黎明の大魔導士
六月くらいから延々と書いては消しを繰り返していたものです。
短編小説にすると決めていたので、長いですが短編小説でお願いします。
トゥルーエンド、曖昧エンド、匂わせエンドの為、勧善懲悪やハッピーエンド希望の方はおすすめしません。
この世界には“七星の大魔導士”と呼ばれる七人の魔導士が存在する。
魔法使いという名の職業は、自身に魔力があり、操る事さえできれば誰でも名乗ることができる。魔力を持って生まれてきたら、ちょっと生活が便利になってラッキー程度のものもあれば。強い魔力を持ち、魔法を行使して生計を立てられるものもあるが、それもほんの一握りである。
しかし魔導士というのは魔法使いとは少し異なる。膨大な魔力を持ち、魔法を研究し、自身だけが行使できる魔法を生み出す研究家気質なものが名乗る職業だ。
ただし、魔法使いと違い、魔導士を名乗るには世界に点在する【魔塔】の試験を受けて合格しなければならず、さらには魔導士二人から推薦を受ける必要がある狭き門だ。
魔導士の魔力や知識は、国に還元されると争いの元となるため、国に属さない魔塔が管理する事が世界協定で決まっている。
国と国との争いでは魔導士は介入しないが、魔物を討伐したり、自然現象の猛威に適切な知識と指導を行ったりなど、国からの依頼を受けて動くことが義務付けられている。
無論、国からの依頼ともなれば報酬はかなり良い。だからこそ魔力を持った者は一度は魔導士を目指すのだ。
そんな中でも七星と呼ばれる魔導士は、魔塔のヒエラルキーで最高位の七人である。
三か国の国王から承認されて、ようやく名乗れる最高位であるため、国を治めてもおかしくない七人だが、生憎国政に全く興味がないのが救いだろう。
大魔導士というのは聞こえがいいが、実際は実力がある魔法馬鹿な研究気質の集まりである。
その中の一人であるユーリは、世間から“黎明の大魔導士”と呼ばれるほど魔法の才に恵まれた男だ。
若干八歳で魔塔入りを果たし、魔塔トップに立つ“黒炎の大魔導士”の最年少記録をアッサリ抜いたかと思えば、十四歳で新しい魔道具を作成したのだが、それが人々の生活を豊かにし一財産を築き上げた。その結果、救われた国が多く十八歳の頃には“七星の大魔導士”に推薦された。ちなみに現在、齢二十である。
何より周囲が驚いたのは、ユーリが家名を持たぬ平民出身という事だろう。
魔塔は貴族・平民・種族問わず門を開いているが、その門を叩く段階から知識の格差が存在する。魔塔に所属したならば国に属すことは出来ない為、本来であれば名を捨てるが、家族の縁まで切れとは言いがたい。結局のところ親兄弟のいる出身国に肩入れする事があっても仕方がないというのが暗黙のルールにはなっている。
貴族であれば魔力を宿す血筋はもちろんの事、与えられる知識はレベルが高く、学ぶという事に恵まれている。平民は文字が読めない者も存在する中で、ユーリは異質だ。
彼がどのように魔力や魔法の知識を経て魔塔にたどり着いたのか、多くのものは知らない。そしてなにより平民出身を公にはしているが、出身国を明らかにしていないから肩入れする国がないのだ。出生が不明という事実がより一層彼を疑惑の人にし、平民出が最高位についている事が気に喰わない者も当然存在する。
圧倒的な魔力と知識を持ったユーリを表立って揶揄する者はいないが、まったくなかったわけではない。ユーリ自身もそれに気が付いてはいたが、所詮それは自分の周囲にブンブンと虫がたかる程度にしか思っていなかった。自称天才とは謳っていたが、それ以外はそこそこ謙虚で穏やかな性格だ。言葉遣いが独特な事を差し引いても、どこにでもいる青年と何ら変わりはない。
周囲から得る周りの評価をほとんど気にしていなかったのだが、ユーリはその慢心を後悔する出来事に遭遇する。
◇◆◇
十六歳の成人を目前に控えた海王の末娘のソフィアは、目の前でゼェゼェと肩で息をする真っ黒な男をキョトンとした表情で見つめる。
ざざぁんと波が押し寄せる浜辺に似つかわしくない、黒いハイネックの薄手の長袖、黒いスラックスは彼の体に張り付いている。脛丈の編み上げの黒いブーツは片方しかない。その服装にも負けず劣らずの真っ黒な髪もべったりと水分を含んでいるが、その男はただ深い呼吸を繰り返している。
それもそのはず――たまたま男が海に沈みかけていたのをソフィアが見つけ、この浜辺まで運んだのだ。
最初に目撃した時は、また人間が船から不要なゴミを捨てたのだと憤慨したものの、よく見れば人間の形をしているではないか。不法投棄された人間を海の中から眺めていたソフィアは、どうしたものかと沈みゆく男を眺めていたが、口から気泡を零した男と海の中で目があった。
瞬間、男が大きく目を見開いたかと思えば、ガボガボと大きな息を吐いて「助けろ」と訴えた。
水の中の音を拾えたのはソフィアが人魚族であるからだ。人間であればただ息を無駄に吐いて死にゆく男の最期だったのだろうが。
仕方ない、とソフィアは男を助けた。
男の息が整うのを、ソフィアは自分の尾びれで海面をパシャパシャと叩きながら待った。
そうしてようやく呼吸を整え、張り付いた前髪をかきあげながら顔を向けた男と改めて目があったのだが、その瞳だけは深紅なのだなと思いながらもソフィアは何気なしに男に尋ねた。
「泳げないんですか?」
「……自分は“七星の大魔導士”が一人、“黎明の大魔導士”のユーリだ。平民出のため貴族出身の魔導士から疎まれて罠に嵌められ、魔法を封じられた挙句に海に放り込まれた」
そう言って濡れた長袖を捲り上げると、手首から二の腕にかけてビッチリと不思議な紋様が刻まれており、腕の上でゆっくりと動いている。魔法なのかソフィアにはよくわからないが、なんとなく紋様からウジ虫が這うような気持ち悪さを感じる。
「よりによって利き手を封じられた。鮮やかなものだった」
「どうも、ソフィア=ディル=アクアニアです。左利きなんですね。それで、泳げないんですか?」
唐突に自己紹介を始めたユーリに、ソフィアも一応答えたものの、最初の質問の返答がまだである。改めて聞くとユーリと名乗った男は一瞬眉を潜め、視線を逸らしてチッと舌打ちをした。
「水面など歩けばいいではないか」
魔法頼りの返答である。
「泳げないんですね……」
人魚族のソフィアにとって泳げないというのは息を出来ないと同等であるため、泳げない感覚はわからないが、家族からは「他の種族には泳げないものも存在する」と聞いていたので、レアな存在に会った気分だ。
物珍しそうに尾びれでビッタンビッタンと海面で遊びながら眺めてくるソフィアに対し、ユーリはひとつ咳ばらいをして態度を改めた。
「とは言え、助かったぞ魚類」
「せめて人魚と言ってください」
海に生きる生物の中でも美しさを兼ねそろえている人魚である。魚扱いされたのは生まれて初めてだ。
「……確かに上半身は人間だが?」
「海には人魚族の他に魚人族も存在しますので」
他にも細かな分類はあるが、大まかに国を築いているのはその二種族だ。
「どう違う?」
「文字通りなのですが体の作りが違います。上半身が人間、下半身が魚なのが人魚族。魚人族は顔が魚で、体は人間に近いですが指の間に水かきと皮膚に鱗が存在します」
実際、ソフィアも人魚族特有の体をしている。
青みがかったシルバーの艶のある髪は、波のごとくうねり、てらてらと太陽の光を反射して輝く。上半身は人間の形をとっており、フリルたっぷりの胸当てはソフィアのお気に入りだ。胸の膨らみはなくはないが、姉たちのようにたゆんたゆんと水に揺れるほどないのは腑に落ちない。が、それは個性だと姉達がゴリ押ししてきた。個性ったら個性なのだ。
ヘソから下は魚の形をしており、鱗は波の光を反射しながら淡い桃色をしている。尾びれの手入れは欠かしていない程度には自信がある。あまり浅瀬に行くと腕の力だけで海に戻ることが出来ない為、実際のソフィアは浜辺近くの岩場に腰を掛け、ユーリとは距離が空いている。
ちなみに瞳は親の色を継いでスカイブルーだ。
そんなソフィアの姿を上から下までまんべんなく眺めたユーリは改めて訪ねた。
「どちらも魚介類ではないのか?」
「まさかの海産物扱い」
どちらも食用ではない。
「では改めてソフィア嬢――と呼ばせてもらう。俺ができる範囲であれば礼をする。今は魔力が封じられているためすぐに出来る事と出来ないことがあるが」
「その封じられているのって、解けるんですか?」
「“黎明の大魔導士”だぞ。やれんことはない。ただ時間がかかる」
何しろ魔導士が八人がかりだったからな、と何気なく付け加えたユーリの言葉に、ソフィアはおや? と首を傾げた。
「それってどれくらい時間がかかります?」
「いくら俺が天才でも八人の魔導士がそれぞれ別々の魔法を一度にかけてきた。その魔法同士が絡み合って非常に面倒くさいことになっている」
そういって改めて自分の腕をウネウネと這う紋様を忌々しいとばかりの表情で一瞥する。
「よほど恨みを買っていらっしゃる」
「自身ではどうしようもないことをネチネチと。だからあいつらはそこ止まりなのだ」
「では天才のユーリ様でも少々お時間がかかると」
「礼は急ぎであったか?」
ユーリの言葉にソフィアはちょっとだけ肩を竦めて、それから「あ」と思いついたことを口にした。
「では……私を食べて頂けませんか? 性的な意味で」
「性的な意味で」
どうやって? と口にしなかったユーリは自分で自分を褒めたくなった。
「……別件の願いはないか?」
「人間の性交渉はどのようなものなのでしょう?」
「別件で」
「では人間の男性性器を拝見させてください」
「別件を」
「婚前交渉を」
「まて、結婚が前提になっている」
「前提であればよいのかと」
「却下だ」
「既婚者でしたか」
「独身だし今後もそのような予定はない」
「今から予定を立てる予定を作りませんか?」
「不要だ」
「結婚します? 子づくりします? それとも、わ・た・し?」
「選択肢がどれも初対面の俺には恐怖の域だ」
「大魔導士様には叶えられぬことばかりなのですね。大魔導士様なのに」
無表情でため息混じりに呟かれたのは盛大な嫌味である。
「人魚族、全員が君のような思考なのか?」
「いいえ、特別私が興味を示しているだけです」
「よかった。平民と貴族に疎まれた存在である手前、種族であろうが差別はしたくなかったのでね」
「では食していただけますか?」
「差別はしないが君を軽蔑はする」
「そのような性癖をお持ちであればお付き合いします」
「嫌味が通じない。君は知性がないと言われないか?」
「両親や姉たちからは可愛がられているので大丈夫かと」
「つまり知性は諦められたか」
家族みんながお前は可愛いからそれでいいのだと言ってくれていたのは諦めたからなのか、とソフィアは今更真実に気が付いた。
ユーリに至っては常識をこえた目の前の生物に、命を救われた事を心底後悔している最中である。
「君に聞いたのが間違いだった。魔力を取り戻し次第、何らかの礼はさせてもらう事とする。とにかく助けてもらった事には感謝する」
交渉が失敗した事にソフィアは若干、がっかりしたものの表情には出さない。元々、あまり表情は変わらないたちである。
すくっと立ち上がったユーリは暮れてきた太陽を目を細めて見つめながら、ソフィアに尋ねた。
「ちなみにこの浜辺はどこの国かわかるか?」
「ここですか? 小さな島ですよ。人間は住んでいないはずです」
「……無人島?」
そうとも言う、とソフィアがコクリと頷くと、ユーリは初めて表情を崩して蒼白とさせて。
実際、左右に顔を向けるだけで島の端が確認できる程度の小ささである。誰もいない島だと知っていたため、ソフィアはここが密かにお気に入りの場所で、たまにこの場所で日光浴をしているのだ。
「魔法が使えず、人もいない……?」
「あ、もしかして帰れないですか?」
「ソフィア、重ね重ね申し訳ないが君に頼みが――」
「無理ですよ。ここに運んだのでさえ大変だったんですから」
ユーリが何を頼みたいか瞬時に理解したソフィアは、皆まで言わせず否定した。
泳ぎが当然な人魚族とは言え、ソフィアは非力な女の子である。泳ぎ方を知らないユーリを海面に出すことさえ大変だったのだ。ここから一番近い人間のいる場所までソフィア単独で泳いでも一時間はかかる。速さを自慢する仲間も存在するが、ソフィアは速さより泳ぎの美しさを重視しているタイプなので無理なのだ。
ユーリは思考の海に沈んだかと思えばすぐに浮上し、ソフィアに少し待ってもらえるようお願いして、砂浜を歩きだした。どうやら自分の置かれた島を把握するために動いたらしい。浜辺の少し先には森のような木々が多い茂った部分もあるが、陸に上がれないソフィアに内部の状況をうかがい知ることはできない。
