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ようやく戦いが終わった。ようやく逃げ切った。
日本という国においてその行為は、あらゆるものを敵に回し、その事実を隠して孤独な戦いを続けなければならない事だ。
だが、男はやり遂げた。
愛玩されて育った妹から「親に対する思いやりがない」と言われようと、どこからか嗅ぎつけた第三者に「親のありがたみがわかるようになるよ」と言われようと、男はやり遂げた。
ただし、ずっと一人で戦っていたわけではない。男も人間だ、孤独のままでは潰れてしまう。
彼の側にも、かつてSNSで回ってきたという生きづらさを抱えた女達のように支えになってくれる理解ある彼くんのような存在はいた。
もっとも「彼女達」は、最新のAIによって生身の人間と変わらぬ肌触りをしていただけで、実在の人物ではなかった。それでも、男にとってはそれが自分の心の支えだった。
さあ、今日も「彼女達」に会いに行こう。この戦いを終えた祝杯を上げよう。そう思い、新しい母屋にて男は、VRヘッドギアを被る。
そして……………。
『SEOは終了しました』
次の瞬間、男は経年劣化で煎餅のようになった布団から飛び起きた。夢の中よりも肥えた腹に、じっとりと冷や汗をかきながら。
「まただ…………はあ」
精神的に疲れている時は決まって悪夢を見る。その悪夢というのは、生き甲斐を失ったあの日の事。
どう足掻こうと「彼女達」はもう帰ってこない。その現実に打ちのめされ、男はうずくまり泣く。
安物の集合住宅の窓から漏れる朝日は、そんな男を皮肉るようにサンサンと輝いていた。
***
無駄な事は無くして効率化する。自身に危害を加える相手からは逃げる。物事において全ての生命体はそうなるように出来ている。
例えば、オタマジャクシはカエルになる過程で邪魔な尻尾は無くなるし、女王蟻は必要の無くなった羽を落とす。
馬は肉食獣から逃げるために足が早くなり、ツバメは餌と環境を求めて渡りを行う。
しかし、地球で最も進化したハズの知的生命体ホモ・サピエンスこと人間はそれをしなくなった。
逃げ場所を作り効率化する知性を持ちながらそれを使う事を「恥」という別の知性で塗りつぶし、あえて苦しみに身を置き生命危機であふれるドーパミンに酔う事を「美徳」とした。
故に、新型ウイルスと不景気に見舞われようと、娯楽を削り金銭を削り、自ら死に急ぐ事しかしなかった。国を動かす立場がそんな「美徳中毒」だったから。
それが…………この日本という島国である。
「なああ!お前よお!お前お前お前よぉ!」
「は、はいっ」
始業時間30分前に職場の工場に来て、一人掃除をしていた冴えない肥満体型の男。
それを驚かすように始業時間25分前に来たツーブロックの髪型のゴリラのような男が怒鳴り散らしている。本人からするとそれは激励らしいが、相手を萎縮させる事にしかなっていない。
「なああ!俺が到着してるのに掃除終わってないとか本当お前はよなあ!!教育教育教育ゥー!!」
「はい………すいません」
断っておくが始業時間30分前に来ての掃除を命じたのは、他でもないこのゴリラ男である。
それで自分は25分前というどう考えても終わっていない時間に出社してから、掃除が終わっていないと怒鳴り散らしているのだ。
「始業時間まで終わらせておけよ夜露死苦ゥ!!」
「…………はい」
10分怒鳴り散らした後、そのゴリラ男は工場から出ていった。おそらくタバコでも吸いにいったのだろう。
男は呆然とした後、肩を落としたまま床をモップで拭く。残り時間は15分、早く終わらせないととやっていると、再びドアが開いた。
「………あっ、またか。おはよう」
「あっ、野上さん」
痩せ型にメガネをかけた短髪の、別の男が入ってきた。男の先輩である「野上」という人物であり、まあまあ社交的だが、彼もパワハラに苦しんでいる人物である事には変わりがない。
「その調子じゃまーたあのゴリラに怒鳴られたな」
「あ………はい」
「掃除なんて適当にやりゃいいんだよ、適当に。そうだ、部屋の半分は俺がやるよ」
「あ………ありがとうございます」
「ったく、あいつが支店長になってから何もかも滅茶苦茶だよ」
ため息をつき、野上はさっさと部屋を箒で掃きはじめる。彼の掃除はいつも適当なのだが、今まであのゴリラ支店長…………「伊佐山」にバレた事はない。
