第5話 思考することすら
「さて、下賤な奴隷達よ」
フーシュラが濁った声で言葉を発する。
「そっちの……女の腹には、子供が宿っているのか?」
カイルの服を掴むハンナの体が、びくんと震える。
「あ……」
「宿っている。だから、逃げようとしたんだ」
声を発せないハンナに代わって、カイルが言葉を紡いだ。
本来は最大限に丁寧な言葉を遣うべきだったのだろうが、ハンナを守るために立ち向かわなくてはという意志がそれを拒んだ。
カイルの言葉を聞いたフーシュラが、にたりと笑う。
「そうかそうか、やはりそうか。人間は必ず同じ答えを言う。子が出来ていると分かれば無事に居住区に返されると、そう思うのだよな」
顔をしかめるカイルを見て、フーシュラがさらに口元を歪める。
「子が出来ているということは、いかに弄んでもよいということなのだぞ、人間よ」
ガシャッと音を鳴らして、取り囲む甲冑がにじりよる。
フーシュラもまた、馬の足をひとつ進めて、さらに口を次いだ。
「だが、逃亡を企てるような不届き者など、魔九公様の玩具としては相応しくないか。そこの女と、わが身かわいさにお前達を売ったという醜い奴隷は、遠出の労いとして我が配下達に与えるとしよう」
「私達を、売った――まさか、シグラ……?」
か細く声を漏らしたハンナに、フーシュラが大げさに首を振った。
「嘆かわしいことよな。同族の命を捧げる代わりに、自分だけは助けてほしいなどと……まったく、人間というのは醜い生き物よ。我ら悪魔と違って、平気で嘘をつく。身内を売る。恥ずかしいとは思わんのか」
「――ふざけるな!!」
カイルの中でくすぶっていた怒りが、口から噴いて出た。
「人間を蔑み、命を蔑ろにし、自由を踏みにじり続け、語る言葉がそれか。醜いのは貴様ら悪魔の方だ、屑め!」
フーシュラの顔から、笑みが失せた。
「泣いて許しを懇願するならまだしも、この偉大なる魔九公フーシュラ様に向かって暴言を吐くとは……お前、楽に死ねんぞ。やれ」
カイルの右頬に、強い衝撃が走った。
痛みよりも痺れが先に来る。
どうやら、槍の柄でしたたかに殴られたらしかった。
次いで、二度、三度と全身に打撃が降り注がれる。
「カイル! カイル!!」
遠ざかる意識の中で、カイルはハンナの絶叫を聞いた気がした――
――全身の痛み。
唸るように痛む頭。
突き抜けるような痺れ。
それでも取り戻した意識の中で、カイルは鉛のような瞼を持ち上げた。
慣れた砂埃と風のにおいの中に、嗅いだことのない異臭が混じっている。
うつろな視界に映っているのは、どうやら中央広場らしい。
磨き上げられた石畳を、カイルは少し高いところから見下ろしていた。
そして、そのカイルを、多くの人間達が見上げている。
ここは、あの舞台か。
「ようやくお目覚めかよ、ニンゲン」
声が聞こえると同時に、髪を掴まれて頭が持ち上げられる。
ぐっ、と声が漏れ、直後に下卑た笑い声が耳を撃つ。
どうやら自分は跪かされ、後ろ手に枷を嵌められているらしい。
身に纏っていたはずの服は脱がされ、腰布すらもなくなっている。
「お前のために、わざわざ奴隷共が集められたんだぜ。ありがたいなぁ?」
いかにも嬉しそうな声が、高い位置から降ってくる。
フーシュラの声ではなかった。
「せいぜい、こいつらが逃亡する気なんざ向こう十年は持たなくなるような絶叫を響かせてくれよ」
うつろな表情で、数百人はいようかという奴隷達が自分を見ている。
俺が叫ぼうが叫ぶまいが、彼らは逃げようとしたりなどしないだろう。
フッと笑ったカイルにいら立ち、悪魔がカイルの髪を強くつかみ、ほら、と横を向かせた。
首に痛みを感じながら、次の瞬間目に入ってきたものが、すべての感覚を忘れさせた。
「ハンナ――?」
そこにいたのは、確かにハンナだった。
木の板に四肢を打ち付けられ、何一つ纏っていない全裸体は血まみれでだらりとしている。
愛らしかった顔はあちこちが腫れあがり、見る影もない。
目に光はなく、既に息絶えているのは明らかだった。
彼女の全身にこびりついている黒いものが何であるかに気づいて、カイルは吐いた。
「ギャッハハハ、興奮したかよ、人間!」
「オラァ、もっとちゃんと見やがれってんだ!」
下を向いたカイルの頭が、また無理矢理前に向かされる。
口いっぱいに吐瀉物の異物感を残しながら、カイルはなおも視ることを強要させられた。
凌辱の限りを尽くされて命を落としたであろう人間は、ハンナだけではなかった。
ハンナの隣には、赤い髪の女性――シグラがいた。
「逃亡しようとした人間も、助かろうと密告した人間も、末路は一緒だってことだなぁ」
「お前達人間は、ただ俺達悪魔の奴隷として働いてりゃあいいんだ。そのことが、他の人間もあらためてよく分かったろうよ」
カイルが視線を動かすと、舞台の下、石畳に立つ人々が見えた。
皆、やはり、なんの感情もない表情をしている。
逃げようとした自分に怒るでもなく、同じ人間が殺されて悲しむでもなく、思考することそのものを止めてしまったのか。
やり場のない、哀しい激情がカイルの中に渦巻く。
「なぜ……」
「あぁ?」
「なぜ、ここまで虐げる? なぜ、ここまで痛めつける?」
絞るように声を出し、カイルは歯を食いしばった。
「人間だからだろ」
カイルの眼前に顔を出して、鼠頭の悪魔が甲高く言った。
「人間は悪魔の玩具、家畜、そうでなければただのゴミ。ずっと前からそうだし、これからも変わらねぇよ」
ニヤニヤ口元を歪めて、でもな、と鼠頭は続ける。
「そっちの女二人は、玩具としては中々よかったぜ? 赤毛の方は、一度挿れられたらすぐに狂ってなぁ。跨って腰振りまくって、そりゃもう笑えた、笑えた」
シグラがどんな顔をしていたか。
整った顔をしていたような気もするが、もう、分からなくなってしまった。
「黒毛の方は逆に、まるっきり人形よ。ずっとブツブツ、『帰る』『帰る』って言い続けててな。そんなに居住地に帰りたかったのかね。何か他の言葉を言わせようと何度か強めに殴ったら、あっさり死んじまったんだ。ほんと、人間ってのはヤワだよなぁ」
ハンナが、泣きながら、あの可憐な声で、何を呟いて死んでいったのか。
カイルの内側の激情がほとばしった。