Seed of odd-looking~奇妙な種子~
「恋は生物学の問題ね」
空の色を何色かと言ったら、明るくほどけて来たオレンジからピンクを経て紫になり紺色が空の端に残る、と言う、ダイナミックな空模様だ。唯単に朝焼け色だと言えば早い話だが。今日の昼には雨が降るだろうか。
カーテンを開けて日光を浴び、肩を柔軟してから、ずれてきたパジャマの袖を直す。4月が近いのに朝方が寒いのは、此処が北半球であるからだ。
来週には切る予定の髪の毛を、髪どめで適当に結う。明るい茶色の髪は、トリートメントで潤っている。
3年前から使っている自分の部屋にもだいぶ慣れた。外に出かけるまで、延々とビロードの絨毯が敷かれた廊下を歩くのはまだ違和感があるが。
ゴンゴンッと、無作法なノックの音がする。
「豊」と、僕を呼ぶ声が聞こえて、問答無用でドアが開けられた。「あの話、面白かったでしょ?」と、僕に小学生女子が読むタイプの恋愛小説を貸してくれた12歳の女の子が、部屋の外から声をかけてくる。
窓から振り返った僕は「えー。あー。うん」と、間を置いてから、平仮名が多くて読みづらかった小説の内容を思い出した。
どう答えるべきか迷ってから、「僕にはよく分かんなかったな」と言っておいた。「僕は、咲くらい大人っぽくないのかも」と、お世辞を付け加えて。
「えー。豊は、18歳でしょ? 恋愛したい年齢真っ最中じゃん。よく読めば、絶対面白いって分かるよ」と、咲は僕の部屋にずかずか入って来ると、僕がテーブルの上に置いておいた、全体的に蛍光ピンクの装丁がされた本を手に取る。
そして、咲が付箋を貼っていたページを開く。
「ほら、この挿絵。こんな可愛い『聖女』に会ったら、『守られたーい』ってなるでしょ?」と、言って、咲は挿絵を僕の顔に近づける。
12歳の女の子の目からしたら「目が大きくて可愛い子」に見えるらしい、宇宙人みたいな顔をした主人公の絵だ。その「聖女」が、こちらを見て薄ら笑いを浮かべて…いや、微笑んでいる。
この絵で表されている、「平凡な中学生の女の子」が、「召喚」された中世欧州っぽい異世界で魔法的な力を発揮し、男性達にちやほやされる中、ロングランな片思いをする。その思い人の前で何故か手の平から雷撃を放って、狂暴な魔物から思い人を助ける。「聖女」は、呆気に取られている思い人に「魔物を焼き殺すような非情な女だと思われた」と思ってその場から逃げてしまう。
その後、「聖女」は思い人から、「君の力を恐れたりしない」と言うような告白を受け、二人は仲良くなって登場人物達に祝福を受けるが、そこにも魔物が登場して…と言う、メルヘンな話だった。
魔法の力を持ってる女の子は分かったが、何故それが「聖女」である必要があるのか。そもそも、聖女って、某宗教的に尊い行ないをした女性や、穢れがないとか立派な事をしたとかの功績を讃えられる女性につけられる称号であって、現実世界から中世欧州っぽい所にワープしたからと言って、いきなり「聖女だ」って崇め奉られるってどうなんだ。そして「聖女」なのにいきなりの逆ハーレム状態に陥る。それにしても、挿絵の女の子の頭蓋骨の中で、眼球が占める割合はどのくらいなんだ。
そう言った「男性目線」の疑問が頭から離れなかったので、その物語が恋愛小説であることが、さっぱり頭に入って来なかった。
「女の子の『可愛い』は、男には分かんないんだよ」
頭の中で渦巻いた意見感想は置いておいて、差しさわり無い返事をした。
咲は「そーですか」と置いてから、「豊は、ユシネ達みたいな『綺麗系』がタイプなの?」と聞いてくる。
「自分が養ってもらってるお屋敷の主人達を恋愛対象にはしません」と、僕はワンブレスで言った。溜息のように息を継いでから、「何なの? 咲は、僕に恋愛をしてほしいの?」と聞いた。
「だって、毎日がキュンキュンしてたほうが楽しいじゃん」と、ませた12歳は言う。
「咲。恋ってキュンキュンするだけじゃないんだよ?」と言って、僕は女の子の背を押して、部屋から追い出した。「着替えるから出てって」
ドアを閉めると、その扉の向こうから、「朝ご飯、ベーグルサンドとスムージーだってー」と、本来咲が知らせるべき用件がようやく聞こえて来た。
