皇太子であるわたしに浮気調査を?
「わたくし遂に、ワリス様から婚約破棄されそうですわ」
顔をうつ向かせて、ルシア・サーティスは静かに言葉を吐き出した。
図書館の静寂に、彼女の震える声が溶けていく。
「……そうなんだ」
私はページをめくりながら、静かに言葉を返す。
窓から差し込む午後の光が、彼女の横顔を寂しげに照らしていた。
彼女から相談を持ち掛けられたのは、一か月ほど前のこと。
生徒会の仕事で接点が増えた彼女は、ある日、こう私に切り出してきた。
『殿下、お願いがあります。……ワリス様の浮気調査をしていただけませんか?』
一瞬、耳を疑った。
公爵家の令息ワリス・イマージ。
放蕩息子として名を馳せる彼だが、彼女のような聡明な婚約者がいながら、なぜわざわざ破滅の道を選ぶのか。
『私に何か利益があるのかな?』
静かに微笑むと、彼女は食い気味に応じた。
『フワリーテイルの、未発売スイーツでいかがでしょうか?』
『契約成立だね』
コンマ0.1秒。私の返答に、彼女はしてやったりというような笑みを浮かべた。
私は無類の甘党だ。一年待ちの超人気店の新作。
そのカードを切られたら、私に拒否権などない。
けれど。
少し、厄介な匂いがする。
――これは、単なる浮気という単純な話ではない。
「それでは殿下……よろしくお願い致しますわ」
去っていく彼女の背中を見送りながら、私は本を閉じた。
ルシアのあの必死な眼差し。
あれは、裏切られた女の悲しみではない。何か巨大な敵に立ち向かおうとする……戦士のそれだった。
そして数日後。
私は、その違和感の正体を確認するため、学園のベンチに座っていた。
「あぁーん会いたかったわダーリンッ!」
「僕もだよ愛しのハニー!!」
視線の先では、ワリス・イマージと派手なドレスの女がちょうど愛の抱擁を交わしていた。
……妙だ。
彼は公爵家の次男として、厳格な教育を受けてきたはずだ。
振る舞い方など、なおさら。
女のほうもおかしい。
巻き髪にフリル。時代遅れの装いで、甘ったるい声を出す。
だが、彼女がワリスに触れるその指先。一瞬だけ見せた、どこまでも冷え切った瞳。
「んもうっ、ワリス様ったら。……ルシア様がネチネチしつこいんですってぇ?」
「あぁ、あんな女のことは忘れさせておくれ、フェリ……」
二人のやり取りを、分厚い魔導書を読むふりをして観察する。
ワリスの顔は、一見すると情欲に溺れているように見える。
だが、その瞳の奥には、底知れないものが張り付いているようにも見えた。
まるで、何かに追い詰められているような――。
その時、女がワリスの耳元で何かを囁いた。
ワリスの肩が、びくりと跳ねる。
「……っ! あ、あぁ。分かってるよフェリ! すまない、!」
駆け出していくワリス。
取り残された女――フェリと呼ばれた女。
さっきまでの、あの浮ついた空気はどこへ行ったのか。
彼女はゆっくりと、こちらへ振り向いた。
「……これはこれは、皇太子殿下ではございませんか」
女は、優雅なお辞儀の姿勢からゆっくりと顔を上げた。
先ほどまでワリスに甘えていた頭の悪そうな令嬢の面影は、もうどこにもない。
その瞳は冷たく、深く、まるで底の見えない沼のようだ。
「わざわざこんな場所で、逢瀬を鑑賞されるとは。殿下も存外、悪趣味でいらっしゃる」
私はゆっくりとベンチから立ち上がり、手元の本を閉じた。
当事者との接触ーーあまり好ましくはない。
「悪趣味、か。否定はしないよ。けれど、学園の庭で品のない芝居を打たれては、黙って見過ごすわけにもいかなくてね」
芝居、という言葉に反応するフェリ。
「それに……その服装、今時おばあ様のクローゼットでも見かけない代物だ」
その言葉に、彼女の口角がわずかに上がった。
やはり……わざとだ。
彼女はこの奇抜な格好をすることで、ワリスが正気を失って変な女に溺れている、という周囲への印象を操作している。
「……ふふ、お厳しい。ですが、ワリス様はこれがお好きなんですのよ? 殿下のような方には、理解できないかもしれませんが」
彼女は一歩、私に近づく。
微かに漂う、安物の香水の匂い。いや、その奥に――。
「確かに私はワリスとは違う。だが、彼の瞳があれほどまでに濁っているのは、君への愛のせいかな? それとも……君が握っている何かのせいかな?」
淡い紫の瞳が一瞬、鋭く細められた。
図星、か。
彼女はそれ以上何も答えず、腕時計を一瞥した。
「さあ……わたくし、彼を追いかけませんと。失礼致します」
彼女は身を翻し、ワリスが消えた方向へと歩き出す。
その背中を見送りながら、私はふと、ベンチの脇に落ちている一枚の紙切れに気づいた。
「……」
拾い上げたのは、しわくちゃな紙。
そこには走り書きのような筆跡で、震えるような文字が並んでいた。
――『あと一月、待ってくれ』
公爵家の次男。
優秀な兄を持ち、常に比べられ、期待されず、それでも家門のために泥を塗り続けてきた男。
遊び人の噂も、賭博の借金も。
もしかして彼は、自らの意思でその汚名を被っているのではないか?