三十分もかからぬうちに島を一周したらしいユーリは、海に沈んだ時よりも顔色を悪くして再びソフィアの前に現れた。想像していたよりも自分の置かれた環境がよくなかったのだろう。
「人間の助けを呼んでもらうわけには……」
「そもそも人間の知り合いは皆無ですし、人魚族は人を嫌います」
むろん私も本来であれば、というニュアンスを付け加えたソフィアに対し、そうだよな、と当たり前のことを言われたユーリは盛大なため息をつきながらヘロヘロと砂場に膝をついた。
実際、ソフィアの言っていることはもっともで、人間にとって人魚族は搾取するモノであり、人魚族にとって人間は仲間を拉致・乱獲する畏怖と嫌悪の対象だ。
見目麗しく観賞用の奴隷として取引される場合もあれば、人魚の流す涙は時に宝石に変わり、人魚の血肉は寿命を延ばし、美貌を保つと言われている。
実際それが本当なのかはわからないが、そういった伝説が蔓延るが故に、それを追い求めた人間達が人魚族を狩るのだ。
現在は世界協定で人魚族を人間と同様の種族と認め、乱獲や奴隷などの取引や売買は禁止されているが、やはり悪いことを企む者はいるし一度広まった伝説に縋り欲しがる者も存在する。
故に人魚族が海面付近に現れることは滅多にない。
海底の奥底にある自分達の都市で静かに暮らしているのが現状だ。
ユーリがソフィアに助けられたのは本当に奇跡と言っていいだろう。普段はソフィアも海底にある自分の住まいから出てくることはほとんどないのだから。人を助けることはイコール自分が捕らわれる可能性もありながらソフィアは彼を助けたのだ。それはかなり勇気のいる行動であったに違いない。
絶望してうなだれるユーリを見て、ソフィアはそろそろ帰りたくなった。家族に内緒でここにいるから、そろそろ自分の不在がバレるころだ。
視線を泳がせ、そわそわとし始めたソフィアの様子を察したのか、ユーリは立ち上がると鬼気迫る勢いでソフィアに告げた。
「ソフィア嬢、取引をさせてほしい」
◇◆◇
今日も今日とてソフィアは無人島にいるユーリの元に通う。
海で捕まえた正真正銘の魚介類を携えて、彼の元に行くのはこれで三日目だ。
海面から顔を出すと、ユーリは前日と変わらず砂浜に木の棒で不可解なモノを書いてはブツブツと独り言を唱えている。傍には絶やすことのない焚火があり、パチパチと薪になった木が爆ぜる音が小さく鳴る。海風で火がそよぐ。
快晴ではあるが、さほど日差しは熱くないので熱中症などの心配は不要だろう。
体に張り付いていた服が嫌だったのか、それとも暑さからなのか、ハイネックの服を脱ぎ捨て、上半身裸になっているのだが、ところどころ切り傷や致命傷だったのではと思えるほど大きな傷跡もある。最近できたであろう傷痕もあるが当人は気にしていない様子だ。頭や体は海水で洗っているのか、水分が蒸発し塩が付着して白くなっている。
海に放り出された際、ブーツは片方無くしてしまったらしく、結局見つからなかったらしい。ブーツでは砂で足を取られるため、今は両足とも素足で砂浜を踏んでいる。
大魔導士を名乗っている手前、研究熱心な根暗をイメージしていたものの、その肉体はそこそこ引き締まっている。以前、鍛えているのかと問うた時には「贅肉があると魔法行使の邪魔になる場合がある」と言っていたので、回りくどい言い方だったが、ようは気を付けてはいるのだろう。
相変わらず彼の腕にはウゾウゾとウジ虫のような紋様が動いているものの、びっちり刻み込まれていた初日とは比べて随分と肌が見える部分が増えている。多分、解術が進んでいる証拠だろう。
「ユーリ様、こんにちは」
と、肩の部分まで海面から出したソフィアが声をかけると、何かに集中していたユーリは顔をあげて「君か」と当然のように彼女を迎え入れる。
ズボンが濡れてしまうのはもう気にしないのか、パシャパシャと波打ち際からソフィアの近くまで歩み寄る。
「毎日すまない」
「お約束しましたから。はい、こちら本日の食料です」
「ありがたく」
そう言ってソフィアが持ってきた魚介類を受け取ると、踵を返して焚火の近くに持っていく。
ユーリの姿を眺めながら、ソフィアは定位置となっている岩場に移動し、よいしょと腰を掛けた。
あの日、ユーリから持ち掛けられたのは食料の調達を願うものだった。
島を一周した段階で、蒸留すれば水分の確保はできそうだが、食料の調達は難しそうだと判断したらしい。せっかく助けてもらったのだから、この際もう少し迷惑をかけてもかわらないと思ったのか、ソフィアに食料調達を願った。
しかし、ソフィアにも都合はある。
「申し訳ありません、私情によりあと五日ほどしかこちらに来られないのです」
五日後にソフィアは海王国において成人の儀を執り行う必要があるのだ。
家族に甘やかされて育った末っ子ではあるが、人魚族では王族の血筋であり、そういった式典は必ず行わなければいけない。
私情の詳細を告げる事はなかったが、ユーリも多分ソフィアの名前から察した部分はあるはずだ。
アクアニアは人魚族の国名だ。通称は海王国で通っているため、人間がそれを知っているかはわからないが、すくなくとも大魔導士を名乗るユーリだから知識としては頭の片隅に存在しているだろう。
無表情ながらも申し訳なさそうにするソフィアに対し、ユーリはなんてこともないように言った。
「五日間もあれば充分だ。俺は天才だからな」
「では天才様に食料をお届けするのでよろしいですか? 海産物しかお持ちできませんか」
「無論、そこまで我儘を言うつもりはない」
「取引という事は私に利のある事を持ち掛けて頂けるということですか?」
「性的な取引以外なら応じよう」
今度はソフィアがチッと舌打ちをする番だ。
「取引はなかったことに」
「まて、そう急ぐな」
海に戻ろうとするソフィアを少し焦った様子でユーリが引き止める。
「先ほども言ったが、今の俺には魔法が使えない。知識も偏ってはいるが、人より多いと自負している。性的な話は知識も実践も分け与えることはできないが、君の知り得たい情報を教えるのでどうだろう」
君はずっと海底にいたのだろう? と付け加えた彼の言葉に、ソフィアは小さく頷いた。
確かに人間の知識は魅力的だ。
海底は他の生物が入ってきにくい分、情報も遮断されがちで海王国の文化は遅れている。それで良しとする仲間もいるが、やはり若い仲間は刺激を求めてしまう。ゆえに海面へ上がり何かないかと探しているうちに人間に見つかり乱獲されるという悪循環が発生しているのも否めない。
人間として信用できるかはわからないが、“七星の大魔導士”は人魚族でも知るところだ。肩書きは時に信用を得るために役立つ。
少なくとも“黎明の大魔導士”という肩書きはソフィアにとって信用しうるものだ。実際、大魔導士の肩書きを勝手に名乗るのは大罪になるので。
それに、性的な事にこだわるのにも理由はあるが、食料調達の取引材料には重すぎる。命を助けたことへの対価は考えていたものの、魔法の使えないユーリには荷が重いだろう。
本当の願いを口に出来ぬまま、それでもソフィアは出来る限り新しいことを知りたいという欲求を満たすことにして。
「では、それで」
――という流れから、ソフィアは彼の元へ三日ほど通っているのだ。
ソフィアから受け取った魚介類を内臓も処理しないままサクサクと木の枝に刺して焚火の周囲に置いていく。自分の食事が出来るまでの時間、ユーリはソフィアが待つ岩場にひょいひょいと飛び乗って彼女の近くに腰かけた。
「解術は進んでおられますか?」
「三人分の解術は済んだ。魔法も微量ながら使えるようにはなってきたが、指先にちょっと火を灯せる程度だ」
そう言ってユーリが人差し指の腹を上にすると、ポッと小さな火が指先に灯る。
フッと煙もなく消えた魔法の火は小さな水の球体に変わり、パキパキと音を立てたかと思えば小さな石粒に変わる。
「素晴らしいですね。それだけの元素を小さく使いこなす方が難しいと伺った事があります」
「本来、元素は全て使えるが、今のところはこれだけだな」
「それでも充分でございますよ」
ソフィアは胸元で小さくパチパチと拍手をしてみせるが、ユーリは小さく頷くに留める。
口では「自分は天才だ」と言うわりには態度が非常に謙虚だ。偉ぶる様子もなければ、驕る態度でもなく、ただ淡々と賛辞を受け入れ過剰な反応をしない。
それが彼の処世術となっているのであれば好感度は高いが、平民だというだけで気に喰わない人にとってはどう足掻いても気に喰わないのだろう。
「それで、今日はどのような話をしようか」
ユーリが改めて尋ねると、ソフィアは待っていましたとばかりに両手を合わせながら、無表情ながらもワクワクと上半身を前のめりにして用意していた質問を繰り出した。
「人の国には昼夜問わず光る星があると聞いたことがあります。それはやはり美しいですか?」
「燈の事か? ランプとは違い火を使わず、魔石によって当たりを照らす魔道具だ」
「その星は燈と呼ぶのですね」
「ランプよりも周囲を明るく照らし、魔力がないものでも取り扱えるようになっている」
「まぁ、それは素敵です。どのような仕組みなのでしょう?」
「人が持つ魔力とは別に、世界には《魔素》と呼ばれるものがある。それは自然に微量に存在する魔力だ。浮遊しているものあれば、木々に宿るものもある。海水に宿るのもしかり」
「魔素? 初めて聞きました」
人魚族にも魔力を持つものは存在するが、海自身に魔力があるとは思ってもみなかった。
無表情ながらも素直に驚くソフィアに対し、ユーリは続けるように言う。
「その空気中に漂う微量な魔素を術式で魔力に変換し、魔石へ蓄積からの光として放出する方法が取られている」
「お詳しいですね」
「魔素の存在を提唱し、燈を作り上げたのは俺だからな」
「ユーリ様が?」
決して驕る事のない態度で、ただ事実を述べたユーリは小さく頷きながら自分の発言を肯定する。
「先ほど、俺が見せた魔法も自分の魔力ではなく、魔素を変換して出したものだ。まだ自分の魔力を思うように引き出せない」
「なるほど?」
「燈に組み込まれている術式は複雑で複製は可能でも書き換えは不可能にしている。商品化するのは別の者に任せているが、燈の認可を持っているのは俺が故に、その功績が認められて“黎明の大魔導士”という肩書きを手に入れた」
燈の発明により、人々の生活は画期的に良くなったと言われている。
夜も明るく街を照らすため、躓き怪我をするものも少なくなり、何より徘徊する犯罪者が身を潜め辛くなって犯罪がかなり減少した。
また、ユーリの偉業はいくつかある。
魔力を持たぬものでも使用できる魔素を利用した手軽さ。
本来、魔石を利用する場合、魔石に蓄積された魔力には限度がある。蓄積された魔力を使い切った魔石はただのクズ石になり、取り換えが必要だ。魔道具の使用頻度によって取り換えの頻度も異なるが、一般的に魔石は非常に高く、買い換えするとなると平民にはかなりの痛手になるため普及しない。
しかし魔素という第三の要素を糧とした魔石は買い換えの必要がなく、初期投資こそ値段はそこそこはるものの、維持費がかからないのが魅力的で、平民の家庭でも爆発的に普及した。
さらに複製を良しとし、書き換えを不可とした徹底的な贋物の阻止。これは魔石を利用する魔道具であれば、正規品であっても稀に怪我をする事故が発生する場合もある。贋物が出てきた際には更に悪質で、正規品より品質を落として安価で出回る場合が多く、事故の発生率も高くなるのだ。それゆえに贋物の防止を施された複雑な術式を誰も真似することはできず、正規品のみが出回る。贋物が出回ったとしても、見分けがつけやすいというのは画期的だ。
詳細に偉業をここで語る事はないが、ユーリが“黎明の大魔導士”の肩書きを得るには充分な材料が揃いすぎていた。他にも発明したものや発見したものはあるが、代表的なのはやはり人々の生活を豊かにした燈だろう。
「確かに星々のようではあるが、この島で過ごし、見上げた夜空は圧巻だった。燈は星々に到底及ばない」
「そうなのですね。海底も暗く真珠灯はございますが、あまり明るく照らすものではないのです。燈というのは水中でも使えるのですか?」
「流石に水中で使う事までは考えていなかった。耐水性と耐圧が必要か? 海水に適しているか、海水から魔素がどれくらい取れるかにもよるな……必要であれば、帰って早速検証してみよう」
「まぁ、ありがとうございます。海王国も明るくなれば、鱗を岩にぶつけて傷つくことも済みますわ」
