朱音の秘密~1
龍太郎達がリビングで話をしている間に、緑里がお風呂から上がってきた。
「すみません。お先に頂きました」
香織が立ち上がり声をかけた。
「ドライヤーもありますので、髪を乾かして下さい。鏡が必要なら言ってください」
「有難うございます。でも大丈夫です。両方スーツケースに入れてきましたから」
「そうですか。じゃあ、龍太郎。私、先に入ってくるね」
「うん。慌てなくていいよ。いつも通りでいいから。ゆっくりしてきな」
緑里と交代で風呂場へと向かった彼女の背中を見送る。そこで話しかけられた。
「私は隣の部屋にいます。何かあったら、声をかけて下さいね」
「分かりました。ゆっくりして下さい。もしお疲れのようでしたら、そのまま横になって頂いても良いですよ」
「有難うございます」
彼女は頭を下げ隣室に引っ込んだ。しばらくしてドライヤーの音が聞こえた。
手持無沙汰になった龍太郎は、本でも読もうと途中になっていたページを開く。香織は恋愛やヒューマンドラマが好きで、読むのはそういった題材が主だ。龍太郎はどちらかと言えば、ミステリーやサスペンスなどのエンタメが好みだった。
今読んでいるのも警察小説のシリーズである。少し切り替えに時間はかかったが、読み進めているといつの間にか没頭していた。
主人公の刑事が事件の真相に近付き、犯人を絞り込み始めた山場に差し掛かっていたからだろう。何気なく顔を上げると、緑里が近くに座ってこちらを見ていた為に驚く。
ドライヤーの音が止んだことや、引き戸を開けてリビングに入って来た気配にも全く気付かなかったからだ。
昔から集中力はある方で、夢中になり始めると何度か声を掛けられても耳に届かず、相手を怒らせてしまう経験がよくあった。香織にも何度か呆れられたことがある。
その為緑里の呼びかけを無視したかと思い、慌てて言った。
「あっ、すみません。何かありましたか」
だが彼女の方が驚いたらしく、目を丸くしていた。急に話かけられたからだろう。首を横に振りながら答えた。
「いいえ、何もないです。こちらこそすみません。邪魔をしてしまいましたね」
その反応にむしろ狼狽えた龍太郎は、急いで本を閉じ否定した。
「そんなことはありません。大丈夫ですよ。集中し過ぎるといつも聞き流してしまうので、またやってしまったのかと思っただけです」
目を見合わせたまま数秒ほど沈黙が流れ、二人は吹き出した。取り乱す互いの様子が可笑しかったからだ。そこで一気に緊張がほぐれ、改めて彼女の顔を見た。
よく見ればお風呂から上がったばかりなのに、軽くメイクをしている。すっぴん風だが、やはり素顔を晒すのは抵抗があるのだろう。
突然玄関先に現れた時も思ったが、桁違いの小顔にテレビ画面から受ける印象とは全く異なる美くしさ。これで個性派俳優と呼ばれるのなら、美人と言われている俳優ならどれだけ綺麗なのだろうか。
香織が以前見かけた際の感想通りだ。年齢を重ねふっくらしている今でさえそう感じるのだから、もっと若く細かった頃はかなり魅力的だったに違いない。
そんな馬鹿な想像をしていたからか、見惚れてしまっていたようだ。彼女は微笑みながら言った。
「そんなにじっと見ないで下さい。ほぼノーメイクなので恥ずかしいです。それとも私の顔に何かついていますか」
恐らく好奇の目に晒されることなど慣れているのだろう。余裕の態度に、龍太郎の方が焦って目を逸らし謝った。
「すみません。失礼しました。当たり前ですが、やはりお綺麗ですね。芸能人の方でも一流となると、佇まいが違います」
「有難うございます。お世辞でも嬉しいわ。だけど香織さんだってとても可愛らしいじゃないですか。同い年ですけど若く見えますよ。龍太郎さんも背が高くて格好いいと思います。お似合いのご夫婦ですね」
香織は確かに年齢より下に見られがちだ。比較的童顔で体も小柄だからだろう。だが自分の外見は大して良くない。不細工だと貶された経験はないけれど、顔が整っていると言われたことなどなかった。世間的にはせいぜい中の中辺りだという自覚は持っている。身長は百八十センチ弱あるので、彼女達と比較すれば大きく見えるだけだ。
社交辞令だと思いつつ、一応頭を下げた。
「有難うございます」
話が途切れ、再び静けさが漂う。ただでさえここ三年程は、香織以外の人とほとんど言葉を交わしていない。それなのに今目の前で座っている人物は、普通ならまず会う機会すらない有名人なのだ。その為どう間を持たせればいいのか対応に困った。
会社に勤めている時はたとえ初対面の人物に会った場合でも、会話に迷うケースなどほとんど無かったように思う。営業職の経験が長かったし、また子供の頃から社交的でお喋りは得意だった気がする。
しかしうつ病という思わぬ病に罹ってからは第三者と話すだけで疲労が蓄積され、ストレスを感じるようになった。それからは出来るだけ人を避けてきたからだろう。
