初め
葵くん。貴方さえそばに居てくれれば、私はそれだけでいいのに。
先生、お久しぶりです。元気にして居ましたか?最後にお会いしたのは、あの東京都美術館でのエゴン・シーレ展覧会でしょうか。あれから早くも二年ほど経ち、私もこの春、高校を卒業し、文化服装学院に入学しました。これも全部、先生が藝術の素晴らしさを教えて下さったお蔭なんです。好きなこと、やりたいことをやるって云うのはとても勇気が要るものですから。
・・・あの、早速本題なんですけど、電話でもお伝えしました通り、わたしは今とても大きな苦悩を抱えて居るのです。その件で先生に是非とも相談に乗ってもらいたいのです。積もる話は沢山ありますし、懐かしさにふけたい気持ちも山々なのですが、まずはこの心持をどうにかしたい、その一心で連絡させていただきました。その苦悩と云うのも・・・あの、先生「三鷹葵」をご存知ですよね?前回の全日本学生美術展も受賞してましたし、これまでにも・・・そう、彼です。本当に世間というものは狭くて、わたし、地元の小さな祭りで彼に偶然出会ったんです。それから交際を続けるうちに、彼が「空っぽの病」とでも云いましょうか、単なる思い込みであると云えるかも知れれませんが、決して時間が解決するような小さな病ではないものを抱えていると云うんです。わたしも実際にあの時の心持を思い返しますと、彼の症状と何等変わりない、辛い辛い心の状態にありました。・・・兎に角、順を追ってありのまま全てをお話しします。わたし自身も気持の整理がまだついていないものですから、気長に付き合って貰えたら幸いです。
彼と出会ったのは七月十五日、わたしは友人のエリカと新しい紫色の浴衣を拵えて、其の祭りを楽しんでいました。エリカとは高校で知り合いました。彼女は男女問わず平等に接する、根っからの明るい性質でした。わたしはと云うとその真逆で、先生ご存じの通り、極度の人見知りで、其れに加えて男を苦手とする性質です。そんなわたしにも彼女は優しく微笑みかけてくれました。大切な友人として交際していた反面、彼女はわたしにとって憧れでもありました。ですが、彼女は男を相手にしても友人のように接する為、それ以上に発展する機会があまりなく、其の時分、彼女は口を開けば「恋人が欲しい」だの「出会いが欲しい」などと嘆いて居ました。わたしも長く付き合って居た彼が居たのですが、彼の女癖の悪さと虚言に嫌気が差してしまって、つい最近別れることにしたのです。其れゆえ正直なところ、祭りに行けば新しい出会いでもあるんじゃないかと云う淡い期待を抱いて居ました。とは云ってもわたし等は祭りを楽しむと云う心持も十分に持っておりまして、
「エリカ、わたしかき氷と綿菓子と焼きそばが食べた い!」
「はァ、じゃあ一通り買っちゃって何処か座ろっか。 てか相変わらずよく食べるね。」
「こんなのお腹に溜まらないよ。」
と云う感じで祭りならではの食べ物に目を輝かせて居ました。わたし等の会話ではいつも、わたしが妹、エリカが姉ちゃんのような構図なんでした。彼女の云うように一通り目当てのものを買い終えまして、屋台の並ぶ通りから少し外れた道端に座りました。この日の昼間は三十度を超えるほどの猛暑日で、蝉の声に頭痛を起こすくらいでしたが、日が傾いてきますと浴衣の隙間を夏の香りを乗せた夜風がそっと撫でて、まさに理想の祭り日和だったことを覚えて居ます。心地好い風に熱を奪われた焼きそばを食べながらエリカと駄べっていると、ある青年が近寄ってきて
「これ、あなたたちのじゃないですか?」
「あ、ありがとうございます。」
わたし、いつの間にか財布を落としていたようで、見ず知らずの青年に親切をして貰いました。お礼を云うと、ニコッと朗らかな笑顔を向けられて、思わずこちらまで自然と笑顔にさせられました。では、とあっさり去ったしまった彼、それが三鷹葵との最初の出会いでした。彼の遠のいていく背中を眺めながらぼーっとしていると