僕達はあまり大っぴらに出来ない理由で、ユシネ・メルゴリーとエルメ・メルゴリーと言う双子の姉妹のお屋敷にご厄介になっている。
もう少し詳しく状況を認識すると、匿われている。なんでも、僕達の体内にある「特殊な腫瘍」が、外の世界では非常に貴重であり、それを意図的に「培養」「増殖」「拡散」させないために、悪事を考えている奴等を処分するまで、この屋敷とその近辺の領地内に居るようにと言われているのだ。
中学3年生からの3年間を、同じ年代の人間が居ない場所で過ごしたので、僕の頭の中は正常に「18歳」になれているかは分からないけど、僕より後に匿われて来た子供達に、「豊」って呼び捨てにされて生活している。
家の主人であるユシネとエルメが、自分達をファーストネームで呼ばせるので、僕達も年齢の上下は気にせずに、相手を呼び捨てにする癖がついたんだ。
だけど、匿われ人一期生の、みんなの世話をする係をしている「景」って言う30代くらいの男性は、後輩である僕達を「豊君」とか「咲ちゃん」って呼ぶ。僕も、景さんだけは呼び捨てにしない。
景さんは「発音としては、『Kさん』にしておいてくれよ。和名の抑揚で呼ばれると数字の『計算』になっちゃうから」と言って苦笑いをしていた。
匿われ人二期生の僕が景さんを「さん」づけで呼ぶので、後輩の少年少女達も景さんの事は「ケーさん」と呼ぶ。
他の二期生は、今、僕の目の前の席で、硬いベーグルに悪戦苦闘している「裕」って言う7歳の男の子。匿われた時は3歳だった。自分の苗字を覚えておらず、おまけに「特殊な腫瘍」を持っていたせいで実の親から「変な人達」に高値で売り渡されそうになっていた所を、メルゴリー家に仕える「特殊腫保全活動隊」の人達によって保護されたんだ。
裕の両親は、「カネを払ってくる変な人」ではなく、「カネも払わないで連れ去る人」に子供が渡ってしまったことを警察に届けたらしい。警察に、子供を手放そうとした理由を聞かれて人身売買をしようとしていたことを素直にしゃべったと言う裕の両親の知能指数が知りたい。
僕はスムージーを飲みながら、裕の隣の席の10歳の女の子に視線を向けた。いつも通り、硬いベーグルの間から片手で目玉焼きを引っ張り出している。
僕はコップから口を話し、「サーシェ。分けて食べちゃダメだろ」と注意した。
金髪と碧眼の女の子は、取り出した目玉焼きを咥えると、油のついた親指と人差し指と中指を立てて、手の甲を見せてくる。ある国で、「ぶっ殺してやろうか?」の意味とされるジェスチャーだ。そのポーズを決めたまま、行儀も悪くずるずると言う音を立てて、目玉焼きを口の中にすすりこむ。半熟だった黄身がサーシェの口元をどろりと汚し、彼女は手首でそれをぬぐう。着せ替え人形の容姿をした、呪い人形の有様だ。
この10歳のロックンローラーは、大人が怒ると分かっててこう言う無作法をしてみせるんだ。反抗期と言うか、自分探しをしていると言うか、自己実現を模索していると言うか。
僕としては意外な事に、裕とサーシェは仲が良い。年齢が近いと言う事もあるけど、二期生の裕が、三期生のサーシェに色々と「メルゴリー家での生活の仕方」を教えたからか、サーシェは分からない事があると、真っ先に裕に意見を聞きに行く。
たぶん、裕に「食事の時の作法を考える知恵」がついて来たら、サーシェの無作法を注意するようになるかもしれない。希望的に考えておこう。
三期生で最年少は、3歳のDDと言う女の子だ。この子は、「知らない人のおうちにいる事」を分かっているので、非常に大人しい。その反面、臆病で「他の人に意見を聞く事」が出来ない。
その結果、今も、ベーグルに噛みついたとき抜けた乳歯を片手に持ったまま、どうしたら良いか分からないでいる。
「DD。歯が取れたの?」と、僕は聞いてあげた。DDは頷く。僕はなるべく明るく、「紙ナプキンにくるんでおきなよ。後で、庭に捨てに行こう」と声をかけた。それから、「景さん。DDのベーグル、小さく切ってあげて下さい」と頼んだ。
「はーい。ちょっと待っててー」と、景さんは、ちびっ子が多い三期生達の面倒を見ながら返事してくる。食べ終わった子の食器を片づけ、口の周りを汚している子の口元を紙ナプキンで拭ってる。