「海王国は所在が不明とされている。明るすぎて場所がばれてしまうのも問題か?」
「いいえ、場所自体は隠蔽しているつもりはございません。場所が海底なだけに来られる者があまりいないのです」
「確かに、所在不明の王国と交易はしないか」
「ええ、南に位置するグレイリシアとは唯一国同士での交友をさせていただいておりますよ」
「グレイリシアは世界でも指折りの大国故、友好国とはいえ後ろ盾があると思えば大きい」
ユーリの言葉にソフィアはありがたいことだと気持ちよく頷いた。
「漁業の発展をお手伝いする代わりに、各国からの海王国の窓口を置いていただいておりますの。やはりまだ多くの国と直接やり取りするのは不安がありますから」
「歴史を紐解いて、今まで人魚族が受けてきた仕打ちを考えると、それほど慎重になるのも無理はない。では海底対応の燈が出来上がった暁にはグレイリシアに向かえばいいか?」
「ふふ、ええ。よろしくお願いいたします。こんな私でも一つ、国に貢献できましたわ」
そう言って珍しく無表情を崩し、自然な笑みを浮かべたソフィアに、ユーリは一瞬息を呑む。
「……そうか、君は笑えるのか」
「? 今まで笑っておりませんでしたか?」
「まぁほとんど……」
と、言いかけてフイっと彼の視線がソフィアを横切った。ユーリの視線が自分の後ろを見ていることに気が付いたソフィアが振り返ろうとしたと同時に彼が問う。
「君の知り合いか?」
え? と振り返ったところにいたのは、こちらを睨むように見つめていた二番目の姉、フィーフィアだ。
そんな姉の様子にソフィアの心臓は跳ね上がった。
とうとうバレてしまったかという後ろめたさがあるものの、決して後悔はしていない。
先ほどまでユーリの話を聞いていたワクワクとした気持ちがすっかりしぼんでしまったのは悔しいが、ここは素直に姉に叱られるべきかとため息を零す。
「ソフィア」
普段は優しい姉の声が今は強張り厳しいものに変わっている。
それはソフィアが起こしていた行動に対してなのか、それともユーリという人間の存在に警戒するがゆえの強張りかはわからないが。
名前を呼ばれたからには返事をすべきだ。わかってはいるけれど、返事をしてしまうとこの時間が全て終わってしまうような気がして、口を開いても声が出ない。
ソフィアの異様な雰囲気を察したのか、ユーリはその場に立ち上がって自分達を遠巻きに見ているフィーフィアに声をかけた。
「失礼、ソフィア嬢の身内の方か。訳があって彼女に協力してもらっている“黎明の大魔導士”のユーリという」
「……“黎明の大魔導士”?」
その肩書きを聞いたフィーフィアが、オウム返しに尋ねながらも態度が少しだけ軟化した。ソフィアに限らずやはりこの肩書きは有効らしい。
疑いながらもゆっくりと海面に顔を出しながら近づいてきたフィーフィアに、ソフィアはビクリと体を揺らした。
「ソフィア……」
岩礁の上に座るソフィアを見上げたフィーフィアの態度は先程と打って変わり、心配を含んだ声色だ。流石のソフィアも気まずさより、心配をかけてしまった事への罪悪感から、岩礁を降りてゆっくりとフィーフィアに近づいた。
「フィー姉様……」
「最近様子がおかしいと思っていたら、貴方こんなところで何やっているの? 成人の儀まであと二日しかないのよ?」
「ご、ごめんなさい姉様……でも私、逃げるつもりはなくて、ただっ――!」
「わかっているわ、貴方は無責任な事はしないって。でも心配なのよ。わかるでしょう」
姉として当然の心配をしてくれているフィーフィアの言葉を、ソフィアはちゃんと理解している。ソフィアの肩を抱いて優しく問いかける言葉は姉として王族の一人として、正しいことはわかっているのだが。
フィーフィアはソフィアの無事を確認すると、ユーリに向き直り改めて声をかけた。
「ソフィアの姉、フィーフィア=アクアニアと申します。“黎明の大魔導士”ユーリ様に海王国の王族として歓迎のご挨拶申し上げます」
「受け入れ感謝する」
本来であればこれが普通である。
“七星の大魔導士”と各国の国王とは同等の扱いをされるべき存在であり、例えどの国の王族であっても国王でない限りは、七星に膝を折るのが礼儀だ。人魚族に折る膝はないが、それでも示すべき態度と対応はある。
七星は各国の国王と直接交渉ができる権限を所持している。人魚族は人間とは異なる文化を築いているため、ソフィアに肩書きを話したところであまり態度が変わらなかった事に関して閉口していたが、やはり少々常識が欠けていただけのようだ。
「ユーリ様の御前で申し訳ございませんが、ソフィアを連れて帰ってよろしいでしょうか? この子は勝手に行動していたため、家族が心配しているのです」
「こちらこそ、大切なご家族を引き留めてしまい申し訳ない」
ユーリがそう告げたことにフィーフィアはホッとした表情を浮かべるものの、ソフィアは浮かない様子だ。そんなソフィアにユーリは社交的な笑みを浮かべながら静かに尋ねた。
「ソフィア、君は二日後に成人の儀を控えているのか?」
「っ! ……っはい」
「それはおめでとう。色々と協力してもらった礼もそうだが、成人のお祝いもさせてくれるか?」
ニッコリと人のいい笑みを浮かべたユーリに対し、ソフィアはフィーフィアの腕の中で鬼気迫る表情を浮かべて口を開いたものの、そこから出てきたのはハクッとした戸惑いのある吐息のみで、それを飲み込んだかと思えば静かに首を横に振って。
「お気持ちだけで充分です、ありがとうございます」
「そう? では明日もよろしく」
「……はい」
そう言ってフィーフィアに連れられ、後ろ髪を引かれるように何度も振り返りながら海へ沈んでいくソフィアを見送ると、先ほどまで人好きする笑みを浮かべていたユーリの顔から表情が抜け落ちた。
「……二日か。道理で……間に合うか?」
ポツリと零したユーリの言葉を知る者はいない。
◇◆◇
その晩の事である。
夜の帳はとうにユーリが漂流した島を覆いつくし、星々が頭上を埋め尽くす。月明かりは暗い砂浜にユーリの影を切り取り映し出す程度には煌々としている。
街では決して見られぬ光景であるものの、ユーリはそれを見上げることなく焚火と月明かりに頼りながら砂浜に延々と術式を書き続けていた。
背後の森から虫が鳴く音以外は、聞き飽きた波の音が響くだけである。
ざざぁんと寄せては引いていく波にズボンが濡れるのはもう慣れてしまった。日中の内に乾かした長袖を改めて身に着けるが、じゃりじゃりと砂が混ざり込んだ衣類の着心地は最悪だ。
そんな中に第三の音が紛れ込んだ。
パシャリ、と水面が跳ねる音を聞き取ったユーリが顔を上げると、そこには昼間に別れたはずのソフィアが目だけを水面に出してこちらを見ているではないか。
「ソフィア嬢?」
不意に名前を呼べば、彼女はおずおずと顔を出して気まずそうに近づいてくる。ユーリもつられるように手に持っていた木の棒を投げ出し、彼女が定位置としている岩礁に近づき月と星明かりだけで互いの顔を確認して。
「こんばんは」
照れくさそうに、困ったように挨拶をするソフィア嬢に、ユーリは驚きを隠せぬまま「ああ」と短く返事をする。
「こんな時間に来たのは初めてだな。いかがした?」
対面するように岩礁に腰かけながら尋ねると、ソフィアは今までの無表情が嘘のように、切羽詰まった表情を浮かべて自身の胸元で両手を握りしめている。
言いたくとも言い出せない様子のソフィアの言葉を、ユーリはだた黙ってひたすら待った。
「……ユーリ様」
意を決したソフィアが顔を上げた。
スカイブルーの瞳をまっすぐとユーリに向けて、その願いを言葉に乗せる。
「どうしても、私を抱いてはいただけませんか?」
それは初日からソフィアが何度も願った事だった。
初日こそ冗談だと思って聞き流していた部分はあったが、毎日やってきては明日の天気を聞くような気軽さで「性交渉を」と持ち掛けられる。
しかし今日の様子は打って変わり、本当に本気でそう願っているのだと嫌でも理解できるのだが。
「……それは、相も変わらず性的な意味合いでか?」
ソフィアは小さく頷く。その様子に、ユーリはため息交じりに首を横に振った。
「すまないがそれには応えられない。真面目に答えるなら、異なる種族同士で交わる方法を俺は知らんのだ。それに海に生きる人魚族にとって、人の体温は熱すぎると聞いたことがある。ソフィア嬢に火傷を負わせるわけには、な」
実際、助けられた時にユーリの体は全身が海に浸かって冷えていたため、触れることはできたが、ここしばらく食料を受け渡す際にちょっと指が触れ合っただけで、ソフィアの指先にピリリと痛みが走った。彼女自身は誤魔化したが、ユーリはそれを見逃すほど馬鹿ではない。知らぬ振りはしたが、やはり相成れない種族同士なのだ。
「……それでも。私は、恋がしたい。触れあい、温もりを知り、愛を感じたいのです」
「それは、家族愛ではだめなのか? 君は家族に愛されていると言っていたではないか」
「ちがう、ちがうのですっ……私は……」
続ける言葉が見つからないのか、ソフィアはとうとう俯いてしまった。
彼女が隠そうとしている事実をユーリは知っている。けれど、それを無理に聞き出すつもりはないが、同時に自分を頼ってしまえばいいのにと思う矛盾はユーリの中にうごめいている。
「ソフィア嬢」
ふと名前を呼ばれて顔を上げた時にソフィアが見たものは、ユーリの両手が手首までパキリと氷に覆われて凍っている様子だった。
「な、なにをっ!?」
ソフィアが慌てたと同時にユーリの顔が小さく歪み、両手を覆った氷がサラリと水に変わって溶けていく。氷で覆われていたユーリの手は凍傷寸前の色に変化しており、よほど急速に冷やされたのであろうという事がうかがえて。本来であれば魔法行使する人物が自分から生み出した魔法に傷つけられることはない。けれどユーリはあえて己の手を凍らせたのだ。
唖然とするソフィアに対し、ユーリは珍しく柔らかな笑みを浮かべてソフィアの前に立った。
「ほんの一刻だけだ。応急処置にすぎぬからな」
ユーリはそういうとソフィアに歩み寄り、その冷えた両手でソフィアの両頬を包み込んだ。
ユーリの掌から温かな愛を感じるなんてきっと気のせいだ。
だってこんなにも冷えているのに、ソフィアに火傷を負わせないように自身の手を凍傷寸前まで凍らせるという暴挙に出るなんて。
あまり触れてこなかった形の愛に、ソフィアは泣きそうになった。
冷えた手に自分の手を重ね、愛おしくて頬擦りしてしまう。
これが男性の手。
細長く関節がゴツゴツしていて、手の甲はプクリと血管が浮いていて、自分の手とはまるで違う。
頬を擦り寄せる手とは反対のユーリの手が、月夜に瞬くソフィアの髪を優しく撫でる。
ジワリ、ジワリとユーリの手が本来の体温を取り戻し始めているのにも気が付いているのに、火傷を負ってでもその手を放してほしくないというのは自分勝手だろうか。
触れられるだけでこんなにも幸せに満ち足りるのか。
目尻に涙をためながら、けれど泣くまいと必死に堪えるソフィアが両頬を包まれたまま改めてユーリを見上げると、間近に迫ったユーリと視線が絡み合って。
「唇の熱は我慢してくれ」
そういって、近づいてくるユーリの顔に自然と瞼を落とし。
――ほんの一瞬だった。
初めて受けた唇への愛撫は、文字通りチリリと熱を帯びたもので掠める程度のものだった。
あっという間に距離があいてしまったユーリの顔を、再び瞼をゆっくり上げたところで見つめる。名残惜しむも体温を取り戻しつつある手もソフィアから離れ、困ったように微笑むユーリがそこにいて。
「今の私にはこれしかできないのです」
申し訳なさそうに告げるユーリに対し、ソフィアはとうとう堪えきれなくなった涙を一粒おとした。それは頬を伝いながら宝石に変わり、静かに月明かりを乱反射しながら海の底へと沈んでゆく。
もう充分だ。
家族は自分を愛してくれた。どほど我儘を言っても、何をしても大目に見てくれた。
ただ、恋だけはさせてもらえなかった。
誰かを好きになっても、同じ分だけ好意を返してくれる者は一族では皆無である。
彼が海に落ちてきた時、何て美しい黒なのだろうと目を見張った。
美を司る一族とも言われている人魚族の基準からするならば、ユーリは決して美しいわけでもかっこいいわけでもない。人間であればどこにでもいる容姿の持ち主ではあるが、それでも海に沈んでいく真っ黒な存在を何故か“欲しい”と願ってしまった。
恋を知るには短すぎて、これが本当に恋心なのかわからぬままではあったが何も知らないユーリに命の恩人と恩着せがましく無理を言って、我儘を言って、ここまでしてもらえたのだ。