「格好良いね、背も高いし。電話番号でも聞けば良か ったのに。」
とエリカが耳打ちしてくるんです。
「そんな勇気ないよ。」
と云うと
「勿体無いなァ、せっかくのチャンスだったのに。」と云われました。それからのエリカとの会話には先ほどの彼の影が介入してきて何だか集中出来ないんです。一通り食べ終えて、風に当たろうとその辺を歩くことにしました。その途中も、彼の名前を知りたい、話してみたい、などと考えていますと、丁度道の向こうから歩いてくるんです。わたしはありったけの勇気を振り絞って
「あの、先ほどはありがとうございます。」
「いえいえ。お祭り楽しめてますか?」
「はい。」
緊張で思考が停滞して、質疑応答しか出来ない自分の情け無さに腹が立ちました。すると彼の連れが
「何?葵の知り合い?」
と混ざってきまして、続けて
「じゃあ僕らと周ろうよ。」
と云ってくれました。
「丁度少し退屈してたところなんです。一緒に周りま しょ。」
勿論、応えたのはエリカでした。もう一方の彼は輝くんと云って、二人とも近くの進学校の生徒だと云って居ました。それで・・・あの、先生、すみません。わたし等、この頃からお酒を呑んで居まして・・・。思いの外、会話が弾んだものですから、エリカがこの後一緒に呑まないかと誘ったんです。それを聞いた二人は顔を見合わせて固まってしまい、困惑した様子で
「俺等、呑んだ事ないんだよね。葵どうする?」「・・・まぁ、せっかくだし良くね、毎日勉強ばっか だしな。」
と云った具合に話は進みまして、コンビニでわたし等が酒やら菓子やら買って、近くの公園に向かうことになったんです。道の途中、エリカは輝くんと、わたしは葵くんと話しながら歩いて行きました。わたしは其の時分の会話がとても印象深くて、今でも鮮明に覚えて居ます。
「リナちゃんは小説とか読むの?」
「よく読むよ、特に谷崎潤一郎とか。葵くんは?」
「僕も谷崎潤一郎好きだよ。」
「どの作品が好きなの?」
期待を込めてそんな質問をしました。谷崎潤一郎さんの作品を好きな人は少なくありません。ですがわたし、「痴人の愛」は三回は読み込みましたし、「細雪」も五回は読みました。それほどに谷崎潤一郎作品を愛して居ました。故に、いつしかあまり知らないのに彼の大作を軽々しく好きだと云われたくないと云う人間の本能とも云える醜い感情を抱くようになって居ました。でも、その分、わたしと同じくらい彼の作品の愛読者にいつか出会いたいと期待を抱くようにもなって居たのです。そんな矢先
「一番はやっぱり「卍」かな。他の作品も勿論好きな んだけど、あれは何か異質というか、でも確かに谷 崎って感じがして。」
・・・わたしは驚きと喜びに包まれした。
「分る。わたしも「卍」が一番好き。歪んだ愛のよう でもあって、純愛のようでもあって・・・」
其れから、公園に着き四人で乾杯しました。わたし、とても酔ってしまいまして、ここからはエリカから聞いた話なのですが、スキップしたり突然歌い出したり、奇行に走って居て、収集がつかなくなってしまって日にちを跨ぐ前にエリカがタクシーを呼んでくれたそうです。家に着いてからはぼんやりと覚えて居ます。もう家族は皆床についていまして、少し雑にラップが掛けられている晩飯を視界の端で捉えましたが、喉を通す気力も起きず、音を殺しながら自室に向かい、其のまま死んだように眠ってしまいました。
あれから1週間ほど経ち、照り附ける日差しから身を守るべくエアコンでガンガンに冷やした部屋で寝転んでいた時のこと。ある一本の電話がありまして、わたし、生徒会に所属していましたから、其のことかなと思って出てみますと
