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………曰く、笑顔というのは本来の用途は威嚇である。
吹き出る冷や汗と動悸が高鳴る九郎太は、親しみのつもりでニヤニヤと笑うその老いた男を前に、そのいつかの漫画で見た雑学を思い出していた。
「なんで………」
「入るぞぉ」
「あ…………ッ」
その男はずけずけと、九郎太が静止しようとするのを押しのけて、彼の部屋に我が物顔で上がり込む。
何もないにしても、パーソナルスペースを外敵に侵されるという人間の本能的な恐怖は九郎太の心を酷く締め上げた。
そこにいるのは、九郎太からすればいわば縄張りに侵入してきた天敵。
「狭い部屋だなぁ?何もない上に汚い、情けない。お前みたいなヤツはこの程度って事だ!だははは!」
部屋を見回し、バカにするように吐き捨て大声で嗤う。
それが相手の心を傷つける事だという事に、その男は気づかない。親しい間柄での軽口だと思っているのだ。
無意識でやっているのだ…………そして九郎太は、生まれてからずっとそうやって傷つけられてきた。
この男に。
「そうだそうだ、この部屋売れよお前」
「え…………?」
「え?だと?それは何のえ?だ?お前」
途端、男の口調が攻撃意思を含んだ物になる。
九郎太の精神に強いマイナスの作用が働く。
この男は、自分が見下している相手に逆らわれる事を極端に嫌がる。たとえそれが、身勝手かつ相手を無視した行動であったとしてもだ。
「あ…………う…………」
「チッ…………なんでそんななんだ?お前、言いたい事があんなら…………」
すうっ、慣れた手付きで男は手をあげた。狙うは………壁だ。
「はっきり言わんかァッ!!!!!!!」
バガァン!!!壁に手を叩きつける。
ストレス発散と威嚇を込めて放たれたそれは、いわば調教師が動物に対して言う事を聞かせる為のそれと同じ。
ただ違うのはそれを同じ人間に、そして無自覚にやっている事。
「う………あ………ああ…………!!」
脳に刻まれた経験が呼び覚まされる。
また殴られる。今度こそ殺される。謝れ。土下座しろ。黙って従え。
全身の細胞が泣き叫ぶ中、ただ一つだけ。
「おら返事はぁ!!」
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああーーーーーーっっっ!!!!!!」
「うわっ!?」
幸運だったのは、つい先程まで聞いていた音楽。
その音楽の中で蘇った、かつて過ごした「彼女達」との思い出が、九郎太の心が完全に沈むのを抑えた。
そして抑圧と恐怖を叫びとして跳ね返し、至近距離からの雷鳴のような大声は男を怯ませる。
やつが怯んだ、今だ。と、「彼女達」が言った気がした。
「…………ッ!!」
「お、おい待て!!」
九郎太は肥えた身体で風のように駆けた。もう一つの幸運は、九郎太がドアの側にいた事。
突然の大声に何事かと住人達が顔を出し、後ろであの男が叫んでいたがどうでもよかった。兎に角この場を離れろ。そう自分に言い聞かせて九郎太は兎に角走る。
手段は健常とは言い難かったが、状況が状況だ。これぐらい強引な手段でなければ助からない。
(なんでっ………なんでバレた!?あいつに、完璧な逃亡だったのに………!?)
焦りと恐怖と混乱の中、火事場の馬鹿力というのはこういうものかと、風を切るように走る自分に感じたりもした。
火事場の馬鹿力………生命危機に対し、リミッターが外れた状態。九郎太の本能はその男と対峙する事を生命危機だと感じているのだ。それだけの事をされてきたから。
(兎に角逃げなきゃ…………運はいい、財布も携帯も持ってきた!鍵もある!適当にやり過ごして、深夜か早朝に住民票とかを回収しに戻る!)
