第1話 捨て猫
この現代社会において誰かの妄想や幻想を信じる者は、少なくとも日本では少し冷ややかな目で見られてしまう。なんでも彼らは科学というものを信仰しているらしい。例えば貴方の母親が「魔法は存在すると思う」なんて言ったらなんて思いますか?
これは日本の現代社会において、まだ魔法なんか信じてしまった男女の物語。
雨の香りと排気ガスの匂い、それと明らかに汚れた川の匂いの混じったこの東京に、島田徹平は白衣のポケットに手を突っ込みながら歩いていた。
この男は割と顔は整っているが、見た目に対する意欲がないためか、前髪は少し長めで、髭も2、3日剃っていないようだった。そして髭のせいで少し老けて見えるものの、歳はおそらく27、8歳くらいに見える。
そして、こんな日に白衣なんか着てしまったせいか、かかとのあたりだけが汚れていた。島田徹平は、雨に濡れたアスファルトに反射した夜景に見とれ、ポケットからくしゃくしゃの赤いマルボロを取り出し、歩きながら火をつけた。
「ちょっとお兄さん消してください!」
大体四十歳くらいのやつれた警察官だった
「吸うのは勝手ですがこんな人ごみの中吸っちゃいけませんよ」
島田は少し頭にきたが、警察官の顔からなぜだか同情を感じ取れた。警察官の顔をよく見ると歯が少し不自然に黄ばんでいて、怒る気にもなれなかった。島田は飲みかけのコーヒーに吸殻をいれ、軽く会釈するとうつむきその場を後にした。
しばらく歩くと都会の喧騒は少しマシになり、島田は特に理由はないが、目線を少し上げて歩き出した。俺はまだこの町に来てから二年と三か月だが、もうこの町を気に入った自分がいた。別に魅力があるとかそんなんじゃなく、社会を嫌うものから社会に捨てられた者、ホームレスから薬物中毒者までどんな人でも受け入れられ、そして朽ちていく。
最初はそれが見ていられなかったが、なぜだか皆幸せそうなんだ。そしてそんな景色に自分も溶け込んでしまったと気づいた時からずっと、何か優しいものに包まれていたんだ。そんなことを考えながら、小さな高架下をくぐりかかった時だった。
そこには、誰も取りに来ない大量の放置自転車を従え、複数の白いごみ袋をキングサイズのベッドにした、一人の女王がそこにいた。その空間はよくトンネルにあるようなオレンジの照明でライトアップされているせいか、その少女のものだけの空間に思えた。
その少女はおおよそ二十代前半で、ショートボブで赤い目じり。服装は黒いワンピースに白のフリルが付いた、いわゆるメンヘラな女の子がよくするファッションだった。
少しこの町にしては珍しいケースだと思ったが、これからはホームレスたち以外にメンヘラも出没するのか、そんな程度だった。しかし彼女の目の前を横切ったとき、腕から結構な量の出血をしていたのが見えて、思わず二度見した。
「おい大丈夫かよ」
島田の声が聞こえたのか、彼女は幸せそうなうっとりとした表情を見せた。よく見ると彼女の両手には血で汚れた一缶の酒ととカッターがあった。
「自分でやったのか?」
「わああのこおおふき?」
彼女はひどく酔っているせいなのか呂律が回っていなかった。島田はとりあえず止血だけでもしようと思った時だった。彼女は力が尽きたのか首の座ってない赤ん坊のように、頭がストンと落ちた。
島田は慌てて彼女を背中に背負い、自分の診療所兼研究室へ走り急いだ。普段ホームレス相手にこんなことはしないが、騒ぎになったら困るから今回は特別だ、と頭の中で誰かに話した。
彼女が目を覚ました時、知らない部屋の天井を見ていた。別に珍しくもなく、また死にぞこなってどこかの病院に運ばれたんだろう、そう考えていた。
しかし初めて見る天井に少し違和感を感じ体を起こすと、病院というよりかは個人の研究室に近いような部屋に見えて、そこに溶け込んでいるかのような一人の男性が見えた。
部屋の大きさは六畳くらいだろうか、彼女の正面には窓が見えた。そして窓の向かいの壁には鉄の扉があり、コンクリートの床にはいくつかの四角い区切りがつけてあった。おそらく前は倉庫か何かだったんだろうと、そんなことを考えていた。そしてドアの方には、いくつかの研究機材がのった机があり、ドア側の壁と挟むようにスチールラックがあった。
「おはようございます。」
彼女は酒焼けした喉であいさつした。
「おはよう、調子はどうだ?」
「大丈夫です、帰るんで荷物ください」
彼女はそっけなかった。
「おい、助けてやったんだ礼ぐらいしたらどうだ」
島田は作業から手をはなして彼女の方へと体を向けた。しかし彼女は相変わらずそっけなく、相槌だけして目を合わせようとしていなかった。
「あまりに出血が多かったからか少し貧血気味だろう、少し休んでから行きな」
「はーい」
彼女はため息交じりの返事をすると、俺の研究機材をじっと見つめていた。そして五分ほど何かを考えると口を開いた。
「貴方医者じゃないの?」
彼女はさっきと変わって島田に興味を示していた。
「いや、闇医者をした銭で趣味の研究をしてるんだ。昨日倒れている君を見つけてね、特に理由はないが
ここまで運ばせてもらったよ」
すると彼女は島田の部屋を舐め回すように見てこう言った。
「突然でもうしわけないけど一ついいかな」
島田は頬に手をやってうなずいた。
「貴方のそばにしばらく私を置いてくれない?」
島田はの口に含んだコーヒーを吹き出すと、近くにあったハンカチで口を拭きながら笑顔で答えた。
「本当に突然だな、さっきまであんな態度悪かったのに、なぜそんなこと思ったんだよ」
すると彼女は天井の方へ目をやると、少し考えてから答えた。
「私あの日の夜ね、抗うつ薬のデプロメールとリスペリドンをたくさん飲んでから腕を切ったの」
「そしたら本当に死ねるような気がしてね、コンビニで買ったお酒を飲みながらこの町をふらついてたら、なぜだかとても心地よかったの。」
と彼女はまるで楽しかった思い出を話すように、自然な笑顔で話を続けた。
「それでね、なぜこんなに心地がいいのか考えてみたの。そしたら周りに誰もいなくて、私がこの壇上を独り占めしていたの、まるで君が主役だと言われているようで」
そう言うとゆっくりと目線を島田の方へ下げて見つめた。
「君が感じたことはよくわかった、でも俺の問いにこたえられてないな」
彼女はまあまあといいたげな顔をしていった。
「壇上に貴方が上がってきたってことは、私の運命の人役だったんじゃないかってね」
島田は彼女が本当に馬鹿なんじゃないかと思った。メンヘラ特有の謎理論恋愛に、違和感のある気持ち悪い話し方。メンヘラエピソードなら友人から何度も聞いてはいたが、実際に見ると結構不快に感じるし、正直ひいている。と、そんな風に考えていた。
「悪いけど忙しいからな、この話はなしで」
「えーなんでよぉ」
最初のそっけなさからこのあざとい口調は、島田の体を震わせた。
「私は冴島音虎、よろしくね」
「島田だ、世話する気はないぞ」
二人が自己紹介をすると、島田はすぐに音虎に背を向け実験の続きを始めた。それを見た音虎は、顔色を
変えて島田の実験の様子を食い入るように凝視し、口を開いた
「何の研究をしているの?」
それを聞いた島田は、その背中からも感じられるほど何かに怯えていた。
読んでくれてありがとうございました。
悪口でもいいので評価などしてくれると嬉しいですが、ほんとに悪口だと泣いちゃいます。