「・・・もしもし中里です。」
「もしもし、お久しぶりです。三鷹葵です。」
「・・・え、葵くん?どうして電話知ってるの?」
「帰りにエリカから教えてもらったんだよ。実はリナ ちゃんの髪留めが僕の制服の裾に引っかかって て。」
「そうだったんだ。まぁそんなに高くないし、捨てち ゃっていいよ。わざわざありがとう。」
「そういうわけにも行かないよ。実はあれからまたリ ナちゃんと会って谷崎について話したいなと思って て・・・この髪留めはまた会うための口実になると 思ったんだけどな。」
「何それ、葵くん面白いね。」
「面白い?リナちゃんの方が面白いよ。なにあのスキ ップは。」
「スキップ?なんのこと?」
「覚えてないんだ?顔真っ赤にして拙いスキップして たんだよ。」
確かにそう云われるとそんな気がしてきて恥ずかしさで熱くなりながら「忘れてください。」と懇願したのでした。わたし幼い頃から運動を苦手としていまして、昔はコンプレックスだったのですが、今では笑いに消化できるほど開き直っているのです。これも、先生のお蔭なんですよ。藝術に触れるたび、わたしの思考や存在がちっぽけなものに感じて、達観することが出来るようになったんです。其れから十五分ほど雑談をしまして、今度の日曜に彼の塾の帰りに合わせて落ち合うことになりました。
約束の日の二十時、わたしの家の最寄り駅は彼の塾と家の間にありましたから、そこに待ち合わせまして、立ち話もなんですから適当な氷菓子を買って公園に行くことにしました。時々点滅する薄暗い街灯の下のベンチに座って、思い附くままに話したあの初々しい会話を今でも鮮明に覚えています。彼はとても友人が多く、エリカのように男女問わず仲良く出来ること、高校は排球部に所属していて試合で活躍していたこと、独学で油絵の画法を習得し数多くの賞を受賞してきたこと、得意げに話していました。でも時々、彼は街灯を見ながらボンヤリとしているんです。瞳の奥を漆黒にしながら。気附けば二時間も話し込んでしまっていて、もう遅いので彼を駅まで送って帰りました。帰りのバスに揺られながら、ふと窓に映るわたしを見ました。この久しく抱く感情。水の中に絵の具を落とし、花のようにぶわっと広がり満たされていくようなそんな感情でいっぱいになりました。いつもは無邪気な口ぶりなのに、静寂の際に放たれる彼独特の魅惑的な妖艶さ、愛おしい。独占したい。この時から彼に愛されたいと思う気持が芽生え始めました。
八月半ば、文化祭が迫り生徒会の仕事も自然と増え始め、夏季休業中にも関わらず学校に通う日々を送って居ました。近年は地球温暖化が急激に進み、じっとして居ても汗が吹き出し、畳み掛けるように蝉の声が頭に響いて、仕事どころではなくなってしまって、生徒会長に泣きつきました。
「会長ゥ暑いよう。このままじゃわたし溶けちゃうよ うゥ。」
「そんなこと言ってないで予算見直して頂戴。・・・ 分った、じゃあ今日の仕事終わったら「いつものと こ」に涼みに行きましょう。」
「きっとね。じゃあ頑張る!」
会長は面倒見が良く、わたし、つい会長を前にすると甘えてしまうのです。「いつものとこ」に行くために颯爽と仕事を終えて、逃げるように学校を後にしました。「いつものとこ」というのはわたし等が会う時に良く集まる小さなカフェ「プラムツリー」のことで、いわゆる行きつけの店というやつでした。今では少し珍しい大きな両開き窓があって、庭にある立派な梅の木の葉の木漏れ日の作る半模様が丸机の上をゆらゆらと揺れて居ます。わたし等はその窓際の席がお気に入りなのです。
「あらいらっしゃい、リナちゃんに会長さん。」
「こんにちは茜さん、今日も暑いですね。」
「茜さん、今日もいつものね!」
「はいはい、いつものね!」