そして、先ほどあの女が耳元で囁いていた言葉。
私が捉えたのは、甘い愛の言葉などではなかった。
「……なるほど。これはスイーツどころでは、到底足りないね」
私は紙切れを懐にしまい、図書館へと立ち寄ることにした
彼女はこの事実をどこまで知っているのか。
もし彼女が、ワリスを救うために私を利用しようとしているのだとしたら。
「君も、なかなか食えない女性だ、ルシア」
口元に浮かぶ笑みが、自分でも驚くほど深いものになっていることに気づく。
守られるだけのヒロインではない。
泥沼の中で必死に足掻く彼女を、極上の甘い菓子と共に、私の腕の中に囲い込みたいという欲求。
皇太子としての職務以上に、一人の男としての独占欲が、静かに、だが確実に鎌首をもたげていた
図書館には案の定、ルシアがいつもの席にいた。
私の姿を認めると、すっと立ち上がりこちらに向かってくる。
「殿下、例の件……いかがですか?」
その声は平穏を装っているが、組んだ手の指先が白くなるほど力が入っている。
私はあえて何も答えず、彼女の目の前まで歩み寄った。
「……殿下?」
至近距離で足を止めると、彼女が戸惑ったように顔を上げる。
私は彼女の顎を指先で掬い上げ、逃げ場を奪うようにその瞳を覗き込んだ。
「ルシア。君は一つ、大きな嘘をついているね」
「……嘘、ですの? いいえ、私はただ、浮気の……」
「そちらではない。報酬の件だよ」
私の言葉に、彼女が大きく目を見開く。
「フワリーテイルの新作。君がそれを手配できるのは、店主と個人的な繋がりがあるからではない。……君が、ワリスの借金を密かに肩代わりし、その見返りに店を動かしているから。違うかな?」
静寂が図書館を支配する。
彼女は否定もしなければ、動揺も見せない。
ただ、真っ直ぐに私の瞳を見つめ返した。
「それは……殿下には関係のないことかと」
「いいや? わたしはもっとルシア個人を知る必要がありそうだからね」
「お戯れを。私のようなものに、一体何ができるというんですの」
「何ができるか? 君は、自分の信念のために全てを投げ打てる、気高い女性だ。私は、その強さに、興味が湧いてきたよ」
さらに顔を近づけようとすると、彼女はそれを振り払った。
薄紅色に瞳には、困惑と警戒の色が宿っている。
「殿下。私は、救いを求めて相談したわけではありません。利用できると思った、それだけです。もし気まぐれの慈悲を与えようとしているなら……おやめくださいませ」
思わず、喉の奥で笑いが漏れた。
彼女は、私の庇護など求めていない。対等な取引相手として、私を見据えている。
「……失礼。君を侮っていた。君は守られる対象ではなく、共に戦場に立つべき相手だったね」
私は立ち上がり、彼女の協力者として深く頭を下げた。
「なっ、殿下、顔をあげてください!」
「謝罪しよう。君の覚悟に、相応の敬意を払う。……契約は継続だ。ただし、条件を少し変更させてくれ」
ルシアは戸惑いつつも、頷く。
「……君が望むなら、自由をあげよう。婚約者という呪縛からも解き放たれた、本当の自由を。……その代わり、その後の人生をどう使うかは、私と相談してくれないか?」
初めて、彼女の瞳に微かな揺らぎが生じた。
そしてふっと、今日初めて見せる、どこかいたずらっぽい笑みをこぼした。
「……わたくしに?」
自らを卑下したような言い草。
私は確信した。
彼女に必要なのは、たった一つの自信だということを。
***
ルシアと情報を整理した私は、翌日、公爵家の次男ワリス・イマージを秘密裏に呼び出した。
場所は王宮の奥まった一室。逃げ場のない、静謐な空間だ。
現れたワリスは、生気のない顔で、不安気に手元を気にしていた。
「……殿下、本日はお呼びいただき感謝申し上げます」
彼は深く頭を下げる。
だが、その指先は微かに震え、視線は床に縫い付けられたままだった。
