。屋根に葺かれているのは、瓦と呼ばれるものらしい。その家自体もなかなかの大きさだが、更に物置のようなものや、これも本で目にした離れのようなものがあった。
そのすぐ横には畑がある。よく手入れが施されており、様々な野菜などが育っている。そこから少し行ったところには、森に生えていた木々とは違う種類の木が何本も立っている。どうやら果物の木らしく、実のようなものが実っているのが見えた。更にその奥には背の低い建物がある。そこからは牛や豚など家畜類の泣き声が聞こえる。
「すごい……。ここで自給自足の暮らしをしてるんだ」
リィンはその光景に素直に感心した。そして、中心に建てられた木造家屋へ近付こうと、足を一歩進めた。
「止まれ!」
何処からともなく声が聞こえた。昨日聞いたアキトの声でも、あのコートの男の声とも違う男の声だ。その声に虚をつかれたリィンは、声に従うように思わず足を止めた。
直後、リィンの目と鼻の先を、横合いから鋭い切っ先が貫いた。空気を切り裂いた突きの先には、その切っ先を首を傾け紙一重でかわすアキトが居た。
あまりの出来事に、リィンは腰を抜かしてその場にへたり込んでしまった。座り込んだまま、リィンは茫然と目の前で行われる超常の戦いを眺めていた。先ほどの一撃をかわしたアキトは、小さな挙動で剣を横に薙ぎ払う。相対する相手は、あのコートの男だった。コートの男は横から迫る剣を後ろに軽く飛ぶ事で難なく避け、すかさず反撃をした。右手に握った剣を、下から掬いあげるように切り上げるが、アキトはそれを、自身の剣に這わせるようにして軌道を逸らせた。どちらも譲らぬ一進一退の攻防。凄まじい剣撃と目視すら困難な剣速。およそ人間のものとは思えない戦いだった。
「何者かは知らんが、死にたくなければそこで見ているんだな」
気付くとリィンの隣には奇妙な格好をした男が立っていた。これも本で目にした事がある。俗に言う和服の類いの形をした上着に、袴と呼ばれるズボンのようなものを帯と言うベルトのようなもので上着の余ったところと一緒に結び、腕には手甲を付けている。あの上着と袴は、腕や脚の部分は幅広になっている筈なのだが、どうやらそこの部分は結んで動きやすいように調節してあるらしい。履物には足袋と言うものを履き、口元は口当てで隠している。忍装束と呼ばれるその服を着る短髪の男は、忍者という存在だろう。
忍者は刃のような鋭い視線をリィンに向けて警告をしてきた。明らかに警戒をしている様子だったが、とりあえずは襲われる事がないという事を察知したリィンは、いくらか落ち着きを取り戻してきていた。
「一体、何がどうなっているんですか……?」
リィンの問いに、忍は鋭い眼をしたまま答えた。
「我が主アキト様が決闘をしているのだ」
リィンがアキトの隠れ家を見つけ出す二十分前。
縁側でのんびりとくつろぐアキトの元へ、コートの男が姿を現す。
アキトと男の関係とは――――。
次回『決闘』