けれどこういうチャンスはまずない。折角あの緑里朱音と会えたのだから、何か聞いてみよう。しかしどういう質問をすればいいのだろうか。
そう色々悩んでいると、彼女から話題を振られた。
「龍太郎さんは、小説がお好きなんですか」
「はいっ」
慌てて返した声が裏返ってしまい、彼女は笑った。
「そんなに固くならないで下さい。私まで緊張してしまいます。もう少しリラックスしましょう。そうだ。龍太郎さんも香織さんのように、私を下の名前で呼んでください。緑里さんだと、よそよそしいじゃないですか。それに同い年ですし。それともお互い、呼び捨てにしますか」
「い、いいえ。滅相もない。それはあまりに馴れ馴れし過ぎます。それに緑里さんから下の名を呼び捨てされたら、こっちが照れてしまいます」
「そうですか。ではせめて、今のように緑里さんと呼ぶのは止めてください」
「分かりました。あ、朱音さん、でよろしいですか」
「まだ固いですけど、いいでしょう」
彼女は吹きだすようにまた笑った。テレビでは見たことがない、余りの自然な振る舞いに引き込まれそうになる。こんな笑顔を見せる人が殺人なんかするはずなど無い。そう確信しながらも、彼女が道ならぬ関係となった男性の子供を妊娠している事実を思い出す。
相手は既婚の大物俳優あたりだろうか。もしくは若手で売り出し中の人気アイドルかもしれない。この年齢まで独身を貫いてきたという彼女は、ある意味イメージ通りだ。けれども不倫または若い燕と関係を結ぶというのは、なかなか想像できなかった。人は見かけによらないというが、まさしくこのことだろう。
そうなると、こんな屈託の無い表情を見せている彼女が悪女だったとしてもおかしくない。何せ芸歴三十五年というキャリアを持つ大俳優なのだ。龍太郎達ごときなら騙されて当然だ。
そんな思いが表情に出ていたらしく、彼女が首を傾げた。
「どうしたんですか。急に真面目な顔をして。怖いじゃないですか」
慌てて誤魔化す。
「すみません。ちょっと明日の病院の件を考えていたら、大丈夫かなって心配しちゃって。みど、いや朱音さんの体調はどうですか」
彼女もやや真剣な顔つきに変わって答えた。
「有難うございます。さっきは緊張と疲れが出たんだと思います。でも少し横になって休めたので、今は落ち着きました」
「そうですか。それならよかった」
また雰囲気が重くなる。この流れは良くないと思い、龍太郎は話題を変えた。
「ところで、朱音さんの趣味は何ですか」
しまった。ここはお見合いの場じゃない。くだらない質問をしたと悔やんだが後の祭りだ。しかしそれがむしろツボにはまったらしい。彼女は手を叩いて破顔した。
ホッとした龍太郎はこれ幸いにと畳みかける。
「食べ物は何がお好きですか。休日はどのように過ごされてますか」
意図的におどけて尋ねてみると、彼女も調子を合わせて答えた。
「趣味はゲームですねぇ。特にシューティングゲームが好きですぅ。敵を打ちまくって倒すのがぁ、ストレス解消にもってこいなんですよぉ。好きな食べ物はぁ、カリカリに焼いた魚の骨かなぁ。噛んだ時のバリバリという感触が良いんですよねぇ」
膝に手を置き、体をくねらせながら唇を尖らせふざける様を見て、龍太郎は爆笑した。
「じゃあ、休みの日は魚の骨をかみ砕きながら、ゲームでゾンビなどを打ち殺しているんですね。カルシウムを取るのはイライラの予防にもいいですから」
「そうなんですぅ。年を取るとぉ、骨粗しょう症にもなりやすいじゃないですかぁ」
「お見合いでそんな事を言ったら、確実に引かれるでしょうね」
「そうなんですかぁ」
まだ続ける彼女のコミカルな演技に腹を抱えた。
「そんなに面白いですかぁ」
「や、やめてください。腹筋が崩壊します」
「泣かなくてもいいじゃないですかぁ」
いつの間にか目に涙が溜まっていたらしい。それを手の甲で拭いながら息を整えた。こんなに笑ったのは久しぶりだ。笑いは免疫をアップし、自律神経を整え脳の活性化に繋がる。 また泣くことはデトックス効果があり、体をリラックスさせ痛みの緩和や安眠を誘うなど、うつ病の治療に良い成果を与えるという。
だから龍太郎達は夜寝るまでの間に笑ったり泣いたりできるよう、ドラマや映画、お笑い番組を観るようにしていた。これは年齢的にホルモンバランスを崩しやすい香織にとっても必要だったからである。
瞬く間に空気が一変し、龍太郎は秘かに胸を撫で下ろす。そこで好奇心がくすぐられ、思い切って尋ねた。
「本当のところはどうなんですか。有名人だと気楽に外へ出られないでしょう。しかもこのコロナ禍だと、下手に出歩いて夜遅く飲み歩いたりしていたら批難を受けますしね」
「やっぱりゲームかなぁ」
彼女はさらに重ねてきた為、表情を緩めながら言った。
「笑いの天丼はもういいですって」