何より悲劇と言えるのは、そぬひ生命危機すら感じさせ、九郎太に恐怖と抑圧を叩き込んできた敵が…………実の肉親という事だ。
(それまでは…………そうだ、ネットカフェ!ネットカフェがいい!あそこに隠れよう!そうだ、警察にも通報するのもいい!親だって言う不審者がいる事にすれば…………)
トップギアの脳細胞に考えを巡らせる九郎太だが、駅を目指し走る道中通りかかった高台の公園。
無我夢中で逃げたが故に迷い込んだそこで、九郎太の前に立ち塞がる者が現れた。
「逃がすと思うかよォーオイ」
「はい……………!?」
現れたのは、またしても男である。
春先に着るには熱いであろうロングコートに、深く被った帽子。パンチパーマにグラサンという、在りし日の時代に置き去りにした、日本が今より豊かでありかつリベラルが流行る前の「刑事」を思わせる男が、そこにいた。
「あ、あの誰です…………通してください」
「通すワケねーだろこの野郎、親不孝者のヤクチーゲーム廃人」
グラサン男がわざとらしくタバコに火をつけ、九郎太はこいつが無関係な第三者ではない事を悟った。
こいつは「敵」だ、父親サイドの人間だと。
「…………どこまで知ってるんです」
「探偵をナメてもらっちゃ困るね、お前さんの事はとっくに調査済みさ」
ふーっ、と白煙が宙を舞う。それは呆れ果てたため息にも見えたし、グラサン男が九郎太に向ける感情が侮蔑である事も見て取れた。
「オンラインゲーム、SEOの日本サーバーのバトルチャンプ………有名人だったんだな、あんた」
グラサン男の言う通り、九郎太は確かにSEOのプレイヤーだった。が、ただのプレイヤーではない。
ゲーム内の華の一つである対人戦闘。その、日本サーバーにおいて開催された最強決定戦において優勝を果たし、日本サーバーにおけるチャンピオンとしてその名を轟かせた存在だった。
「だが所詮は絵空事の中の話………今の自分を直視しろ!その醜くブクブク太った身体!親から逃げ回る情けない姿が今のお前だ!それをいつまでも過去の栄光にしがみついて………皆必死に生きているのに、恥ずかしいと思わないのか!」
「は、はい………?」
「その目はなんだ!その顔は!その涙はなんだ!?悔しいと思うなら、なぜそんな情けない様を晒す!?」
「別に泣いては無いんですが………」
「口答えをするな!」
「もう滅茶苦茶だ!せめて会話を成立させてくれ!?」
まるで三流の物書き気取りが書いたかのような、経脈もない説教。そして会話の成立しない状況に対して九郎太が取れる対応は、やはりギャグ漫画のようなツッコミである。
が、もっと他に問わねばならない事がある。それは。
「というか………あなた何者です!?何故俺の事を知っている!?」
このグラサン男が何者かという事。探偵というが、自らの素性を名乗らない以上、読者諸君からしても九郎太からしても単なる不審者でしかない。
「おっと、申し遅れたな………」
そう言うとグラサン男は、おもむろに懐から取り出したタバコに火をつけ、ふうと副流煙を九郎太に対して吹きかける。
ハードボイルドを気取っているようだが、コンプライアンス以前に人として最低な行いだ。
「俺は人情太郎………探偵さ。ある人物に依頼されて、無責任なバカ息子を連れ戻しにきた」
「案の定、って事かよぉ」
ぶっちゃけ全て察する事ができたが、これで九郎太はこのふざけた出来事の全てが、眼前のエセハードボイルド探偵・人情太郎の仕業だという事に気づいた。
こいつが、折角自分の人生を歩み始めた九郎太に最悪のサプライズを用意した。最も嫌う人間に、自身の逃亡先を突き止めて伝えるという最低のサプライズを。
「九郎太ァ!ぜぇっ………ぜぇっ………!」
「ひ…………っ!」
人情太郎の足止めを食らっている隙に、その最も嫌う人間が………九郎太の父親が息を切らしながら追いついてきた。
前門の人情太郎、後門の父親という挟み打ちにあった九郎太。逃げ場は無くなってしまった。
「お前さんは知らんだろうが………あんたのオヤジさん、もうすぐ死ぬぞ」
「はい………?」
「ハァ………その様子じゃ本当に何も知らないんだな?ガンだよ、肝臓ガン」
