プロローグ
「もう、男の子が、いつまでもメソメソ泣いたりしないんだよ!」
「うっ…だってぇ……」
ある日の夕暮れ時に歩く二人の男女。
……と言っても、二人ともに小学生だった。
それは、まだ俺が七歳か八歳くらいの頃。
当時は家庭環境の所為で、良く同級生に虐められていたのだ。
そんな時、俺を助けてくれたのは決まって『彼女』だった。
小さな頃は男の子よりも、女の子の方が強いなんてのは珍しくも無い話だろう。
「そんなんじゃ、女の子にモテないよ?」
「うぅ…、なんで?」
「女の子は強い男の子が好きだからなのです」
「うぅ…」
俺はその言葉に再び泣き始めてしまう。
彼女は若干呆れながらも、笑いながらこう言ったのを今でも覚えている。
「大丈夫だよ。
大人になったら私が結婚してあげるから」
「…本当?」
「本当に。でもね、大人になったら男の子が女の子を守らないといけないんだよ」
「そうなの?」
「そうなのです。
だから私の事、守れるくらい強くなってね」
「うん。わかった。
僕、強くなってしおりちゃんの事守るから!」
子供の頃の懐かしい思い出、微笑ましい記憶。
少し違っていたのかもしれない……何せ、これは思い出話に過ぎない。
そもそも、こんな話には最初から何の意味は無いのだ。
なぜなら、子供の時の話なのだから。
娘が父親に「大きくなったらお父さんのお嫁さんになる!」と言っているのと変わらない。
故に、物語の冒頭が『こんな話』で始まるという事は、この二人は結ばれない。
高校生くらいになった時、女の子の方にイケメンの彼氏ができていました。
……なんてのがよくある話のオチだな。
この物語は『そんな二人』の話。
決して結ばれる事の無い……『二人の話』だ。
でも……今は「それでも構わない」と思っている。
その『全て』が。
君を護る事に……君の幸せに繋がると信じているから。
例え、君の隣を共に歩く者が、他の誰かであったとしても。
俺は『この選択』だけは。
未来永劫、後悔する事は決してないだろう。
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「…きて……起きなさいっ!秀治っ!」
その声に徐々に意識が覚醒していく。
とはいえ、まだ瞼が重い。
もう一度『夢の世界』へと向かおうと、抵抗せずに瞳を閉じるが、布団を引っ張り剥がされ、冬の朝の寒気が体と意識を一気に覚醒させられていく。
そして、観念して目を開くと、そこは自分の部屋のベットの下だった。
ここは俺、『相模秀治』の自宅。
高校生にしては、少し殺風景なベットと机くらいしか無い部屋。
だが、『一人暮らしの男の部屋』など、こんなものだろう。
そして、目の前にいた『声の主』にして、俺から無常にも布団を取り上げた女。
それは黒髪ショートで学生服を着た女の子だ。
彼女の名は『有坂栞里』。
俺の所謂『幼馴染』というヤツだ。
「おはよぉ〜、しおりぃ。…ふわぁ〜」
欠伸まじりに朝の挨拶すると、彼女は少し焦り気味に言ってきた。
「呑気に欠伸なんてしてる場合じゃないんだからっ!時間、見なさい!」
その言葉に枕元にあった目覚まし時計を見ると、いつもより三十分ほど起きる時間が遅かった。
何という事だ。目覚まし時計のヤツ仕事をサボりやがったな。
一日一回たかが数秒間、悲鳴にも似た雄叫びを上げるだけで、三食電気付き、おまけに住み込みで働かせてやっているというのに、その仕事を放棄するとは、なんて怠惰なヤツなんだッ!
……まぁ、俺が昨日、目覚ましをかけ忘れただけなのだが。
元々、学校にはギリギリの時間で登校していた事もあり、このままでは遅刻は免れない。
いや、頑張ればまだ間に合う時間だが……
前に先生が言っていたな?「頑張る」って言葉は都合のいい言葉だと。
「明確に何かをする」のでは無く、「とりあえず頑張ります」みたいな言葉には「何の意味もない」と。
……つまり、俺が何を言いたいのか、と言うとだ。
ここで頑張っても、何の意味も無いので寝ます。
「そっかぁ、じゃぁ今日は休みという事で。
おやすみぃ〜」
奪われた布団を取り返すと、もう一度ベットの中に戻り眠りに着こうとするが……
「こらっ!サボりは許さないんだから!