もう、本当に、充分なのだ。
「ソフィアはうれしゅうございます」
だって、これほどまでに幸福だ。
ゆっくりとユーリと離れ、再び海に戻ったソフィアは、自分に温もりをくれた彼を見つめて微笑んだ。
「ユーリ様、ありがとうございました」
◇◆◇
翌日、ユーリの元を尋ねたのはソフィアではなくフィーフィアだ。
ソフィアに頼んだはずの食料を、なぜかフィーフィアが運んできた事に、ユーリは驚き顔をあげる。
「こんにちはユーリ様」
「ソフィア嬢は?」
食料を受け取るより先にソフィアの事を尋ねたユーリに、フィーフィアは昨日見せなかった笑みを浮かべて困ったように首を小さくかしげる。
「ソフィアからユーリ様の事情は聞いております。妹は明日の成人の儀の準備がございますので、今日は代理で私が」
そう言って魚が乗った大きな葉を差し出してきたフィーフィアに近づくことなく、ユーリは再び砂浜に木の棒を滑らせていく。
存在を無視されたフィーフィアは差し出した魚を引っ込める事なく、再度ユーリの名を呼ぶが。
「すまないがフィーフィア嬢、思った以上に時間が足りなくて焦っている。すまないが食事する暇がなさそうなので持ち帰ってもらいたい」
「……何かございまして?」
探るように訝るように視線を向け、けれど友好的な表情を浮かべたままのフィーフィアを見ることなく、ユーリは蔑む声色で告げた。
「俺が何も知らぬと思うなよ」
あまりにも凍てる言葉にフィーフィアはビクリと体を揺らし、それにより海面に波紋が広がる。王族としてあからさまな態度を見せてしまうのは不適切であるが、ユーリはそれを指摘することなく、顔を上げてフィーフィアを睨んだ。
「そもそも、だ。俺がなぜ、人もいなければ国もないような海のど真ん中に来たと思っている」
「……えっと?」
唐突に繰り出されたユーリの質問に対し、フィーフィアは答えを持ち合わせていない。それはソフィアから聞いた話の中にも答えは存在していなかったからだ。船から投げ出されたとは聞いていたが、ユーリが何の目的で船に乗り、どこへ向かっていたのかという情報を聞き出すこと自体、ソフィアは思い浮かばなかったのだ。
言い淀むフィーフィアに、ユーリは端的に明確な答えを伝えた。
「レヴィアタン」
「っ!?」
ユーリの答えに、フィーフィアは彼のために持ってきた食料を思わず海に落としてしまった。けれどそれを改めて拾いにいく事ができなかったのは、彼の告げた魔物を想像し、名前を聞いただけなのに震えが止まらなくなったからだ。
「海に生きる者として知らんはずがない。この海域に生息する凶悪かつ巨大な怪物だ。海王国も度々被害を受けていると聞いている」
レヴィアタンは巨大な海蛇の怪物だ。全身を鎧のような鱗で覆われ、あらゆる武器も攻撃もを通さないほど強固だ。鋭い牙の並ぶ大きな口から火を吐く。うねる巨体で船に巻きつき襲い、人をも食らう化け物で海で命を落とす原因の半分がレヴィアタンとされている。言葉を発することはないが、人語を理解している知能を持っていると言われ、海の生物の中でも最も大きく、討伐が難しいSSクラスに分類されている。
「俺が複数の魔導士と共に船でこの海域にやってきたのは、グレイリシアの国王より討伐依頼を受けたからだ」
ユーリの言葉にフィーフィアは目を見開いた。
「レ、レヴィアタンを……討伐?」
出来るのか? と訝しげに、けれど淡い希望も含んだフィーフィアの言葉に、ユーリはチッと舌打ちをした。
「それも今は叶わん。この通り同志に裏切られ、未だに思うように魔法が行使できない。同志達は自分達で何とか出来ると豪語していたが、あれらだけでは無理だ」
実際、ここまで討伐に来るまでレヴィアタンの被害を受けた人々から聞き取り調査をしていたのはユーリのみだ。他の連中は魔物を狩った経験があり、それをレヴィアタンにも転用できると思っているが、規模も凶悪性も桁違いであることを理解していない。
それに、だ。
ユーリ自身も非常に焦っていた。
ソフィアの協力が得られる五日間で解術するつもりでいたが、共にレヴィアタンを討伐する同志達を侮りすぎていた。同志と呼んではいるが、実際はユーリと師弟関係にある者たちだ。重なり複雑化した封印は流石のユーリも舌を巻くほどにはよくできている。
あれほど自分の事を天才だと口にしていた手前、さっさと解術してレヴィアタンの討伐に参戦するつもりではあったが、あと一歩のところで足踏みをしている状況だ。
心当たりは充分にある。
ユーリを貶めた首謀者であり、デュランという男は酷く傲慢でおおよそ貴族らしい男だ。
侯爵家の次男坊のため爵位を継げず、有り余る魔力があったために魔塔の門を叩いた。
各国の貴族や平民が集まる魔塔では親の爵位は通用しないとされているが、貴族も平民も生まれて育ってた環境は最初から異なっているため、その価値観を簡単に拭い去る事はできない。デュランはそれが顕著にあられていて、実力も伴っているためユーリに一番当たりの強い人物だ。
ユーリの弟子の中で一番高貴な生まれであるがゆえに、自分の魔導士としての師が平民であることが許せない。
今までに何人もそういう思考の持ち主と対峙してきたユーリは、最高位にいながらも気を遣う方法を知っていた。
決して驕らず、謙虚にけれど最高位としての矜持だけは守り、時に行き過ぎた部分を諫めてはきたが、デュランはますますユーリの存在に嫌悪を募らせ、それはとうとう憎悪に変わったようで。
周囲もデュランのユーリに対する態度はいかがなものかとは思っていたが、彼の背後に控える親の爵位がちらついて注意することはなかった。なによりユーリが気にしていなかったというのも大きい。さらに、ユーリを師とする弟子の中では上位に入る実力者だったため、今回のレヴィアタンの討伐にあたっても、ユーリを排除し自分が討伐して功績をあげ、ユーリに変わって七星入りすることを暗に計画していた。
協力した連中もユーリの存在を疎ましく思っていたが、デュランほどの憎悪は持っていなかった。ユーリの研究は地味だし、本人も天才だと自称する以外はかなり控えめな性格だ。実際は周囲にそれほど興味を示していなかった裏返しではあったのだが。デュランの実力は確かだったし、その背後に見える権力は媚びておいて損はないと思っていたのだろう。
普段から言葉の端々にユーリの出生を蔑視している事が見受けられたが、出生を揶揄するのがデュランだけではなかったため、特段問題視していなかったのだ。
アレをそのまま放置しておくべきではなかった、とユーリは今更ながらに後悔している。
「ソフィアの成人の儀は明日で間違いないな?」
ユーリの改まった言葉に、フィーフィアは肯定も否定もせず苦い表情を浮かべている。すでにソフィアを呼び捨てにする程度には彼に余裕などないらしい。
「もう一度言う、俺が何も知らぬと思うな」
「な、なにをおっしゃっているのか――」
「ソフィアの名前を聞いて驚いた。あれほど露骨な名を名乗らせている事にな」
「っ!?」
誤魔化そうと笑ったフィーフィアではあったが、ユーリの尋問めいた強い言葉にとうとう言葉を失った。
「ソフィア=ディル=アクアニア。君には存在しないミドルネーム“ディル”は、人魚族の言葉で“贄”を指す。つまりソフィアは生まれた時からレヴィアタンの“贄”として生み落とされ育てられた。違うか?」
ユーリがソフィアの名を聞いたときに、一瞬眉をひそめたのはそのためだ。
事実を言い当てられたフィーフィアは今度こそ言い訳する言葉が思い浮かばなくなってしまう。
フィーフィアは“黎明の大魔導士”を甘く見過ぎていた。知識に偏りがあると聞いていたため、その知識ま魔法の事ばかりだと思っていたが、実際は国に属さず様々な国々から依頼を受けて渡り歩くため、各国や種族の知識は豊富にある。
ユーリの場合、人魚族に会ったのが初めてだっため、文化や生活・言葉を知っていても姿を知らなかった事が知識の偏りだ。
更にユーリはもう一段階深い事実を知っている。
伝説的な扱いを受けている人魚族の血肉――それを食らった人物から実際に話を聞いた事があったのだ。
曰く、人魚族の肉を一口食べただけでその人は満たされた。
伝説に違わず老いるスピードは緩やかになり、美貌の恩恵こそ受けることはなかったが、いつまでも若々しくいられる肉体を手に入れた。ユーリが会った時、その人は三百四十をこえた年を重ねていたが、見た目は三十代の若々しさを保っていたのだ。
同時に人魚の血肉は人間の“何か”を奪う。
その人が失ったのは“欲求”だった。
一口食べたその人は確かに満たされた。それが故に、何も欲しいと思うものがなくなってしまった。若さも不老も手に入れた。時間が有り余るが故に財を築くもそれほどまで欲していない事に気が付いた。財を投げ出したところで新たな欲は生まれず、生きるために仕方なくまた財を気づき生活をしているものの、常に死を意識する。
ようやく欲したものは死。けれど、人魚族の血肉はそれを容易に許してはくれない。自害しようと刃を当ててもすぐに再生してしまう。人に頼んで切り刻んでもらっても、いつの間にか元の姿に戻る。己の肉体を煮ようが焼こうが時間をかけて再生していくのだ。
人魚族の血肉は“細胞の再生”を半永久的に繰り返す。
けれどそれは細胞の再生に特化しているだけであり、実際に体を切り刻めば気を失うほどの激痛に見舞われる。その人が受けた傷は文字通り、死ぬための致命傷だ。体が完全再生するまで強制的に細胞か再構築されていく。時に骨はギシギシと鳴り、自分の血肉がウゾウゾと集まってくる。
死にたいのに痛みが恐ろしくて死ねない。死を願うのに致命傷に耐えられない。人魚族の血肉を喰らうという事は、その代償も背負わなければいけない――決して人間が触れてはいけない過ぎたものだった。
人にとって毒に近い人魚族の血肉を、巨大なレヴィアタンが食すとなればどうなるか。
人間は不老になったが、決して不死ではない。レヴィアタンもきっとそうやって寿命を延ばし、力をつけてきた。船を襲い細々と人を食らうよりよほど効率がいい。
そして海王国も、たった一人を犠牲にして国が守れるのであればそれに越したことはない。たとえレヴィアタンがその犠牲により力を蓄えようが、そうするしかないのだろう。
その犠牲こそがソフィア=ディル=アクアニアなのだ。
それはそれは大切に育てられただろう。
何しろ最初から贄になるためだけに存在した姫君だ。生きている間だけでも愛を惜しみなく捧げ、自分達の為に犠牲になる事を厭わず育てなければいけない。
愛する者たちのために貴方は死ぬのだと、捧げられるその日まで生き続ける。
ソフィアに常識も知性も欠けていたのは、いずれ死ぬ者には不要だからと最初から与えなかったのだ。
そして何より。
「表情を欠落させたまま育てたのはわざとだな。ソフィアが無表情であればあるほど、贄に捧げた時の罪悪感は少なくて済む」
泣き叫んで嫌がるのを見るのは心が痛む。ならばその感情をそぎ落としておこうというのは、生き残る連中の利己的な考え方だ。
しかし国を守る王族ともなればその考え方を一概に間違いだと言いづらい。
間違ってはいない――でもやり方が納得できない。
レヴィアタンの討伐を依頼してきたのはグレイリシアの国王であったが、依頼時期を考えるとソフィアが贄になるタイミングを知っていたのだろう。タイミングと考えればおのずと成人の儀がソレであると認識できる。人魚の血肉は成人の儀をもって成熟するのかもしれない。
グレイリシアの国王としては、贄を救うというより、贄を得た事によりレヴィアタンがより活動的になる事を懸念していたのだろうが。
昨晩、ソフィアが来た時こそ酷く焦った。
フィーフィアに見つかり連れ戻され、成人の儀が始まるまで余計な事をしないよう、逃げ出さぬよう監禁される事は目に見えていたのに、彼女は目の前に現れてユーリに乞うたのだから。
本当の願いを口にしない遠慮しいな姫君を迎えに行かなければと。
「クソッ……優秀な部下を持つと苦労するっ! 忌々しいっ!」
未だ解術できない焦りから、砂浜に文字を刻んできた枝がパキリと折れた。イライラとした態度のまま未だにその場に留まり続けるフィーフィアに気が付き振り返る。
「海王国のやり方を否定するつもりはない。しかし、俺は自分が出来うることをするつもりだ。それがたとえ海王国と対立することになっても、だ」
そう区切ると、爆発しそうな感情を抑え込むように大きく息を吐きだして、真正面からフィーフィアに告げた。
「フィーフィア嬢、君は何も知らなくていい。知らなかったし、聞かなかった。俺の存在も、事情も。君はここに来ていない。それでいいだろう」