「ワリス。単刀直入に言おう。君がフェリ・ウドマキアに渡しているのは、彼女への貢ぎ金か? それとも、君が肩代わりさせられている……借金か?」
ワリスの肩が大きく跳ねた。
彼は血の気の引いた顔で、必死に笑みを作ろうとする。
「はは……何をおっしゃるのですか。ただの、女遊びの授業料ですよ。公爵家の次男なんて、その程度の価値しか……」
「――嘘を吐くな」
私は机を叩き、彼の言葉を遮った。
「ワリスがやっていることは……全て兄上を守るためだろう? 公爵家の跡取りである兄が、平民の組織に握られた弱み――それを君が、自分の醜聞と引き換えに買い取っている」
ワリスは絶句した。
彼が被っている駄目息子の皮。
それは、後継ぎの不祥事を一身に引き受け、ルシアという光さえも巻き込まないように遠ざけるための、あまりに不器用な自己犠牲だった。
「……どうして、それを」
「君の婚約者は、君が思うよりずっと賢く、そして頑固でね。……君が一人で泥沼に沈もうとするのを、絶対に許さなかった。だから私に、浮気を調査するように頼まれてね」
「ルシアが……あぁ、どうして。ルシア、君だけは……」
ワリスはその場に膝をつき、顔を覆った。
次男という立場、家族への義理、そしてフェリという女がバックに持つ犯罪組織。それら全てが、彼の背負っている全てが、砕け散ったようだった。
「ワリス。君の罪は、一人で全てを背負えると思い上がったことだ。そして、ルシアの覚悟を……侮ったことだ」
私は彼を見下ろし、冷徹に、確かな力を込めて告げる。
「顔を上げろ。君が守りたかった兄の不始末も、その背後の組織も、全て清算する準備はできている。もう、道化を演じる必要はない」
「……殿下、ですが、それでは公爵家の名に傷が……」
「名誉なら、これから君とルシアで作り直せばいい。……いや、訂正しよう。ルシアの隣に立つ資格が君にあるかどうかは、これからの君の働き次第だがな」
私がそう言うと、部屋のカーテンの影から、一人の女性が姿を現した。
「……殿下の仰る通りですわ、ワリス様。勝手に悲劇のヒーローを演じるなんて、わたくしへの侮辱も甚だしい」
そこには、冷ややかな、けれど瞳の奥に確かな慈愛を宿したルシアが立っていた。
「ルシア!? なぜ、すまない、私は……君に、君にだけは」
嗚咽交じりの声を上げ、ゆっくりとワリスは顔を上げた。
「……殿下、フェリシアは……あいつは……ただの女ではないのです」
ワリスは自嘲気味に笑い、震える手で自身の首元を緩めた。そこには、火傷のような、あるいは何かの紋章を焼き付けられたような痛々しい痕が残っていた。
「私の兄が、かつてある令嬢の心を無惨に踏みにじりました。……彼女は狂い、家を追われ、裏の組織へと身を落としーー。彼女にとって、兄と瓜二つの私は、復讐のための最高の人形だったのです」
彼は語る。夜ごと繰り返された、精神を削り取るような儀式。
「お前は兄の身代わりだ」「お前には価値がない」「兄の犯した罪を、その体と人生で購い続けろ」――。
そう囁かれ続け、ワリスは自分が汚れることで、公爵家と兄、そして何より潔白なシャロンを守れるのだという呪いに縛り付けられていたのだ。
「彼女は、私が童貞を捧げ、誇りを捨て、道化として社交界で蔑まれるたびに……悦びに浸るのです。兄そっくりの顔をした私が、泥に塗れる姿を見て……」
ワリスの声は、深い絶望に沈んでいた。
単なる金銭の搾取ではない。これは、一人の人間の尊厳を徹底的に破壊し、一生消えないトラウマを植え付けるための道具だった。
「……なるほど。単なる強欲な平民かと思えば、随分と趣味の悪い復讐劇だったわけだ」
私は冷徹な声でそう告げ、ワリスの肩に手を置いた。
「ワリス。君が受けた苦痛を……私が完全に理解することはできない。……だが、一つだけ約束しよう。その女が君に植え付けた悪は、私がこの国の法と力を持って正当な報いを」
背後で、隠れて話を聞いていたシャロンの拳が、白くなるほど握りしめられているのが見えた。