早く準備しなさい!」
栞里に今度は敷布団ごと剥がされ、床を転がさせられる。
……全く、乱暴な女だ。
仕方なく学校に行く事にすると、急いで準備済ませ、二人で家を出る。
そこはアパートの二階でかなり古い建物だった。
だが、普段から今日のように、朝彼女が起こしに来てくれている訳では無い。
本来は近くで待ち合わせをしていて、そこから共に登校しているのだ。
そして、今日のように俺が待ち合わせに遅れると、こうして迎えにきてくれると言うわけ。
以前は、そのまま俺を置いて、一人で登校していたのだが、あまりにも寝坊が続き、部屋の合鍵を奪われてしまったのだ。
その為、今では学校をサボる事ができない。
だが、サボりがちな理由は決して、「学校が嫌い」という訳では無い。
こんなでも勉強は人並み程度には出来るし、運動神経は割と良い方だ。
だが、昔から人付き合いが苦手なのだ。
仲が良いのは栞里くらいなものだ。
彼女とは物心ついた時から一緒にいた。
俺達は親に捨てられ、共に孤児院で育ったからだ。
その為、子供の頃はよく虐めの標的にされる事が多かったというのが、人付き合いが苦手な一因だろう。
そして今、中学を卒業した俺達は孤児院を出てそれぞれ一人暮らしをする事にし、今はアルバイトを掛け持ちしながら学校に通っている。
その為、毎晩帰りが遅く疲れているので「寝たいっ!」というのが素直な本音であった。
「ほら!早く走れっ!ハリ、ハリーっ!
今なら、まだ間に合うんだから!」
「はいはい」
「『はい』は、一回でよろしい!」
「お前はおかんか!」と突っ込みたくなるが、前に一回言ってこっ酷く怒られた。
……いや、正確にはボコボコに殴られたので、今回は言うのを止める。
そう、彼女は『母親』ではない。
正真正銘、俺の『彼女』なのだ。
「ハァ、ハァ……
なんとか間に合ったな?」
「はぁ……そうだねぇ。
でも、駅についたら、また学校まで走らないとだよ?」
いつもより一本遅い電車ではあったが、ギリギリで車内に滑り込む事ができた。
満員電車にギュウギュウ詰になり、扉と挟み込む様に栞里の体を抱きしめているような形になってしまう。
「……あんまり匂いとか嗅がないでよね?」
「クンクン。汗臭いぞ?」
ギュイ。
二の腕あたりを思い切りつねられる。
「痛っ⁉︎ちょっ、痛いって!
冗談だからっ!。良い匂いだからっ!」
「だから!『嗅がないで』って言ってるのっ!」
プイっとそっぽ向いてしまう。
そんな彼女の頭を軽く撫でてやると、顔は見えないが機嫌が若干良くなったのが雰囲気でわかる。
全く単純な女だ。
……まぁ、そういうところが可愛いのだが。
彼女と、こうして過ごす当たり前の毎日。
多少は違う所もあるかもしれないが、そんないつも通りの日常がこの先もずっと続くと……そう信じていた。
だが、そんな幸せは『この日』で終わりを迎えてしまう。
一度、大きな音がした。
それと同時に電車内に振動が伝わる。
一瞬「なんだ?」と周りの人々がざわつくが束の間、電車が横転し、その強い衝撃に電車内は洗濯機のように、もみくちゃになる。
俺はその時、扉に頭を強く打ち付けてしまい、気を失ってしまった。
「っつぅ⁉︎」
次に目を覚ました時、辺りは真っ暗だった。
何かが上に乗っているのか体が重く、押しつぶされそうなほどだ。
腕を動かす事ができないほど圧迫され呼吸すらままならない。
……一体、何が起こったのか?
そう思い、辺りを見渡そうとするも、首すら動かす事ができない。
だが、僅かな視界の情報や体に伝わる感覚で何が起きたのかは、おおよそ見当がついてくる。
電車が事故にあったのだ。
脱線したのか何かにぶつかったのか……それはわからないが、とにかく今横転した電車の中で乗客達の下敷きになっている。
「ッ⁉︎栞里?」
次に考えたのは彼女の事だった。
だがすぐに事故前と同じく腕の中にいることに気がつく。
「栞里ッ!大丈夫かっ?栞里ッ!」
だが、返事が返ってくる事はなかった。
それどころか彼女の体がすでに冷たくなっている事に気がつく。
男の俺ですら押しつぶされそうな重みに加え、彼女は俺の下敷きになっている。
その重みで呼吸ができなくなったのか、そもそも最初の衝撃の時に頭でも打ったのか、それはわからないが彼女はもう……
「しおり……」
涙がこみ上げる。
どうして……どうして、こんな事に?
……『どうして』?俺が今日寝坊したからだろ?
いつもより一つ遅い電車に乗ったからだ……
もし、彼女が俺を置いて先に学校に向かっていれば、こんな事にはならなかった。
死ぬのは俺一人でよかったはずだ。
俺が……俺の所為で彼女は……
「ごめんっ…ごめんっ……」
既に冷たくなってしまった彼女の体を強く抱きしめながら、何度も何度も謝り続けた。
そして、自分自身の薄れゆく意識の中で、強く、強く願ったのだ。
もし『もう一度やり直す事が出来るなら』と。