ユーリの言葉をフィーフィアは正確に理解した。
彼はフィーフィアの複雑な心境と立場をちゃんと理解してくれている。
本来であればソフィアを連れ戻すだけの役割だったのに、ソフィアからユーリの事情を聞いて代役をする程度には気にかけた。
王族としてのフィーフィアはソフィアに無事に贄として死んでもらわなければいけない。
しかし姉としてのフィーフィアは可愛がっていた妹を、もしかしたらユーリが、と淡い期待を抱いて接触してきたのだろう。
どちらの気持ちもフィーフィアにとっては正解で、どちらも間違っている。だからこそユーリは自分の事を無視しろと、あえてなかったことにしろと言っているのだ。
王族としての感情も、姉としての感情も捨てるべきではないからこそ、期待も何もするなと。
これほどもどかしい気持ちを抱えながらこの場を去れというユーリに、フィーフィアはもう何も言えなかった。妹を助けて欲しいとも、レヴィアタンを倒してくれとも願えないまま、唇を噛みしめてフィーフィアは海に帰っていった。
◇◆◇
――ああ、これは走馬灯だ。
ソフィアはぼんやりと自分の状況を理解した。
じわりと生温い液体が自分の首から流れ出る。騒めく人間達も、自分の傍らで高笑いをする人間達も、驚きと戸惑いの表情でソフィアを見つめているのが何となくわかる。
「ひゃっはっはっはっ! これで俺は不死身だ! クソ共がっ! 俺を散々コケにしやがって! レヴィアタンを倒すのは俺だっ! 新しく七星に加わるのはこの俺だっ!」
そう言って荒れ狂う海の上を浮いて駆けていく後ろ姿を、誰も追いかけようとはしない。
船の甲板で用済みとばかりに放置されたソフィアの元に、複数名の人間が駆け付ける。
「なんてことをっ。治癒班! 早くっ!」
「出血が多すぎる!」
「とにかく傷口を塞いでっ!」
「間に合わないっ!」
「人魚を攫って殺したなんて、国際問題だぞっ! アイツ、わかってんのかよっ!!」
「だからユーリ様を陥れるのは反対だったんだっ!」
「俺は止めたっ!」
「喧嘩は後にしろっ!」
「ねぇっ! しっかりしてっ!!」
コフッとようやく吐いた息はほとんどが血だ。うまく息が吸えない。ヒューヒューと喉元から空気が漏れていく。周囲の人間達は、先ほど飛び出していった人間とは違い、必死にソフィアの命を繋ぎとめようとしてくれている。
しかしソフィアの受けたのは致命傷で、もうすぐ命の灯が消えようとしている。
――こんな、形で死んでしまうのか。と、ソフィアは自分の境遇を嘆いた。
レヴィアタンの贄になるため産み育てられてきたのに、その役目を果たすことなくソフィアは命を落とそうとしている。
今日のソフィアは特別だった。
薄く化粧を施し、鱗の一枚一枚から尾びれまでを丁寧に磨き上げた。真珠が散りばめられた胸当てと、海底から見つかった大振りの宝石をあしらったネックレス。髪は艶やかに整えられ、海の揺らめきにたゆたう。
これは成人の儀を迎える人魚族でも特に気合の入った装飾だ。
本来であれば今から贄になるソフィアは着飾る必要がない。レヴィアタンにとって食事の美醜は関係ないからだ。ソフィアを美しく仕上げたのは、罪悪感を少しでも減らすために彼女に美しい最期を迎えてもらおうと王族がそれぞれに送った最高級の品物を身に着けている。少し重いのが難点だが、一生に一度の事だからと惜しみない愛を目に見えて形にしてくれた。
装飾を抜きにしても、人魚族の中でも随一の美貌だろう。あと数刻で失われるのは惜しくもあるが、対価に得られるものが非常に大きい。ソフィアの犠牲でまた次の贄を育てるまでに時間は稼げる。レヴィアタンとの契約はそのようになっていて、ソフィア以前にもずっと繰り返されてきたのだ。
ソフィアはずっとこの日の為に生かされてきた。
惜しみなく愛情を注いでくれた家族や国民達の為ならば、これ以上とない幸福だ。
幼い頃に“恋”という単語を聞いた時、一番上の兄にそれは何かと聞いたことがあった。
兄は少し困った顔をしながら「ソフィアには関係のない言葉だよ」と頭を撫でられたことがある。
友達が“恋”の話をするたびに、やがて憧れに変わっていった。
好きという感情は何となく知っていた。ソフィアを惜しみなく愛してくれたのは間違いなく家族で、ソフィアも家族に抱きしめられた分、抱きしめ返した。それが好きと言う感情なのだろう。
けれど家族と“恋”はできなかった。そして“恋”をするきっかけも与えてもらえなかった。
何不自由なく育てられたけれど、異性との関りだけはずっと制限されてきた。不満もあったけれど、家族は困った表情を浮かべて誤魔化す様に仕方がないと遊んでくれていたけれど。
ソフィアの名前に“ディル”が入っていたのも異性除けの意味合いが含まれている。家族以外はソフィアに愛を囁いてはいけない。情を移してはいけない。そういう【法】が人魚族にはあったのだ。
家族がなぜそこまでしてソフィアに“恋”をさせなかったのか今ならわかる。
贄として産み育てられたソフィアにとって、“恋心”は死への足枷になるからだ。誰かに“恋”をすることで、死にたくないと思われては困るのだ。
ふふっとソフィアの声色だけが喜んだ。表情は相変わらず無表情のままだ。ずっと「お前は笑わないでいい、そのまままで可愛いから」と言われ続けてきた弊害である。
指先でそっと唇に触れると、少しだけヒリヒリと痛い。ほんの一瞬だったけれど、唇同士が触れるだけのアレをキスと呼ぶことはソフィアは本で読んだことがある。
アレは“恋”をした相手とする行為だと聞いていたけれど、憧れたその感情を心に宿したかはわからぬままだ。
けれど、唇に覚えた痛みが嬉しく思えるのだから、もうきっと自分に後悔など残ってやしない。
大丈夫。
“恋”は思い出になっても、足枷にはならなかった。
そう言い聞かせながら、ソフィアはその最期を待っていたはずだったのに。
唐突に訪れた男の人間が乱入してきたかと思えば、周囲の静止や抵抗もむなしく、たった一人の男が海底にある王宮から死を待つばかりのソフィアを連れ去った。
ソフィアがギリギリで逃げ出さぬよう、大勢の騎士達が守っていたにも関わらずだ。
男が自分を見つけた瞬間には腹部に強い刺激を受けて気を失っていたため、男が何の目的でどうやってソフィアの事を知ったのかは知らない。ましてやこの海王国からソフィアだけを見つけて連れ出すなど、普通の人間ならば決して出来ないことだ。
つぎにソフィアが目を覚ましたのは、荒れ狂う海に漂う船の甲板の上だった。
甲板には何人もの人間が存在し、荒れ狂う海に投げ出されまいと踏ん張りながら言い争っている。せっかく美しく着飾ったソフィアの体は装飾品が引きちぎられていたり、既に存在しなかったりで見るも無残だ。顔から体にかけての皮膚の大半が火傷で爛れている。今まで感じた事がないほど体中が痛く、自慢だった鱗もあちらこちらが抉られるように剥がれて血が垂れ流れた状態だ。
ゴオオォォォォンッッ! と何かが喚いた。
海鳴りのような悲鳴のような、まるで暴風雨で荒れ狂う天が落ちてきたような音だ。
痛みと覚醒しきらない霞んだ瞳で捉えた正体は、複数の魔法攻撃を受けて怒り狂うレヴィアタンだった。巨大な体がうねることによって大きな波を起こし、この地獄のような嵐を生み出している。四方八方から繰り出される魔法の光は細く、幾重にもなってレヴィアタンに向かっていくが、鎧のような鱗を持つ怪物には一切通用していない。煩わしい虫がたかっているのを、鋭く大きな尾で追い払っているようだ。
覚悟はしていたが、実際に間近で見ると流石に恐怖に体が震える。無意識ではあるものの、あの巨体を自分一人の犠牲で満足させられるかという懸念も浮かんでくる。死後の事など気にする必要などないのに、そう考えてしまう程度にはソフィアは家族の事を愛しているのだ。
水気のない甲板の上で歯を食いしばりながら上半身を起こしたタイミングで、誰かがソフィアの目覚めに気がついた。が、同時に自分の間近で背中を向けていた複数の人間達が何かの衝撃で吹っ飛び、甲板の上を転げていく。
「デュラン! よせっ!」
「やめろっ!」
遠方で誰かがそう叫んだ。
何が起こったのか理解できないまま視線をゆっくり上にあげると、自分を攫ったのと同じ人間が、虫けらを見るようにソフィアを見下ろしている。
「せいぜい役に立て! クズがっ!」
「あ……?」
何? と問う間も与えられず、ソフィアは自分の首を何かで掻っ切られた事に気が付いた。
勢いよく血飛沫が甲板を赤く染め、髪を掴まれて無理矢理体が浮く。じゅるりと、首元の血が吸われる感覚があった。様々な疑問が駆け巡り答えを求めるも、すぐその思考が途切れあっという間に意識が遠のいていく。
そうして走馬灯がソフィアに走り寄って来たのだが。
こんな死は望んでいなかったのに、とソフィアは少しずつ視界が黒く染まっていく事に悲壮した。同じ黒を最期に見るのならあの人に会いたかった。
そう、これが“恋”か。なんだ、思ったよりも悪くない――と、霞み閉じゆく視界が写したのは真っ赤な黎明の。
「――なんだ、やはり君の食せと言うのは食用という意味だったのか?」
耳元でヴィンッと魔法が展開された音がした。霞んでいた視界が徐々にクリアになり始め、呼吸がしやすくなっていく。失われ始めていた体温がじわじわと生を実感させ、既に流れた血は戻る事はないが、混濁した意識と視界がゆっくりと現実に引き戻されていく。
「……ユーリ、さま?」
自分を覗き込む深紅の瞳が和らいだ。
「ちょっとした事故で出遅れてしまってね。俺の部下がすまなかった」
「……な、ぜ?」
何が起こっているのかは未だ理解しきれていないが、ユーリが謝罪する事ではないとゆっくりながらも小さく首を横に振る。じわじわと混濁から戻っていた現実があまりにも信じられず、ソフィアの口元は吐血で汚れながらも疑問の言葉だけが転げ落ちる。
「どうし、て……?」
「あれだな。ヒーローとは遅れてやってくるものらしいが、君に怪我を負わせてしまうほど遅刻するのはヒーロー失格だ。代役が来るまでは俺が演じよう」
ソフィアがまた声にならないままふるふると首を横に振る。
ちがう、違うのだ。
謝ってほしいわけではないのに、どうしても言葉が出てこない。
「ああ、大丈夫。君の体に薄い水の膜を張ってある。火傷はしないはずだ」
抱き寄せてくれるユーリから体温を感じないなんて、今はどうでもいい。
「ユーリ、様っ……っどうして……っ!」
ようやく脳から指令が行ったソフィアの手がゆっくりと動いた。抱き起こして覗き込むユーリの頬に触れ、そして彼の左腕に触れようとして――。
「どうしてっ、左腕がっ! ないのですかっ……!」
ソフィアが握りしめたのは左腕の存在していないユーリの服の袖だった。
黒い服を更にどす黒く変化させていたのは出血の痕だろう。ごうごうと荒れる風に左腕の洋服だけがパタパタとたなびいていたのをソフィアが握りしめた。ユーリの顔は苦痛に歪み、脂汗が豪雨で洗い流されている。そんな中でも口調だけは漂々としているのだから、よほどやせ我慢をしているに違いない。
「解術が間に合わなかった。自分自身で天才だと豪語しておきながらこの有様なのだからざまぁない。痛みで意識が飛んだのは失敗だったが」
その痛みもすぐに慣れる、と未だに口元に痛みを我慢している歪みを浮かべながらも必死に表情を取り繕っているようにも見える。ソフィアを生かしたのは間違いなくユーリなのに、彼自身に治癒を施さなかったのかと焦りが募る。実際、魔法というものは自分にかけられぬわけではないが、かかりにくいものだ。自身の魔力を使うのが基本となるため、単純に自分の中で魔力が循環するだけで治癒しにくい。肉体強化も自分で行うより他の魔法使いにやってもらった方が効果が得られる等の研究結果等、世間知らずのソフィアが知る由もない。
「俺でも解けない封印を施す優秀な部下がいて誇らしいと言えばいいのか、クソ面倒な手間を取らせやがってと言えばいいのか」
冗談を言っているようだが、本当はかなり辛いのだろう。ソフィアが握りしめた袖口に染み込んでいたいた血がぽたぽたと腕を伝って落ちていく。2人のやり取りを見ていた人間の一人が傍にやってきてユーリの傍に控えると、小さく短い言葉で告げた。
「ユーリ様、失礼します」
そういうとユーリの左肩に手をかざし、ほんわりと温かみのある光が放たれる。同時にユーリの苦痛で歪んでいた表情が和らいだ。
「すまない、手間をかけた」
「応急処置のため、その痛み止めは数刻しか持ちません」
「充分だ。神経系の魔法はどうも苦手で痛みまでは取り切れなかった」
