第16話 慈悲はないのか
「なんでもしますから、どうか命だけは!」
虎頭の悪魔は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら懇願した。
膝をつき、シャマリとカイルに剣を突き付けられているとはいえ、あまりにも情けない様子に、キトバですら顔をしかめた。
「私には恋人がいるんです、どうか慈悲を……」
カイルの剣を握る力が増した。
「ふざけるな!」
チリッ、と音を立てて剣に銀の火花が散る。
「それが、命を救われる権利になるっていうのか!」
これまで、たくさんの人間が不条理に命を奪われた。
ただ人間であるというだけで。
みんなに、大切な存在があったはずだ。
カイルが剣を振り上げると、シャマリがそれよりも早く、切っ先を悪魔に近づけた。
仕方なく、カイルは剣を下げる。
「偽りなく答えよ。お前はどこから来た」
「ク、クムです。ヒータヘーヴ地方の都」
「この街に来た目的はなんだ」
「領主フーシュラ様の指示で……何か変化があったらすぐにお伝えするようにと」
憎しみをぶつけるべき相手の名を聞き、カイルは感情を抑えるために相当な集中を求められた。
「フーシュラがこの街を気にする理由はなんだ」
「た、たぶん、この街で起きたことが他の領主にバレるとまずいから、もみ消したいんだと思います」
「なぜ、他の領主に知られることを恐れる」
確かに、とカイルも疑問を抱いた。
反抗勢力が生まれたといって、悪魔が結託して押し寄せてきてもおかしくない。
「フーシュラ様は魔九公の末席、序列第九位です。領地内で問題が発生すると、統率力がないとみなされて、間違いなくその座から転落します。かといって、フーシュラ様を引きずり降ろそうとした奴はみんな殺されてるから、誰も何も言えないし……」
「なぜ、斥候に過ぎないお前が、そんなに事情を知っているのだ」
シャマリがさらに切っ先を近付ける。
「み、みんながそう言っているからです! 嘘じゃありません!」
そこからもシャマリは問い続け、涙と鼻水を垂れ流す虎頭の悪魔から情報を聞き出していった。
この大地は地続きの大きな大陸で、九つの土地に分けられていること。
それぞれの土地は魔九公が治めていること。
誰もが強力な魔法の使い手であると言われており、特に序列第一位のシュフェト、第二位のハミヴァミ、第三位のギドゥオンが別格だと噂されていること。
「ギドゥオンって、もしかして『冒涜の鎖』の……?」
それまで黙っていたミゲットだったが、その部分にだけは反応を示した。
シャマリの表情も、険しくなった。
「――「戦士ギドゥオン」か。だが、シュフェト、ハミヴァミという名には覚えがないな。今、名前が出た悪魔達は、古くからいる悪魔……つまり、人間に近い見た目をしているのか?」
「え、いえ……俺も実際に見たわけじゃないですけど、それぞれ獅子頭、牛頭、そして狼頭の悪魔だって聞きました。というか、人間に近い見た目の悪魔なんて、いないと思うんですけど」
シャマリはさらに質問を重ねた。
現在、魔九公にはそれぞれ別の種類の悪魔が選ばれているが、それは決まりではないこと。
今いるヒータヘーヴはもっとも西に位置し、唯一、中央にあるシャルオーム地方に隣接していない辺境であること。
ヒータヘーヴの都クムは、地方都市ダラから南東に位置し、そこにフーシュラがいること。
他の地域や領主、悪魔の種類など、どうやら悪魔達の中では常識となっているらしいことは知ることが出来た。
しかし、シャマリがもっとも知りたかった地獄の悪魔については、虎頭の悪魔は何も知らない様子だった。
「三大悪の名前すら知らないというのか?」
「は、はい。三大悪というのも、初めて聞きました。ほ、本当です! あの、ご満足していただけたでしょうか」
「ふむ……」
シャマリが横目でカイルを見た。
自分が聞きたいことはもうない、ということなのだろう。
それを感じ取ったカイルは、即座に銀の焔を剣に伝わらせ、悪魔の首を一閃した。
たちまち悪魔は消え去り、身につけていた粗末な鎧と衣服だけが残った。
「なっ……」
シャマリが驚きの声と共にカイルを見る。
カイルは銀の火と剣を納めた。
「カイル」
シャマリがじっとカイルを見据える。
「なぜ殺した」
カイルは、その金色の双眸を真正面から受け止めて、ゆっくり口を開いた。
「悪魔だからだ」
それに、と言ってカイルは続けた。
「この下にはハンナが眠っている。悪魔の血で穢されるのは耐え難い。だから、銀の断罪図を使って消滅させた」
「慈悲はないのか」
シャマリが小さく、しかしはっきりと言葉を紡ぐ。
二人の間を砂塵が通り過ぎる。
「ない」
カイルとシャマリは黙って互いを見た。
しかし結局、シャマリはそのまま何も言わず、黙って剣を納めた。
「あ、あの」
意を決したように、キトバが言った。
「もう日が暮れます。よろしければ、僕が寝床にしている内のひとつで休んでいきませんか。干し肉もありますよ」
「あら、いいわね。私、人間……というか悪魔か。どちらにせよ、この地でどんなものが食べられているか興味があったの。ほら、カイルも行きましょ」
そう言って、ミゲットはカイルの背中を押してキトバの横を歩かせた。
歩く速度を緩め、ミゲットはシャマリに並ぶ。
「カイルの気持ちを考えなさいよ。この場所で悪魔相手に慈悲なんて無理よ」
「相手は明らかに戦意をなくしていた。いかに悪魔と言えど……」
「シャマリ」
ミゲットが、ぐっと視線を上げてシャマリを見る。
「あの日、私があのまま「破壊のルアゼル」に殺されていたとしたら、同じ言葉が言えた?」
「それは……」
口をつぐんだシャマリから、前を歩くカイルへとミゲットの視線が移る。
「永い時間が過ぎたとはいえ、みんなが殺された悲しみは、私の中にいまだにある。悪魔への憎しみも」
だから、とミゲットは言葉を次ぐ。
「私はカイルの復讐を肯定するわ。でも、この戦いの意味について、カイル自身が向き合わなければならない日は来ると思う。だって、これは私達天使にとって最後の戦いであると同時に、人間にとっては最初の戦いなんだもの」
第1章はここで終了です。




