第四章(10)
「えぇ、そうね。シオドアとは誓約書を取り交わしたの。今日は、それをあなたに伝えたいと思って」
「誓約書?」
イレーヌは、小さなハンドバッグから誓約書をすっと取り出した。
「これよ」
アーヴィンは眉間にしわを刻み、それを手にした。彼の視線が忙しなく動く。
「……なんだ、これは」
「だから、誓約書よ?」
「いや、内容だよ……まぁ、あの夜にあいつが言っていたことでもあるが……」
やっぱりあのとき、アーヴィンは始めのほうから私たちの話を聞いていたのだ。
まるで私の考えを読んだかのように、アーヴィンは口元をゆるめる。
「そう、怒るなよ。あのときは様子をうかがっていたんだ。変なところで俺が邪魔をしても、シオドアが機嫌を損ねるだけだろう? どうやって効果的に彼を黙らせられるかを考えていたら、君がこちらのほうにやってきたからね」
「まぁ、あなたに文句を言いたいところだけど……結果的にはよかったと思っているから、私たちの話を盗み聞きした件は許してあげるわ」
アーヴィンのまとう空気が、ふわりと動いた。
「だが、最後……表面上は仲の良い夫婦を演じることって、これはどういうことだ?」
「そこに書かれているとおりよ? シオドアからの提案なの。一応、体裁は気にかけているみたい。その割には、毎晩、リンダさんの元に行っているのだけれど。誤魔化そうとはしているようだけど、もう、近い人間にはバレバレなのよね」
呆れたような私の声に、アーヴィンも苦笑を浮かべる。
「あのシオドアが、こんな小賢しいことを思いつくとはな」
「しばらくは、夜会にも私と出席するつもりらしいけれど……」
「そうなのか? それは残念だな。俺は君に誘われるのを待っているんだが」
本心なのか社交辞令なのかわからぬ言葉に、微かな笑みを浮かべて誤魔化した。
彼がそうやって甘い言葉を口にするたびに、私の胸には棘に触れたような痛みが走るのだ。
「そうね。きっと近いうちにそうなるのではないかしら? 今はまだ、シオドアと結婚して一か月くらいしか経っていないから……結婚式に足を運んでくださった方のためにも、表面上は彼と仲睦まじい振りをしておくわ。お互いのためにも」
「なるほど。だけど、その裏では俺との仲も深めてほしいな」
彼の紫眼が私の心を揺さぶってくる。それから逃れるようにして目を伏せ、カップを手にした。外気に触れ少し冷めた紅茶は、先ほどよりも強い甘味を感じた。
「この紅茶、変わっているわね。せっかくだから、トリアスの話とかを聞かせてほしいわ。私、まだ他国には行ったことがないから」
「トリアスの話か……何も面白いことはないと思うが……」
「あるわよ。どんな食べ物が美味しいとか、どんなものが流行っているとか。あとは、国の雰囲気とか? 本当に教科書の通りなの?」
私が次から次へと口にすれば、アーヴィンはふっと軽く鼻で笑う。
「そういうところは、やっぱりイレーヌだな」
「ちょっと、どういう意味よ?」
むっとしつつ、彼に視線をぶつけた。
「好奇心の塊。根は真面目で良い子」
褒められているのかけなされているのかわからないような言葉だが、アーヴィンは私に熱い眼差しを向けながらさらに言葉を続ける。
「良い子すぎるから、俺としては心配になるんだよ」
「買いかぶりすぎよ。ほら、私って意外と負けず嫌いで執念深い人間だから」
だからシオドアの件も、いいように利用してやるのだ。
「なるほどね……」
アーヴィンの手が、私の作ったクッキーを一つ、摘まんだ。それを口に入れるたびに、胸がドキドキしてしまう。
「では、イレーヌからの要求にお応えして、トリアスの話でもしてやろうか?」
「もったいぶらずに教えなさいよ」
でも、こういったアーヴィンとの言葉のやりとりは嫌いではなかった。周囲から見ればくだらないかもしれないが、私にとって彼は、気兼ねなく話しのできる人間の一人だから。
「でも、条件がある」
「なんなのよ、もう……それで、条件って何?」
嫌いではないけれど、今日のアーヴィンはどこか意地悪だ。私は笑いながら、クッキーを手にした。
「君が、シオドアと結婚した経緯を教えてほしい」
手にしたクッキーを食べようとしたが、それは口の中に入ることなく、唇の前で止まった。




