崖の下の指輪【夏のホラー2025】
【崖下の指輪】ーーーーーーーーーーーーーーーーー
八月の終わり。蝉の声が弱まり、夕暮れの風に秋の気配が忍び寄っていた。
小学五年生の健は、厚木市に住む叔母の家に家族旅行で訪れていた。叔母の家の裏手には、壁のように切り立った崖がそびえており、その足元には長年の雨で削られた黒ずんだ岩肌と、雑草に覆われた薄暗い窪地があった。子ども心に「何かがいそうだ」と思わせる場所だった。
旅行の最終日、健は崖下の影で光るものを見つけた。
それは小さな指輪だった。銀色の台座に赤い宝石が嵌め込まれているが、石はひび割れ、爪も歪み、まるで誰かの指から無理やり引き剝がされた後に長い間放置されたように見えた。
「きれいだな」
健は何の疑いもなく、その指輪をポケットにしまった。
その夜、厚木を離れ自宅へ戻った一家に、最初の異変が起こった。
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一日目
帰宅した夜、健の母は台所で食器を洗っていた。すると、流しの排水口から生臭い風が吹き上がり、次の瞬間、誰かの指先のような白いものが水面をなぞった。母は叫び声を上げ、蛇口を閉めたが、その時、右手の薬指に深い切り傷ができていた。まるで見えない何かに指輪をはめられた跡のように。
夜、寝室では父が寝返りを打ちながら呻いていた。彼の夢の中で、赤い宝石の指輪をつけた女が、黒い崖の下から這い上がり、彼の胸の上に馬乗りになっていたという。目を覚ました父の胸には青黒い手形がくっきり残っていた。
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二日目
健の妹・真奈が突然高熱を出した。小さな声で「お姉ちゃんが来る」と繰り返す。
健には姉などいない。問いただすと、真奈は泣きながら「赤い指輪のお姉ちゃん。部屋の隅に立ってる」と答えた。
その瞬間、健の背筋は凍りついた。妹の視線の先には、誰もいない暗がり。だが確かに、湿った土の匂いが漂っていた。
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三日目
母の傷口は塞がらず、ただれ、黒く変色し始めていた。病院に連れて行こうとするも、母は「行きたくない」と拒絶する。夜になると、母の声は別人のように低く掠れ、「返して」と繰り返すのだ。
健は恐ろしくなり、指輪を捨てようと決意した。だが、ポケットから出そうとすると、なぜか指輪は健の右手の薬指にはまっていた。記憶にない。外そうと必死に引っ張るが、皮膚と金属が癒着しているかのようにびくともしない。
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四日目(夏休み最終日)
学校の宿題を広げても、文字が読めない。紙の上に、血で描いたような黒い線がにじみ、浮かび上がるのは同じ言葉だった。
「崖に返せ」
恐怖に駆られた健は夕暮れ、ひとり自転車で叔母の家へ向かった。だが崖の前に立った時、彼は見てしまった。崖の岩肌の割れ目から、白い腕が何本も伸びている。そこに立つのは、壊れた指輪をはめた女。顔は泥に覆われ、口から土を吐き出しながら、ただ指を差している。
健の胸が締め付けられる。足が動かない。女の声が耳に直接響く。
「ひとりじゃいや……家族も一緒に……」
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結末
翌朝、健の家族は全員が姿を消していた。
ただ、四人分の靴だけが玄関に残され、家の中の壁や床には、泥にまみれた無数の指の跡が這い回っていた。
そして玄関先の土間には、赤い宝石が粉々に砕けた指輪が落ちていた。
拾い上げた者はいない。
だが秋虫の声の中、誰かが小さく囁いた。
「次は、あなたの番」
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