「自身で行う神経系の魔法は効かぬとご存じでしょう。それを実力不足というユーリ様が異常かと」
短いやり取りののち、ユーリの痛みを取り除いてくれた人間は静かに頭を下げてまた控える。
途端、レヴィアタンが大きく尾びれを海面に打ち付けた。それだけで周囲が荒れ、大きな波が引きおこる。グワングワンと船が揺れ、甲板に立っていることすらままならないほどのところで、ユーリはふぅっと大きく息を吐いた。
「レティ」
「はい」
「少し彼女を任せていいか。この人魚族は王国の姫君だ。人の肌は火傷をするから肌に水の膜を張ってやれ」
「はい」
そう言ってソフィアの体を支えていたユーリの腕が、レティと呼ばれた女性魔導士の腕へと変わる。ソフィアもそれに伴い、握りしめていたユーリの服を静かに離す。
「大丈夫ですか?」と尋ねられ、支えられながら体を起こすも脳がグラグラしている。時々、大波が甲板を濡らし、豪雨も降っているおかげで干からびずには済みそうだが、なぜか渇きを覚える。
「治癒はユーリ様が行いましたが、失った血液は戻っていません。無理をなさいませんよう」
なるほどそういうものなのか、と納得しながら自分から離れて行ったユーリをさがすと、いつの間にか荒れ狂う海をものともせず、空に浮いて歩き出した。まるで整地された道を歩くくらいにゆっくりと正確にレヴィアタンの方へ行くものだから、天候も荒れ狂う海も幻覚かと思えるほどで。
右腕をレヴィアタンに向け掌をかざせば、そこからヴンッと青い線で描かれた大きな魔方陣が展開する。見たこともないほど巨大な魔方陣はレヴィアタンの頭上へと移動して。
『哭け、桜雷』
ズズンッッ! と雷が落ちたと思えば、帯電する大輪の華が咲いた。大輪の華はレヴィアタンを包み込み、雷を柱とした牢獄が出来上がる。バリバリと音を響かせた雷の花は大きく哭き続ける。
「少し待っていてくれ。今、大切な話の途中なんだ」
そう告げながら穏やかな笑みを浮かべたユーリの姿に、そこにいた誰もが息を呑んだ。
圧倒的な力が圧倒的な力でねじ伏せられる瞬間を目の当たりにして言葉を失う。どれほどあの化け物に苦しめられてきたのかわからないのに、この男はたった一人で、ほんの短い言葉でレヴィアタンの動きを止めて見せたのだ。
五十人近い魔法使いと二十人ほどの魔導士がどれほど力を合わせても、動きひとつ止められなかったレヴィアタンが牢獄の雷に打たれてのた打ち回っている。
“七星の大魔導士”は確かに最高位だと知っていた。
けれどここまで明白な、天と地ほどの実力差があるとは魔導士達は知らなかったのだろう。
ユーリはいつだって魔塔の上でデスクワークをしている姿しか見せてこなかった。“黎明”の二つ名を名乗るきっかけだって生活に寄り添う魔道具を作成した功績であり、平和主義のひよった魔導士だと思っていたのだ。
ソフィアでさえユーリの実力に驚いている。
だって彼は無力に海で溺れ死ぬところだったし、無人島ではソフィアの協力なしには生き残れないようなひ弱な人間だったのだ。
あまりの出来事に瞬きも忘れ、ユーリの所業に眉一つ動かさなかったレティという女性を見上げて。
「……あの、無知と無礼を承知で申し上げるのですが」
「なんでしょう?」
「ゆ、ユーリ様って……とてもすごい方、なんですか??」
恐る恐る尋ねると、レティは初めて眉をピクリと動かしすぐに「ふむ」と言いながら教えてくれた。
「この世界には大小合わせて五十の国々が存在しております。その中で王政を取っている国は八割ほど」
唐突に関係のない話をしだしたレティに対し、ソフィアは回答になっていないのではないかと疑問を浮かべるも、彼女の解説は続く。
「王政を取っている国の殆どは世襲制です。つまり、血によって受け継がれています。よって、この世界に王族と呼ばれる存在は三百人から五百人ほど。その頂に存在する冠を頭上に掲げる国王は四十人ほど。一方、魔塔は完全なる実力主義であり、血縁や出生は関係ありません」
魔塔の中にも血縁や出生を重んじる人間も存在はするが故にユーリは嵌められたのだが。
「国王でさえこの世界に四十人ほど存在する。一方“七星の大魔導士”は文字通りたった七人しかいないのです。それがどれほど貴重かつ素晴らしい存在か」
そういうと、レティは自分の師に想いを馳せたのは、うっとりと綻んだ笑みを浮かべて。
「冒険ギルトに登録されてる魔法使い――つまり、魔法で生計を立てられる人物は世界で二億と言われております。実際に魔法を扱えるのはその倍とも。その中で各所に存在する魔塔には、それぞれ二千人ほどの魔導士と呼ばれる者が在籍。“七星”が一棟ずつ管理しているので、全部で七棟――単純計算で一万四千人。ユーリ様には直弟子が十名、その弟子の弟子――つまり又弟子、又又弟子……と繋がっていく形で二千五百人ほど在籍しております」
つまり、大きく括ると二千五百人の弟子が存在するという事だ。
ちなみにレティは「私はユーリ様の直弟子で第参席を頂いております」とドヤ顔で教えてくれたのだが。
「ユーリ様を貶め、貴方様を弑し奉らんとしたデュランという男は、クソながらも直弟子で末席に座る程度には実力者だったのですよ。あんなクソのせいでユーリ様の片手が失われるなんて、人類の損失です。クソが」
どうにもこうにもレティという女性は口が悪いようだ。まあ、実際に自分の師匠を殺そうとした弟弟子などクソ以外に表現できそうもないようだが。
「ちなみに“七星の大魔導士”にも順列がございます。ユーリ様は第参位に御座すお方でございます。ま、簡単に申しますと、世界中で三番目にお強い方です」
研究馬鹿なのでその面影は普段一切ありませんけどね、とレティは面白くなさそうに呟いた。実際、本気で“七星”同士が戦った事はなく、過去の偉業数や大きさで順列が付いているだけであるので、実際はどうなのかはわからない。
そんな事実にソフィアは瞬きを繰り返すしかない。言葉が継げないのだ。あまりにも話が壮大過ぎて。
よし、とユーリは再びソフィアの元に降り立つと、さっきの続きとばかりに言葉を続けた。
「さてソフィア嬢。俺は見ての通り、無事に魔力を取り戻したわけだが」
「ぶっ、無事じゃありませんっ!」
ソフィアの言葉に、ユーリは苦笑いをしながら肩を竦めて「それは置いておいて」と言い出すのだから、きっと彼女の怒りなど理解していないのだろう。レティに支えられてはいるものの、叫ぶ程度には回復している事がむしろ喜ばしい。
「片手を失ったところで残念ながら俺が天才なのは変わりない」
そういって雷の牢に閉じ込められ、必死に海面で暴れ狂うレヴィアタンを一瞥する。確かに誰も成しえなかったレヴィアタンの足止めをたった一人でこなしているのだから、間違いなく天才なのだろう。
「“黎明の大魔導士”の名において、命の恩人である君の願い事をなんでも叶えようと思う」
パタパタとなくなった左腕の袖が靡いた。びちゃびちゃと頬に体に雨と波が打ち付けるも、堂々とした威厳たるや――。ソフィアに命を繋いでもらっていた無人島の非力な男とは思えぬ風格である。
静かに歩み寄ってくるユーリの姿にくぎ付けになりながら、その深紅の瞳は誰よりも優しくて。
恋がしたいと願った。抱いて欲しいと願った。願いを重ねても叶えてくれなかったクセに、どうして目が離せない。好きだと自覚したらもう駄目だ。でもこんな風に縋るのはズルいのではないかと自問自答を繰り返す。
――もういいのだろうか。本当の願いを口にしても。許されるのだろうか。
ユーリはきっと、叶えてくれるだろう。これだけ天才だと自称し、多くの弟子も存在するユーリが、弟子にかけられた封印が解けないはずがない。相手がどれだけ計画を立てて念入りに術を施したところで、きっとユーリには時間をかければ解けたのだ。
けれど、ユーリは時間を優先し、ソフィアを救うためだけに利き手の左腕を犠牲にしたのだ。
そんなことをされて、自分の身を犠牲にしてまでここまで駆けつけてくれる人を、頼りにするなと言う方が難しい。
だってもう、こんなにも愛おしくてたまらない。
きっと、ユーリはソフィアの願いを叶えてくれるだろう。
ソフィアの本当の願いを――。
「さぁ、君は何を願う?」
片膝をついて、乞うように告げられたユーリの言葉に、ソフィアの涙腺は崩壊した。
「わた……わだじっ……生ぎだいっ!」
どこまでも心の奥底に押し込めていた感情が、涙や鼻水と共に一気に噴き出した。零れる大量の涙が宝石に変わり、船の甲板にカツカツと音を立てて転げ落ちて、あたりに散っていく。幻想的な光景に、同じ船に乗った人間達は目を見開く。人魚の涙が宝石に変わる伝説が本当だったことに驚きが隠せない。
ようやく初めて本当の願いを伝えたソフィアの様子に、ユーリは思わず声を上げて笑った。
「はははっ! 人魚の涙は宝石に変わるが、鼻水は宝石にならないのだな」
「ゆ、ゆーりざまのばがぁっ!」
鼻水も涙も生理現象である。人魚の涙が宝石に変わるのは超常現象かもしれないが、鼻水ぐらい素直に出させてほしいものだ。
グチグチと泣き続けるソフィアに対し「涙を拭く手がもう一つないのは不便だな」と言いながら、たなびく袖で涙を拭くよう言ってくれたユーリのお言葉に甘えて、彼の服の袖で思いっきり鼻をかんでやった。顔にべっとりとユーリの血が付いたが、ソフィアも負けじと鼻水を付けたのでおあいこだ。
「くくくっ、ではソフィア嬢。その涙と鼻水に応じて君の願いを叶えよう。レティ、引き続き君に彼女の警護を任せる。守り切れ」
「かしこまりました」
すくっと立ち上がったユーリに、周囲で見守っていた人間達が恭しく動いた。
「ゆ、ユーリ様」
おずおずと顔色を悪くした数人がユーリに近づく。ユーリを貶めた連中だ。本来であれば彼らはユーリを師と仰ぐべき相手であり、決して貶めていい相手ではない。たとえ誰かに唆され脅されていようとも、だ。無事に生きて戻ってきたとはいえ、自分達の行いでユーリが利き腕を切り落としてくるとは思ってもみなかった。そのユーリの判断が自分達の命を繋いでいると思うと、貶めた側として本来であれば顔向けできない存在だ。
高位のデュランに乗せられて行ったユーリを排除する計画は惨敗だった。
魔塔の中で、更にはユーリの元で学ぶ、弟子の中でも特に優秀なメンバーが集められていたため、総司令のユーリが存在しなくとも最悪力を合わせれば討伐できると高をくくっていたのだ。
魔物の討伐はこれが初めてではない。Bクラスまでの魔物はユーリが居なくとも協力して倒せたし、Aクラスの魔物と対峙した事はなかったが実践数も申し分ない。
ひとクラス飛び越えたところで討伐は簡単だと思っていたのに、現実ではデュランや共に討伐に参加した魔導士達の実力では、レヴィアタンに傷一つ負わせることができなかった。
死闘ではない――ただ一方的に攻撃をしレヴィアタンの逆鱗に触れ、その後は防戦一方で負傷者も出た。デュランがユーリの代わりに指示を出していたが、討伐メンバーの中にはユーリに心酔しデュランの思考を嫌う者の方が多いのが現実だ。
当然そのようなメンバーから信頼を置かれるわけもなく、別の班に分かれてデュランの先走った行動に苛立ちながらも必死にしりぬぐいをしていたのだ。
そんな中、貶めて殺したはずのユーリが生きて戻ってきた。そして自分達を救ってくれたとはなんという皮肉か。悔しいが自分達の師は本物の実力者だ。
媚びる相手を間違えたと内心で毒づきながらも、上辺だけの謝罪を口にしようとしたが、ユーリ本人は興味なさげに一同を一瞥すると、すぐにレヴィアタンに意識を切り替えながら告げる。
「君たちへは追って沙汰を出す。今はレヴィアタン討伐に集中せよ。現時点より俺の指揮下に入れ」
「は、はいっ」
この場での処分が下されたのなら、レヴィアタンの餌になれと言われても可笑しくない状況だ。これ以上、ユーリの機嫌を損ねないよう素早く後ろに控え直す。
「状況は」
「ユーリ様! アレクとリュレ、それにジョディの魔力切れが間近です! 魔法使いは三割ほどがっ」
「あれほど無駄打ちするなと言っていたのに、恐怖に呑まれて下手を打ったか。魔素の使い方は教えたろう」
「無茶ですよ! 魔素を利用できるの、ユーリ様かユーリ様が手がけた魔石くらいですよ!?」
「今後の課題だな。三人は戦線離脱し魔力回復を優先。ハロルド、マウロ、セリオ、リタ、ニコライは魔法使い達の後方支援。イサーク、ソニア、クレメンテ、エミリア、ハヤトは各所回復を優先。ロニー、アイリーン、シェナ、ダニエル、コリンはレヴィアタンの動きを抑えろ。方法は問わぬ。自分達の得意分野で動きを鈍らせろ。他の魔法使いは引き続き船が沈まないよう魔方陣への魔力供給を。魔力切れで海に投げ出されないよう気をつけよ。海は怖いぞ、経験者が語るんだからな。伝令、いけ!」