彼女の瞳には、かつてないほどの激しい怒りが宿っている。
「……ワリス様。全てと言わずともーーあなたの兄テナール様がことの始末なのに。それなのにあなたはーー」
ワリスは、首を振る。
「ルシア、わたしは兄上を見捨てられない。例えどんなに憎かったとしても。それに君を守るためなら……」
二人の視線が交わり、先に目を逸らしたのはルシアだった。
唇をキツく結んでいるものの、耐えきれず涙がこぼれ落ちる。
その光景を眺めながら、私は懐にある組織の調査資料を握りしめた。
平民の女、フェリ。彼女の背後には、王都の地下に根を張る大規模なものが存在する。
「さて、二人とも。……ここからは断罪の時間だ。ワリス誇りを弄んだ連中に、最高の『ざまぁ』をプレゼントしに行こうか」
私はルシアの手を取り、その甲に誓いの接吻を落とした。
今度の彼女は、それを拒まなかった。涙に濡れた目は、遠くを見定めていた。
***
数日後。王立アカデミーのサロンでは、華やかな夜会が催されていた。
注目の的は、公爵令息ワリスと、その隣で不釣り合いなフリルを揺らす女――フェリだ。
「ねぇダーリン、そろそろじゃない? あんなネチネチした女との婚約なんて、早く捨てちゃいましょうよぉ」
フェリの甘ったるい声が周囲に響く。
ワリスは蒼白な顔で、操り人形のように頷いた。周囲の貴族たちは眉をひそめ、遠巻きに彼らを蔑んでいる。
「ねぇダーリン、顔色が悪いわよぉ? ……それとも、またあの『お仕置き』が恋しくなったのかしら」
フェリがワリスの耳元で、周囲には聞こえないほど低い声で囁く。
ワリスの肩が、目に見えて震えた。その瞳には、恐怖と、自分自身への嫌悪が色濃く張り付いている。
その時。
会場の喧騒を切り裂くように、皇太子アルベルト・ウィリンスの声が響いた。
「――そこまでにしてもらおうか」
私がシャロンを伴って現れると、フェリは忌々しげに顔を歪めた。
「あら、また殿下。真実の愛を邪魔するなんて、野暮ですわよぉ」
「愛? 君が口にするその言葉は、反吐が出るほど汚れている。……フェリ、いや。逆恨みから身を落とした復讐者よ。君の行いは全て把握している」
フェリの表情から、余裕の笑みが消えた。
「君はワリスを愛してなどいない。ただ、兄の面影を持つ彼を汚し、壊し、精神的に凌辱することで、己の歪んだ情欲を満たしていただけだ。……君が彼に刻んだ傷は、金銭の搾取よりも遥かに重い罪だよ」
シャロンが凛とした足取りで、フェリの前に立った。
彼女は隠し持っていた証拠――フェリが裏組織を通じてワリスに強いていた、非人道的な誓約書の写しを突きつけた。
「フェリ。あなたはワリス様の優しさに付け込み、彼を『身代わり』という檻に閉じ込めた。……ですが、残念でしたわね。あなたの歪んだお遊びは、今日、この場所で終わりですわ」
「……あはっ、あはははは! 何よ、あんな抜け殻みたいな男を庇って。彼だって楽しんでいたのよ? 兄の代わりに私に汚されることをね!」
狂ったように笑うフェリ。
だが、私は彼女の声を冷たく遮った。
「君の背後の組織は、一時間前に騎士団が壊滅させた。君を支えていた『力』も、ワリスを縛っていた『呪い』も、もうどこにも存在しない。……連れて行け」
会場に踏み込んできた騎士たちが、フェリの両腕を掴む。
「放しなさい! 私はまだ、彼を壊し足りないのよ! ワリス、お前は私の奴隷でしょう!?」
叫ぶフェリに対し、ワリスは初めて、その瞳を真っ直ぐに彼女へ向けた。
その瞳には、もう恐怖はなかった。
「……フェリ。僕は、兄上の代わりじゃない。けど……」
そこでワリスは膝をつき頭を床に擦り付けた。
「兄上の代わりに、謝罪する。すまなかった」
呆然としたフェリは、狂ったように、笑いだす。
「あ、あはははっ! 何言ってんの、そんなんで許されるとでもーー」
見かねて止めようとしたわたしの腕を、ルシアはそっと掴んだ。
