前篇
少しだけビター気味、かな?例によって長くなったので分割処理。暇な時に読んでね(*´ω`*)
十六年前、姉に子供が生まれた。
私にとって、最初で最後の姪っ子だった。
当時姉は十八で、私は十歳。年が離れていることもあってか、私はいつも一人っ子のように両親から育てられてきた。
だが、その甘えた生活は彼女が生まれた日からぱったりと止んだ。
両親は初めての孫をたいそう可愛がった。いろんなものを与え、いろんなものを用意し、たくさんの愛情を彼女に対して注ぎ続けた。
家の中では、いつの間にか生活が姪っ子中心に変わっていった。
私は遠くに放り出されていた。
何も与えられず、部屋の中で蹲るだけの毎日。
そんなささやか抵抗も、誰にも気づかれず、気がつけば主導権を握るどころか、私の方が家から追い出されそうになっていた。
冷たい両親からの視線。
姉夫婦の罵倒。
孤独――――
いつの間にか、私の周りには、家族はいなくなっていた。
一人になっていた。
全て失ってしまった。
「ゆういちっ。ゆういちあそぼっ」
唯一、こんな私に構ってくれる、優しい女の子がいた。
私からすべてを奪った、小さな小さな姪っ子だった。
屈託なく笑う小さな少女。懐っこくて、笑顔がとても可愛くて、戸惑う私の手を取り、小さな身体で公園や川などいろんな所に連れて行ってくれた。
優しい、子供だった。
―――だけど、その優しさが、私にとって苦痛だった。
与えられず、奪われた人間が、無邪気なままに施しを与えられ生かされている、それはまるで乞食のような扱いだった。
悔しかった。
情けなかった。
こんな子供に、自分の居場所を奪われ、なおかつ嫉妬している自分が、とても、とても――――――
私は家に居られなかった。
高校を出ると、すぐに働きに都会に出た。
精一杯働いた。
上司に殴られ、部下の学歴にバカにされ、得意先の人間に何度も頭を下げて、苛立ちに胃液を吐き、ドロドロに酒で酔わされながら、ただただがむしゃらに働いた。
それで全て忘れられるなら、何もいらなかった。
ただ働いて、働いて―――気がつけば、三十路が見える27になっていた。
九年間、このクソッたれな街で働き続けて、心も体も潰しそうになりながら、それでも働いて。
それでも――――家族のことは、忘れられなかった。
ふかしたたばこの煙の向こうに、街の夜景を見下ろしながら、私は今夜もビール缶を片手に、忘れようとした家族のことを瞼の中に思い返す。
私を冷たい目で見ていた姉夫婦。
私を見捨てた両親。
そして――――私からすべてを奪った、小さな姪っ子。
―――胸が張り裂けそうになった。
今日も、眠れそうにない―――タバコをふかしながら、僅かに口元に滲ませた笑みに自嘲を含ませ、私は街の夜景を見つめていた。
「……なんだと?」
朝の六時。
ネクタイを巻きながら、私用の携帯電話の向こうから聞こえてきたのは、忌々しい女の声だった。
『だからっ、そっちにしばらく香奈が世話になるから――だってそっちの高校に受かったからなのよ。もうすぐそっちにつくかもね』
「―――何勝手に決めてるんだよ。俺は了承していない」
『何回もメール入れたわよ』
「俺は、了承していない。メール入れたから免罪できると思うなよタコが」
『――――わかったわよ、どっかのアパートに入れたらいいんでしょ。都会は何かと犯罪も多いから危険なのになんでちょっとぐらい協力してくれないのよ』
「荷物はそっちに送り返す。何かあっても俺に面倒かけるなバカが」
『あ、ちょっと―――』
朝から不快な電話だ。
深い溜息と共に電話を切ると、私は再び出勤の為に準備を始めようとスーツの上着を着こもうとした。
―――ピンポンッ
玄関から、小気味よくインターフォンが鳴る。
三月の朝日を背に受けながら、上着をつかんでいた手が惚けて緩み、上着が足元に広がる。
タイミングが良すぎる。
いや、悪すぎるのか――――
ピンポンッ
せかすように玄関から聞こえてくる二回目の呼び鈴。
私は苛立ちと不安に顔をしかめながら、重たい足で玄関まで歩み寄るままに、恐る恐る玄関のチェーンをつけたまま、鍵を開けてノブを回した。
そして扉をゆっくりとあける―――
「あの……雄一……おじさんですか?」