茜さんはこの店の店長の奥さんで、何度も此処に通ううちにわたし等を覚えてくださって、今では学校の先生の愚痴から恋愛の話まで話す仲になりました。そしてこの「いつもの」と云うのはただのアイスカフェオレとアイスカフェラテのことなのですが、単にわたしが「いつもの」と云うキーワードで意思疎通できる関係に強い憧れを抱いていたものですから、茜さんにお願いして覚えてもらっていたのでした。
「はい、アイスカフェオレとアイスカフェラテ、ガム シロここ置いとくね。」
「ありがとうございます。あ、そうそう聞いて下さい よ茜さん。わたし、気になる人出来たんです!」
「え、リナ、私そんな話聞いてないよ?」
茜さんに話したつもりが会長が割って入ってきて
「だって聞いてきてないじゃん。」
「・・・で、誰なの?うちの高校?」
「違うよ、松山高校!葵くんって云うの。」
「何でリナが松山高校と関わりあるのよ。」
「この間うちの地元で祭りあって、その時仲良くなっ たの。」
「あのちっちゃいお祭りか。そんな出会いもあるの ね。で、どんな子なの?」
「えぇと、背が高くて、頭が良くって、兎に角面白い 人なの。」
すると直ぐそばに座って居た女の子が振り返って
「葵くん?三鷹葵?」
「そうだよ、・・・って云うか、何でイツキちゃんが 知ってるの?」
其の時、まずイツキちゃんが此処に居たことに驚きましたが、そんなことよりも彼女が葵くんを知っていることの方が気になりました。何故なら彼女はうちの高校で、淫乱女やら法螺吹きやら最悪な悪評が附いて居るのですから。
「彼ならとても良い人よね。顔も整って居るし、学校 での成績も優秀らしいし。」
「・・・そうだけど、イツキちゃんは何で葵くんを知 ってるの?」
すると彼女は得意げに鼻を鳴らしてから
「葵くんとは関係を持っているもの。それも古い話じ ゃないわ。」
「イツキちゃん、恋人居なかったっけ。」
「居るよ、それがどうかした?」
わたしは話にならないと思い、気分も悪くなったので茜さんにご馳走様でしたとお礼を言って会長と店を後にしました。そもそも、彼女は自分の為なら人を欺くことだって躊躇わない性質であると云う噂はわたしも良く知って居ましたから、彼女の言葉は信じて居ませんでしたけど、何処か引っかかって葵くんと次に会う時、何処となく聞いてみようと云うことを心に留めました。まさか、葵くんに限ってそんな、あんな淫乱女に騙されようなどとは杞憂である他ならないと思って居ました。
生徒会の仕事やら進路の準備やらを消化して居るうちに、あっという間に時は流れてゆき、夜風が少し肌寒い季節になりました。人間と云うものはとてもおもしろくて、つい最近まであんなに鬱陶しかった蝉の発狂が、今では夏の去り際のようで寂しく、恋しくなるのですから。こんな夜には波の穏やかな呼吸を聴きながら、誰もいない砂浜に足跡を残したいものです。明日から夏季休業が幕を閉じ学校が再開するため、其の準備をしていた時のこと、葵くんから久しく電話がありました。
「リナちゃん久しぶり、夏休みは楽しめた?」
「生徒会と進路で気附いたらあっという間に今日だよ。」
「そっかそっかお疲れ様。ところでさ、僕の高校次の 日曜に文化祭あるんだけど良かったら来ない?」
「行きたい!」
「エリカも呼んで来て欲しいな。またあの四人で話そ うよ。」
「それ楽しそう。じゃあエリカにも声掛けておく ね。」
「ありがとう、じゃあ次の日曜ね。あと、ちょっとし たお楽しみもあるから。」
葵くんがわたしを文化祭に招待してくれた。また会えるんだ、彼に。そんな事実を前にして、嬉しさで思わず笑みが溢れました。その後、すぐさまエリカに彼の高校の文化祭の話を電話で伝えました。でも、いつもは明るいエリカが電話越しであるせいか、少し強張って居るような声に聞こえました。




