第7話 乳白色の大地
「ハンナ」
暗闇の中を歩く背中が見える。
「ハンナ?」
遠ざかっていく。
手を伸ばしても、届かない。
前に進もうとしても、足が動かない。
ハンナが行ってしまう。
ハンナ。
ハンナ。
「ハンナ!」
体を大の字にして横になっている、ということに気づく。
続けて、いくつかの気づきがカイルの中にもたげる。
今、自分は目を覚ましたのだということ。
さっきまで見ていたハンナは夢だったこと。
現実のハンナは、無残な最期を迎えたこと。
しかし――
「――ここは、いったい?」
自分が、翼のある戦士に救われたらしいことは覚えている。
自分の体は彼に抱きかかえられた。
覚えているのは、その直後、感じたことのない揺れのようなものを感じたことだけだ。
カイルは上体を起こした。
体が重い。
かけられていたらしい柔らかな布がハラリと腰まで落ちる。
目に映る光景は、明らかに自分が訪れたことのない場所だった。
乳白色の大地、うっすらとかかった金色の靄、淡い色の実をみのらせた木々。
どことなく優し気な雰囲気を漂わせた風景だったが、純白の壁の建物はどれも崩れ、廃墟と形容せざるを得ない様相を呈していた。
「目が覚めたか」
声がしたほうに視線を移すと、あの人物だった。
白銀の甲冑は着込んでおらず、代わりに滑らかで光沢のある衣を纏っている。
彼はカイルの横に立つと、そのまま同じ方向を見る形で腰を下ろした。
「ここは天界だ。悪魔に滅ぼされて久しいが、かつては天使達が歌い、踊り、歓喜を体現していた」
そして、と彼は続けた。
「私はシャマリ。同胞を失ってなお生き恥を晒している天使だ」
彼――シャマリは寂しげな笑みを浮かべた。
「初めて天界を訪れた人間、君の名を聞いても?」
「……カイル」
「良い名だ」
さっきとは違う、穏やかな笑みだった。
「聞いてもらわねばならない話が多くあるが、その前に――」
シャマリは、カイルに何かを差し出した。
それは、拳大の、薄い空色をした果実らしきものだった。
「まずは、腹に何か入れたほうがよかろう」
カイルは黙ってそれを受け取った。
すぅ、と鼻で息を吸うと、なんともいえない甘い香りが伝わってくる。
歯を当てると、もちっとした感触の後で、口いっぱいに甘みが広がった。
がっつくように、カイルはそれを一気に平らげた。
シャマリは微笑んで、二つ目、三つ目を差し出し、カイルはそれらをすぐに飲み込んだ。
「ありがとう、ございます」
「かしこまらなくていい。きっと、私と君とは、これから同胞になるのだから」
シャマリはそう言うと、すっと立ち上がった。
「ここも落ち着いた良い場所だが、長話をするには向かないところだ。向こうに、薄緑の扉が見えるだろう?」
指さされた場所を見て、カイルは頷いた。
「身なりを整えたらあそこに来てくれ。君に合いそうな服は、そこに置いてあるから。それと、この地に相応しくないと思って、首の物は外させてもらったよ」
言われて、首に手をやる。
首輪が、なくなっていた。
そして見ると、シャマリが座っていたのとは逆側に、穏やかな青色の服が置かれていた。
手をつけてみると、まるで空に浮かぶ雲に触れているような優しい肌触りだった。
服は、あつらえたようにぴったりと体に合った。
カイルはシャマリが入っていった、薄緑の扉がある建物に向かい、その扉を開けた。
扉は純白で、いかにも重そうな石の質感だったが、押してみると力はほとんど要らなかった。
中は、カイルが寝泊まりしていた小屋の数倍は広く、外壁と同じ乳白色のテーブルとイスが数セットあった。
「かけてくれ」
シャマリが、カイルに着席を促す。
カイルはシャマリと向かい合う形で腰を下ろした。
「色々尋ねたいことはあろうが、まずは私の話を聞いてもらえないだろうか」
穏やかに、しかし反論の余地がない重々しさで、シャマリは言った。
カイルはただ、静かに、深く頷くしかなかった。
シャマリの金色の双眸を見る。
美しさの中に、何か、吸い込まれるような深さがあるような感じだった。
「それでは、話そう。私達天使の存在について、そして、なぜ悪魔が人間を奴隷とし、あの地を支配するに至ったか――」
少し目を伏せて、シャマリはゆっくりと語り始めた。
君達人間にとっては途方のない時間を遡ると、この世界には虚無だけがあった。
「虚無があった」とは妙な表現だと感じるかもしれないがな。
そこに、光気と瘴気が発生した。
光気が形を成すと、天使となり、天使は天界に住んだ。
瘴気が形を成すと、悪魔となり、悪魔は地獄に住んだ。
天使と悪魔は、互いを敵と認識し、善悪の決着をつけるべく永い永い闘争を始めた。
闘争は「いにしえのたたかい」と呼ばれた。
悠久とも思える時間が過ぎた。
やがて、ひとつの大きな、そして決定的な変化が訪れた。
一人の天使と一人の悪魔が、戦いの中で心を通わせたのだ。
「敵と味方で戦ってたのに、好きになったっていうのか?」
なんとも不思議なことだ。
だが、愛とはそういうものなのだろうな。
一人の天使――「開く者イフタハ」は、一人の悪魔「夜陰のライラー」と添い遂げ、天界でも地獄でもない地、境界地セファに落ち延びた。
「開く者イフタハ」は三至天と呼ばれる天使の統率者の一人であり、「夜陰のライラー」も三大悪と呼ばれる悪魔の大将の一角だった。
彼らが離脱することで、戦線は膠着した。