[第四話]甘くて苦い反省会
「おじゃましまーす。」
軽快な挨拶を言いながら、橘が狼牙の部屋に入ってきた。白と黒の縞模様のスリッパに履き替え、黒のショルダーバッグを肩にかけたまま、部屋の奥へと進む。
「いらっしゃい。」
部屋の中央であぐらをかいていた狼牙が顔を上げて迎える。
彼の足元には菓子盆が置かれ、その上には氷が入った二つのコップと、満タンにお茶が入ったクールポットが乗っていた。ポットの表面には結露が浮かび、キンキンに冷えていることが伝わってくる。
橘は珍しそうに部屋を見渡した。
「珍しく、綺麗だな。」
狼牙がクールポットの蓋を開け、氷の音を立てながらお茶を注ぐ。
「ま、客人を迎えるからな。一応、片付けといた。」
橘が菓子盆の前に腰を下ろし、コップを手に取って口に運ぶ。
冷たいお茶が喉を通り、じんわりと身体に染み渡る。
一気に飲み干すと、空になったコップを菓子盆の上にコトンと置いた。
「たしか……前に来たとき、もっと汚かったよな?」
橘が何気なく口にした瞬間、狼牙の動きが一瞬止まる。
「そうだったっけ……?」
橘が「うん」と頷く。
「で、オレが注意したらさ、『別にいいじゃねぇかよ。女連れ込むわけじゃねぇんだし』とか言ってたっけ。」
狼牙の喉から、かすれた「あぁ…えっとぉ…」が漏れる。
「いやぁ、そのぉ…」
目が泳ぎまくっていて、動揺がバレバレだ。
「デートが上手くいったらぁ…」
「ワンチャン、お持ち帰りできないかなぁ…って……」
橘が右足のスリッパを脱ぎ、それを手に持つと―
スパァン!
思い切り狼牙の頭を叩いた。部屋中に乾いた音が響く。
「気が早ぇんだよ、バカ野郎!」
狼牙が叩かれた頭を押さえ、「いてぇ……」と小声でつぶやく。
「……まぁいいや」
橘は黒のショルダーバッグを開き、菓子を三つ取り出した。
大袋のスナックに、プリン、カップのアイス。それぞれコンビニのビニールに包まれている。
プリンの上に紙スプーンを乗せ、狼牙の前に差し出した。
「これ、お前にやるよ」
狼牙が橘の目を見る。
「……いいの?」
「本命との初デート成功祝いだ。ありがたく受け取れ。」
狼牙が、両手でプリンを抱え、少し照れたように言う。
「……ありがとう。」
狼牙が容器の蓋を開け、プリンを一口スプーンで掬い、口に運ぶ。キャラメルソースと卵が絡まり、優しい甘さがじんわりと広がり、なめらかな舌触りが心地いい。カラメルソースのほろ苦さが、優しい甘さに輪郭を与える。
橘もアイスを開け、食べ始める。
「どうだった? 姫野さんとの初デート。」
橘の問いに、狼牙はスプーンをくわえたまま少し考える。
「……めっちゃ、緊張したぁ…」
そう言いながら、もう一口プリンを口に運んだ。
「だろうな。」
橘が苦笑いする。
橘がアイスを食べ終わり、スナック菓子の袋に手をかける。
「どこに行ったんだ?」
「潮風アザラシランド。」
「………え?」
橘の手が、袋の口を開けかけたまま止まった。
狼牙はスプーンをプリンの上に置き、ため息を吐いた。
「まぁ、結局行けなかったけどな。……はぁ。工事で休みとか……聞いてねぇよぉ……」
「………まじ?」
橘が目を細め、疑いの色を浮かべる。
「?どした?」
狼牙が無垢な瞳で返す。
「初デートで水族館って…ちょっと重くね?」
「………え?」
狼牙の目が大きく見開かれる。頭の中で“重いって何だ?”と考えがグルグル回る。
「いや、水族館って普通じゃね?」
「最初は映画館とかカフェとかじゃね?そっから仲良くなって水族館ならわかるけどさ…。」
狼牙の口角が少し下がり、瞬きの回数が増える。少しだけ戸惑いが顔に浮かぶ。
「相手が姫野さんだからよかったけど…他の女子だったら、ちょっと引かれてんじゃねぇの?」
「…ま、まじ?やっちゃった?俺?」
狼牙の声が少し震え、手のひらをぎゅっと握る。
「いや、どうなんだ?オレもよく分かんねぇ…」
橘が腕を組み、頭をひねりながら首をかしげる。
「でも、姫野さんはすげぇ喜んでたぜ?」
「そうなのか?…まぁ本人がそうなら…」
狼牙の表情が少し緩み、ホッとしたように息を吐いた。
橘がクールポットを手に取り、自分のコップにお茶を注ぐ。静かな部屋に注ぐお茶の音が響いた。
「…で、予定変更して、どこに行ったんだ?」
コップを持ち、口に運ぶ。
「アニメイト。」
その答えに、橘は思わず飲んでいた水を吹き出し、むせ返った。狼牙は慌てて身をかわす。
「うわぁ?!きったね!」
「はぁ?!アニメイト??!」
狼牙はちょっと顔を赤らめながらも、すぐに言い訳を口にした。
「俺が誘ったんじゃねぇよ!姫野さんが行きたいって言ったからさ…。」
橘は苦笑いしながらも、少し驚きを隠せなかった。
「………あ、そうなのか……すまん」
「初デートでアニメイトって……勇気あるなぁ。」
狼牙は少し照れくさそうに笑いながら言った。
「姫野さんはマイペースな人なんだと思う。…そんなところも可愛いけど。」
狼牙はカップを置き、窓の外をぼんやりと見つめた。
(姫野さん、今何してるんだろう……)
