その溺愛は男装から
「あ……」
頭が一瞬真っ白になる。
まずいまずいまずい……そう心の中で呟きながら、彼の表情をうかがう。案の定、私の上司であるエドガルド・モルフォード様が今まで見たこともない顔をしている。彼の心情を推察すると「まさかそんなことってあるわけないよな。いやでも今の感触は……そんなバカな」といった具合だろう。
これ以上、深く考えてもらっては困る。サラッと流して忘れてもらおう。
「あの棚の一番上ですよね。探します」
「あ、ああ」
まさか男装している身で、最近男性職員との雑談で知った「ラッキースケベ」なるものが起きるとは思わなかった。
しかもされる側とは。
あの資料を出しておいてくれという指示を受けて背を見せたエドガルド様に、一歩前に出て「脚立を持ってまいります」と声をかけたのがよくなかった。私との距離がこんなに詰まっていると思わず振り返りざまに棚を指差そうとした彼のその人差し指が……私の貧乳に突き刺さった。
男装して貧乳とはいえ、一応乳は乳だ。男性よりはある……はず。
きっと時間が解決してくれる。忘れる。エドガルド様は忘れる。忘れてくれるに違いない。
自分に言い聞かせながら、脚立を取りに行く。あの資料は使用頻度が少なすぎて棚の一番上だ。
◆
男装しているのには事情がある。
私は子爵家の長女だ。祖母の診察や治療、とりわけ特殊な薬にお金がかかり、家は貧しい。外で働ける年齢になり、すぐに権威ある魔法薬研究所の検査技師のアシスタントに応募をした。そのトップにいるのがエドガルド様ではあるものの、アシスタントを迎えるにあたっての面接の場に彼はいなかった。
「あなた、いいわね……!」
面接官とはまったく別の、部屋の片隅のやけに豪華な椅子に座って何も話さず私を見ていた品のいい奥様といったふうのお方が突然立ち上がって、私の側へと歩いてきた時には驚いた。
「試験の成績もトップだったわ。その理由は、お祖母様のご病気がきっかけね」
「あ、はい」
「それなら、末端でただアシスタントをするだけでは物足りないでしょう」
「…………」
見抜かれている気がした。ぼったくられている気がするので、ここで知識を深めたいと思っていることを。この医療分野研究機関エリアには複数の施設があり、募集がかかっていたのは魔法薬研究だったものの学びの扉は開かれていて、休日に専門資料を各施設で閲覧することもできる。
「この研究所の責任者、エドガルドは知っている?」
「はい。存じております」
「私の息子なのだけど、実はあの子には結婚願望がないのよ。というより、女性が苦手でね」
「……はい」
意味が分からない。
だからなんだろう。
面接に来た子爵令嬢に話す内容ではない。エドガルド様は、ここのトップだ。その冷静な判断力と卓越した知識でこの施設を導いているものの、女嫌いであることも有名で外にまで漏れ聞こえている。
「あなたは背が高いわね。切れ長の目で髪も瞳も……ふふっ、チョコレートのようね。あなたには女性特有の可愛さがないわ。男装してエドガルドの助手をしてくれない? 最初は雑用からね。あなたを評価するようになった頃に女性だと告げれば女性への悪いイメージも払拭されるわ」
「あ……あの、評価されるとは限らないと思うのですが」
「大丈夫よ。それならそれで、異動させられるだけ」
そもそも女性だとバレて酷いことになりそうだ。
「あの、もし女性だと知れてしまったら……」
「その時は私たちのせいだと言ったらいいわ。元々私たちはあの子に嫌われているの。どうってことないわ」
ね、といったふうに空気のようにもう一人奥に座っている旦那様だろう人……おそらく侯爵様に目配せをしている。
「見破られないとは思えないのですが」
「他人に関心を持つ子ではないから大丈夫よ。研究にしか興味がないの。必要のない時は人とあまり目も合わせないわ」
「そうなんですか……」
「今からあなたの髪を切ってもいいのなら、この場で採用を決めるわ。給金は募集要項通りよ。それとは別にこの額の給金も男装手当として別で渡すわ。悪い話ではないでしょう? それに、男性の職員寮に入れとは言えないもの。お客様の宿泊用の特別な部屋をあなたの私室として用意するわよ。そこの面接官も口外しないし、安心してちょうだい」
「…………」
正直、お金につられた。家から金の無心をされても、少ない金額の明細を見せれば自分の生活を圧迫されない程度で済む。
「分かりました」
そう答える以外の選択は、あの時の私にはなかった。そして――、今に至る。
◆
「あ、の――エドガルド様?」