父親がガンだというのは初耳であったが、小さい頃から説教の時すら酒を飲んで怒鳴り散らすようなアルコール好きだった事を知る九郎太は、いつかそうなるとは思っていた。
「お前さん………最後の最後に、親に恩返ししようって考えには及ばねぇのかい?」
「恩返し………?」
「産んでくれた親だろう?恩返ししない理由がどこにあるんだ?」
ああ、そういう事かと九郎太は察した。つまりこの父親は自分が肝臓ガンで先が長くないから、介護させて看取ってもらう為に九郎太を連れ戻そうとしているのだ。
「…………ああ、そういう事か」
これに対し、九郎太が下す答えは最初から決まっていた。こんな事もいつかは来るだろうと思っていたから。
答えは。
「……………誰が帰るかァ!!」
「な………ッ!」
九郎太が声を荒げ、父親は思わず驚く。人情太郎は職業柄慣れているのか、微動だにせず九郎太をじっと睨む。
死に目で側にいて欲しい親に対してNOを突きつける。なんて人でなしだと思うだろうが、九郎太にはそれをするだけの権利がある。
「散々俺を傷つけて、人生を滅茶苦茶にした奴の死に目の面倒なんざ、誰が見るか…………!」
「滅茶苦茶にした………?」
「探偵さん、知らないだろうから言いますよ………こいつは、父親ですらない最低の男なんです」
そう、九郎太は毒親育ち。親になる資格のない人間に育てられ、歪んだまま大人にならざるを得なかった子供なのだ。
「いつもそうさ………俺が苦しむ時は、必ずお前らが居た!家でも!学校でも!社会に出てもッ!!」
九郎太の人生の重要な局面では、いつも親が邪魔をしてきたものだった。
人生の基盤となる幼少期は「男が泣くな!」と殴られて育った。
絵を描いたり人形遊びが好きな内向的な趣味を「それでも男か!」と否定された。
いじめられた中高時代は「いじめられる方にも原因があるんだぞ!」と被害者であるハズの九郎太を責めた。
大学進学を「お前はバカだから無理だ」と諦めさせ、「手に職をつけさせてやる」と無理矢理非正規雇用による介護の仕事に就職させた。
そんなこんなが故にメンタルを病んで薬頼りになった時も「自分の何がいけないか紙に書いてまとめろ」とチラシの裏とペンを投げつけた。
「覚えてるか?お前はそんな事をしてきたんだ!苦しかったんだッ!!そのせいで、今でも夢に見てうなされる!3歳の足を掴んで2階から吊り下げた時も!言う事聞かないなら包丁突きつけて脅した事も!はっきりと!!」
とまあ、代表例をあげてもこれだけ、子を育み育てるという行為において、デッドボール・レッドカードもいい所の所業を九郎太にしてきたのだ。一方で姉と妹に対しては可愛がり、愛情を注いでいたというからたちが悪い。
ようやく九郎太が「毒親」という概念を知った時には何もかもが遅く、精神をズタボロにされ親のラジコンの介護要員が一人出来上がっていた。
「いつもそうさ!皆皆俺の敵!どれだけ苦しもうと、助けてと叫んでも!お前が悪いって事にすりゃあ解決だもんなあ!!」
逃げようにも、最悪な事に毒親達は認知症を患い倒れてしまい、九郎太は予定通り介護をする事に。
毒親は外面だけはよかったらしく、周囲は九郎太を「親に散々迷惑かけたくせに介護もしないのか」と同調圧力をかけて………自由を奪われた幼少期と青春は「親の期待を裏切って好き勝手している」という認識だったらしい………詰った。
たまにくる姉と妹は、九郎太に介護を押し付けて自分の人生を送っているくせに、九郎太のやる介護にあれこれ文句をつけてきた。
毒親達は、それまでしてきた事を忘れてニタニタ笑いながら糞尿を垂れ流し、時折思い出したように九郎太を殴って笑っていた。
毒親や姉妹達は、九郎太を悪者にする事で「|苦労もあるけど頑張る温かい家族」をやっていたのだ。
「俺の心を守ってくれたのはお前らじゃなかった!あの日サイバーエデンで出会った皆だった!!皆がいたからギリギリの所で踏み留まれた!!それを………それすらも!お前らはァッ!!」
そんな九郎太の心の拠り所が、チャンプに上り詰めるほどのめり込んだSEO。