保父さんって言う職業の人はこんな感じかな、と僕は朝食の度に思う。
外出用のコートを着て、僕はメルゴリー家の領地内である「教区」と呼ばれる町に行く準備をしていた。軽食と水筒を鞄に詰めて。
年上の二期生の仕事として、毎日ちびっ子達に本を読んであげるんだけど、屋敷にあった蔵書は大体読みつくしてしまったので、新しい本を買いに出かけようとしていた。雨は降りそうにない。傘は要らないだろう。
財布の代りに、ユシネがくれた指輪をつけて行く。僕の右手の人差し指に丁度良いサイズの指輪には、メルゴリー家を示す紋章が刻まている。これで、領主書の封を閉じる固まりかけた色付きのミツロウに印を押すのが、「清算はメルゴリー家へ」の正式な証。
「買い物に行くの?」と、目ざとい子供達が声をかけてくる。一緒に行きたいと誰が先に言い出すかを、みんなうかがっている。いつもだったら咲が「ねー。連れてってー」と言うのだが、その年長者が居ないので、みんな様子見顔で僕を見上げている。
「うん。本を買ってくるから、楽しみにしててね」と、優しく「連れていけませんよ」の合図を出すと、子供達は互いの顔を見合わせてから、「いってらっしゃい」と声を揃えた。
教区の中に在る本屋は、色々な専門書を扱う、だいぶ大きな建物だ。本を買った人がそれを読みながらコーヒーや紅茶が飲める、簡単なカフェスペースもある。
本屋の中をぐるぐる歩き回り、最年長で12歳までの子供達が、飽きずに話が聞けて、続きを期待できるような本は無いかと物色する。
個人的な趣味で、「芸術書」のコーナーも観てみた。立ち読みしかできないが、お使いに出かける人の特権だと思って、風景の写真集に目を通す。
何度見ても、某大聖堂のある島のシルエットって、この島に似てる。てっぺんにあるのが、聖堂かお屋敷かの違いだけかもしれないってくらい。
写真が見たければ写真集のコーナーに行けば良いかも知れないが、水着姿でポーズを決める女性達の、あちこちの立派な部分を意識したくないので、あのコーナーには近づかない事にしている。
もし、僕が「特殊な腫瘍」を持ってなくて、普通の高校生として生活していたら、周りに発育してきた同世代の女の子も居たかもしれないし、男子達の間で、女の子には言えないコイバナとかも話してたかもしれない。
生憎、異性に興味が出て来るか否かのタイミングで浮世と離れてしまって、「外国の映画に出て来そうな綺麗な女主人達」の屋敷に住む事に成って、自分の体の事情と、これから増えるであろう匿われ人達のことを知らされて、景さんよろしく「小さい子の面倒を見る役」をやらなければならなくなって、僕より先に匿われたけど、僕より全然幼児の裕の面倒を見る所から、試行錯誤、悪戦苦闘して、今の「お兄ちゃん役」のポジションを獲得したんだ。
そう考えると、「部屋の中にセクシーなおねえさんの写真を隠しているお兄さん」には成りたくないし、出来るだけ、ちびっ子達の夢を壊さないであげたい。
男同士の話ができる相手となれば、景さんしかいないんだけど、僕が朝食の度に思うように、景さんはすっかり「保父さん」なので、僕も僕の持ってる景さんのイメージを壊すようなことは言いたくない。
僕達の「腫瘍」を狙っている「悪い奴等」が居なくなるまで、後どのくらいかかるのかは分からないけど、僕はこの島を離れるまでは、誰が見てても見て無くても、清潔感のある優しいお兄さんで居よう。
殺人事件を追う探偵の小説と、幻想文学の児童書のどちらにするか。殺人事件の話を聞くのは3歳の子には辛いだろう。そう思って、児童書を買った。
買った本の入った紙袋を持って、本屋の近くにある広場のベンチで昼食を食べる事にした。景さんが用意してくれた、チョコレートサンドウィッチとローズヒップティーだ。いつも食べている茶色の塊りを、パン越しにガシッと噛み砕く。咀嚼する間に口の中がねとねとになるので、すかさずお茶で飲み干す。18歳男子としては、ミルクチョコレートのサンドウィッチは、甘すぎて辛い。
だけど、ハムとチーズのサンドウィッチを頼むのは、僕の中の清貧症が引け目を覚えさせる。板チョコレートを半分に割ってパンに挟んだだけのほうが、圧倒的に安くて高栄養を得られるのだ。胸焼けはするけど。