「なんだ」
「どうして私の背後に立たれているんですか。資料を出すだけなら一人でできます」
「気にするな」
気にしますけど。
しかし、上司にそう言われては文句を言えない。ビシバシ視線を感じても、どうすることもできない。
……疑われて身体のラインを確認されている気がする。男性用の職員服とはいえ、下からだと身体のラインが多少は丸みを帯びていることが分かる気がする。
そもそも男性の身体つきをしっかり見たことがない。そんなに私と差があるかな。服を着ていて細身で筋肉質でないタイプならこんなもんかな。分からなさすぎる。エドガルド様は研究者でもあるのにガタイがよく、参考にはならない。
「ケイシー・モルストイ」
「は、はい」
資料を取り出して脚立から降りるとなぜかフルネームで呼ばれた。
ここまでしっかりと顔を見られたのは初めてかもしれない。藍色の髪を後ろで結び瞳は澄んだ湖のように青く、顔は整っているけれど冷たい印象を受ける。今はもう冷たいを通り越して怖い。
「その名前は本名か」
「……はい」
女とも男ともとれる名前。そこもあのご両親に気に入られた。
「分かった」
「……はい……」
それ以上、その日は聞いてくることはなかった。
◆
「ケイシー、いつ結婚する」
「は!?」
なぜかその日は朝からエドガルド様は落ち着かない様子で、私に業務についての話をしてからすぐに行き先を告げず外出した。
私はといえば、新しく受け取った魔法薬のサンプルの分析が一通り終わり、やれやれと休憩用の一角へと移動したところで急ぎ足でエドガルド様が帰ってきたと思うと、意味の分からないことを聞かれた。
「え、いつって……、結婚しませんけど。そんな相手もいません」
「私と結婚するのだろう」
突然、エルガルド様が狂ってしまわれた。何か外出先であったのだろうか。
「しませんよ」
「それなら、どうして男装をした」
男装がバレている……。いや、そうは思っていた。あれから、変な視線をずっと感じていた。
「女性の格好だとエドガルド様のお側では働けないとお聞きしましたので」
「なぜ私の側を選んだ」
言っていいのだろうか。面接でバレてもいいと言われたんだから大丈夫のはずだ。
「だ……男装手当をもらえると聞いたので……」
「金か」
「はい、そうです……」
終わった。
この言い方……さすがに、これはもうクビだ。こんなにいい職場は他に絶対にない。最初の結婚の前振りは、私を動揺させて嘘をつきにくくさせたのかもしれない。
「金が必要な理由は」
「祖母の主治医から多額の治療費を請求されて、家が貧しくて……」
「ぼったくられている可能性があると考えているんだろう。ここには数々の資料も揃っている。だが、不必要な治療や薬の処方が行われていると確信したところで不正の証拠が必要だ」
なんてことだ、全てバレている。全てを把握したうえで、私がどう答えるか試していたんだ。
「……はい」
「策はあるのか」
「ない……です」
今も父から金を無心されている。
定期的に渡すだけでは満足せず、門の受付係に一方的に待ち合わせ場所と時間を告げられる。お金を持ってそこに行かなければ、門前で待ち続けるぞと伝言付きだ。
待つということは言い換えれば、受付へ怒鳴り続けるということだろう。
実家も……大変なんだとは思う。
祖母が病に侵されるまでしっかりと教育を受けさせてもらえたし、私の将来の収入のためとはいえお願いした専門書なども取り寄せてくれたことは感謝している。髪を切ったことについては「実験の邪魔なので切るのは採用の条件の一つでした」と言ったら「そうか」の一言だった。
お金以外にはあまり関心を持たれていない。
「その全てを解決してきた」
「は!?」
「あの主治医は顔も愛想もいい。年寄りをその気にさせるのが上手い。だからお前の祖母は他を拒んでいた。お前の家族も祖母が元気でいてくれるならとお前を利用し続けていたんだ」
「…………」
そこまでご存知とは。
「で、不正を洗い出し主治医の医師免許は剥奪した」
「へ?」
「お前の祖母の意思を汲んで、強制的に定期的に会うことも約束させた。その際は人もつける」
「な!?」
「頻度はかなり減るけどな。生きる意欲の低下は急速に人を老いさせる。状況を見てそうすることにした。奴は新しい主治医の付添い人とする。もう一度研修からやり直しだ。お前の家族にも釘をさしておいたよ。私のものから搾取するなと」
「は!?」
どうしてそうなったの!?
胸に指が突き刺さっただけで、なぜ!? 私のものって、最初の結婚の前振りは本気だったの!?
