迷走少女
遠藤絵里香には父親が居ない。いや、正確には居ないことになっている。
『遠藤の父親は、彼女が十歳の頃海難事故に遭い亡くなった。現在、遠藤は母親と二人暮らしである』
少なくとも公的にはそうなっているし、クラスメイトもそれを信じている。
しかし、初めに書いたように、それは真っ赤な嘘である。
放課後、自宅にて。
彼女は今日も、八年前に死んだはずの父と対面していた。自宅どころか、地階からすらでることが出来ない父に、学校であったことを報告するのは、彼女の数少ない義務の一つである。
「……それでな、大介が先生に当てられて、竹取物語読み出してん。数学の時間にやで」
彼女の冗談に、父は自身が入っている檻を揺らすことで応える。別にこの部屋は防音だから、声を出して笑えばいいのにと遠藤は思うが、口には出さない。変わってしまった父が一番気にしているのは、その姿ではなく潰れた蛙の様な声であると知っているからだ。
檻中の父親の姿は、どこか蛙に似ていた。しかし、その表面を覆うのは魚の鱗だ。手には水かきが付いていて、背びれのようなものが、頭から背中の中程まで生えている。
毛の生えた鱗肌の蛙と言うべきか、それとも手足の生えた魚類と言うべきか。一度遠藤は母親に「お父さんて、魚類? それとも両生類?」と聞いたことがあるが、母は「人類や」と答えるのみである。
「ねぇ、お父さん。お父さんて、さ。魚類なん? それとも両生類?」
気になったので本人に聞いてみた。
父は檻の中で腕を組み、少しの間考え込むと、遠藤の渡した紙とペンを使って答えを書き出した。父はこの姿になってから、基本筆談である。
『人類や』
紙には達筆な字でそう書かれていた。
それを見て、遠藤は吹き出してしまう。父はそれを見てむっとした顔になった。
「ごめんごめん。前にお母さんに聞いた時も、同じ答えやったから、やっぱ夫婦やなぁ思て」
それに対する父の答えは、『当然だ』の文字と、どこか自慢するような顔であった。遠藤はそれを見てまた笑ってしまう。
自分の父と母は、片方がこんな異形になってしまったというのに、仲が良い。世間一般の愛し合う男女は皆そうなのか、それとも両親だけが特殊なのか。どちらにせよ、見ているこちらが恥ずかしくなるような父母の姿を見て、羨ましく思う。そして自分も将来、そんな相手と出会えるだろうか。両親の互いへの愛情をこの目で見る度に、遠藤は自分が誰かと恋仲になり、結ばれ、家庭を築く所を想像していた。
遠藤がそのての想像をする時、決まってその相手は道堂大介になる。何故、彼が出てくるのか、自分は、藤堂とそう言う関係になりたいのだろうか。彼女はその答えを出せないでいる。彼の事を好きかと問われれば、そうだと彼女は答えるだろう。しかし、それが大きすぎる友情によるものなのか、それとも恋愛感情によるものなのか、それが彼女には判らないのだ。
道堂大介。
自分の幼少時からの悪友でありクラスメイト。
自分とは違い、至って普通の家庭で成長しただろう少年。
その普通が嫌なのか、ことあるごとに非日常に憧れ、その入り口を探そうとする男。
今、自分が彼のことを親友として見ているのか、異性として見ているのか、それは判らない。
しかし、出来ることなら、彼に自分の非日常を暴いて欲しい。
遠藤絵里香は最近、強くそう思う。
彼女が親友との関係に思いをはせていると、一階から母が降りてきた。遠藤家では、檻から出られない父のために、食事は地階で摂る習慣があるのだ。
新作の魚料理が上手くいったのが嬉しいのか、母は檻越しに夫へそれを自慢する。娘が、それを見て両親を冷やかすと、夫婦は共に彼女をたしなめた。
家族に異形を抱えながら、しかし暖かい家庭の、普段の食卓の光景だった。