ハムは無くても、チーズだけのサンドウィッチなら…と、僕が水筒のコップを持ちながら、晴れた空に空想を描いていると、誰かが近づいてきた。
僕と同じく、教区を歩くための専用のコートを着ている。年の頃は16歳くらいの女の子だ。コートの内側には学校の制服を着ていて、サラサラの黒い髪をしてる。
「すいません。あの…。いつも、あの本屋さんで、本を探してらっしゃいますよね?」と、その女の子は不自然なくらいの敬語で話しかけてきた。
「はい。探してますけど…。何か、ありましたか?」と、僕は聞く。清算が上手く行っていないとか、ミツロウに押した印が欠けてたとかかな? と思ったんだ。
「いいえ。私も、よくこの本屋さんに来るんです。何度か本を買う所をお見掛けしてて…」と言う件から始まったその女の子の話によると、僕が子供の読むような児童文学書や絵本ばかり買ってるのに気付いて、小さな弟か妹が居るのかと想像していたそうなのだ。
僕は、どう誤魔化そうか迷った。小さな弟達や妹達は確かに居るが、僕達が「特殊な腫瘍」を持っているがために匿われているのは秘密だからだ。
そこで、「はい。年の離れた弟が居ます」と答えた。裕の事を思い浮かべて、仮設の兄弟を作ったんだ。
女の子は「私にも、弟が居るんです」と言って、自分の買った本を見せた。子供用の図鑑だ。「隣、良いですか?」と、その女の子が言うので、僕はやけに人懐っこい子だなと思いながら、カップを水筒に戻して座っていた場所を少し除け、「どうぞ」と手で席を示した。
僕が名乗ると、女の子も「私は、ナツメって言います」と答えた。僕と同じで、東のほうの国の血筋らしい。真っ黒な髪とチョコレート色の目の理由は分かったけど、故郷の国は違った。
僕はナツメに、「学校に通ってるの?」と聞いた。彼女は、「ええ。高等科の2年生です」と答える。
僕は、「高等学校」と言うものがどんな場所かを尋ねた。彼女は、「私が通ってるのは、教区の学校だから、普通の高校とはちょっと違うけど」と言いながら、宗教教育を中心とした教区の高校生活について語って聞かせてくれた。
その話を聞いてると、中学校時代の郷愁と、自分は送る事の出来なかった高校生活って言うものの三年間を想って、なんか泣けてきた。
「豊さん。どうしたんですか?」と聞かれて、僕は自分が本当に目に涙を浮かべていたのに気付いた。
「あ。ごめん。目に睫毛が入って…」と言って、手首でごしごし目をこすると、「ダメですよ。目をぎゅっとつむってから、瞬きをして」と、ナツメは睫毛を取り出す方法を指示してくる。
入っていない睫毛は、もちろん出てこないので、僕は気まずさを覚えながら目をシパシパさせた。僕の目からはさらに涙が出てきて、ナツメはコートの胸から取り出したハンカチで、僕の目元を拭こうとした。僕は顔を覗き込まれる姿勢に成って、ぎょっとすると同時に顔がほてった。
パッと女の子から離れて、ベンチに置いてあった鞄と紙袋を手に取ると、「えっと…あの…。僕、此処から遠いから、もう、帰らないと」と言って、そそくさとその場を逃げた。
メルゴリーの屋敷に戻ってから、僕は思い出していた。ナツメの、黒目がちな茶色い瞳と、決して突き出てはいない楚々とした鼻筋、そしてその下にあったピンク色の唇を。
何がどうってわけではないのだが、思い出していると何となく気分が良いので、ちびっ子達と屋敷の掃除をしたり、庭の草むしりをしたり、廊下でレスリングをやったり、眠る前にみんなで集まって本を読む時以外は、ナツメの事…主に、ナツメの口元の事を思い出していた。
唇は腫れぼったくもなく、薄すぎもせず、触れたら柔らかそうで、皮膚が血色を透き通らせているのだとしたら、彼女の肌は東の人間としては白いほうなんだろうと言う所まで解析できるくらい思い出した。
水着姿で写真集に載ってるおねえさん達みたいに、「セクシー」を強調してこないナツメの容貌は、どうやら僕の「女の子の好み」に合っていたらしい。
好みと言っても、外見と、喋り方と、仕草と、弟が居る事と、他人に対して少し面倒見がよすぎるのではないかと言う事しか知らないが。初対面の人間にそれくらい印象付けられるのなら、印象的な女の子ではあるんだ。
