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第4話 夜のとばり

 ハンナの声に目を覚まして、カイルはすぐに小屋から出た。

 腰布がずり落ちそうになり、慌てて結び直す。


「ハンナ」


 日中、ずっと顔を見ていたいと願っていた彼女が、目の前にいる。

 夢のようだったが、心なしか、ハンナの表情は暗かった。

 太陽は既に半分ほどが山の稜線を超え、いつもの配給時間よりも少し遅いような気がした。


「カイル、聞いて」


 こわばったハンナの顔を見てから、カイルは別のことに気づいた。

 ハンナが配給用の食缶をふたつ持っている。

 いつもは缶一つ分の食料しか持たされていないのに。


「今、私がいる屋敷に、悪魔の領主が来ているの。それで、従僕奴隷は全員、夜の相手をさせられるって」

「夜の相手、って……それじゃあ、君も?」

「私、悪魔と体を重ねるなんて……もしも子供が出来てしまったら、その瘴気ミアズマに耐え切れずに死んでしまうわ」


 ハンナの大きな目に、涙が溜まっていく。

 混濁する感情の中で、カイルは懸命に言葉を探した。


「一度の行為で、子供が出来るとは限らない。運が良ければ……」


 なんの慰めにもなっていないことを自覚しながら、それでもカイルは言葉を次いだ。


「運が良ければ、何事もなく過ぎ去るかもしれない」

「鼠頭の悪魔は繁殖力が高いんだって。だから――ううん、そんなことより、私……」


 苦しそうに、しかし明確な決意めいた感情を滲ませて、ハンナがカイルをじっと見る。


「カイル以外に体を委ねるなんて、耐えられない」


 胸から、そして全身に、痛みのような衝撃が走った気がした。

 言葉を見つけられず、カイルはハンナを抱き寄せた。

 夜のとばりが、ふたりの輪郭を重ねて融かしていく。


「逃げよう」


 カイルはハンナを抱きしめながら、朱色が消えかけた空を見て言った。


「逃げきれる保証なんてないけど、ただ待って死に近付くよりは……」

「実は」


 ハンナがカイルの体から離れ、食缶のひとつを開けた。

 そこに入っていたのは、驚くべきことに、服だった。


「シグラが協力してくれているの。この服も、彼女が用立ててくれた」


 広げてみると、それは確かに男性用の服で、往来を歩く悪魔達が着ていたような上等なものだった。


「彼女が、私達は北に逃げたと嘘をついてくれることになってる。だから――」

「俺達は、南に行けばいいんだな」


 カイルの言葉に、ハンナは深く静かに頷いた。

 カイルの頭に、一年ほど前に逃亡を試みてやむなく捕らえられた奴隷のことが思い浮かんだ。

 まだ居住区を出て間もなかった、カイルよりも年下の青年だった。

 行く当てもなく小屋を出て、警ら中の悪魔に見つかり、その場で斬り殺された。

 そして翌日、奴隷全体の責任だとされ、丸三日、食料の配給を断たれたのだ。


「――すぐに出よう」


 自分が逃げれば、他の奴隷達に迷惑が及ぶのは確実だ。

 それは分かっている。

 しかし、そのことよりも、ハンナが大事だった。

 罪悪感を塗りつぶしながら、カイルは生まれて初めて服を着て、靴を履いた。

 肌の感覚が、違和感でまみれた。


「何か、持っていく物は」

「あるはずないさ。何も与えられてないんだから」


 言いながら、カイルは暗くなり始めた空を見た。

 低い位置に曲刀のような月が青白く輝いている。


「ここは、街の北側だ。どうやって南に抜ける?」

「街の東側は、警備が手薄らしいの。シグラが教えてくれた」

「東側か……よし、行こう」


 二人は逸る気持ちを抑えながら、姿勢を時々低くして歩いていく。

 風の音に怯え、獣の遠吠えに身をこわばらせた。

 緊張感に喉を詰まらせて、いつしか、二人は互いに手をつないでいた。


「ハンナ、大丈夫か?」

「うん……平気……」


 ハンナは明らかに困憊していた。

 無理もない、とカイルは唇を噛む。

 日夜肉体を酷使しているカイルも、体中によどみを感じている。

 いつどうなるか分からない恐怖の中で、心優しいハンナが心身を疲れ果てさせるのは当然だった。


「……頑張ろう」


 他に言葉を見つけられず、カイルはそれだけ言った。

 なおも二人の足は南の空に向かって進んでいく。

 街の半分は過ぎただろうか、とカイルが視線を上げた、その時だった。


「止まれ~ぃ!!」


 遠方から声が響くと同時に、カイル達に向かって直線的な光が伸びた。

 光を放射する、魔石の道具だ。

 見つかった。


「カイル……!」

「大丈夫、大丈夫だ」


 カイルはハンナをかばうようにして、光に立ちはだかった。

 十騎ほどがふたりに向かって砂埃を上げて向かってくる。

 鉄の鎧を着こんだ鼠頭達がカイル達を囲んで槍を突きつける。

 しかし、彼らはそのまま槍の穂先を向けたまま動かない。

 身をこわばらせるカイルの耳に、チチチチ、と耳障りな笑い声が響いた。


「結構、結構」


 馬の上の肥えた体に、きらびやかな装飾が施されたマントをひるがえし、鼠頭が笑う。


「この立場になってからも逃亡奴隷狩りに興じられるとは、中々に趣深い催しであった。さすが、芸術家の歓待は一味違うといったところか」


 鼠頭の隣に、狐頭の女がくつわを並べた。


「ありがとうございます。今宵、街の東側を通って南に逃げようとする奴隷がいる、と確かな情報がありましたゆえ。聞くところによると、フーシュラ様は今の役職になられる前は逃亡奴隷狩りの名手であったとか」


 チチチ、と濁った笑い声をあげてフーシュラが頷く。


「その通りであるぞ、芸術家ラーヘールよ。逃亡奴隷というのは、捕らえた後こそが重要でな。その扱いに長けていたゆえ、私は魔九公に名を連ねるに至っているのだ」

「左様でございますか」


 狐頭の女悪魔が声を上げて笑う。

 カイルは、服の袖がハンナにぎゅっと掴まれたのを感じた。

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