―――身目麗しい、そこにはまだ幼い少女が扉越しに私の前に立っていた。
以前よりも長くなって肩についた黒髪。
背丈は私の胸元ほどもなく、私服から覗かせる、ほっそりと長い手足。
ハーフなのか、蒼か灰色かに澄んだ眼の色は相変わらずで、掘りの深めな目鼻は整い、ぱっちりとした両目は少し不安げに険しい顔の私を見上げている。
そこには懐かしい、少女が立っていた。
「雄一、おじさんだよね……?」
私から全てを奪った姪っ子が、立っていた。
「うーん……香奈、だよ、覚えてる?」
胸の内が、かっと熱くなり、目の前が僅かに明滅した。
それは怒りのような、ドロドロとした何かだった――――
「すごいねっ。おじさんこんないい所に住んでるんだっ。お金持ちなんだねっ」
「知らんよ……」
金の感覚なんてしばらく忘れていた。必要に迫られて払うとき以外、金を使うことなんてほとんどないからだ。
家具も食器も適当に買いそろえたものばかり、飯もコンビニ弁当と酒とタバコが殆どで、朝は残ったコンビニ弁当を食べるだけだった。
とどのつまり、金を稼ぐのも使うのも、それほど興味はなかった。
「……。それ、すごく身体に悪いよね」
「人の勝手だ……」
「それは、そうだけど……」
「飯は食べてきたのか?」
香奈はかわいらしく長い髪を振り乱し首を横に振る。
零れる溜息。
腕時計を覗きこめば、まだ六時半で、会社の方に出勤をするにはまだ時間が余っていた。
そしてマンションの近くには行きつけのコンビニがある。
答えは強いられているようなものだった―――
「買ってくる。ここにいろ」
「あ、私も行くっ」
「勝手にしてくれ……」
面倒が増えるのがいやだった。
なのに、この女は俺のことを全く考えずに俺の時間を振り回そうとする―――どこかの誰かさんとそっくりだった。
胸糞が悪いくらいに、そっくりだった。
「あ、待っておじさんっ」
「……」
私は逃げ出したかった。
スーツの上着を着るのもそこそこにさっさと家を出ると、慌ててついてくる香奈を横目に、私はマンション近くのコンビニに足を運んだ。
買ったのは缶コーヒー二つとパンが四つ。
金は適当に払って、コーヒーをついてきた姪っ子に渡し、コンビニ近くの駐車場の壁に背中を預けて、パンの袋を開けた。
香奈はそんな私を横目にのぞき込みながら、真似をするようにパンの袋を開けようとする。
ビリッ
「あ……」
袋が破れすぎて、パンが丸々一つ彼女の足元に零れ落ちる。
そそっかしい。
そして今にも泣きそうになりながら落ちたパンを名残惜しそうに見つめるところは、今も昔も変わらない彼女の特徴の一つだった。
そして、こういうとき私は何をするか、いつも教え込まれてきていた―――
「―――ほら……」
「……いいの?」
「金さえ払えばそこにいくらでもある。気にするな」
「――うんっ。ありがとう、おじさんっ」
変わらない笑顔だった。
屈託なく笑い、そして無心でパンを頬張る所は、子供のころから何一つ変わらない、彼女の愛らしい特徴の一つだった。
何一つ、あの日から変わっていなかった。
時間が止まっているのかと錯覚してしまうくらいに―――
「……。合鍵を渡しておく」
「うんっ」
「今日は泊めてもいいが、俺は今回の話、お前の母親から何も聞いていない。明日以降、お前の母さんと話をさせてもらう」
「う、うん……」
「場合によっては出て行ってもらう。一応胸にとどめておいてくれ」
「……」
「いいな」
「う――――うん……」
「仕事に行く。お前は戻っておけ」
彼女は俯いたまま、元気のなさそうに小さく頷く。
何が悲しい。
なぜそんな嫌な顔をする。
了承もなく、こっちにやってくればこうなることは分かっていたはず
知らなかったとは言わせない―――俺は底なしの愚鈍さに顔をしかめながら、項垂れる香奈に背を向けた。
「あ……おじさん……」
そしてか細い声で呼びとめようとする少女を横目に、俺はいつも通り、会社への道を歩いていくことにした。
駅に向かいながら、俺の顔はまだこわばったままだった。
ドクン……ドクン……
心臓は、飛び出しそうなほどに脈動していた。
息が苦しかった――――
まだ人気の少ない会社の営業課デスクに座り、鞄を開き、まず最初に探そうとしてなかったものがあった。
