東北地方からの手紙
天武天皇はある日私を呼びつけて「こういうの作ってほしいんすよ」と言った。その時見せられたのは焼けてもはや読み物としては機能しなくなった、天皇記と国記の一部あった。
「それの代わりですか?」
「そうねえ」
「代わりですか?」
私は驚いてしまった。いやまあ、それは、天皇記、国記、どちらも比類ないほど大事なものだろうからさ、でも、それだからなおの事だ。天皇記と国記を書き直すなり、作り直すなりした方がいいんじゃないかなとそう思ったのである。しかし相手は天皇である。特に天武天皇と言えばやり手で有名だ。壬申の乱の勝者である。そんな天皇が私の表情に微妙に何かを感じたのか、
「安万侶、疑問かな?」
と、お尋ねになられた。
「いえ、滅相も」
疑問があったとしてもそんなこと気軽に告げたら、危ないかもしれないだろう。しかし、しかし事は事なのである。何せ焼けてしまった天皇記と国記の代わりを作れっていうのだから。
「安万侶の思う事ももっともだが、しかしねえ」
天皇は焼けて散り散りになってしまっている天皇記をそのお手に取って、
「これ、面白くないからなあ」
そう仰った。え?面白くない?
「面白くないんだこれ。これじゃあさ、天皇が何だっていうのも伝わらないと思うんだよね」
「何だというのは……」
何が?何?何言ってるのこの人、人じゃないわ。神。
「これを読んでもさ、天皇ってただ、ここに座ってのさばってるだけみたいな印象が変わらないと思うんだよなあ」
「はあ、そのような、そのような無礼な事は無いとは思いますが」
内心ではちょっと思ってる。ちょっとだけ。実際陰では、内乱で成り上がったなどという心無い者もいる。
「それだからさ、もっと楽しくて、わかりやすい、物語調のものが良いなと」
「左様でございますか」
物語調?わかりやすく。なんで?
「そういうの作ってさ、皆に読ませたら、皆に意志というか、イメージもさ、統一されるかなと。で、今よりもよりよい感じで統一されたら最高だ。そういうのを安万侶、作ってほしいんだ」
「なるほど」
なるほど、とは言ってみたが、何をどうしたらいいのか、何から手を付けていいのかも、全く何もわからない。
「まあ、あんまり何もない所からっていうのも、酷だと思うからな、うちの稗田阿礼という舎人を貸す。このものは記憶力に秀でておる。まずこやつに話を聞き、書き始めてみよ。そうしたら高天原、この国の誕生のあたりはまあ、書けるんじゃないか。その後から、現在に至るまでのエピソードに関しては、まああれだな。お前のセンスだな。何だったらエピソードを探して各地に出向いてみるのもいいだろう」
天皇はそういうと立ち上がってうーんと言って伸びをした。
「とにかくまあ、広く皆に親しまれて、過去から今までの流れが大体わかって、読んで楽しいやつだな。あと愛とか勇気とか、そういうのがあって広大な感じのやつ。頼むぞ安万侶」
それからすぐ、私は稗田阿礼という舎人と共に古事記の作成に従事することになった。稗田阿礼は天皇に一目置かれるだけあって、凄い記憶力の持ち主で、言われた通り最初に記するこの国の誕生史、高天原のあたりは苦も無く済んだ。しかしそれからはどうにも、何より稗田阿礼の知らない部分もあった為にエピソード探しに苦労することになった。しかしそうは言っても天皇の命である、稗田阿礼と一緒になってどこそこに行って天皇の名を出しては、エピソードを集めた。
やがて多少なり、今やってるこれが、この事業が軌道に乗ってきたかなと思えて来たあたりで天武天皇がお亡くなりになり、この編纂作業が暗礁に乗り上げてしまった。それに伴う世の中の混乱があり、それ故に稗田阿礼と二人して、編纂室にこもって何もしない日々が増えた。幸いにして天武天皇があまり大っぴらにこの事業の事を口にしてなかったために、私達は自分達の居場所を奪われることも無く、ただ毎日目立たないように酒を飲んで過ごした。眠たくなったらその辺の床の上で寝た。
「こういう話もあったらいいですよね」
「そうだなあ」
その間も、我々は天武天皇から任されたこの事業の話についてした。東北地方のエピソードが少ないという話にもなった。盛り上がりを考慮して東北地方までも平定したのが日本武尊であるのはもういいとしても、
「こいつ本当に人間かよ」
「人間じゃないんじゃないですかねえ」
「ああ、そうか、そういう類のあれか」
「天皇みたいなやつですよ」
「おい、あんまり大きな声で言うな、死罪になるぞ」
「ああ、これは失敬」
あまりにも東北地方の話が少ない。あっというまに平定しちゃうんだもん。
「ここでも一人くらい浮き名っていうか、そういうの欲しいですね」
「そうだろ。そうなんだよ」
やがて元明天皇が時の天皇となり、この元明天皇の代になってから、
「お前等、うだうだと何してんだ」
と、我らのこの事業に発破がかけられることになった。そうして再び天皇の名をお借りして、エピソードが集められることになった段になって、
「安万侶様」
「どうしたのだ?阿礼、そんなに急いで」
「東北地方から、これ、こちらの手紙が届きました」
「お、頼んでいたやつか」
「そうかもしれません」
その手紙の内容はまあ掻い摘んで話すと、以下のようなものである。
東北地方を平定している最中、日本武尊が一つの湖の前を通った。するとその中から一匹の大きな大きな龍が出現して、これ以上この地で好き勝手するならお前を殺す、そうなりたくなければすぐに帰れと言われるのである。しかし、日本武尊はこれが己の仕事である旨と、自らの境遇を打ち明ける。父に疎まれてこの様な遠方の地に追いやられた。そういう話である。それを、その打ち明け話を不憫に思った龍は、自らの姿かたちを女の姿に変え、その日、その湖のほとりでワンナイトラブ。
「またワンナイトラブですか」
「いやでも、良くないこれ?ちょうどこの辺でまたワンナイトラブがあったら、いいと思うんだよな」
「まあ、確かにそうかも」
しかし結果的に、この話は古事記のエピソードには加えられなかったのである。元明天皇の代になってから完成への催促が激しくなっており、編纂事業がてんてこ舞いだったのと、あと、まあ、あれかな、元明天皇が女性だったっていうのも、もしかしたらこの辺に多少影響を与えているかもしれない。
そうしてこの元明天皇の代に古事記は完成した。また東北地方のこの使われなかったエピソードは、後年形を変えて田沢湖の辰子伝説になったのだとか、そうではないとか、勿論真相はわからない。