僕は弟分達と一緒に風呂に入って、体を拭いてパジャマに着替えた。この時、自分で体が拭けない年齢の子の世話も看る。
「誰が最初に眠るか、競争!」と言って、子供達を夫々の部屋に追い込む。一日の「お兄ちゃん役」を済ませると、後風呂から上がって来た景さんが「豊君。ありがとな。助かるよ」と声をかけてくれる。
僕は照れ笑いを浮かべ、景さんと握った拳を軽くぶつけると、「おやすみなさい」と言って自分の部屋に引っ込む。
ベッドに横になってからも、やっぱり特に何でもないんだけど、ナツメの目鼻立ちと、綺麗な唇の事を思い出していた。此処まで来ると変態じゃないか? と言う疑問が湧かなくもないが、何度も思い出す事で、もう一度ナツメと会える夢が見れたら良いな、なんて思いながら眠りに就いた。
何日経過したかはよく覚えていない。また教区を歩くためのコートを着て、鞄を持って、メルゴリー家の指輪を付けた。
この間買った児童書を、昨日の晩に「めでたしめでたし」まで通して読んでしまったので、次の本を探しに行こうとしていた。
「豊しゃん」と、廊下で僕を見つけた咲が、ニヤニヤしながらふざけた口調で言う。「何をにやけているにょですか?」
「にやけてるのは咲の方だろ?」と言って、僕は腰をかがめ、12歳の女の子に目線を合わせてあげる。「お使いには連れていけないよ?」
「おんにゃのこと会うから?」と言われて、僕は「は?」と聞き返した。それから、数日前に会ったナツメの事を思い出して、「うん…。もしかしたら会うかもしれない」と答えた。
「え? 真面目で? すっごい。咲ちゃん、超能力者!」と、咲は何故かはしゃぐ。「どんな人? 私としては、お姉ちゃんはミックスの人が良いんだけど!」
「いや、僕が女の子に会ったからって、その人が咲のお姉ちゃんに成りたいかは分からないよ?」と、僕が言うと、咲は眉をへの字にした。
「なーんーでー?」と、咲は地団太を踏んで駄々をこねる。「この家の中、咲が一番お姉ちゃんじゃん。咲だってお姉ちゃんが欲しいの。面倒見てほしいの。楽したいの。ちっちゃい子達ばっかりずるいじゃん」
「咲。正直なのは良いけど、言葉を選ぶって言う方法覚えようか?」と言って、僕は屈んでいた腰を伸ばして、12歳の目線から離れる。「他の小さい子達だって、咲がお姉ちゃんだから、安心してるんだよ? それを、ずるいなんて言ったら、ちっちゃい子達は悲しい気分になるだろ?」
「咲だって安心したいー」と、普通の世界に居たら思春期であろう女の子はぐずる。
「女の子の悩みは、エレミーに相談して。もちろん、彼女が仕事してない時にね」と言って、僕は鞄のベルトを直し、玄関ホールのほうに向かった。
エレミーは匿われ人達と、屋敷の主人達の食事を作っている、料理係の人だ。ユシネとエルメ以外で、この屋敷に居る「女の子が相談を出来そうな女の人」だった。
年は50代くらいで、咲からするとお姉さんと言うよりお母さんの年齢だろう。それでも、景さんや僕にも相談できない女の子の話があれば、きっと聞いてくれるはずだ。
実際に二度目の遭遇をしてしまって、どう行動したら良いのかを考えている。本を買って、いつも通りお昼休憩を取ってたら、またナツメが声をかけて来てくれたんだ。
僕はコミュ障って言うのじゃないけど、流石に「数日間、毎日あなたの事を思い浮かべてました」なんて言ったら、本当に変態だと思われる。
僕の心の中のよく分からない部分は黙っておいて、緊張しないように、なるべく普通に会話ができるように頑張った。なんせ、前回はおかしな涙のせいで会話を中断して逃げることに成ったので、同じ轍を踏まないように心掛けた。
屋敷でのちびっ子達とのやり取りを、「裕」とのやり取りだとして話した。すると、「豊さんって、『うたのおにいさん』みたいですね」と、ナツメは言う。
うたのおにいさんってなんだろうと思って、そのまま聞き返した。「子供向け番組とか、見ないんですか? テレビで」と、ナツメは言う。
「ああ、小さい頃は見たことあった。子供達と一緒に歌うお兄さんの事?」と聞くと、「それです」とナツメは返してくる。「この間、豊さんと会ったこと、うちの弟に話したんです。そしたら、『お兄ちゃんほしい』って言い出して、『そのお兄ちゃん、ツルギと一緒に遊んでくれる?』って言ってました」