午後に差し掛かった頃、姫野はアザラシの抱き枕を抱えて昼寝をしていた。パジャマ姿で、どうやら1日中寝ていたらしい。
「んぁ゙ぁ゙……」
あくびを漏らしながら、ゆっくりと起き上がる。髪はボサボサで、口元には乾いたよだれの跡がついている。
スマホを手に取り、時間を確かめる。
―12時半か……
「何か食べよ……」
部屋を出て、階段を降りてリビングへ向かう。
両親は外出しており、家には姫野だけだった。
冷蔵庫を開け、昨日の晩ご飯の残りの豚肉の生姜焼きを取り出す。
レンジに入れてタイマーをセットし、炊飯器を開けてご飯をよそい、テーブルに置いた。
もう一度冷蔵庫を開けて漬物の皿を取り出し、テーブルに置く。
ちょうどレンジのタイマーが鳴り、開けると、皿の端に触れた指が熱さに脊髄反射でのけぞる。
「アチッ。」
ハンカチを両手に握り、ハンカチ越しに皿を持つ。
急いでテーブルに置き、台所へ向かい、箸を手に取って戻る。
「いただきまぁす…」
小声で両手を合わせ、静かに呟いた。ゆっくりと口に運び、一口一口を大切に味わう。
食べ終わると、そっとティッシュで口元を拭いた。
「ごちそうさまでした」
そう呟きながら、両手を静かに合わせる。皿と箸を片付け、シンクで丁寧に洗う。
布巾で拭いて、元の場所に戻した。
「……アニメでも見よ」
ため息混じりに呟きながら、階段をゆっくりと昇り自分の部屋へ向かった。
扉を開け、机に置いてあるリモコンに手を伸ばす。
布団の足元にはテレビが置いてあり、そのテレビのリモコンである。
ふと目に入った近くのぬいぐるみ。
その瞬間、昨日の狼牙とのデートが鮮明に思い浮かんだ。
―デートの数日前、朝。
水族館に行くと決まってから、姫野はずっと悩んでいた。
「……コート、これでいいよね」
青のジーンズに茶色のシャツ、その上から灰色のロングコート。
手持ちの服の中で、いちばん“普通”な組み合わせだ。
鏡の前で背筋を伸ばし、猫背を直そうと意識する。
それでも、女の子として見られる自信はどこにもなかった。
(まさか、私がデートに誘われるなんて……)
(はあぁ……大丈夫かな…当日、ドタキャンとかされたらどうしよう)
ネガティブな想像が次々に浮かんでくる。
けれど、すぐに首を振った。
(いや、狼牙君はそんなことする人じゃない。大丈夫)
胸の奥で、不安と期待がせめぎ合う。
小さくガッツポーズをして、自分に言い聞かせた。
(……多分だけど)
「不安だったけど、狼牙君、ちゃんと来てくれてよかった…」
姫野はぬいぐるみの頭をそっと撫でる。
「水族館は…まぁ、また今度でいいし…」
両脇にぬいぐるみを抱え、顔の近くまで持ち上げた。
「それに、ずっと欲しかった『アザラシ・きり子』も買えたし、本当に行ってよかったなぁ…」
(……ん?)
(……私、男子とアニメイトに行っちゃった?!)
顔が一気に熱くなり、耳まで真っ赤になる。ぬいぐるみが床に落ちた。
(え、これって…普通にやばくない?いや、別に悪いことじゃないけど…でも…でも…!)
(しかも私、めちゃくちゃ喋ってたし!オタク特有のマシンガントーク全開だったし!絶対引かれた!)
布団に倒れ込み、アザラシの抱き枕に顔を埋める。
「……どうしよう…明日から顔合わせられないかも…」
「あ…」
次の日の朝、狼牙がクラスに入ると、席に座っている姫野と目が合った。
「姫野さん、おはようございます。」
「お、おはよ…」
ほんの一瞬、視線が絡まり、すぐに逸らした。
デートしただけなのに、なぜか昼ドラの最終回のような妙に大人びた空気が二人の間に漂っていた。
(……何があったんだ?)
クラスメイトたちが視線で会話する。
「あの…」
狼牙が声をかけた瞬間、姫野の体がビクッと震えた。
「?!だ、大丈夫?!」
「ご、ごめん!びっくりしただけ!……えっと、その、何?」
狼牙の喉から、固唾をのむ音が漏れ、小さくため息を吐いた。
「もしよろしければ…また、お出かけしませんか?」
姫野の口から、蝶の羽ばたきよりも小さな「え?」が漏れる。
狼牙の目は、いつになく真剣だった。
「いいの?」
狼牙が小さく頷く。
「姫野さんがよろしければ。」
姫野は一瞬まばたきし、口元に小さな息がこぼれる。
「あ……じゃ、じゃあ……ぜひ…」
そう答えると、視線を落とし、指先で制服の袖口をつまんだ。
姫野がそう答えると、狼牙の表情が少し和らいだ。
「ありがとうございます。今度は絶対、姫野さんを喜ばせてみせます。」
姫野は手と首をそっと横に振った。
「そ、そんな…いいよ、私なんかに…」
狼牙が首を横に振る。
「これくらいはさせてください。なんていったって姫野さんは俺の…」
キーンコーンカーンコーン!チャイムが鳴り、前の扉から担任が入ってきた。
「お前ら〜席につけ〜。朝礼を行うぞ〜。」
「あ。…じゃあまた」
「え、あ…うん」
(……?なんて言おうとしてたんだろう?)
朝礼が始まり、教室にはいつもの日常の空気が戻った。
だが、二人の距離は、ほんの少しだけ縮まった気がした。