「……まじか」
携帯だ。
私用のものだが、ないと仕事の都合上困る場面がいくつもある、大切なものだった。
私は愕然として机に鞄を広げたまま、ガクリと椅子の背もたれによりかかるままに、深いため息を高い天井めがけて投げかけた。
―――何を急いでいるんだ。
自問して、瞼の奥に浮かんでくるのは、屈託なく笑う一人の少女だった。
私の手を握る、小さな少女の横顔だけだった―――
(……くそが)
彼女はまた、私から生活の中心を奪っていくのだろうか。
また彼女に振り回されなければならないのだろうか。
私は―――
「……」
苛立ちに顔が歪み、私は頭に浮かぶ少女の幻影を振り払い、開いた鞄を床に下ろすと、仕事の準備を始めることにした。
営業課なので、仕事の関係上ある程度時間はある。
必要になったら取りに戻ればいい。
そう考えていたらいつの間にか仕事の時間になり、周りには課のメンバーが集まり始め、また電話も課内で頻繁になり始めた。
当然私も電話対応をしつつ外の営業先を回る準備をしようとしていた時だった。
「おい、佐伯ッ。お前宛に電話っ」
少し離れた場所から響く同僚の声。
「誰です?」
「女の子っ」
―――いやな予感しかしなかった。
同僚はというとこっちを見下ろしニヤニヤと笑っていて、私は苦い表情をにじませつつ「了解」と言って電話をこちらに回してもらった。
「――――香奈か?」
そう尋ねて程なくして聞こえてきたのは、彼女のすすり泣きだった。
いわくここがどこかわからない。
携帯を届けようと思ったが、迷子になって地下の駅のどこかにいるらしく、受話器の向こうでは人だかりが群れをなして行進する足音が聞こえる。
「香奈……そこを動くなよ」
『お兄ちゃん……怖いよ……怖いよぉ……』
――ミイラ取りが何とやら、か。
溜息をつきながら視線を上げれば、時計は既に十一時頃を指していた。
そろそろ出ても構わないだろう―――私は仕事用の携帯を手に取ると、周りに軽く挨拶をしつつ外を回るふりをして彼女の下に走ることにした。
「ちゃんと迎えに行けよぉ」
――聞こえないふりをしておいた。
結局GPS機能を使い、自分の携帯の場所を割り当てれば―――どうやったらそんなところまでいけるのか―――そこは私の会社がある場所とは全く別の位置だった。
迎えに行くにも少し時間がかかった。
私は少し駅を走りながら、何度か連絡を取り彼女の不安を取り除きつつ、携帯の位置まで赴くことにした。
『お兄ちゃん……ここどこ……お兄ちゃんどこにいるの?』
『やだよ……動きたくない……お兄ちゃん迎えに来て……』
『お父さん……お母さん……お兄ちゃん……』
――泣き言ばかりを聞かされ、胸やけがする。
ならなぜじっとしていなかったんだ。
どうして―――
そう考えながら、僅かに胸が痛んだ。
そうして何度目かの連絡を取り終え、息を切らしつつ迎えに行けばそこには駅の通路の隅で蹲る少女の影が一つあった。
「……香奈」
「――――お兄ちゃん?」
私の声だけは彼女によく聞こえるようだ。
蹲っていた香奈は僅かに首をもたげ、こちらを見上げるなり、潤んでいた目を輝かせてよろよろと立ちあがり、私の下へと駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん……お兄ちゃんっ」
ギュッと上着に皴が浮かぶほどに、きつくスーツを握りしめる小さな手。
香奈は駆けよる私の胸元に顔を寄せ、程なく額をぐりぐりと擦りつけながら公衆の面前ですすり泣きを始めた。
ほっそりとした背中が痙攣し、華奢な身体は冷え切っていた。
「お兄ちゃん……ひくっ……ひぅ……」
「……ったく」
――――怒るに、怒れなかった。
私はただ戸惑いに顔をしかめながら、震える香奈の身体をさすりつつ、行き交う人々の視線から彼女を隠そうと背中を向けた。
「……家に戻るぞ」
「……お仕事は……?」
「時間休をとる。お前が気にすることじゃない。帰るぞ」
「お兄ちゃん……」
「ん……」
「どこにも行かないで……どっかに行かないで……」
「……」
「ずっと……ずっと傍にいて……お願い……」
――答えることは、できなかった。
無言のまま、ただ香奈の手を取り、私は自分の家に戻ることにした。