「君の弟さん、ツルギって名前なの?」
「そうです。豊さんの弟さんの名前、聞いても良いですか?」
「裕って言うんだ。字は、『裕福』の裕」
それを聞いて、ナツメは少し困った顔をした。「私、あんまり漢字知らないんです」
僕は、彼女の故郷を思い出して、「君の国では、どんな字を使うの?」と聞いた。
ナツメは「ローマ字が公用語で、時々、新聞や教科書に少し漢字が出てくるくらいでした」と答えた。
僕は彼女に悲しい記憶を思い出させたみたいで申し訳なくなったけど、「そうか」と答えてから、鞄のポケットから手帳とペンを取り出して、手帳のフリースペースに「裕」と書いてみせた。
「この字で、『ゆう』って読むんだ」
ナツメは目を輝かせて異国の文字を見つめ、「あなたの名前はどう書くんですか?」と聞いてきた。
「豊」と書いて見せると、「ナツメやツルギを漢字で書いたらどうなりますか?」と、次々に注文が来る。
「どんな漢字をあてるかに因るけど、一文字で書くなら…」と言って、僕は「棗」と「剣」と書いて見せた。僕も元・漢字圏の人だからと言って、辞書を見ずに難しい漢字は書けない。
今回は逃げ出す事も無く、リアルに帰らなければならない時間になるまで、楽しく話が出来た。ナツメは「また、声をかけても良いですか?」と恥ずかしそうに聞いてきて、僕は笑顔で「もちろん」と答えた。
帰り道で、ついさっきの会話を噛みしめるように思い出した。僕が「うたのおにいさん」か。そんなに人が良さそうに見えるのかな? まぁ、悪人に見えたり、変態扱いされたりしないだけ良いか。
小さい子って、常に居ないほうの「お姉ちゃん」や「お兄ちゃん」を欲しがるんだな。性別が違うきょうだいなんかだと、居ないほうの性別の「年上の人」に憧れるようになるのかな。
そんな事を思ってたけど、最終的に思い浮かんでくるのはナツメ本人の姿だ。
年齢が近そうとは言え、知らない男の人に二回も声をかけて来てくれた上に、次回の約束まで取り付けるとなると…割と積極的な子なのか。
何に積極的って言ったら、人間関係を作ること? まぁ、16歳か17歳くらいの女の子の「この人と知り合いたい」って言う願望ってそんな感じかもな。
しかし、どうしてもナツメの「綺麗に動く唇」ばっかり思い出してしまう、僕のこの記憶力の歪みは何なんだ。
暗い部屋の中、ウーンズは床に座り、片手を差し出して、何かに話しかけている。
「もう少し。もう少しだから、諦めないで。きっと、助けてあげるから」
グォオオオオと、獣のような唸りを上げる「それ」を宥めるように撫で、「大丈夫。もう、武器にされたりしない。良い子だから、怖がらないで眠ろうね」
ウーンズは、唸りを止めた「それ」に寄り添い、眠りに就くまで「手」を握っていた。
何回目かのナツメとのおしゃべりを経て、僕がメルゴリー家へ帰ると、景さんが「豊君。ユシネが話があるって」と伝言を教えてくれた。そして、僕の肩にポンッと手を乗せて、「怒られるかもよ?」と言った。
ユシネの仕事部屋の前に行って、ノッカーでドアをノックした。「入りなさい」と、ユシネの少し冷たい声がする。
僕は「これは、確かに、怒られる系の話かな?」と思いながら入室した。思った通り、ユシネは女優さんみたいに綺麗な顔に、仄かな怒りの表情を浮かべている。
ユシネの話はこうだった。
教区に住む者であれ、必要のない他人に自分の存在を記憶させるような行動をとらない事。僅かでも情報が漏れることは、匿われ人達全員の命を危険に晒すのだと言う事。
「貴方が、異性に興味を持つ年齢の男性であることは理解しています」と、ユシネは言う。「ですが、誰かの印象に残る事は、貴方本人の命も危険に晒すと言う事を、貴方は理解しなければならない」
「はい…」とだけ、僕は答えた。僕の行動はしっかり監視されていたのだ。教区が、メルゴリー家の領地であることを改めて実感した。
「反論、意見、今後どう行動するか、それを言いたければ、今のうちに言いなさい」と、20代くらいにしか見えないユシネは、まるでその倍は生きている女教師みたいに言う。