所詮、親が本社の重役というだけで店を任された、意識が高いだけで後はヤンキーだった学生時代から何も成長していない、何もかも上辺だけの男という事だ。
「…………ふぅ」
今日もまたつまらない一日が始まる。それを予感させるツーブロック・ゴリラ・エンカウントで始まる朝を前に、この物語の主人公たるこの肥満体の男は、深いため息をついた。
***
「泉九郎太」。
その、ペンネームのようなふざけた本名を持つ彼の人生はというと、案の定明るいものではないのである。
それは、低賃金非正規労働者という肩書と、肥満体の身体にブサイクな顔。そして三十路な上に童貞という現状が、それを物語っている。
「ふー…………」
今日も彼は、重い身体とうだる気分を抑えて、一日自動車部品を作る流れ作業をした。
立ち尽くすこと12時間。そして迎えた退勤時間。
運動不足と加齢が原因の疲労感を感じながら、よく眠れると噂のドリンクを飲みながら、工場の敷地を区切る門を目指す。辺りを見回すと見えるのは、自分と同じ非正規労働者。
精神に病を患っている、生まれつきの障害、学歴や犯罪歴等理由は様々なだが、ここにいるのは皆九郎太と同じ、社会から粗末に扱われる底辺達だ。
長時間の重労働の上に給料は安く、セクハラパワハラモラハラは当然のように横行。おまけに会社は社長一族による一族経営と絵に書いたようなブラック企業であるが、彼らはこの仕事にしがみつくしかない。そして九郎太のような存在は、この時代の日本では珍しくない。
それこそ、国家の運営が危うくなる程増え続けており、また彼ら自身も肉体的にも精神的にも疲弊しきっていた。しかし、彼等は救われない。その理由は単純明快。
『ブルーカラー職はねぇ!人間じゃないんですよぉ!!』
「うおっ!?」
キモいから。ただ、それだけだ。残酷なようだが、少なくともこの国の世間においてはそうらしい。
『分かってますかぁ?!ブルーカラー職は安い床屋のスポーツ刈りにし○むらでお母さんが買ってきたようなダサい服を着て!まるでプリ○ンブレイクように気だるそうにトレイを持って食堂を歩き!女子の気分を害している!そんな事が許されていいのか!?』
『よくなーい!』
『ブルーカラー職は街から出ていけ!』
工場の前に陣取って、九郎太達に向けて拡声器で叫ぶ中年女性の一団。工場の近所に女子校がある事から「底辺のキモいおじさん達がが女子を襲うかも知れない!」と言って集まってきた彼女ら「キモいおじさんから女子を守る回」という市民団体だ。
「まーたバカやってるよ………」
最初こそ一応の注意喚起が中心だった彼女らだが、今や拡声器から吐き出されるのはこのような排除が目的のヘイトスピーチである。
しかし、国からすれば市に許可を得たデモ活動であり、世間からしても「九郎太たちから少女たちを守る正義の活動」と認識されており、彼等の味方はネット上にしかいない。
「………帰ろう」
だが、石の上にも三年とはよく言ったもので、いつしか九郎太も他の同僚達も連中の罵詈雑言に慣れきってしまい、今日のように無視して帰るのが日常となっていた。
ふうとため息を吐き、九郎太は肩を落として帰路につく。過労と節々の痛みを抱えた身体に、夜風と罵声は冷たく染みた。
***
帰りの電車に揺られながら九郎太は携帯電話を開く。
この外見の例に漏れずオタク趣味を持ち、それを糧に日々を生きている九郎太の最近の楽しみは、帰りの電車でアマチュアがネットに放流した創作物を見ること。
この日は小説を読む事にした。
彼の好みは、今の流行りもそうだが彼の世代ともズレるのだが、主に90〜2000年代の平成時代に流行ったモノ。
小学生時代にネットで見た昔の深夜アニメがその年代の作品であり、それが理由で九郎太は平成の魅力にどっぷりハマッていた。
「これなんか良さそうだな、うん」
それは、九郎太がご贔屓にしている投稿サイトのユーザーたちもそうらしい。ランキングを見ていても昔のライトノベルのようなラブコメ、ファンタジーが中心となっている。
九郎太からすれば、見たいもの好きなものが人気で楽に手に取れるありがたい状況であるのだが、そうした状況は良いものとしては受け入れられないのが世の常。
「あっ」
誤タップ。次のページをめくるよう画面をタップしたのだが、それで誤ってSNSを開いてしまった。何でそうなるんだと思うだろうが、とにかく開いてしまったのだ。そして、不幸はまたも九郎太を襲う。