俯きながらグッと握りしめる手はとても汗ばんで熱かった。
子供の時と何一つ変わらない、とても熱っぽい小さな手だった―――――――
結局、今日は香奈のごたごたのおかげでほとんど仕事が捗らず、かといって遅く帰るわけにもいかず、周りから少し冷たい視線を喰らうことになった。
腹立たしい。
夜、適当にコンビニ弁当を香奈に与えて寝付かせると、私は一人リビングで私用の携帯――忌々しいコレだ―――を取ることにした。
電話を掛けた先で出てきたのは、これまた忌々しい女の声だった。
『あれ。どうしたの雄一』
「とりあえず香奈を実家に戻せ」
『なんでよ』
素っ頓狂な声でとぼけたふりをして、迷惑ばかりを押し付ける、この女の言動も挙動も何一つが許せなかった。
我慢がならなかった―――
「迷惑なんだよ。こっちは勝手に押し付けられて仕事もままならない」
『それは謝るわよ。でも他に行くあてがないし、香奈の学校は来月から始まるし』
「明日にでもそっちで何らかの用意をしない限り、俺は香奈を実家に送り返す」
『待ちなさいよ。何をそんなに苛立ってるのよ。あなたの姪っ子よ?』
「血縁だからってつけ上がるのも大概にしろよ。ようやくお前らの縁もゆかりもない土地に来たってのに、お前らがまた関わるんじゃたまらないんだよ」
そう呟きながら、苛立ちはどんどんと募っていく。
深い溜息と共に、私はビール缶に口をつけると、一気に中のソレを飲みほしては、再び携帯越しに恨み節を吐きだした。
「お前らはそれでいいさ。血の繋がりで勝手に家族だっておもってりゃいい。でも俺は違う、俺はもうあんたらとは関わりたくないんだよ」
『雄一……』
「まっぴらなんだよ……あんたの声を聞くのも、迷惑を押し付けられるのも」
『―――香奈は、あなたがそこにいるって聞いて、高校をそこに選んだわ』
「勘弁してくれ……手前勝手な事情を俺に押し付けるな……」
『香奈はね―――』
「俺の居場所を根こそぎ奪ったくせに、まだそんな寝言言うかよ!」
リビングに響く怒声。
私は思わず立ち上がると、中身の残ったビール缶をキッチンめがけて投げつけながら携帯越しにがなり声をあげた。
「俺にはもう帰るところなんてないんだよ!ここしかないんだ、なのにあんたらまだ俺の居場所を取るかよ!」
『ゆ、雄一……』
「まだ奪い足りないのか、まだ俺をいじめ足りないのか!お前らの底意地の悪さが俺は心底憎いよ!勝手押し付けて平気な顔して、何様のつもりだ!俺はお前の玩具じゃない!」
『……ごめん』
「明日、何もする気がなければ俺は香奈を追い出す、その後二度と俺に連絡をするな!あんたの後ろにいるあんたの両親にも伝えておけ!」
携帯の電源ボタンを押し、俺は壁に向かってそれを投げつけた。
バキリッ
プラスチックが割れる鈍い音がして、携帯は歪んだまま床に転がった。
そしてリビングに広がる静寂。
シュワァアアア……
ビール缶からこぼれた液体から泡が溢れる音が聞こえ、肩を上下させる私の荒い息遣いをかき消していく。
―――空しかった。
哀しかった。
これだけ罵声を浴びせても、何をしても、心はぽっかりと開いたままだった。
ささやかな復讐の後には、確かに心が乾いたままになるばかりで、私はひとしきり空気を吸うと力なくソファーに座り込んで、薄暗い天井を見上げた。
そして、目を閉じるままに項垂れる―――
「……香奈」
ガタリ……
私の寝室の扉が僅かに揺れる。
扉越しに人の気配を感じ、私は俯きながらゆっくりと眼を開き、物言わぬ扉の向こうに途切れ途切れ言葉を囁いた。
「……とにかく一度……実家に戻れ」
「……」
「俺の方も……お前を住まわせる用意なんてできちゃいない。お前の母親が俺に話をしなかったからな……」
「……お兄ちゃん……」
「いいな……」
「――――やだ……」
―――それ以上、言葉は交わせなかった。
私は口を噤むとソファーに寝転がり、身体を丸めた。
眠気はすぐにやってこなかったが、それでも私はなんとか眠ろうと、瞼をきつく閉じ、背中を猫のように丸めた。
瞼の奥にいたのは、小さな少女だった。
小さな少女は、いつまでもすすり泣いていた。
私は、何もしてやることができなかった――――――
続