『はいっ!!』
散ッ! と人々は自分の配置についた。
よくみるとレヴィアタンを囲っている船はこれだけではなく、数隻存在しているようだ。ただ波とレヴィアタンの図体でどれほど存在しているのかソフィアには正式な数が確認できない。付き添ってくれるレティが「船内へ」と案内してくれたものの、首を横に振ってこの場に留まることを選択する。まだ体調の悪さは消えないが、それでも見届けなければいけない。
人魚族の姫として、贄になるはずだった立場として――そして何より、自分の願いが叶う瞬間を。
各方面からの魔法の光がより活性化してきた。
指揮をするユーリが戻ってきた事が最大の理由だろう、各々が何をすべきか明確になった今、それだけに集中できるというのはありがたい。
バリバリと呻り続けていた雷の牢はすでにバキバキと音を立てて崩れ始めていた。その隙間を埋めるように魔法が展開されてレヴィアタンを攻撃するが、やはりユーリの魔法ほどの効果はないらしい。
再び波の影響がない空に浮かんだユーリは再び唱えた。
『嗤え、零樹』
青白い線で描かれた巨大な魔方陣から大きな蔓が幾重にも生えてきた。ゲララララッと嗤い声を発しながらレヴィアタンの巨体に巻きつき締めあげる。ギャオオオンッッと今までに聞いたことがない叫びが鋭い牙の並ぶレヴィアタンの口から漏れ出る。しかし目視できる範囲でレヴィアタンに外傷が見られない。鋭い牙の並ぶ口を大きく開き、巻き付いてきた蔓に向かって火を噴く。火のついた蔦はあっさりとレヴィアタンから剥がれ落ち、大きく水しぶきを上げながら海の底へと沈んでいく。
その火柱は熱風として数百メートル離れた船の甲板に波と共に押し寄せ、雨水で濡れている全身から一気に冷や汗を噴出させる。
アレがユーリの魔法に対してではなく、自分達に向けられたかと思えばひとたまりもない。
「硬いな。やはり一筋縄ではいかないか」
「海中生物のクセして火を吐くとか……海の荒波にのまれるのが先か、あの火に真っ黒焦げにされるのが先か賭けます?」
「賭けるなら俺に賭けろ。負けはせん」
「かっけぇっす!」
ふむ、と確認するようにユーリが呟くと、傍で見守っていた他の部下が声を上げた。
「でも効いてます! デュランの風魔法はまったく歯が立ちませんでしたからっ」
「……アレは密度が低いから頼るのをやめておけと何度も言っていたんだがな。勝てると思っていたのか? 本当に有能なんだか馬鹿なんだかわからん奴だな。で、デュランは? は? レヴィアタンに喰われた? 人魚の血を飲んだ後? じゃあ腹の中で生きてるな。形を保っているかは定かではないが」
焦りもなければ大きく感情が動くこともないユーリの発言にソフィアは驚いたが、周囲に至ってはいつもの事とあっさり受け入れている様子だ。
「アレが無事に戻ってきたら封印魔法の方を研究させるか。封印魔法であれば俺の腕一本分の実力はある」
ユーリにとっても自分の左腕が失われるきっかけになった相手だというのに、のんびりとした物言いに驚きを重ねるしかない。
「無事に戻るんですかね」
ため息交じりにユーリに尋ねた部下の意見はもっともだ。相手はすでにレヴィアタンの腹の中である。日常のような会話を繰り広げているものの、そこかしこから魔法が飛んでいく戦場だ。ユーリは一瞬だけ思案し、それから周囲を見渡しながら告げる。
「引き続き攻撃の手を緩めずよろしく頼む。少し行ってくる」
「え? 行ってくるってどこへ――」
尋ねるもユーリは行き先を告げないまま飛び上がった。風に乗ったように、体勢を保ちながら急速にレヴィアタンに近づいていく。魔法が飛び交う中をものともせずに飛んで行く姿は、視線では追えても物理的に誰かが追うことは不可能だ。
「ユーリ様っ!?」
レヴィアタンが煩わしいとばかりに叫び開いた口の中に、ユーリはそのまま飛び込んだ。
「はぁ!?」
「ちょっ、ユーリ様!?」
「レヴィアタンに喰われた!?」
「そんなっ!」
ざわめきが徐々に広がっていく。嵐の中の出来事ゆえに数キロ先にある船まで情報が届くことはないが、ユーリがレヴィアタンの口の中に飛び込むのはどこからでも見えていただろう。ユーリが自主的に飛び込んだと思えるのは船に同乗していたものだけで、他の船にいた人間からするなら唯一レヴィアタンに対抗できた人物が敗れたようにも見える。
瞬間、レヴィアタンの肉片が爆発して飛び散った。
ぽっかりと腹部に大穴を開けたレヴィアタンが苦痛の咆哮をあげる。同時にその大穴からユーリが飛び出てきたものだから、状況を理解した者達は勝利を確信し歓声を上げる。
「ふむ、やはり内側からの攻撃は効いたな」
スタンッと何事もなかったかのように船の甲板に降り立ちながらユーリが告げる。
「だからって普通、化け物の口の中に飛び込みます!?」
状況を理解した部下の一人がぎゃんぎゃんと叫ぶので、流石のユーリも少しだけ後退しながら「胃液に溶かされぬように防御壁は張ったぞ」と見当違いの主張をする。未だにギャーギャーとユーリに説教をする部下を後目に、彼は部下をなだめながらも手に持っていた何かをぺいっと甲板に投げ捨てた。
「な、なんですこれ?」
それは表面がドロドロに溶けた肉の塊だ。豚一頭を丸焼きにしてもこんな見た目にはならない。表面はぼこぼことし、ところどころに人間らしき手や目があるが、手足があちらこちらと変な場所から出ている。
「デュランだ。ついでに回収しておいた」
「マジか」
よくあの巨体なレヴィアタンの中からコレをデュランだと判断して連れて帰ったものだと感心する。本当に人の形はしていなかったが、人魚の血を呑んだおかげか生き物としては成立しているようだ。手が生えている横に口があり、そこから「あへ、あへへへへっ」と気の狂った笑い声と涎が零れ、前後に散らばった目からは血の涙が流れている。
「人魚の血肉は人から“何か”を奪うと言われているが、デュランの場合は形だったか?」
「え? 原因は胃液じゃなくて?」
「奪われたのは理性かもしれないですねぇ。正気じゃないですもん」
「どちらにしろ彼の性格上、死んだ方がマシだと思うんじゃないですか?」
「簡単には死ねんぞ。人魚の血肉とはそういうものだ」
可哀想にな、とさほど同情していないようにユーリがため息交じりに呟いたところで、大きな傷を負ったレヴィアタンが大きく尾びれを振り上げた。
「まだです」
「しつこいな」
「海底に逃げるつもりか!」
体内から血飛沫をまき散らし、同時に飛んできた肉片が船の帆桁に当たりバキリと折れる。頭を下に向け、海の中へと逃げ込もうとするレヴィアタンを前に、周囲の魔導士達も奮闘した。
「逃がすかっ!」
同時に同じ魔方陣を展開する。バキバキバキッと音を鳴らしながらレヴィアタンを中心に海が大きく凍結した。厚い氷にレヴィアタンの図体が身動きの取れない状況になるも、すぐにその怪力で氷が割れて柱になる。それでも氷柱が邪魔をして動作を鈍くしているのは違いない。
「あんなの致命傷だろ! さっさとくたばれよ!」
「人魚の血肉を食ってるのは奴も一緒だ! そう簡単に討伐されてくれやしねぇよ!」
「世界協定で人魚の取引禁止されてたろう! レヴィアタンにも適用しといてくれよ!」
必死に魔法を展開しながら文句を言い続ける魔導士達に、一番申し訳なくいたたまれなくなっているのは贄になる予定だったソフィアである。甲板の上でピタンピタンと小さく尾びれを鳴らしながら「ご、ごめんなさい」と進んで血肉を差し出していた事に謝ったところ、嵐の中でも聞き取っていたらしい魔導士たちが慌てて弁解する。
「だ、大丈夫っす! 今のはただの言葉遊びというかっ!」
「だったらいいなという希望と申しますか!」
「お姫様は何一つ悪くないんで!」
魔法を展開しながらもアワアワと会話できるくらいには余裕があるらしい。さすがユーリの弟子と言ったところか、彼らが弟子のどのあたりにいるかはわからないが、レヴィアタンが手に負えない相手だとわかっている時点であまり下位の者は連れてこないだろう。
なおも抵抗を続けるレヴィアタンの図体がずどぉんと海面を大きく揺らした。
「あー! ダメダメ! 逃げんな畜生!!」
「ユーリ様! トドメいけますか!?」
師匠頼りの弟子達に、ユーリは小さくため息を漏らした。密かに眉をひそめたのは、そろそろ部下がかけてくれた痛み止めの魔法の効果が切れそうだからだ。時間がないのはこちらも同じかとユーリは再び大きくため息をついて。
「本当は、あまり使いたくはなかったんだがな」
と、ユーリの体がふわりと浮いたと同時に、深紅の瞳の瞳孔が縦に割れた。
おおよそ人とは思えぬその瞳と共に、ユーリの首元にうっすらと鱗が浮き出始める。
バタバタと主人を失った左腕の服が靡く中、ユーリは魔法を行使してきた今までとは違い天に向かって吼えた。
『詠え、白陽』
アアァァァッと詠うように天が割れたかと思えば、白い光が一直線にレヴィアタンに堕ちた。レヴィアタンの体を一直線に貫き、絶命の咆哮が周囲を埋め尽くす。大きく血をまき散らし、肉片がびちゃびちゃと甲板に飛んでくる。
大きな肉片に当たって吹っ飛ぶ者もいたが、他の者に支えられて何とか船上に踏みとどまる。しかしながら、レヴィアタンの肉片はあばらが折れる程度には勢いがあって、何本か持っていかれてたようで。
「む? すまん。肉片が飛ぶところまでは予期していなかった」
そう言って戻ってきたユーリの瞳はすでに戻り、肉片で怪我をした部下に即座に治癒を施す。本来であれば、ユーリの変わり様に皆、驚きで声が出なかった。
あれは魔法でもなければ魔素を利用したものでもない――天を味方につけた術式を展開できるのは世界でも天空を支配する神に等しき種族である証だからだ。
けれどユーリはそれをおくびにも出さずいつも通りの態度で弟子に接するものだから、あばらを治癒してもらった弟子は自分の横に落ちた大きなレヴィアタンの肉片を見て尋ねた。
「……レヴィアタンって食えるんスっかね?」
「ハヤトは海に生きてるものは何でも食したがるな」
「人魚や魚人は無理っす。形が人過ぎるんで」
「レヴィアタンも人魚を食ってるからな、どうなるかわからん」
「ま、何とかなるっしょ」
「お前も研究熱心だな。死ねなくなって何を失っても知らんぞ」
「研究し放題じゃないっすか。やったね」
どう頑張っても食すらしい。
「ってかユーリ様って、天竜族だったんっスか」
さりげなく周囲が聞きたがっていたことをあっさりと聞いてのけた弟子の態度に、ユーリはクスッと小さく笑う。
「半分な」
「やべぇっスね。道理で肩入れする国がないわけだ」
どの種族と交わることもない伝説の種族とまで言われている天竜族。その姿は竜にも人にもなれるらしいが、存在自体があやふやなために真相は定かではない。
ただ天を味方につけた術式を展開できるのは、世界でも天空を支配する神に等しき種族――天竜族だけだというのは過去に確認されている事実である。魔法を行使する者にとっては眉唾ものの存在で、それでこそ神に出会えた気分だ。
“黎明の大魔導士”が天竜族の血を引いているというのはかなりのゴシップである。
「天竜族って魚の生食文化あります?」
ヤマトとしてはどうしてもレヴィアタンを食べたいらしいのだが、一緒に食べようと暗に誘っている事を理解したユーリはため息交じりに呟いた。
「生食はやめとけ」
「じゃ、焼いてみます」
背後でレヴィアタンが絶命し、海底に沈みゆく瞬間とは思えぬほど間抜けな会話で化物と人間との戦いは終戦を迎えた。
◇◆◇
ユーリという存在はそもそも、そう簡単にお目にかかれる相手ではない。
大魔導士は世界でたった七人しかいない上、各国の王と対等の立場で話が出来る存在だ。
基本的に大魔導士の主たる仕事は魔法に関する研究であり、それに従事できるよう弟子たちが最大限に取り計らう。
大魔導士には弟子を十人取る事が義務付けられていて、その弟子達がユーリの代理人として動くのである。雑務を受ける代わりに大魔導士から直々に教えを乞う事が出来るのだから、弟子達にとってどんなことをユーリに申し付けられても喜んで雑務を行う。
ユーリが一言弟子に伝えれば、それを十にも十二にもして執行するのが弟子達である。それほど弟子達は優秀であり、ユーリの手足そのものとして動けるだけの権限が与えられている。
「もーかってまっかぁ?」
そんなユーリに対し、公式な面会を求めてやってきたのは何とも気の抜けた挨拶をした一人の商人である。若さからは想像もできないが、各国の要人達からごひいきにされている大手商会の次期商会会長――ミロウである。