「あんたの! 全てはテナールがいけないのよ!」
「すまない」
「あたしの!あたしの全てをーー」
すっと、彼女の頬に何かが伝った。
「……え? なに、なによこれ!」
「フェリシア様」
動揺したフェリに、ルシアは凛とした声で告げる。
「あなたには心底同情致します。けれど……あなたがワリス様になさったこと、わたくし決して許しませんから!」
「な、なによ、あたし、あたし……!」
彼女は静かに連行され、会場に静寂が訪れる。
「ワリス」
私は震えるワリスの肩に手を置いた。
「テナールの不祥事は、私が預かる。君が一生かけて償うべきは、家族の罪ではない。……隣で君を信じ、戦い抜いたこの女性への不義理だ」
ワリスは涙を流しながら、ルシアの前に跪いた。
「ルシア……すまない。私は、君を巻き込みたくなくて……っ」
「……立ちなさい、ワリス様。あなたがこれから成すべきことは、謝罪ではなく、公爵家を立て直すこと。……そして、わたくしとの婚約を破棄することですわ」
ルシアはそう言い放つと、ワリスに背を向け、会場から静かに出ていった。
***
事件から数週間。
ワリスは公爵家の汚名を注ぐべく、必死に立て直しに奔走している。
一方で、あの女、フェリと背後の組織は、王国の地下牢で文字通り根掘り葉掘り調べられている最中だ。
そして私は今、王宮の奥深く、限られた者しか入れない秘密のバラ園にいた。
「……殿下。それでなんのごようご用ですか?」
目の前で、ルシアが怪訝そうに尋ねてくる。
「おや、契約を忘れたのかい? フワリーテイル亭の新作スイーツは??」
「っ、それは、本当に申し訳なく思っています……」
俯くルシアがいじらしくて、微笑みがしぜんとあふれてくる。
かの有名な老舗店も一部裏の組織と関連があったらしく、今は営業がストップしてしまっているんだとか。
「というか殿下はご存じなだったはずでしょう!!」
「うーーん、残念だな。皇太子であるわたしにタダ働きさせる令嬢がいるなんて……」
「うぐっ。往生際が悪いですわよ……それで? 何がお望みなんですの?」
「ルシア」
「は?」
完璧な姿勢で、紅茶を持ったまま静止する彼女。
「え、わたくし、殿下から自由をいただいたはずなんですけれども……」
「そう、自由だ。だからこそ、君が『自分の意思で』私の隣に居てくれることが、必要なんだよ」
私は彼女の手を引き、わざと顔を近づける。
ルシアは「ひっ」と短く息を呑み、視線を泳がせた。
「スイーツ一つで、わたくしの人生まで奪おうなんて、計算が合いませんわ」
「ははは、手厳しいな。ならば一生分ではどうかな? 最高のお菓子を、毎日私の隣で食べてほしい」
からかうように囁くと、ルシアは観念したようにふーっと溜息をついた。
そして、ようやく正面から私を見つめ返した。
その瞳には、かつての悲愴な覚悟ではなく、年相応の可愛らしい意地っ張りさが宿っている。
「……一生分、ですのね? 途中で飽きたなんて言っても、お断りですのよ?」
「あぁ、飽きるなんてそんなはずないじゃないか……ルシア?」
私は彼女の腰を引き寄せ、今度は揶揄うためではなく、その唇にそっと触れた。
ルシアは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、やがてそっと瞳を閉じ、不器用に私の服の袖を掴んだ。
――甘い。
どんな極上のタルトも、彼女が時折見せるこの素顔の甘さには到底及ばない。
「好きだよ、ルシア」
そう見つめると、彼女は照れたようにそっぽを向く。
「わたくしも、嫌いではありませんわ。……その、意地悪な……殿下のこと」
「……そんな口をきいてはいけないよ?」
「なっ、殿下! わ、ちょっと」
春の風が、二人の笑い声を乗せて薔薇園を吹き抜けていく。
自由を手に入れたはずの淑女は、自ら選んだ甘い檻の中で、幸せそうに微笑んでいた。




