第1話 人間として生まれれば
人間として生まれれば、一生、奴隷――――
そのことに違和感を持つ者など、誰もいない。
辺境の地ヒータヘーヴにあるダラの町に生まれたカイルもまた、それを受け入れ、最下級の奴隷として日々を過ごしていた。
身に宿る瘴気が弱く、魔法の素養がないために魔石奴隷にはなれない。
男として生まれた時点で、外見の美しさに関わらず、従僕奴隷にもなれない。
奴隷の身分として三つある内の、もっとも過酷な生活をせざるを得ない労働奴隷になることは、生まれ落ちた時点で運命づけられていた。
大規模なサトウキビ農場での作業は、日の出とともに始まり、日の入りで終わる。
休憩はほとんどなく、ただひたすら、悪魔の腹を肥やすための砂糖づくりに勤しむ。
「サボるんじゃねぇ、人間!」
鼠頭の悪魔の声が響いた。
カイルがさっと顔を上げると、離れた場所で誰かが悲鳴を上げた。
悲鳴と悲鳴の間に、鞭がしなって風を切る音が聞こえる。
「やめとけ……」
カイルの横で作業をする初老の男が力無く呟いた。
ほとんど唇を動かさないのは、無駄口だと見せないためか、その体力すら満足にないためか。
「その、握った拳を見咎められたら、お前も鞭打たれるぞ……」
無意識に表れていた怒りを自覚して、カイルは長く静かに息を吐いた。
「だが、何か、ヘマをしたわけじゃないだろうに――」
「滅多なことを言うな。悪魔様のご機嫌がすべてさ。それだけが法律だ……」
鞭の音と悲鳴は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「よぉし! 今日はここまでだ、クソども! とっと小屋に帰れ!」
耳をつんざく甲高い声で、鼠頭の悪魔が叫ぶ。
悪魔はみな、体は人間と同じだが、頭は何らかの動物そのものだ。
種類はなんであれ、カイルにはどれも歪に思えた。
だが、それを顔や口に出せば命にかかわる。
カイルは唯一身に纏う腰布を巻き直し、立ち上がった。
そして、さっきまで声が聞こえていた方に視線を送った。
繁るサトウキビに阻まれて、人影は見えない。
「激痛に苛まれて明日もこの農場へ来るのと、このまま絶望を抱いて死んでいくのと、どちらの方が救いになるのかねぇ……」
苦笑しながら足を引きずって去る初老の男の問いに、カイルは答えられなかった。
しかし、このままこうして突っ立っているわけにもいかず、カイルもまた農場を後にした。
街の北外れの農場を出て、舗装されていない道を裸足で進む。
帰る先は、雨風をまともにしのげない掘っ立て小屋だ。
唯一の救いは、同居者が既にみな命を落としていて、カイルが一人で眠りを貪ることが出来るということだった。
小屋の前に腰を下ろし、沈みかけた太陽を見ながら、鉄の首輪をそっと撫でる。
こんなもので縛られているがために、理不尽な暴力に怯え、死の恐怖に晒され続けなければならない。
そして誰もが、その現実を受け入れている。
言葉にならない憤懣が、カイルの胸の奥にはずっと在る。
「カイル」
可憐な声がして、カイルは顔を上げた。
黒髪を風に靡かせて、小柄な女性が立っていた。
優しげで、夜空の月の柔らかい光のような笑顔。
その首には、カイルとは違う青銅製の首輪がはめられ、その手には大きな金属製の缶を提げている。
「ハンナ。今週の食事配給当番は、君じゃなかったような……」
「シグラに代わってもらったの。従僕奴隷同士で回り方を変える分には、問題がないからって」
ハンナはカイルの隣に歩き寄り、同じ方向を向いて腰を下ろした。
「カイルのところが最後だから、私もちょっと休憩」
ハンナは食缶に手を入れ、いつもの歪な粉っぽいパンともうひとつ、整った形のパンも取り出してカイルに渡した。
受け取ると同時に、ふわっと甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「こっちのって……もしかして、果物が混ぜ込んであるのか。こんな貴重な物、どうして?」
「ご主人様に頂いたの。床に落ちたから、お前にやるって。でも、全然食べられるから、カイルと一緒に食べようと思って」
「あの狐頭の芸術家様なら、言いそうなことだな」
「ラーヘール様は悪魔の中では善良な方よ。女性だから、その……そういうことも求められないし」
ハンナが顔を赤らめ、カイルも思わず目を逸らした。
悪魔に買われた従僕奴隷は、ほとんどの場合、性的な奉仕を求められる。
「悪魔のアレは白じゃなく、黒なんだとよ」と奴隷仲間の一人が笑っていたのを思い出す。
「15歳で集団居住区を出て、もう2年か」
カイルが呟くと、ハンナは小さく頷いた。
「こうしていられるのは、奇跡だと思ってるわ。もしも悪魔に求められて、妊娠してしまったら……」
「体の中に瘴気が大量に発生して、母子ともに死ぬ……か」
このまま何事もなければいい。
そう思いながら、悪魔の移り気を思えば、明日にはどうなっているか分からないのも分かっている。
カイルは、パンを半分に割った。
「ほら、半分こしよう」
「ふふ、昔みたい」
小さなパンをさらに小さくして、二人は人目をはばかりながら口に放った。
口の中に、久方ぶりの甘みが広がっていく。
食べ物は朝以来、甘いものを口にするのは半年ぶりだ。
「また、髪の毛がくすんでる」
ハンナは小鳥のような声で笑った。
「せっかくきれいな銀色なのに、台無し」
「髪の色なんて、なんの意味もないだろ」
「そんなことないわ」
ハンナが口を尖らせる。
「私は、カイルの髪の色、好きよ」
言ってから、ハンナが顔を赤らめて首を振る。
「髪の色が、よ」
「ありがとう」
照れくさそうに頬を掻く幼馴染に、カイルは言葉を次ぐ。
「嬉しいよ」
カイルの言葉を聞いて、ハンナは満足そうに頷き、静かに立ち上がる。
「そろそろ戻らなくちゃ」
「あっという間だな」
カイルは、ハンナの横に立った。
そして、何も言わずにハンナを抱き寄せる。
ハンナは少し驚いて体をこわばらせたが、すぐに力を抜いて、カイルに身を委ねた。
互いの想いを、はっきりと口にしたことはない。
口づけを交わしたこともなければ、当然、体を重ねたこともない。
ただ、時折かわされる、このふたりのささやかなぬくもりが、過酷な日々の生活をぎりぎりのところで支えているのだということを、カイルははっきりと理解していた。
「じゃあ、またね」
ハンナが消え入りそうな声で言う。
「ああ、また」
『また』があるのかどうか、保証はない。
それでも、言わずにいられなかった。
何度も振り返るハンナを、その姿が見えなくなるまで見送って、カイルは小屋に入った。