「え……と、実感はまだ湧いておりませんが、ありがとうございます」
「ああ」
今の話が本当なら、私は長年の悩みから解き放たれたことに? でも、私がエドガルド様のもの? どこから突っ込んでいいのか分からない。
「ただ……エドガルド様は女性が苦手だったはずです」
「興味がないだけだ。言い寄ってくるのは鬱陶しいし面倒くさいから多少邪険にはしていたかもしれない」
「え……と。私と結婚するというのは嘘ですよね。私のために、そこまでしていただいたのは、その……部下だからですよね」
嘘だよね。そこは嘘と言って。
「結婚しろとずっと両親からせっつかれているからな。お前ならいいかと思ったんだ」
嘘じゃないのか。そのつもりだったから動いてくれたのか。でも、あからさまに妥協だ。
「言い寄ってくる女性が減り、仕事の話を家でもできて便利だからですか」
つい、剣呑になってしまう。
「そして、私が女に見えないからですか」
責めるような口調にもなってしまう。
私を救ってくれたかもしれない人に対して、我ながら酷いと思う。こんな見た目だし家を継ぐ兄もいるし行き遅れになることは覚悟していた。まともな嫁ぎ先なんてないはずの私の立場からすれば大喜びすべきなんだろう。
でも……。
「お前が入ってきた時は、母がお前を入れることで誰かから見返りをもらったのだろうと思った」
「……はい」
「どうでもいいことだ。経営者である親の権限でたまに女性が送り込まれることもあったが、その日のうちに大体余計なことをしやがるからな。すぐに追い出していた」
「はい」
「今回も趣旨の違うコネ入所だろうとな。私は自分のペースを乱されるのが嫌いだ。外に漏らしたくない情報を隠すのも面倒くさい。すぐに追い出すつもりだった」
「そうですね」
トップだから、自分のペースだけでは動けない。経営部分はご両親が担っているものの、関係各所との折衝にあたることも発生する。確認する書類も多い。
ジレンマを抱えているのはすぐに分かったし、彼がトップとして歯車の一つのような仕事ではなく、新たな効果的な薬を生み出すための芽を探るような仕事に生きがいを感じていることも同じ場にいるだけで伝わってきた。
「お前は……なぜか邪魔に感じなかった。余計な詮索をせず言われたことを守り、にも関わらず私が動きやすいように気遣いをする」
大したことはしていないものの、そう感じてくれたことは嬉しく感じる。私に任せる仕事の質の変化からも、信頼は感じとっていた。
でもそれは……部下としてだ。
「つまり、私を妻にしておけば便利だからですよね」
「もっとも自分に合いそうだと感じる女を嫁にしたいと思って何が悪い。金が欲しければ、いくらでもやる」
お金……その言葉に傷つく。
私の見た目では妻にしたいと思う男性はいない。両親から守ってくれる彼からの求婚を嬉しくないと思う私は贅沢なのだろう。
「お前は結婚相手に何を望む。全部叶えてやる」
愛が欲しいなんて言えない。
そんなのを私にくれる人なんて、いるとは思えない。とんだ世迷い言だ。もしそれを言ったとしても適当に「愛もある」と口だけで言われてしまえば否定することもできない。
だから――。
「私はあなたの嫌いなタイプの女性ですよ」
彼を睨む私は、誰が見ても男だろう。
「どういう意味だ」
「こんな見た目だから似合わないと諦めているだけです。本当はあなたの嫌う女性のように、可愛い服を着たり甘い声を出したり、しなだれかかったり何かをねだったりしたいんです」
「!?」
馬鹿なことをと内心では嘲笑っているのかもしれない。想像して気持ち悪いと思っているのかもしれない。
「あなたの嫌う女性と何も違いません。家のことは本当にありがとうございました。できるなら、恩を仕事で返していければと思います。それでは、今日の報告をしますね」
「待て」
ガシッと両肩を掴まれた。
な……なんか興奮していない? どうしたの!?
「もう終業時刻だ。すぐに可愛い服を共に買いに行こう」
「は!?」
「服の仕立て屋も呼ぶ。次の休みは、悪いがそれに付き合ってもらおう。あ、今夜は私の部屋に泊まれ。実はお前の部屋と近いんだ」
「はぁ!?」
え、部屋まで把握されている!?
どこから!
どこから拒否すればいいの!
ま、まずは直近から!?
「私に合う服のサイズは既製品では――」
「分かっている。小さめにはなるかもしれないが本日は寝衣だけを買おう。サイズがあまり関係ないようなデザインのものだな」
それはもしかして、ベビードールのような!? それよりも私、襲われる話をされている!?
この人、女性との付き合いをしてこなかったせいで、いろいろ拗らせてるよ! そっちの常識がない!
「ま、待ってください。あの、結婚前の身であの……っ」
「大丈夫だ。ただのお試しだ」
お試しで襲われるの!?
「お前は私に借りができた。私はお前を救ってやった」
脅されてる!?