「………げー」
そこに映っていたのは、偶然にも今読もうとしていたネット小説。その、文庫本化の広告ツイート……………そしてそこについた、いわゆる「クソリプ」である。
ある人気漫画の台詞を改変し、漫画の悪役に「しつこい、こんなものを好むのは負け犬だけだ」「人気になりたければ少年漫画のように熱いモノを書けばいい」「そうしないお前らは異常者の集まりだ」と言わせていた。
九郎太の好きな、いわゆる「キモ・オタク」向けの作品というのは昔から意識の高い人達から軽蔑されてきた。該当作品が話題になる度に繰り返されてきた事だが、近年それは加速を見せている。リプ欄にも「それな!ほんとそれな!」というゴマを刷るようなツイートが続くが、好きなものを自分を含めて罵倒された九郎太がいい気などするワケがない。
「嫌なもん見ちゃったなァ………」
「そんなに嫌ならその少年漫画だけ読んでろ」とでも言いたかったが、言った所で馬鹿にする事だけが目的の相手には意味がない。九郎太は黙って、そのクソリプの主を通報しブロックした。
嫌なものを見て元のネット小説もすっかり読む気も失せてしまった九郎太は、ふと電車の窓を見る。外が真っ暗な事もあり、そこに映っていたのは自らの顔。
腫れぼったい瞼に脂肪のついた顔、天然パーマにメガネのデブ。醜い、あまりに醜い。それでいてオタク趣味な事もあれば、まあ「キモい」の一言ぐらい飛んでくるだろう。だが。
(………キモくて悪いかよ………)
罵倒される当事者からすれば、容姿という生まれ持って変えられないものを理由に侮蔑され、辱めを受け続けるなどたまったものではない。
少なくとも九郎太自身は、善良な豚顔の一般市民を名乗れるぐらいには、マナーや法を守り他人を極力労る人生を歩んできた。
(………キモいなら、一生惨めでいなきゃならんのか?妄想の中でも癒やされちゃいけないのか………?)
それでも、容姿は消えぬ十字架としてその醜い容姿は、九郎太の人生につきまとい続けた。
就職、いじめ、家庭内差別。挙句の果てが、好きな作品で癒やされようとしても後ろ指を指されるこの社会。
そんな目に逢っているのが、九郎太一人でない事は彼自身知っていた。が、だからといって励ましてくれる友や慰めてくれる恋人が出てくるわけではない。そして、九郎太が傷ついた事や苦しんでいる事を訴えた所で、世間からは嗤われるか「キモッ」と罵倒されるだけだ。
「………………ッッ!!?」
そう考えた途端、九郎太の気持ちはひどく沈む。そして昼に食べた焼きそばが胃袋から戻ってこようとした所で、九郎太は意識を取り戻した。
まずい発作だ。と、九郎太は急いで鞄の奥から薬を取り出し、口に押し込む。
「フーッ…………フーッ…………フーッ…………」
こんな人生だ、薬の世話にもなる。水を飲む余裕もないのでバリバリと錠剤を噛み砕いた。苦かったが、電車内で吐くよりはずっとマシだ。
「ねえ見てよアレ……ヤクチーだよね」
「マジキモいわ、ヤクチー」
そして、社会の底辺にこのような精神薬の世話になる者が増えた結果、それは新しく嘲笑の対象になった。
学生がクスクスと九郎太を指さして言う「ヤクチー」というのは、薬とチー牛を組み合わせた罵倒であり、正常な価値観を持っていればそれが悪質な差別である事は解るだろうが、本邦においては単なる「ノリ」である。
「おい、ヤクチー」
「え………」
「てめえだよ、他に誰がいるんだよ」
びくっ、と九郎太が顔をあげると、金髪の高校生ぐらいのガタイのいい青年がこちらを睨みつけていた。地方にありがちな、粋がっているだけの不良モドキであるが、その体格差は遥か年上の九郎太を怯えさせる。
「女の子が怖がってるんで、隣の車両に行ってくれません?」
見れば、こちらをチラチラ見ている制服姿の女子高生が一人。彼女がけしかけたのだろう。
「あ、はい………」
「早くしろよ」
そんな青年に凄まれた九郎太に、断る選択肢などない。クスクスと笑う女子高生。そしてパチパチと響く拍手をバックに、九郎太は惨めさで満たされながら別の車両に移ってゆく。
九郎太は思った。自分は、社会規模で繰り広げられるヒーローごっこの悪役に過ぎないのだと。
そして幸せになれる事などなく、この先一生世界からいじめられ続けるのだと。