「彼女達」もそうだが、親身になって相談に乗ってくれる仲間達がいたから、九郎太はどれだけ辛くとも踏みとどまる事が出来たのだ。
「何が合格祝いだ!?何が家族旅行だァ!?俺がいつまでもお前らのラジコンだと思ったら大間違いだからなぁ!?」
そして家族は…………九郎太に対し、妹の高校合格祝いに海外旅行に行くために、SEOのアカウントを売るように詰めてきた。
「ゲームなんかしないでちゃんとしろ、その為のいい機会だと思え」と吐き捨てられた瞬間、九郎太の中で最後の最後に持ちこたえていた線が切れた。
そこからの行動は素早く、九郎太はゲーム内の友人たちからのアドバイスで集めていた虐待の物的証拠、そして上記の発言を録音した物を武器に、家族に対して訴訟を起こした。
子供が親を基礎するという日本では厳しい戦いになった。だが九郎太はやり遂げた。示談を飲んでの和解という形であるが、半径5キロ県内の接近禁止という条件を飲ませ、九郎太は最悪の家族達から離れる事が出来たのだ。
「つーかあんたッ!裁判所が近づくなつってたのに何来てるんだよ!?警察に通報されたいの………」
「つべこべほざいてんじゃねぇ!!!!」
バキィッッ!!と、怒りを吐き散らしている最中、九郎太の顔面に鉄の拳が叩き込まれた。言うまでもなく人情太郎。
どんな鍛え方をしているかは知らないが、人情太郎の放った一撃は九郎太の身体を吹っ飛ばし、公園の遊具に激突させた。
「がは…………ひ…………!?」
頭を強打し、鼻が折れていた。強烈な痛みと口と鼻の奥に広がる鉄の風味。ボタボタと落ちる生暖かい血。
困惑と共に揺らぐ視界の先で九郎太が見たのは、ボキボキと拳を鳴らしながら迫る人情太郎。
「大の男が…………そんな事いつまでこだわってやがる?」
「は…………?」
「親子だろうが、そんぐらい水に流そうって思えねえのか?」
「は…………!?」
困惑はすぐに混乱へと変わった。自称であるにしても探偵という、司法に近い場所で仕事をしている人間とは思えない事を人情太郎は言ったからだ。
「お前は知らねえだろうが………ほれ」
「あ………」
見れば、父親は一枚の紙のような物を懐から出し、じっとこちらに見せてきた。
九郎太はそれに対して見覚えがあった。何故なら、そのハガキほどのサイズのそれに写っていたのは、他ならぬ過去の自分と、当時の家族。
家族写真。それが、父親の懐から出てきた。
「親父さんはな、いつも家族写真を持ち歩いていた………そりゃあ、お前さんからしたら殴られただの蹴られただのの恨みはあるだろうがな、親父さんは家族を想っていたんだよ」
だから、何だというのだ。
それで幼少からの遊びの延長線でやられた暴力が許されるのか。
「お前に厳しくしたのも、この荒波のような世界で生きていくために、お前さんのためを思っていたからじゃないのか!?違うか!?ゲームなんぞに依存する大人になってほくないからじゃねえのか!?」
だから、何だと言うのだ。
それで夢も将来も滅茶苦茶にして、生き甲斐すら奪う事が許されるのか。
それで、それまでの事を無条件で許さなくてはならないのか。司法の決定である接近禁止すら覆せるのか。
考えた果てに九郎太が選んだのは。
(……………ああ、そうか。どうせおれがわるいのか)
思考の放棄であった。
それまでも、法や道理よりも親子の絆だとか、情だとかが優位に立つ事は何度もあった。養育費を払って世話を見てもらったのだから虐待を許せと言われたのも、ぶっちゃけこれが初めてではない。
(はいはい、おれがわるい、おれがわるい)
だったら、何も考えない方がマシだと。脳死して感情を捨てた人形になった方が楽だ。
あの日、一人家族旅行に置いていかれた時に言われた「我慢しろ!」の言葉の通り、自分が我慢すれば何もかも上手くいくのだと、九郎太は思考を急速に鈍化させてゆく。
長年の虐待の末に生まれた自己防衛能力の一つである。
「立てよバカ息子、てめえが自分の殻に閉じこもろうと、殻ごと引きずって連れて行く」
誰も助けてくれないなら、心を捨てればいい。
急激に鈍化した思考の中、九郎太は最後の希望すら捨てようとした……………。