第2話 たかが奴隷のために
「早かったわね」
屋敷の中、従僕奴隷達に割り当てられた一室に戻ったハンナを、聞き慣れた声が出迎えた。
美しい石壁が灯火を反射して白く、うすぼんやりとしている。
「シグラ」
「てっきり、例の彼と一晩過ごしてくるかと思ってたけど」
同室のシグラはくすくす笑い、赤い髪を揺らした。
「一晩でも外で過ごすなんて許されないわ。それに……私達、まだそういう関係じゃないもの」
「まだ、そんなこと言ってるの? いつ、往来の悪魔に襲われて黒濁を注がれるか分からないのよ。それならいっそ――」
「うん、分かってるわ。人の子を授かれば、一応命は保証されるっていうことは」
ハンナは言いながら目を伏せた。
「でも、保証されるのは子どもの命だけ。子どもは15歳になるまで居住区にいられるけど、母親は5年しかいられないし、父親は居住区に戻ることすら許されない」
「前から言っているように、考え方を変えなきゃ。悪魔の子を孕んで自分が死ぬのと、好きになった相手との子供を産んで彼とお別れするのと、どっちが優先すべきかなんて考えるまでもないでしょう」
ハンナは口元をきゅっと固くしながら、何も言わなかった。
シグラが腕を組みながら、ハンナをじっと見る。
「自分が死んじゃったら、元も子もないと思うんだけどね。ま、そうやって割り切れないところが、あんたのいいところか」
そう言って笑いながら、シグラはハンナの頭を優しく撫でた。
つられて、ハンナも弱々しく笑みを浮かべる。
「さ、そろそろ悪魔様方の晩餐が終わる頃ね。調理場に行って、片付けの手伝いに回らなくちゃ」
シグラがそう言った直後、二人の部屋の扉ががちゃりと開いた。
姿を見せたのは、この館の女悪魔に仕える、悪魔の女中長だった。
館の主と同じく、狐頭である。
「申し訳ありません、すぐに向かいます」
ハンナとシグラが反射的に同じ言葉を発し、同じタイミングで深く頭を下げる。
「いえ、先にすべきことがあります。ふたりとも、すぐに大広間に来なさい」
それだけ言って、女中長は去って行ってしまった。
二人は一瞬顔を見合わせたが、人間が遅れていい理由など何一つない。
手早く身なりを整えて、二人は駆け足で大広間に向かった。
既に集まっていた十数人の従僕奴隷に並んで、二人は姿勢を正す。
緊張と静寂の中、主が姿を見せた。
狐の顔は丁寧に化粧を施され、身に纏うドレスは見るからに滑らかだ。
「明日の夕、お客人を招くことになった」
主人の言葉を、従僕奴隷達はもちろん、悪魔の召使い達も押し黙って聞いている。
「客は、このヒータヘーヴ地方の領主フーシュラ様だ。都クムで我が絵画をご覧になり、たいへん気に入ったそうだ。一度会った上で、今後の創作活動への資金援助もしていただけることになった」
ラーヘールが自慢気に言った後、悪魔の女中も人間の従僕奴隷も盛大に拍手を送った。
狐頭の女悪魔は満足そうに笑う。
「魔九公の一翼にお目をかけていただくとは光栄なことだ。こちらとしても、盛大に歓待する必要がある。そこで――」
すっと笑みを止め、ラーヘールは横に伸びる髭を撫でた。
「従僕奴隷を全員、フーシュラ様の夜伽相手として提供する。聞くところによれば、先方は好色な好事家で、近頃は人間の女でお楽しみであるとのこと。間違いなく喜んでいただけるだろう」
ハンナは凍った笑顔で拍手をしながら、背筋の冷たさを感じていた。
いや、ハンナだけでなく、その場に立つ人間の全員が、同じものを感じていただろう。
「鼠頭の悪魔族は繁殖力が強いから、どの奴隷も駄目になるだろう。まぁ、後援を得るための投資だと思えば高くはない。あらかじめ、替えの奴隷の手配を進めておきなさい」
悪魔の女中達は、それぞれに頷いて応えた。
一方、人間の娘たちは、今にも泣かんばかりだった。
ハンナは薄暗い気持ちになりながら、頭の中は冷静だった。
これまで従僕奴隷に直接危害を加えたことのない女主人とはいえ、たかが奴隷のために庇護の情を見せるはずもない。
悪魔は、やはり悪魔なのだ。
「フーシュラ様に満足していただけるよう、明日の夕、奴隷達に沐浴を許し、召し物についてはよくよく質を吟じなさい」
以上、と言い捨てて狐頭の女芸術家は広間を出て行った。
女中の悪魔達は口々に話を始めたが、その話題はもっぱら、どんな料理をつくるか、どんな酒を供するか、自分たちはどの程度着飾るべきかといったことで、誰も人間の話はしない。
悪魔達の喧しさの中で、人間の娘たちは何も言わずに部屋を出て、それぞれの業務に戻った。
「ハンナ」
シグラだった。
厨房に向かう廊下の中で横に並び、小さく声を次ぐ。
「どうする?」
「どうするって……」
「覚悟を決めるしかないわよ。その領主に手籠めにされる前に例の彼の子を授かるか、もしくは……」
「もしくは?」
シグラが一拍置いて、辺りをはばかって声をさらに落とした。
「逃げるしかないわ」
声が飛び出そうになるのをぐっとこらえて、ハンナは驚愕を目だけで示した。
どうにか気を落ち着けて、唇を動かす。
「そんなの、うまくいくはずない」
「確かに、これまでに逃亡に成功した人はいないわ。でも、それは行き当たりばったりだったからよ。協力者がいれば、なんとかなるかもしれないでしょ」
さらに驚いて目を大きくしたハンナに、シグラがウインクをして見せた。
「私が、ふたりが北の森に逃げたのを見たって報告するわ。そしてあなたたちは南に向かう。なんとかなると思わない?」
「でも、嘘だってバレたら、シグラが……」
「私達、友達でしょ」
シグラがつくった笑顔を見て、ハンナは目頭が熱くなった。
それを見て、シグラが言葉を次ぐ。
「想い合う人がいるあなたには、幸せになってほしい。私の分までね。だから、明日の夕方の配給に行ったら、そのまま逃げて」
厨房が近付いて来て、どちらからともなく会話を止めた。
ハンナはシグラの方を見ないようにしながら食器洗いと厨房の清掃を手早く済ませ、一足早く部屋に戻った。
シグラはハンナが去っていくのを横目で見送ってから、誰にともなく呟いた。
「――ハンナ。私、まだ死にたくないの」