「反論はありません。意見としては…。たぶん、他人と知り合うと、そんなに簡単に交流を拒絶できない所が、僕にはあるようです。今後どうするかについては、僕のこう言う『お人好し』の所を正して、教区でも外出する時は、用件だけ済ませて帰ってくるようにします」
ユシネはそれを聞いて、「よろしい。退出しなさい」と、やっぱり女教師みたいに言う。
いや、教師と言うか、この人は司令官だな。しかも、僕は兵隊でもない、どちらかと言うと「成人年齢に近いので、ある程度行動の自由を許されている一般民」なんだ。
次に本を買いに行ったとき、僕は昼食休憩を取らずにメルゴリー家への帰路についた。休んでいないので、冬用コートの中は汗だくになって、喉が渇いてきた。
夕方と言うにはまだ早い、少しだけ黄みがかかった空の下、お茶だけでも飲もうと思って、坂の途中で歩を止めた。
シュンッと言う、空気を切るような音が聞こえて、肩から斜めにした鞄のベルトが、切れた。とっさに鞄そのものを抱える。劣化で切れたわけじゃない。切り口は刃で切ったように真っ直ぐだ。
危険を察するのは遅かった。シュンッとまた音がして、僕は腹にボディーブローのようなものを受けた。痛みのショックで意識を失うと言う現象を、初めて体験した。
次に目を覚ますと、僕は暗い部屋の床の上に居た。手は後ろの方で縛られてる。足も縛られてて、身動きが取れない。
「気が付いたんですね」と、ナツメの声がした。
暗い部屋の中に、廊下の明かりがさしてる。その明かりがわずかに届く場所に、歪な形の何かが居る。水頭症の子供の頭みたいに、全身が歪に膨れ上がった何かだった。スライムみたいにも見えるのに、何処か崩れた人のような形をしている。
僕はゾッとしたけど、ナツメは何事もないように部屋に入ってきて、その何かに声をかけた。「ツルギ。怖がらないで」
膨れ上がったそれは、泡立つような声で、ブグォオオオと唸った。ナツメはその膨れ上がったものの「枝」のような部分を握り、小さな子供にそうするように、それの表面に頬をあてた。
「うん。うん。知らない人だもんね。怖いよね」と、ナツメは歪な塊に声をかける。「大丈夫だよ。この人は、前にも話した豊お兄ちゃん。この人が居れば、ツルギは元に戻れるの。ツルギにも見えてるでしょ? この人の中に在る、コア」
「ナツメ」と、僕は声をかけた。出来る事と言うと、会話をすることくらいだからだ。「その塊は、何なんだ? それに、コアって言うのは…」
しばらく、ナツメは答えなかった。目を閉じて、歪な何かの囁きに耳を傾けているようだ。それからようやく目を開けて、「この子は、ツルギ」と答えた。「いつも話してたでしょ? 私の弟です」
「ツルギ…。ツルギ君は、人間じゃないのか?」と聞くと、ナツメの顔つきが、今まで見た事がなくらい厳しくなった。「この子は、人間です」と言い、「人間の形じゃなくなるように、作り変えられたの。私達は、『匿ってくれる誰か』に、出会えなかったから」と続けてから、「枝」から手を放し、倒れている僕の前に歩み寄ってきた。
そして、さっきダメージを受けた僕の腹に、見事と思えるほどの威力があるローキックをした。
僕は息がつまって、体を折り、ゲホゲホと咳き込んだ。
「貴方達が、『平和に匿われてる』間に、外の世界は変わったの」
ナツメは静かに言う。暴力を加える事に、感情は伴っていないらしい。ひどく冷静で、かつ冷淡な声だった。
「逃げられなかった者達が、どれだけ『普通』を奪われたか、貴方達は知らないでしょ? 毎日、安全な場所で、ご飯を食べて、遊んで、本を読んで、眠って…。そんな『普通』を、私達は取り戻したいの。そのために、貴方の体の中にある、『獣のコア』が必要なの。ツルギを元に戻すために。分かってくれるよね? 豊さんは、優しいもの」
僕は、腹の痛みで声も出せず、なんとか首をひねってナツメの視線を見た。
僕の腹より少し上。右胸の辺りを見ている。そこに、彼女の言う「獣のコア」があるのだろうか。
ナツメは、異形の何かを振り返って、僕にかけるよりだいぶ優しい声で話しかけた。
「あのね、そのまま食べなきゃダメなんだよ」
