第二章(1)
「シオドア・ポーレットと婚約したというのは本当なのか?」
アーヴィンの声が、私の胸に痛みを与える。
「えぇ。一年の婚約期間を経てから、結婚する予定なの」
できるだけ平静を装うと努めてみるけれど、手先は震え血が通っていないかのように痺れていた。
「どうして?」
アーヴィンが私の肩を力強く掴んできたから、驚いて顔をしかめると「ごめん」と彼は言う。
「どうしてって……父がそう決めたから」
「だが、相手はあのシオドアだぞ?」
「わかってる、あのシオドアよ? だけど、向こうから縁談を申し込まれたら、こちらから断れるわけがないでしょう? 相手は公爵家だし……」
だから父は「すまない」と、謝罪の言葉を私にかけたのだ。
「……そうか」
沈黙が落ちた。降り注がれる太陽のまぶしさが埃を光の粒子に変えている。
ドキンドキンと心臓が大きく暴れ、今にも口から飛び出そうなほどだった。この音がアーヴィンにも聞こえてしまうのではないかと、気が気ではない。
私はきゅっと唇を噛みしめる。
シオドアとの結婚は寝耳に水。父が言うにはポーレット公爵が、私とシオドアが同い年なのも何かの縁だと言い始め、だったら結婚させたらどうだろうと提案したらしい。そのときの父は「はい」とも「いいえ」とも答えられなかったが、正式な文書が送られてしまえば、こちらからは断れない。
父は、ポーレット公爵が我が家の資産を狙っていると考えているようだが、私もその考えに同意する。
三年ほど前から、公爵領の収入が思うようにいっていないという話は、私の耳にも届いていた。情報源はもちろん父だ。
しかしロイル侯爵である父は、議会における発言力は弱い。つまり金はあるが力のない人物であるため、そんな家柄をポーレット公爵が狙うとは考えていなかった。なによりも、我が家よりも金があり力もある名家が他にもたくさんある。さらにシオドアが私を嫌っていたから、というのも理由の一つ。だから公爵から私との縁談を打診されても、シオドアが断ると思っていた。
私の両親は学園で出会い、お互いの気持ちを大切にしながら結婚した。私も結婚するなら、両親のように心から好きになった相手がよかったし、憧れがある。
本当はシオドアとの結婚は嫌だと言って逃げ出したかった。それができればどれだけ楽になれるか。
だけど私が逃げたところで両親は? イーグルは? ロイル侯爵領のみんなは?
誰かを犠牲にして自分だけ幸せになるなんて、私にはできない。そのため、シオドアとの縁談を無理やり納得したのだ。
「私たちだって成人を迎えたでしょう? それに学園も卒業となれば、シオドアももっと大人になるはずよ?」
成人を迎えてからの卒業となるため、卒業後には社交デビューが控えている。ちなみに、成績不振で卒業できなければ社交デビューも一年先送りとなる。それだけこの国では学業に力を入れているのだ。
アーヴィンを宥めるように声をかけてみたものの、それを願っているのは私自身なのかもしれない。少しでもシオドアが大人になりますようにと。
「だけど、俺は……」
アーヴィンの震える唇は、その先の言葉を悔しそうに呑み込んだ。紫色の瞳が潤んでいる様子や切なげな表情を見てしまえば、私の胸の奥もズキズキ痛む。
それでも彼の言葉の続きを待ってしまう。私はいったい何を期待しているのだろう。
どのくらいの間、二人で見つめ合っていたかはわからない。ほんの数秒かもしれないし、十数分だったかもしれない。
「……すまない。イレーヌは心を決めたんだよな。俺の邪な気持ちで、君の……いや、ロイル侯爵家の将来を歪めてしまうのは望んでいない」
大きく息を吐き、アーヴィンは項垂れた。
「俺は……君の幸せを心から願っている」
その言葉には真摯な思いが込められていて胸が熱くなったが、私の気持ちは揺らいでしまいそうで怖かった。
「ありがとう。私も、あなたの活躍を心から応援しているわ」
これ以上、アーヴィンと話を続けていれば、彼と離れられなくなる。助けてほしいと、そう願わずにはいられない。彼と話をするたびにその気持ちは大きくなっていき、底なし沼のように私を飲み込み引きずり込んでしまうだろう。
すべての感情が囚われてしまう前に、彼への思いを断ち切らなければ。
「そろそろ時間だから帰るわね」
その場を去ろうとする私の手をアーヴィンの手がかすめたが、二人の手が繋がることはなかった。
静かな廊下を一人歩き、過去に思いを馳せながら昇降口へと向かった。