「だから一度私を試せ。何もしない。ただ夜に、可愛い服を着て甘い声を出して、しなだれかかって何かをねだれ」
ぎゃー!
「そうしたいんだろう。その願いを叶えさせろ。それで、この借りはチャラだ。どうしても嫌なら結婚まで強制はしない、が……私にそれを叶えさせるのは義務だと思え」
勝手に救っておいて私のさっき言った希望を強制的に叶えるなんて、ひど……ひど……酷いの、か?
大混乱で訳が分からない。
いや、待って。エドガルド様と寝衣を買いに行ったらもう噂になるんじゃないの!? もう逃げられないんじゃ……いや、それよりも私、男装しているんだけど!
「お、男と付き合っていると思われるんじゃないですか」
「直接聞いてくる者がいたら、言ってやれ。最初から私と婚約をしていたと。そして入所日から私の希望で男装をしていたと」
「え……」
「私の好みに合わせているだけだと教えてやればいい」
情報量が多すぎて何がなんだか分からない。
「こ、婚約って……ご両親は……」
「既に了解を得ている。お前のご両親にも話した。私のものだとな」
どうしてそうなったの……。
おかしい、エドガルド様の人差し指が私の胸に突き刺さっただけだよね?
ああ、そうか。医師免許の剥奪ほどとなればご両親の権力も使ったに違いない。駄目だ、逃げられる気がしない。問題が山積みなのに未来だけ決まってしまったような。
「あ、あの、今まで男装姿の私といて、あの日まで分からなかったんですよね」
「……そうだな」
「それが、いきなりこうなる理由が分かりません」
彼が苦渋に満ちた顔でため息をついた。
「もっと早く調べておけばよかった。そうすれば、自分がノンケではないのかもしれないと悩まずに済んだのにな……」
「へ? それはどういう――」
意味がよく分からない。
「なんでもない。さっきのお前の言葉で、気づいたのかもしれないな。私は男のような女に、自分に似合わないと思いながら可愛い格好をして言い寄られるのが好きだったのかもしれない」
なんてニッチな……。
そういえば、さっきものすごく興奮した顔をしていた。まさか、そんな特殊性癖をお持ちだったとは。
え、ほんとに? 順番が違う気がする。私の言葉より前にエドガルド様は動いたわけで、えっと――。
「お前が望まないなら何もしないが……ケイシー、お前は何かをねだりたいと言ったんだ。夜までに何をねだるか考えておけよ」
ぬぁぁぁぁ!?
「適当に水とか言うなよ。本当に欲しているんだなと私が納得できなければ、毎晩同じことをしてもらう」
ぎゃぁぁぁ!
胸がドキドキバクバクしてきた。エドガルド様に何かを? 本当に欲しているもの?
何もない。何かを可愛くねだるの図に羨ましく思っていただけで、何も思いつかない。そもそも、そんなことできない。
「む、無理です。似合いません」
どんどん緊張で呼吸が荒くなる。これから仲よくお買い物なんて行ける気がしない。
「似合わないからと我慢していたんだろう。安心しろ、私は今無性にお前を飾り立てたい」
「似合いませんってば! 人前に見せるなんて絶対に嫌です」
「私の前でだけ可愛く着飾るのか。確かに、そっちのがいいな」
言葉が通じない。
今まで見たこともないような慈しむような瞳で、エドガルド様が私の髪をすいた。
「ケイシー、この世界で一番結婚したいと思う男は誰だ」
そんなの、考えたこともない。
「お前の問題を身勝手に解決した私か、それとも違う男か。消去法でいい。今、誰かを選ばなければならないなら、誰を選ぶ」
その条件なら、当然――。
「私でないと言うのなら、払いのけろ」
彼の顔がゆっくりと近づく。避けられる速度で、ゆっくりと。
エドワルド様の指が微かに震える。こんなに自信がなさそうな顔をする彼を見るのは初めてだ。今まで女性からの好意を無下にし続けた彼は、あまやかに女性を口説く方法も分からずこんな方法しか思いつかないのだろう。
私が相手なのに緊張して、払いのけられることを恐れてくれている。
それがやけに愛おしく感じて――。
このまま受け入れてしまえば、もう逃れられない。分かっているのに、私はそっと目を閉じた。
今夜の私は、どうなってしまうのだろう。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
本作は、仲のいい方のアンソロに寄稿したものです。私の好みの展開を凝縮しているかなと思います☆
別作品で恐縮ですが、「婚約解消を提案したら、王太子様に溺愛されました 〜お手をどうぞ、僕の君〜」のコミックス4巻が2025.8.25(電子版は本日8.21!)に発売します。お手にとっていただけたら嬉しいです。
それではまたお会いできたら幸いです。
ありがとうございました!