その前置きを聞いて、僕はさっきゾッとした時より、さらに背筋に寒気が走った。ナツメは続ける。「生きてる器ごと、丸呑みにするの。嚙んじゃうと、コアを傷つけるからね。生きてるコアを、そのまま取り込むの。出来るよね、ツルギ」
異形の何かは、返事のようにグォオと呻いた。
「頭から食べれば、一口で済むからね」と、ナツメは言う。泡立つ皮膚を引きずるように、ツルギは僕に近づいてくる。
廊下からの明かりに照らされて、ツルギの全身が見えた。歪に膨れた皮膚の中に、裂け目が5ヶ所ある。ネチャァッと言う音を立てて、人の頭より大きな二つの裂け目。「両目」が開く。
その下にある二つの裂け目が、空気を吸い込むように動いている。そして、一番下にあった大きな裂け目が、多大な涎の糸を引きながら開かれた。僕の体を簡単に包み込めるその内側には、サメみたいな牙が何重にも揃っている。
僕が、何の声も出せず、身じろぎも出来ず、目の前の生き物の異様さに硬直していると、ガタン、と何処かで音がした。
廊下の明かりが消える一瞬、ナツメの表情が強張った。
僕には音しか聞こえなかったので、何がなんだかわからなかったけど、部屋の中にライトが灯されて、目元しか開いていない黒いアーマーを着た人達に、「大丈夫ですか?」と言う声をかけられた。
僕はまだ声が出なかったから、瞬きと頷きで返事をした。手足の拘束が解かれ、僕は痛んでいた腹に手をあてた。
助けに来てくれたのは、「特殊腫保全活動隊」のチームだった。メルゴリー家私有の軍隊みたいなものだ。
僕は、教区を歩くためのコートを羽織らされて、車に乗せられ、メルゴリーの屋敷に戻った。その間に考えていた。
床に倒れていたナツメの体が、もう二度と動く事はないのと、ツルギが人間に戻る事も、二度とないのだと。
ナツメ・ウーンズの口の中。舌の筋肉の中から採取された「特殊腫」は、液体窒素で凍結され、施設の安置室に保管された。
「交戦を行なったチームからの報告では、口から放つ真空波や衝撃波で、対象物を攻撃する能力を有していました」と、研究員が、エルメに説明する。エルメが姉と違う所は、髪がボブヘアである所だけだ。
研究員はさらに説明する。
「言葉を発する時の振動率を変える事で、他の人間に好ましい周波数の声を聞かせる事も出来たようです。泉生豊が短期間で彼女に好意を持ったのも、それが原因だと思われます」
「恋は生物学の問題ね」とだけ、エルメは感想を述べた。
またいつもの朝が来た。朝焼けのグラデーションを眺めながら、僕はその下に広がる町を見下ろす。
「外の世界は変わったの」
そう言っていたナツメの言葉を思い出す。
何がどのように変わってしまったのかを、彼女は語らずじまいだったが、恐らくそう年端のゆかないであろうツルギ君みたいな子が、人間ではない何かに変貌させられるような世界になってしまったのか。
そして、僕達のように匿われていない、「特殊な腫瘍」を持つ人達は、まだ外の世界に居て、常に危険に晒されている。
ナツメと話した事の何処までが本当で、何処からが嘘なのか。それも僕は分からなかったが、彼女が語っていた「学校生活」は、僕とナツメの間に共有された、ある種の夢なのかもしれない。
また今日も、ちびっ子達の世話を看て、ご飯を食べて、遊んで、本を読んで、眠って…そんな「普通」の一日になるだろう。
僕が彼女の語る「普通」に憧れたみたいに、彼女は僕の語る「普通」に憧れていたのだろうか。だから、話をしなくなるまで、僕を狩るのをためらっていたのだろうか…。そんな、勝手な空想が働いた。
ゴンゴンッと、無作法なノックが聞こえる。
「豊」と、咲の声がする。返事も待たずにドアが開閉され、「あの続き、読んだ?」と言う注文が飛んでくる。
僕は首をひねって、「レッサーパンダが出てくる辺りまで読んだ」と答えた。
12歳の女の子が読む恋愛小説を読まされる「普通」の日々は、まだまだ続くようだ。
青年は、自分の体の中に在るものが「特殊な腫瘍」であると思っていました。
ですが、少女の言っていた「獣のコア」と呼ばれる物と、自分達の持っている「腫瘍」は同じものだと、気づき始めています。
人間を、人間以外の何かに変貌させる可能性のある、「獣のコア」を体に抱えたまま、青年と彼を慕う子供達は、毎日を繰り返して行くのでしょう。
少女が憧れた「普通」の日々の中を。