一部の国王に頭を下げさせることもできるユーリに対して、このような気軽な態度を取れる商人はいない。
ユーリの手間を取らせまいと弟子達が面会を事前に把握し、時には代理として請け負うが、今回はユーリ自らミロウに会う事を願ったため実現した面会である。
同席していたシロという男は、弟子の中で第弐席に名を連ねており、真面目な性格で更にユーリを崇拝しているため、この薄情な態度を取るミロウに怒りの視線を向ける。が、第壱席のクロは「ようミロちん、久々~」と軽い挨拶を済ませている。
ユーリは穏やかな表情を浮かべてミロウの挨拶を会釈で返した。
「相変わらずだなミロウ殿」
「いやぁ、ユーリ様もレヴィアタンの討伐、お疲れ様でございました」
ワザとらしく両手を揉みながらニコニコと営業スマイルを浮かべるミロウに、ユーリはまた小さく頷いて微笑む。目を開けたかどうかもわからないくらい目が細いミロウではあるが、その視線がユーリの腕にスススッと滑ったのを察して手を持ち上げて見せた。
「これが気になるか?」
「流石ユーリ様! 話がお早い! その義手はどうなってまんの?」
レヴィアタン討伐の際――と言えばかっこいいが、実際は内輪揉めの結果で左腕を失ったユーリではあったが、そこには黒い光沢の何とも見たことのない素材でできた義手がそこに収まっていて。
「弟子に義肢装具に詳しいものがいてな。どうせならと、レヴィアタンの鱗で義手を作ってくれた」
そう言いながらユーリが義手を動かせば、関節が鱗同士の摩擦でシャラシャラと小気味いい音がする。光の当たる具合によって黒色が艶感とマット感を同時に持ち合わせたような不思議な色合いに、ミロウは思わず見惚れてため息が漏れた。
「これは何とまた……」
「少し音がうるさいが慣れればどうという事はない。神経を繋ぎ合わせる魔法が必要だが、何より丈夫で軽い」
「美しくも強さのある……これは売れますな。予備などありますんやろか?」
「アニーに話を回しておくから、直接交渉してくれ」
「げっ、あのマッドサイエンティストなお弟子さん作やったんですか……」
「アニーはミロウ殿が真っ先にコレに食いつくだろうと読んでいたから予備はあるはずだ」
「ぐぅっ! あの商売上手がっ! 悔しいですが後で話させてもらいますわ」
「実験台にされないように気をつけろよ」
テンポのいいやり取りはいつも通りだ。物怖じしないミロウの態度はユーリも気に入っている。
ユーリがあれやこれやと購入物を告げる中、慌ただしいのはミロウの部下達だ。ユーリが述べるものは魔塔で必要な実験器具や材料等でどれもこれもが入手困難なものばかりである。本来は貴族や平民達に衣食住を中心とした商品を提供しているミロウの商会であるため、ユーリが求めるものはかなり難題と言えよう。
しかしどんなに時間がかかっても、必ず客が求めたものを提供するのがミロウの商会が信条としていることだ。納入期間と入手方法を検討しながら商談を続けているミロウではあるが、あの話は本当だったかと頭の隅で思い返していた。
今回、グレイリシア大国はユーリに国家予算三年分の報酬を支払っていると噂されていた。そしてそれは事実である。
毎年レヴィアタン討伐の報酬費用を国家予算で計上し、十数年かけてようやく支払う報酬の目途が付いたため正式に依頼された形である。
正式にユーリが依頼を受け、そこから更に二年が経過している。本来であれば他の大魔導士に依頼される内容ではあったが“七星の大魔導士”が年に一度開く“ヴァルプルギスの宴”という集会で七星になったばかりのユーリの実力を試そうと他の大魔導士達が賛同し、グレイリシアもそれに許諾した形で実現したものだ。
大国と呼ばれる国家予算三年分とは大げさに聞こえるかもしれないが、討伐にかかる諸費用などは全てそこから出るのでそんなものだろう。レヴィアタンが引き起こす荒波に対応できる丈夫な船を何隻も用意し、沈まぬために魔力供給してくれる魔法使い達に支払う報酬等も含まれているので一大事業である。
レヴィアタン討伐で一番得をした海王国に対してもユーリ側からそれなりの褒賞を請求予定である。褒賞を請求とは意味が分からないだろうが、そうしなければいけない事情があるのだ。
例え討伐依頼をしたのは海王国ではない、関係ないと突っぱねることは難しい。
そんなことをしようものなら世界協定の人魚保護法の見直し検討がされる可能性もある。海王国が誠実な対応を見せないと、世界協定守っている国々あから「あんな連中を保護する必要がない」という声が上がる可能性もあるのだ。その方が都合のいい連中はもちろんいる。そういう連中に声をあげさせないためにも誠意は見せるべきなのだ。そしてそれを理解しているからそこユーリ側から褒賞を請求する必要性がでてくる。
そういう事情もあって、海王国がどれだけユーリに褒賞を支払わなければいけないかと思うと、戦々恐々たる思いになるのも無理はない。
海の中で生活をし、ほぼ国交もしなければ全くと言っていいほど文化も金銭感覚も違う海王国にとって、ユーリへの褒賞がどれだけのものになるのか、考えるだけで恐ろしい。
しかし、ユーリ側から請求された褒賞は“レヴィアタン死骸の回収”であった。
ユーリ達の所属する魔塔側からすると、レヴィアタンの死骸が研究材料としてかなり探求心に駆られる材料となっている。しかしながら、レヴィアタンの死骸は海の深くに沈んだ。
人魚を食していたレヴィアタンの血肉が海にどのような影響を及ぼすかわからない。血は流れても肉は腐るまでその場に残るか、知能のない魚介類の餌になり、それがどのような影響を与えるのかが計り知れない。ユーリ側の申し出は海王国にとって願ったりかなったりのものだ。ただし、血肉の腐敗はすでに始まっているため、その付近に人魚が近づく事によってどのような弊害があるかわからないのがデメリットだ。
そんなものが褒賞でいいのか、と再三確認した海王国ではあったが、海王国側との交渉の席に座ったユーリの弟子は目を輝かせて「むしろそれがいい!」と断言したのだ。なるほど、魔塔にいる存在が研究馬鹿という噂は間違いではないらしい。
そんなこんなで全てが丸く収まっていくように見えているが、実際はそうではない。
グレイリシア側の報酬が大きすぎるが故に海王国側の褒賞が少ないのではないかという声が上がっているのだ。
面倒くさい連中はどこにでもいるものである。
と、一通りユーリからの注文を聞いたところで、次にとミロウ側に動きがあった。
「ほな、次はワイから。各国からレヴィアタン討伐のお祝い品と見舞い品、および褒賞が届いてまっせ」
ミロウは報告しながら自分の部下から巻物を受け取ると、それを頭を下げながらユーリの前に進み手渡す。
「目録でっさ」
「うん、ありがとう」
ユーリはそう告げると受け取った目録の巻物を、紐をほどくことなく後ろに立って並んでいたクロに渡す。クロは小さく頭を下げながら「確認させていただきます」と言いながら代わりに巻物を広げて。
「一応、こちらに一部お持ちしました」
そう言うと、赤い布のかかった箱状の物がミロウの横に並び、そしてサッと赤い布が取り払われた瞬間。
「やめろ」
それはほぼ同時だった。
ユーリを取り巻く魔導士達がミロウに対し、杖を、魔法の針を、氷柱を、炎を、鋭い風を、雷を、ありとあらゆる魔法がミロウの目の前で、喉元でピタリと止まる。
空気がキンッと冷え切り誰もが構えを解かぬ中、ユーリの静止の言葉だけが余韻のようにその場に落ちた。
「……っこれは流石に、生きた心地しまへんな」
つぅっと額から冷や汗を流したミロウに対し、ユーリは感心しながらもふわりと微笑む。スッと指を横に振ったかと思えば、ミロウを取り巻いた魔法がパラパラと消えた。
「彼は褒賞を運んできただけだよ。怒る事はない」
「しかしこれはっ! 受け取れば我々も犯罪者ですっ!」
「ちゃんとした手続きを取ればその限りではない。ミロウ殿、ちゃんと説明してくれるだろう?」
怒気を孕んだままの視線が刺さる中、ミロウは恭しく頭を深々下げて、その品を掌で指しながら伝えた。
「こちら、海王国からレヴィアタン討伐の褒賞、人魚の髪二百人分と鱗三千枚でございます」
赤い布の下に隠されていたのは、カラフルな髪の束と光で乱反射する人魚の鱗が入った大きな瓶だ。
本来、人魚の血肉のやり取りは世界協定で禁止されている。
今回、姫君の血を飲んで肉の塊になり果てたデュランも犯罪者とされているが、なにしろまだどういう影響が彼に与えられたかわからないままのため、魔塔で厳重管理されており、色々と落ち着き次第裁判にかけられる予定だ。
しかしながら例外がある。
人魚の髪や鱗は厳しい条件をクリアすれば取引が可能なのだ。
血肉は人にとって行き過ぎた毒になるが、髪や鱗は万病の薬の元となる。人と同様髪は伸びるし鱗に関しては生え変わる故に、海王国自体がそれを国交の材料として使う事は稀にあるのだ。
ただ今回問題なのはその数である。
本来であれば髪は長さにもよるが十本ほど、鱗に関してはたった一枚で白金貨一枚分に相当する。
海王国はそれほど差し出せるものがなかったのかもしれないが、それでもこの数は異常だ。髪はともかくとし、鱗に関して言うなれば人間の爪と同様ではぎ取れば痛い。一部の鱗に血を拭きとった後や小さく肉片が付いている時点でアウトなのだ。
「海王国より書状を預かっております。この褒賞につきましてはどのように取り扱ってもらっても構わない、またそこに付随した血肉に関しても海王国が責を負うと。世界協定において血肉の売買は禁止されているため、そこは留意頂きたいと」
頭を下げたままのミロウに対し、周囲の魔導士達は納得いかないようだったが海王国側がそういうのであれば仕方がない。中にはすでに気持ちを切り替えて、おこぼれを貰えないだろうかとソワソワしている魔導士もいるのだから現金なものだ。
「それと……鱗に関しては、数多くはありませんが、この先十年定期的に送らせていただくと」
続けられた褒賞の内容に、流石に冷静に見守っていた弟子達も驚きの表情を浮かべる。ユーリは静かに立ち上がり、頭を下げたままのミロウを素通りして鱗の入った瓶を持ち上げた。
シャランと鱗同士がぶつかり合い、淡くも儚い音が鳴る。瓶の名で乱反射しながら輝く鱗の入った瓶を持ち上げ見つめ、ユーリは切なげに呟いた。
「……君はこれでよかったのかい?」
生きたいと願った人魚姫のと同じ色の鱗が、最も瓶の中で多く輝いていた。それは血肉が付いた鱗の最たるとも。
きっとこの先、定期的に届く鱗も同じ色をしているだろう。
強制なのか、本人の意志なのか、それはもう聞くことはないだろう。ユーリにとってあれはもう過ぎたことであり、恩は十分返した。
それ以上踏み込むと国際問題になりかねないことも理解している。己が頂点に立つ者だからこそ、簡単に動いてはいけないのだ。
ふと、ユーリは瓶を元の場所に置いて振り返り、ミロウの肩にポンと手を置いた。
「すまなかったね、うちの魔導士達が。海王国からの褒賞については了承した」
ユーリの穏やかな声にミロウはようやく頭を静かに上げて、大きく息を吐いた。
「今までで一番危険な商売でしたわ……これあと数回続くと思うと何度死ねばええんかわからんで」
「安心しろ、手足がもげても作ってくれる弟子がいるし、これだけ人魚の鱗が手に入ったから、もげた手足が無事ならくっつけてやれるさ」
「もげるの、手足だけですか? ホンマですか? 次、急に頭吹っ飛ばされるとか勘弁してくださいよ?」
珍しく必死な形相のミロウに、ユーリはハッハッハッと軽快に笑う。
それからふわりと踵を返し、後ろに控えていたクロとシロに「あとは頼んだ」と告げるとユーリはその場から去っていった。
ようやく周囲が動き出す。
海王国の褒賞に未だ納得いかないもの、納得いかないが鱗は欲しいと願うもの、他の見舞い品について皮算用する者など様々なざわめきがある中で、ふと、ミロウが自分の足元にモノが落ちている事に気が付いた。
静かに、壊れぬようにそれを拾うと、それは淡いオレンジ色の花びらで。
一瞬、ふともう一つ噂になっていた事が頭をよぎり、慌てて顔をあげるとそこにはもうユーリの姿はなかったけれど。
「……なんや……天竜族の涙は花になるんか」
呟いたと同時に、指先の花びらは空気に溶けるように消えた。
2023/12/14 執筆了
ユーリの裏設定、天竜族との間柄、国同士の諍い、他の七星の大魔導士等、めちゃくちゃ考えていましたが短編小説にするという気負いだけで頑張っていたので、色々端折りましたが勘弁してください。
お読みいただきありがとうございました。